かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

しじま

2014-08-27 08:25:25 | わがうちなるつれづれの記

テレビで「”しじま”と言うコトバの意味を知っていますか」と

街の人に聞いていた。

ほとんどの人が知らなかった。「絶滅危惧コトバですね」と

コメントしていた。

 

”しじま”は大和ことばで、漢字以前にこの島で使われていた

らしい。あとで漢字で「静寂」とつけたとか。

 

「しじま、かあ」

縁遠い感じ。何か、分からない、騒がしい音が耳にいつも

響いてる感じの今。

昔は?

商店街で育った。山奥のシンとした奥深い静寂の体験は

少ない。

むしろ、子どもの頃は街にいろいろな人の声がしていた。

その声を聞きながら育った。

朝。

「ナットウ、ナットウ、ナットウ!」家のなかに響いてくる。

下駄を突っかけて走る。「ナットヤさーん!」

「トーフィー!トーフィ!」出来立てだといわんばかりの

売り声とラッパ。

リヤカーで来てる場合は走らなくてもいい。ボールかかえて

おふくろが出かけた。

昼間。

「タケヤ~、サオダケ~~、タケヤ~サオダケ~~」

眠くなるような、けだるい声。

「キンギョ~~ヤ、キンギョ~」金魚売りの声にも記憶ある。

その頃は、金魚も売っていたんだ。

ときどき、自転車の後ろに木箱を載せて、

「ゲンマイパンのホ~ヤホヤ」というおじさんも来ていた。

威勢がいい、活気のある声。

その頃は街のあちこちに広場があった。

紙芝居屋さんがやってくる。

「・・・ああ、その運命やいかに~!?はーい、この続きは

また明日!」思わせぶりなダミ声。それでも、わくわくしていたな。

夕方。

山で遊んでいると、「ゴーン」と寺の鐘の音が響いてくる。

ガキどもは、腹が減っていることに気がついて、「一抜けた」

とか「カラスが鳴くからか~えろ」と言いながら、それぞれの

お家に帰っていく。街のあちこちからは夕餉の煙が立ち

上っている。

「ゴ~~ン」余韻の響きで、おなかが「ぐ~~っ」

 

映画「男はつらいよ」では、ここぞ気持ちが高まってくる

というようなときに「ご~~ん」絶妙なタイミング。

余韻の響きとともに、がらりと場面が変わる。

 

下駄の音。

新品のときは「カランコロン」思わず、ステップ。

減ってくると「ズルッ、ズルッ」「ペタ、ペタ」

曹洞宗本山総持寺の門前の小僧。

托鉢の行列がお経の合唱と「チリン、チリン」と鐘の音を

ならしながら、商店街を通り過ぎていく。

 

パチンコ屋さんからは軍艦マーチ。

朝早くからおっさんたちが行列を作って、開店を待っている。

 

「剣をとったらニッポンイチノ、赤胴~鈴之助」

「デービ、デービクロケット・・・」

「イキナクロベイ ミコシノマ~ツニ・・・」

「カラタチ カラタチ カラタ~チノハナ」

ああ、きりがない、自分のなかに染みこんだメロデイー、リズム。

このメロデイーを聞いていると、そのときの感傷みたいなものが

ワーッと湧いてくる。

 

だからどうだ、ということもないけど、そういう自分として今の

時代に、周囲の人たちとかかわっている。

 

”しじま”の体験はうすいけど、暮らしのなかではなんとなく

あちこちに耳を澄ますようなこと、してたのかな。

 

 

 

 

 


いのちが微笑む

2014-08-21 07:12:17 | 家族あれやこれや

暑い!あつーい!

わが家に帰ってきたら、孫が目に飛び込んできた。

「よう!来てたのか」

お母さんは、ばあさんにこの子を預けてお買い物。

 

いま8ヶ月。

ハイハイでは満足できない。

しきりに立とうとする。

立てないから何かに掴まって立つ。

たったら、こっち見てにっこっとする。

まるで「どうだ!」とでもいうように。

たぶん、嬉しいのにちがいない。

立った分だけ世界が広がる。

ひょっとしたら、その喜びを誰かと分かち合いたい。

 

妻が発見した。

「ねえ、見て見て、つま先立ちをしてるわよ」

もっと、高く、より高く。

妻はカメラを取りに行って、孫の様子を撮った。

あとで、その写真を見たら、背景に長椅子に

裸で寝転んでいる爺の姿が写っていた。

 

