かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

人間ならではの

2016-11-27 11:23:35 | サイエンズ研究所のある暮らし

毎週木曜日、サイエンズ研究所のゼミナールに参加しています。

「やさしい社会 親しさで繋がる社会とは」(サイエンズ研究所発行)を

テキストにしています。

先日は「第一部 やさしい人間学 人間性 知性 のなか

        2、人に求める

        3、人に応じる

の章を検討、探究しました。

 

その日の感想です。

   *         *        *

 妻には、あれやって、これやって、と「求めて」て暮しいるなあ、と思った。

出し合っていくうち、「求める」といっても、その物や事をやってほしい、と

やっているように思った。

あとで、この章を読み返してみた。

「・・・を欲求する」のとは違って、「・・・を人に求める」

「人にして欲しい」とか、「人にやってもらいたい」とかの気持ち。

どこから、こういう気持ちが出てくるのか?

少し、立ち止まって眺めてみる。

「自分のことは自分でする」というのが心の底なのか、観念なのか、根強く

あるように見えた。

「自分一人では生きていけない。ほとんどことは他の人にやってもらって、

それで今の自分がある」

その考えは言える。

実際の心の状態は?

やってもらって、どこか心苦しいものがでてくるような。どこか変。

人に応じる、と言う場合。

人から何かしてほしい、と求められたとき、はじめに瞬時に「するか、しないか」「

できるか、できないか」が出てくるなあ。

これでは、人に応じる、人の気持ちに応じるにはなっていかないだろうな。

どんなのが、当たり前の人の姿だろう?

ーー「人に求める気持ち」と、「人にやってもらう喜びや満足」に

素直になると、やってあげたいという「人に応える気持ち」が素直に見えてくるでしょう。

テキストの一節がこころに残っている。

こういう焦点で自分や周囲を見ていくと、どんな風に見えてくるだろう。


朔風払葉

2016-11-27 11:13:01 | 理想の暮らしを語る会

今の時期、歳時記では「朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)」というらしいです。

朔風(さくふう)とは北風のことで、冷たい木枯らしが紅葉した木の葉を落として

いく頃という意味です。

鈴鹿の街路樹は、落葉の前にはやばやと枝払いがされてしまっていますが。

そんなころ、理想の暮らしを語る会有志の寄り合いがありました。

 

先日、メンバーの竹本さんの義父が亡くなったときのことが話題になりました。

竹本さんは、中井さんに葬儀のこと、相談しました。

「中井さんが義父の葬式の段取りをしてくれた。やってもらって、本当に助かった。

心の底から有難かった。

安くできるように色々手を打ってくれたのだが「婆さんの気持ちが一番大切だから」と、婆さんの気持ちに

適うようにしたら、と言ってくれた。

一番の焦点、合わせ処を人の気持ちに合わせる、中井さんの姿が印象強くに残った。

人に求める・人に応える、やり取りの中に人としての豊かさが感じられていくのかな」

 

寄り合いで、竹本さんにお父さんが亡くなる前の様子を聞きました。

四日市にある老人施設。遺漏をしていて、吸引の世話もしてもらえるところだったようです。

「いつからか、しきりにありがとうと言うようになったんだよね。亡くなる前日、

祖母や妻が帰るとき、ありがとう、と言って別れた」

翌朝、脈が弱くなっていると言う知らせを聞いて、駆けつけたときは、息を引きとって

いました。

施設に入っていたけど、祖母や娘(竹本さんの妻)が見舞いに来ると、手を摩ってもらったりして、安心していたようだったといいます。

 

「老い方や死んでいくいき方はその人ならで、高齢者といってひと括りにはできないよ

ねえ。一人ひとりの個性があるわけだし、家族や親しい人もいる」

「安心して、老いていける、死んでいける、ということが大事だよね」

「そうだよなあ。高齢者については、イベントやったり、施設を作ったり、ハード面の

支援のフローチャートはあるけど、それが一人ひとりの気持ちを受け止められているか

どうか」

「現場でやっている身近な人から、実際を聞くと、精一杯やっていて、頭が下がる」

「そういう直接、ケアにかかわる人が、ゆとりがあるかどうかというのもあるかな」

「地域として、老年期から、介護が必要になり、死んでいくというプロセスで、どれだけ一人ひとりの人生が大事にされているか、そこからのお付き合いがお互いできるようになっているか」

