一日一回は、用はなくても、なんとはなしにそこに入って、一回りします。
ほら、子どもの頃なら、学校か外から家に帰ってくると、先ず”蠅帳”(はいちょう)を
開けて、何か旨いものないかな、と覗いていたでしょ。
もう、蠅帳なんて、死語になってるよね。ハエとか入らないよう金網を張った食べ物
の戸棚なんだけど。
冷蔵庫が登場してからは、こんどはその扉を帰ってくると何となく開けたりしているん
ですよね。
こういう習性は、あらためて思ってみると、この歳になってもしっかり身についている
みたいです。
何日か前、今日はどんなものがあるかと、見ていると、柿がありました。
平べったい柿で、つるつるに光っていました。
野尻さんの庭からと、謂れが書いてありました。
その夜、食後その柿をいただきました。
小浪がスペース"JOY"から、持ってきていました。
入れ歯なんで、噛む角度を注意しながら食べました。
秋の味がしました。
翌日、サイエンズスクールの会員ブログを見ていたら、野尻さんが
「柿食えば」という小文を書いていました。
昨年不作だった柿が、今年はたくさん出来ました。
足腰が萎えて、手の届く範囲で採りましたが、「上のほうはどうしたもんか、
誰かやってくれる人は?」と案じていたところ、鈴鹿カルチャーステーションで
花壇の手入れをしていた恩田さんに出会って、「たのむわ」と声かけたとか。
なるほど、それで、柿はそこに盛られることになったわけか。
あとで、聞くと恩田さんは、採った柿を一個づつ磨いて陳列したという。
どこかで、聞いたことあるなあ。
「金の要らない心の要る、美しい心の要る世の中に」
野尻さんの小文は、柿のことから、いきなり恩田さんとの歳月の話に
なりました。
「今思えばこれまた不思議な間柄で長々と共に今日まできた。
思い出されることは沢山あるが、中でも数年間の東京暮らしは本当に
面白く楽しく、そして世話になった。
申し合わせというかハッキリとした役割分担はしてないが、恩田さんが
稼いで私が使うような事も当たり前のように・・・。
四谷の雪印の本社ビルの横丁を通り抜け、すぐ裏手、築七八十年の
ボロアパートの二階、丁度1畳のキッチンに風呂の脱衣場も兼ねていた。
転がり込み仕事休みは寝泊まりもした。
ビルのクリーニングや、東京都管理の物納物件の柵作りや草刈りなどを
請け負っている会社に勤めていて、アルバイト方々私も草刈りや柵作りを
手伝った」
そんな暮らしの中で、突然、恩田さんが階段でこけて、頭を打ち、何日か
意識がなくなるという事故がありました。ぼくも、覚えています。
「私にとってはかなりなショックで、その夜は一晩中布団の中で泣き崩れた。
なに泣きと言っていいか分からないが、あれだけ号泣したのは初めての体験
だった。(略)意識が少し回復して、誰か一人だけなら短時間面会してもオッケー
ですよと看護師が囁くと、私の名前をつぶやいたとか?
一回目の面会では全然意思の疎通はとれなかったが、3回目の時はニコッと
笑顔が戻った」
その後、野尻さんと恩田さんは、鈴鹿に引っ越してきました。
「月日の流れの中で、ときに酒のせいでもないが、ムッときたりウンザリしたり
(お互いに)感情を出し合うことも・・・色々ありましたが。
何となく右手に箸を持てば、ニコッと左手は茶碗を、右の足を前に出せば左手
は勝手に前に出るような感じで(変な例えかな?)
理に適った当然の起居進退の姿そのもののような気がしてそんな存在の人物
かも知れないと・・・
最高の喜びは人を喜ばすこと、喜んでもらうことをすること!!
たかが腐れ縁ではすまされないものを感じて」
最後の「たかが腐れ縁ではすまされないものを感じて」がいつまでも心に
響いています。
柿がそこに置かれている、そのように現れてくるには、その背景や物語が
あるのだなあと思いました。
その人の思い出はその人の中にあるのでしょうか、そのように捉えられた
思い出とは別に、かかわりはあるでしょうが、そのように表現できる、さまざま
ものが関連してきた”実”といえるものがあるように見えてきます。
内観に参加した20代の青年の感想文が思い出されました。
父や母が子どもに対して幸せになるように労力をかけてきてくれたが、
それに気づかないできた自分に”悔しい思い”があると書いていました。
そのあとに、こう書いてありました。
「細部が大事だと感じた。
実際に母が今まで何回の食事を作っていたのか、どれだけの時間や費用が
かかったか、自分が今の自分となるためにはどれだけの多くの人が関わり、
どんな思いでどのようなことをしてもらい、して返したか。
これらの事を具体的に詳細に思い出していくことが重要なのだと感じた。
過去を思い出そうとするときに、だいたいはその時に出てくる瞬時のイメージ
が実際であったかのように思ってしまう。
母には多くの食事を作ってもらったな、もう分かっているという様な感じ。
しかし、実際に作ってもらった回数を計算してみると、3食×365日×25年
≒27000回。
この途方もない数字を知ると、いったい何を分かっていたのかという気になる。
また、食事を作るとは実際にどのようなことか。どんな料理を作ってくれた
のか、材料はどこで買ったか、台所、調理器具、食器、調理方法、作る時間帯、
体調、家族が食べる量、後片付け等々食事を作るという事でも、実際には無数
に事柄が折り重なっていて、知り尽くすことはないように思える。
それをどこまで詳細に意識を向けられるか、知りえたかが重要で、それをしない
内に早急に結論を出したがる、これはこうだから考える必要がないとしている
自分がいるのだなと感じた」
いやあ、この観察していくプロセスに、とってもハッとさせられました。
父や母に対する記憶を思い出しながら、ぼくも内観で、自分の捉え方一辺倒
の思い出でなく、実際になにがあったのか、と見てきたつもりでしたが、また
あらためてゼロから見てみたいなと思いました。
自分が、今、ここにいるというのは、どういうことだろう?
「細部が大事だと感じた」
そうだよなあ。
いろいろ、これがいいとか、こうやったら正しいのでは、とか、よかれと
思ってとか、暮らしているけど、そういう自分の思いや考えからのもの
だろうけど、そういうものがどんなところから、そのように現れている
かってのも今は見ていきたいかなあ。
柿食えば腐れ縁とはいいながら