そろそろ、新旧交代だろうね。

よりよく、より高く、これは自分がどう思うが、思うまいが、

孫のなかにあり、爺のなかにもある、いのちの営みが。

すべての網の目に掬われて、すべての網の目に旅だって

逝く。

 

 

 


父と戦争

2014-08-17 07:08:56 | 家族あれやこれや

「あれ、宮地さんとこ、誰も来てないの?」と8月15日の夕方、

マンションの隣人がつぶやいた

ハタと、すでに鬼籍となった家族のことに思いを馳せた。

ことさら、「盆だから」という感覚がないんだなあ、とも思った。

 

今年のお盆時期、サイエンズスクールでは「マイライフセミナー」を

開催している。12日から17日まで。

いつも開催の準備や世話をしているスクール事務局の美代子さんが

スタッフで参加している。

日頃、美代子さんに任せきっている同じ事務局のぼくは、気持ちだけ

あたふたした。

何があるわけでもないが、マイライフセミナーに参加している7名の

人たち、スタッフの人たちがいつも近くに、隣に、いる感じ。

 

15日前後、テレビは戦争にかかわった人たちの映像が多かった。

桑名市在住の近藤一翁は中国戦線から最後沖縄戦の二つを

体験してきた。

沖縄では被害者という感覚、ふりかえって中国では人を殺めて

きた。そのときの、情景や気持ちを、自身深く悔恨しながら、淡々と

語ってくれたように見えた。

 

わが父は昭和13年(1938年)から16年(1941年)まで中国の

河北省で鉄道の守備隊として、3年ほど戦場にいた。

父から兵隊の体験をときどき聞いていたと思うが、戦闘の

場面は、ついぞ聞いたことがない。

気に入らない上官がいた。「そいつの靴を隠してやったんだ」

その話のオチは、いつも「営倉に入れられた」だった。

記憶にあるのは、これぐらいだ。

父はどうも戦争では目だった働きはなかったようだ。

 

父は除隊になるときは、どうも”マラリア”が発症していた

ようだ。

残されていた父の遺品のなかに、昭和19年ごろの隣組の

「家族調書」というがあった。その欄に、父は「要保護者」と

なっている。

「義知(父の名)病気療養中、義知妻なか(29)及び長男

伸一(2)東京都世田谷区上馬・・・に疎開」

何となく子どものころ、家族から「父さんは伸一が生まれたのを

覚えていないんだよ」と耳にしてきた。

 

父は昭和5年、15歳のとき、移民家族と養子縁組をして、

ブラジルに移民した。

何年か前、父の遺品のなかから、当時の様子が知れる

祖父宛の手紙を読んだことがある。

ブラジルのアリアンサで開拓をはじめたが、養子になっていた

家族から飛び出して、何か事業で一旗あげる勢いだった。

「そのためには、嫁さんがいる。いい人を送り出してほしい」と

虫のいい手紙を祖父に出している。

どうも事業をやると騙されたようで、その後はサンパウロで

放浪暮らしをしていたようだ。その間のことは分からない。

祖父から「日本に帰って来い」と申し渡されて、帰国した。

ブラジルに渡って、8年目だった。

 

敗戦後は祖父は亡くなっていたが、父は家業の硝子屋を

引き継いだ。

物資のないときで、在庫していた硝子でずいぶん儲けた

らしい。

父はぼくが小学校3,4年のころ、硝子屋を廃業している。

なぜ、そうしたのか。後になって、関心が湧いたが、父の

気持ちは聞きそびれている。

その時期、窓は木枠からサッシュに変わり始めていた。

子ども心に「親父は時代の流れについていけないのかな?」

とか、思ったりしたかな。

それから、新聞配達をやりはじめた。

そのうち、居間のちゃぶ台の横に長机を並べて、終日

新聞紙で”袋”をつくりはじめた。八百屋の店先に吊って、

野菜を包む袋だ。

思春期の父の面影は居間の新聞紙を切って並べ、糊を

刷毛で新聞紙の縁に延ばして、竹のヘラで袋に折りこんで

いく姿だった。

「こんな親父みたいになりたくない」と思った。

父は黙々とやっていたが、悲壮感みたいなものは感じな

かった。

 