「けっこう、田舎ではお互いに見合っていける付き合いというものがあるよね。

地域医療にかかわる人が、都市のなかに田舎をつくったらと提言しているね。

それを鈴鹿のある医師に話したら、街のなかで、難しいと言っていた。

そこ、もっと、研究したいな」

 

「竹本さんのお父さんは、いろいろな条件を考えて、四日市の施設にいくことになったけど、近所に看取りの家みたいなものほしいなあ」

「そうだよね、自宅ということもあるけど、そういう場がね」

「ちょっと、話が飛ぶみたいだけど、地域のなかに、年寄りが気軽に寄れて、よもやま話とかできるところあったらいいとおもわない?」

「うん、沖縄では昔の家は玄関がなくて、縁側から出入りしていたとか。縁側にお茶などが用意してあって、通りかかった人同士、やあとか言いながらおしゃべりができたとか」

「けっこう、田んぼの辺を散歩している人多いよね。はたけ公園の周りにもよくみかけるよね」

「道路に面しているところに、縁側みたいな座るところできたらいいなあ」

話は、どんどん膨らんでいきます。やるか、やらないか、というより、ふだん思っている

ことがどんどん出てきます。

透析で生きながらえている金治さん。

こんど、足の血管を広げる手術をするのだそうです。

「ぼくは、海洋散骨を請け負ってやりたい」

「海へ出れるの、金治さん?」

「そりゃあ、大丈夫。航海士の資格は持っているし、河芸港の会員でもあるんでね」

金治さんのその願い、最近ずっと言い続けています。

叶えてやりたいなあ、誰ともなく・・・。

「はたけ公園に縁側みたいな、一服できるところ作ったら、金治さんがやって来た人と

そんな話もできたらいいかもね」

 

もうそろそろ、一年の終わり。師走を前にして、こんな話、盛り上がっていいのか、

不謹慎なのか。どうなんでしょうね。

 


へだてなき世界実現へ

2016-11-22 08:49:18 | アズワンコミュニテイ暮らし

 

春以降、鈴鹿コミュテイに6ヶ月滞在して、サイエンズを暮らしのなかで

学んできたフンミさんが、今日鈴鹿を発ち、韓国へ向かいました。

 

「飛行機をつくって、飛ばしたい」彼女から聞きました。

「人類は空を飛びたいという願い実現した。願いをあきらめない人がいて、

そこに世界中の知恵と心が寄せられた。

争いのない、幸せな世界実現もあきらめない人からはじまる」

フンミさん自身、スタートするところが、はっきり見えているように感じた。

目に見える現われを実際だとして見ていたら、複雑でどっから手をつけて

いいやら。

人間や社会の実際の成り立ちに焦点を当てたら、

なんと広々として、境のない世界が現れてくることか。

フンミさんは、そういう世界に飛行機を飛ばすのでしょう。

共鳴する人がもうすでにいっぱいいますよ。

 


帰り花

2016-11-17 07:30:16 | わがうちなるつれづれの記

初冬の温暖な日の午後。

身のまわりの整理をしていて、ちょっと一息と、居間で休憩。

テレビをつけると、NHK俳壇をやっていた。

「帰り花」というのが、お題だったようだ。

選句が紹介されるが、「帰り花」というのが、どういうことか

分からなかった。

選者の俳人塚本さんが、句の評をしていたが、それでも、

ピンとこない。

俳句をやっている人には、常識の範囲かと思うが、初めて

聞いた言葉だった。

 

番組が終わって、インターネットで検索してみた。

「【帰り花】初冬

返り花、帰咲(かえりざき)、j狂咲(くるいざき)、狂花(くるいばな)、

忘咲(わすれざき)、忘花(わすればな)、二度咲(にどざき)

春や夏に咲くはずの花が、冬の始めの小春日和に誘われて、

思い出したように一輪二輪咲く、その季節外れの花のこと」

 

言葉の意味が分かっても、情緒のほうに現実感がない。

 