その父が、ぼくが大学生のころ、突然ブラジルに行くと

言い出した。当時、養子になった家族のうちの一人と

親しく文通していたらしい。

船で行くというのだった。ぼくら家族は横浜港で父を見送った。

普段、「こんな親父にはなりたくない」と思ってはいるものの、

いざ遠くに行くとなると、「無事でね」と健気な情が湧いてきた。

船で一ヶ月。

「親父、場合によっては余生はブラジルでと思ってるみたい」

家族はなんとなくそんな空気を感じていた。

ある日、学校から家に帰ってみると、親父が居た。

「ええ、もう帰って来たの?」

ブラジルに着いて10日も経たっていなかった。

飛行機で帰ってきたという。

その10日に、父の心のなかで何があったか、これも聞き

そびれた。

 

子どものころ、家族や親族の間では、父は「意地っ張り」

「ああいえば、こういう、天邪鬼(あまのじゃく)」とか

言われていた。

自分が間違っていたと分かっても、容易にそれを認め

なかった。

近所つきあいもほとんどしていない。

近所からは偏屈な変わり者ぐらいに思われているのかな

と思っていた。

愚痴とか泣き言を聞いた記憶があまりない。

そういうことがあったかもしれないが、一生通して親父は

親父の生き方を押し通した。

おふくろを大事にしていた。とても大事にしていたと

いってもいい。

 

親父は戦争を称揚し、勢いよく国のためにとは行けなかった。

時代にも迎合しなかった。いいや、待って、迎合できなかった。

いま、親父のことを思うと、なんか似てきたかなと思うのだ。

 








父は、こうして書いてみるとずっと、昭和史のなかで、時代に

乗り切れなかった人として、細々と歩んできたという印象だ。

 

この歳になってくると、ふと「あんな親父みたいになりたくない」

と思っていた親父に何か自分が似ていると、よぎる時がある。

大学4年の最後、1969年1月に東大安田講堂が陥落した。

四谷の喫茶店でその様子をテレビで見ていた。

籍をおいていた私立大学から授業料を納めないなら、除籍に

なりますと通知がきた。

「お金なら貸すよ」と言ってくれる人もいたけど、甘んじて除籍を

選んだ。

「さて、どうやって暮らすか」というとき、奇しくも新聞販売店の

住み込みをはじめた。

頭は坊主にして、一見”世捨て人”の風を気取っていたのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


台風11号

2014-08-10 07:07:29 | アズワンコミュニテイ暮らし

8月10日朝、雨は小降りだが、東からの風が唸りをあげて

吹き盛っている。

外はは明るい。雲の上の向こうは青空だろう。

 

きのうは朝から雨だった。

サイエンズスクール研修所の迎えに行くための車に乗るのに、

駐車場に向かって歩いていた。

側溝を溢れんばかりに雨水が走っている。

ふと、子どもの頃、側溝の水が勢いよく流れているのを見つめて

いる自分の記憶が気分とともに出てきた。

怖いような、ワクワクするような。

ひょっと、その流れに連れて行かれそうな。

傘をさしていても、雨はカラダに吹き込んだ。

防水服もびしょびしょ。

 

研修所への道すがら、道は雨水が排水しきれないのか、川の

ようになっている。

前の車がセンターラインを右に越えて、何かを避けている感じ。

左の歩道を見ると、通りがかりの男の人。

とっさに、スピードを緩めた。

水はなんとか、跳ねないでいけた。

と、ゆっくりいっていたら、対向車が走ってきて、そのしぶきが

大波のようにわが車の覆いかぶさってきた。

 

昼前は、鈴鹿カルチャーステーションでPIESSネットワークの

集い。鈴鹿の人たちのほかに、千葉から藤波弥生さん。

東京から林悦子さん。今日、スクールの「自分を知るための

コース」から、帰ってきた。

午後は、中井宅で「理想の暮らしを語る会」

雨が断続的に強くなる。

「こんなとき、わざわざ出てくるだろうか」

それでも7人のおっさん、おばさんが寄ってきた。


夕方、娘のアパートが心配になった。

歩いて見に行く。

気持ちは急いでいるけど、一歩一歩。息が切れる。

アパートの南側は、幅が3メートルぐらいの水路になっている。

3年前の大雨のとき、増水して1階の娘の部屋に浸水するか、

という勢いだった。

水路に行ってみると、水面と道路と同じ高さ。

流れが道路の側石にぶつかって、しぶきを上げている。

 

娘の部屋に行ったら、晴空が出てきた。

「おじいちゃん、なんで来たの?」

「晴空らがどんなかなと思ってきたんだよ」

風友晴空はもうリックサックを背負っていた。

「携帯がない!」と風友が泣きそうに探している。

しばらくして晴空が「ここにあるよ」ともってくる。

何か緊張がほどけるような空気が生まれた。

 

孫ら二人は、わがマンション2階の中島家で引き受けて

くれる。

桃子はパートナーのところに。

 

今夜は毎月第二土、日で開いている「マイライフミーテイング」の

日。あっちこっちから参加すると聞いていた。

雨は強く降っている。

そのうち、竹本美代子さんから「今夜は中止しましょう」とメールが

入った。

 

テレビをつけたら、三重県に「大雨特別警報」というのが出ている

とか。

そのうち、鈴鹿市8万余世帯に避難指示が出されてとか。

「非難指示ったて、どうすりゃいいんだ」

 

妻は早々と寝た。

ぼくは、テレビを消して、12時ごろまで本を読んだ。


今朝のフェースブック。

市川憲一さんが”禁”を破って、鈴鹿川の様子を見に行った。


この唸っている風は、昼過ぎごろまで続くかな。

 

 

 

 


大暑ふりかえりつつ立秋へ・・・健生みえ8月例会

2014-08-04 17:53:59 | わが健康生きがいづくり三重の会記録

考えてみたら、こんな酷暑の昼日中、わが家から出て、

会場にやってくる一人ひとり、「行かなくっちゃ」だけでは

寄って来ないだろうな。

ぼくも部屋にいるときは、ほとんど寝っころがっている。

「よっこらしょ」と起き上がる。

「みんなの顔が見たい」「あの人の話が聞きたい」

今回は、久しぶりに大平事務局長が参加すると聞いて

いた。

「少しは体調がいいんだろうな?」

やっぱり、顔見てみたいという気持ちになっている。

彼は事務局長なんて名前で動いている感じはないんだけどね。

何か大平さんがぼーっとでも座っているとか安心なんだよね。

 

例会は一応、”次第”というスケジュールがつくってある。

進行してくれている敏正さんも、例会の参加者も、あんまり

”次第”に頓着していないけど、何となくは滞りなくまわって

いく。

 

7月の活動報告。

活動たって、特別なことというより、日々の暮らしで、

自分がやってみたことで、いろいろ思ったことなど、

出すだけのこと。

 

小浪が7月はじめ、東北旅行に行った感想。

「ゆいまーる那須」に行ってきた。

「まだ介護施設には行かないでいい高齢者が一人で気楽に、

自由に、しかもみんなで住むのでひとりぼっちにならないで、

暮らせるサービスつき高齢者住宅なの。ゆいまーるって、

沖縄のコトで”助け合い”という意味らしい」


宮地「去年ぐらいから、老後の暮らし方など語り合おう、なんて

言って、理想の暮らしの会をやってきてる。今回小浪と

”ゆいまーる那須”を訪問して、身近になった死や老いや病と

どんなふうに豊かにつきあうか、もっと深く考えるキッカケに

なったなあ。

かといって、一人だけじゃできないよね。誰もが、安心して

老いることができる、死ぬことができる社会ってどんなだろう、

とも思った」


大平「今年になってかかり付けの医者から白血球が多いと

言われ、結局”白血病”と診断された。

それまでは、死なんて怖いもんじゃないとかいっていたけど

実際そうなったら、不安でね。1ヶ月ほど、悶々とした感じ

だった。

切り替ったのは、孫だな。可愛い。新たな生命が育とうと

している。怖くなくなった。愉快に楽しく死を迎えたい、とね」

  

 