この日、朝早く、妻はお結びをつくって、息子の運転で紅葉狩りに

出かけていった。

前の晩から、ぼくといっしょに行くかどうか迷っていたが、朝、ぼくを

残して行って来ると決心したらしい。

妻は京都か滋賀方面の名所を描いていた。

ぼくは、お隣の亀山あたりならと、消極的だった。

息が上がるのが予想されて・・・

 

お昼ごろ、妻からラインで写真が送られてきた。


京都・東福寺の紅葉の様子が伝わってきた。

「綺麗!」

そのあと、また写真が送られてきた。

滋賀の永源寺に寄っているみたいだった。


「めちゃくちゃきれいだった」

ラインでは、「よかったね」と晴れ晴れマークを送ったけど、

「オレをおいてきやがって」という気持ちも出てきた。

 

夕方、妻は帰ってきて、今度はぼくもいっしょに亀山の紅葉の

名所に行こうという。

そして、温泉に行こう、と。

「よっしゃ!」とならなかった。

妻にとっては「少しでも、ぼくに紅葉を味わってほしい」と言う気持ち

だったろうけど、ぼくのほうは「どんどん、暗くなってゆくし・・・」など

前向きじゃない。

そんなことで、めげる妻ではない。

もう日の入りになり始めた亀山・正法寺山荘跡に連れて行ってくれた。

深紅の紅葉を見てきた。


有難いという気持ちがでてきた。

あっという間に暗くなったので、温泉へ向かった。

 

先週、冷え込む日が二日ばかりつづいた。

木曜日に昼、打ち合わせをしている最中に、ムカムカと胸のあたりから

違和感が湧いてきて、そのうち息が上がって、苦しい感じがした。

打ち合わせが、終わるころだったので、すぐわが家にもどり、炬燵で

横になった。

すぐに治まらないので、布団を引いて本格的に休んだ。

ふと、脈をとる気持ちになって、やってみたが、脈がとれない。

やりかたがまずいのか。

妻が帰ってきた。脈をとってもらったが、見つからないという。

「こんなとき、血圧はどんなふうだろう?」と思いついて、妻に血圧計を

借りてきたもらって、測ってみた。

「99 66」

とんでもない異常な数字でもないな、と思った。

血圧計の扱い方も、危なっかしい感じもあり、それで安心ということでも

ないが、そのころ、息も収まってきていた。

まあ、しばらく休んでみようと、その日はいくつかあった予定を止めて、

やすんでいた。

翌日は暖かく感じる日和だった。

きのうのことが、嘘みたいに身体が外に出たいと内から呼びかけてくる

くるようだった。散歩に出かけた。

土日は、元気だった。冴えている感じもした。

 

月曜日、昼ごろ、電話があった。

「三重大病院のデバイス外来のものですが・・・」ということだった。

えっと、思い、用件を聞くと、デバイス外来の受信器に、先週木曜日、

ぼくの除細動器が不整脈を感知して、その情報が送られてきていると

ということでした。

「いちど、早めに受診に来ませんか」ということだった。

そうか、そういうシステムになっていることは知っていて、現に枕元に

送信機もつねに置いてあるけど、実際に働くとはあんまりアテに

してなかったなあ。

 

翌日、デバイス外来に受診に行き、いろいろ検査をして、今は心不全状態で

ないことを確かめてもらった。

若い循環器内科デバイス外来の医師は言います。

「ぼくらの目標は、除細動器で生命が助かったではなく、それに頼らなくても

いい身体の状態をつくることです」

以前にも聞いたことがある。そうかな、とも思う。

「そのためには、何か打つ手はありますか?」

「不整脈になりやすい心筋を切除するか、薬で不整脈が起こらない状態を

つくるか、ですね」

高齢での拡張型心筋症である。手術をやったからといって、成功するかどうか

分からないし、手術はたとえカテーテルであっても、嫌だ。

不整脈を抑える薬をいまでも飲んでいるが、それを増やしたくない。

この冬、量を増やして、副作用で苦しい思いをしたと思っている。

医師は、薬の増量を考えていたみたいでけど、それははっきり断った。

断ってみて、なんとしても生き延びていく、というより、自分の身体が自然に、

なるがままになっていくところに沿って暮らしていくという方向かなと

少し、思った。

3年前に、心肺停止状態から生命を取りとめ、そのとき除細動器を心臓に

植え込み、そのあと、何回かこの機械で生命を助けられてきているようだ。

エンデイングノートを書いている。

「延命処置はしないでほしい」と書いている。

不整脈状態は、ときに我知らず起きているようである。

なるべくぽっくり逝かないようにしていくつもりだけど、それも自分では

ままならないものだろうな。

ままならぬままに、日々を生きる。

論語には、70歳にして、「心の欲するところに従って」という言葉が

ある。

「これは、70歳になったから、ということでもないのでは」と聞いて、

「そうかも」と思った。

だいたい、これまでそんな風にやってきていないのに、その歳になったら、

できるなんてことはないだろう。

 

どうも、今はその辺の気持ちが無理ないところかなと思う。

 

「帰り花」

どんなことだろう、と自問していて。

周りは、すっかり冬支度しているのに、ポッカリ一、二輪花が咲く。

そういえば、ぼくも身体の衰えを感じる中にも、あれ今日は

冴えていると感じるときがある。

この間、ジブリの宮崎駿さんが、引退したはずなのに、何か治まらないで

いろいろやっているうち、また長編に取り組んでみようという気持ちに

なってきた、というテレビのドキュメンタリーがあった。

こんなの「帰り花」とかいうのかな。


妻小浪と日没前、亀山の人っ子一人いない正法寺山荘跡にて、

一句。

 

     濃く深き季(とし)染め出して紅葉かな

 

 

 

 



 


柿食えば

2016-11-13 10:31:54 | アズワンコミュニテイ暮らし

鈴鹿カルチャーステーションのなかに、スペース”JOY"があります。

一日一回は、用はなくても、なんとはなしにそこに入って、一回りします。

ほら、子どもの頃なら、学校か外から家に帰ってくると、先ず”蠅帳”(はいちょう)を

開けて、何か旨いものないかな、と覗いていたでしょ。

もう、蠅帳なんて、死語になってるよね。ハエとか入らないよう金網を張った食べ物

の戸棚なんだけど。

冷蔵庫が登場してからは、こんどはその扉を帰ってくると何となく開けたりしているん

ですよね。

こういう習性は、あらためて思ってみると、この歳になってもしっかり身についている

みたいです。

 

何日か前、今日はどんなものがあるかと、見ていると、柿がありました。

平べったい柿で、つるつるに光っていました。

野尻さんの庭からと、謂れが書いてありました。

その夜、食後その柿をいただきました。

小浪がスペース"JOY"から、持ってきていました。

入れ歯なんで、噛む角度を注意しながら食べました。

秋の味がしました。

 

翌日、サイエンズスクールの会員ブログを見ていたら、野尻さんが

「柿食えば」という小文を書いていました。

昨年不作だった柿が、今年はたくさん出来ました。

足腰が萎えて、手の届く範囲で採りましたが、「上のほうはどうしたもんか、

誰かやってくれる人は?」と案じていたところ、鈴鹿カルチャーステーションで

花壇の手入れをしていた恩田さんに出会って、「たのむわ」と声かけたとか。

なるほど、それで、柿はそこに盛られることになったわけか。

あとで、聞くと恩田さんは、採った柿を一個づつ磨いて陳列したという。

どこかで、聞いたことあるなあ。


「金の要らない心の要る、美しい心の要る世の中に」


野尻さんの小文は、柿のことから、いきなり恩田さんとの歳月の話に

なりました。

「今思えばこれまた不思議な間柄で長々と共に今日まできた。

思い出されることは沢山あるが、中でも数年間の東京暮らしは本当に

面白く楽しく、そして世話になった。

申し合わせというかハッキリとした役割分担はしてないが、恩田さんが

稼いで私が使うような事も当たり前のように・・・。

四谷の雪印の本社ビルの横丁を通り抜け、すぐ裏手、築七八十年の

ボロアパートの二階、丁度1畳のキッチンに風呂の脱衣場も兼ねていた。

転がり込み仕事休みは寝泊まりもした。

ビルのクリーニングや、東京都管理の物納物件の柵作りや草刈りなどを

請け負っている会社に勤めていて、アルバイト方々私も草刈りや柵作りを

手伝った」

 

そんな暮らしの中で、突然、恩田さんが階段でこけて、頭を打ち、何日か

意識がなくなるという事故がありました。ぼくも、覚えています。

 

「私にとってはかなりなショックで、その夜は一晩中布団の中で泣き崩れた。

なに泣きと言っていいか分からないが、あれだけ号泣したのは初めての体験

だった。(略)意識が少し回復して、誰か一人だけなら短時間面会してもオッケー

ですよと看護師が囁くと、私の名前をつぶやいたとか?

一回目の面会では全然意思の疎通はとれなかったが、3回目の時はニコッと

笑顔が戻った」

 

その後、野尻さんと恩田さんは、鈴鹿に引っ越してきました。

 

「月日の流れの中で、ときに酒のせいでもないが、ムッときたりウンザリしたり

(お互いに)感情を出し合うことも・・・色々ありましたが。

何となく右手に箸を持てば、ニコッと左手は茶碗を、右の足を前に出せば左手

は勝手に前に出るような感じで(変な例えかな?)

理に適った当然の起居進退の姿そのもののような気がしてそんな存在の人物

かも知れないと・・・

最高の喜びは人を喜ばすこと、喜んでもらうことをすること!!

たかが腐れ縁ではすまされないものを感じて」

 

最後の「たかが腐れ縁ではすまされないものを感じて」がいつまでも心に

響いています。

 

柿がそこに置かれている、そのように現れてくるには、その背景や物語が

あるのだなあと思いました。

その人の思い出はその人の中にあるのでしょうか、そのように捉えられた

思い出とは別に、かかわりはあるでしょうが、そのように表現できる、さまざま

ものが関連してきた”実”といえるものがあるように見えてきます。

 

内観に参加した20代の青年の感想文が思い出されました。

父や母が子どもに対して幸せになるように労力をかけてきてくれたが、

それに気づかないできた自分に”悔しい思い”があると書いていました。

 

そのあとに、こう書いてありました。

「細部が大事だと感じた。

実際に母が今まで何回の食事を作っていたのか、どれだけの時間や費用が

かかったか、自分が今の自分となるためにはどれだけの多くの人が関わり、

どんな思いでどのようなことをしてもらい、して返したか。

これらの事を具体的に詳細に思い出していくことが重要なのだと感じた。

過去を思い出そうとするときに、だいたいはその時に出てくる瞬時のイメージ

が実際であったかのように思ってしまう。

母には多くの食事を作ってもらったな、もう分かっているという様な感じ。

しかし、実際に作ってもらった回数を計算してみると、3食×365日×25年

≒27000回。

の途方もない数字を知ると、いったい何を分かっていたのかという気になる。

また、食事を作るとは実際にどのようなことか。どんな料理を作ってくれた

のか、材料はどこで買ったか、台所、調理器具、食器、調理方法、作る時間帯、

体調、家族が食べる量、後片付け等々食事を作るという事でも、実際には無数

に事柄が折り重なっていて、知り尽くすことはないように思える。

それをどこまで詳細に意識を向けられるか、知りえたかが重要で、それをしない

内に早急に結論を出したがる、これはこうだから考える必要がないとしている

自分がいるのだなと感じた」

 

いやあ、この観察していくプロセスに、とってもハッとさせられました。

父や母に対する記憶を思い出しながら、ぼくも内観で、自分の捉え方一辺倒

の思い出でなく、実際になにがあったのか、と見てきたつもりでしたが、また

あらためてゼロから見てみたいなと思いました。

自分が、今、ここにいるというのは、どういうことだろう?

 

「細部が大事だと感じた」

 

そうだよなあ。

いろいろ、これがいいとか、こうやったら正しいのでは、とか、よかれと

思ってとか、暮らしているけど、そういう自分の思いや考えからのもの

だろうけど、そういうものがどんなところから、そのように現れている

かってのも今は見ていきたいかなあ。

 

      柿食えば腐れ縁とはいいながら