余川「ほんとに、死っていうのは分からない。親戚の蕎麦屋さん、

83歳でガンが見つかった。病院が当人にいうには、手術をするか、

抗がん剤を飲むか、自分で決めろ、と言うことだった。

それを聞いた蕎麦屋さん、何をおもったのか、止めかけていた

蕎麦屋を熱心に切り盛りしはじめた。気がついたら、ガンが消えた

いたんだね。人って、観念の力も大きいのかね」


康子「実は、私もついこの間、病院に行ったら肺に影があると

いうの。気持ちが不安になって。他の医者にも話しを聞いて

もらって、少し落ち着いた。これから検査していくけど、、カラダの

実際はそうあるしかないんだけど、頭が安心したり、不安になったり、

面白いものよね」


照子「この一ヶ月、何か、したかしらね・・・あっ、そう、この間

”土用の牛の日”だったでしょ。ウナギ、食べたい!って。

、ウナギって高いでしょ。イワシの蒲焼と思って買いに

行ったけど、サンマしかなかったの。いいや、今日はサンマの

蒲焼にしようって。

同居しているおばあちゃんって、自分では何もしないで、

食べ物は自動的に食卓に並ぶものと思っているの。

食卓に置かれたサンマの蒲焼を見て、「ああ、ウナギだね!」と

言ったのよ。

わたし、一瞬”ううーん”って詰まったの。

おばあちゃん、その日はテレビで散々”ウナギの蒲焼”を見て

いるのよね。違う、とは言わなかった。

おばあちゃんたら、”ウナギ、初めて食べた”ってまで言うのよ」

 

(照子さんの夫、おばあちゃんの息子の大平さん「うっそー!」

と反応)

 

照子「半分食べて、あとの半分は明日にする、というの。

朝になって、おばあちゃんが言うには、昨夜一晩中寝れなかった

という。”何か、川魚の生臭さみたいなもので、大変だった”ってね。

ああ、どうしよう、”あれはサンマだった”と白状するかどうか。

結局、”ああ、そうだったのね”で済ましたのよ」

(大爆笑)

息子の大平さん「ふるさとの新潟では、親父が川でウナギを採って、

いつも作ってたべていた。おふくろは、生臭いって嫌っていた」

余川「”目黒のサンマ”(落語)より面白い」


敏子「最近、嬉しいことがあったの。あれやこれやで畑に行けなくて、

草茫々だったの。孫のことなど落ち着いたので、ダンナと畑を

耕そうって行ったの。トラクターは無いので、ダンナが管理機を

もって行っただけど、5メートルも行かないうちに、草が絡まって、

耕すどころじゃないのよ。ダンナは大きな鎌を家まで取りに行った。

 私、やるきゃないと決めてるし、手鎌で草を刈り始めたの」


誰か「どんくらいの広さ?」


敏子「7畝ぐらいかしら。汗だくだくでやっていたら、それをどこかで
 
見ていたんでしょうね。60代ぐらいの近所の人が、”トラクターで
 
やってやろうか?”って、声かけてくたの。
 
そうしてたら、すぐトラクターで来てくれて、あっという間に畑が
 
出来ちゃったの。はじめて、地元の人とつながった感じがしたの」


 
敏正「ぼくら夫婦、長く暮らしてきた名古屋から、4年ほど前、
 
いなべの石ぐれに帰ってきた。その頃、石ぐれ小学校のボランテイアを

やってたとき、その人といっしょにやってたんだよね」

敏子「ダンナの実家だといっても、子育て中は家族で名古屋で暮らして

いたのよね。帰ってきたといっても、外人みたいな感じなのよね。

なかなか、25軒の在所の人たちと溶けっていけないのよね。

それが、その出来事で、何か溶けていけるキッカケになりそう・・・」


誰か「敏正さん。敏子さんとこで、そのうち地元句会がやれないかな」

 
そうだよね、ぼくらの句会体験からすると、句会でお互いの句を
 
味わいながら、その人そのものを味わっている感じもあり、人と
 
人と人の間に仄かな親しみのこもるゆとり、が感じられるんだよね。
 

中井「ぼく、仕事のことで、ある人と話したことがあるけど、
 
ちょうと行き違いもあって、じっくり話したんだけど、その時、句会の
 
話をしたら、そのあとで、その人が一句、ぼくに作って、メールで
 
送ってきてくれた。
 
    二色に身をひきさけり半夏生
 
半夏生草って、どんなものか調べたんだ。七月ごろ葉が何枚か
 
白色に変化する。それがやがて緑一色になるという。
 
それで、ぼくも一句。
 
     時をえて緑にかえる半夏生
 
これ、メールで返したんだ」
 
(一同、感嘆の「へえー」)
 
敏子師匠「いいわねえ」


 
 
 
てな感じだったかな。
 
何か気持ちがほっこりしながら、大暑を暮らしている。
 

 

 

 

 

 





ゆいまーる那須には、誰もが人生の後半、死や老いや

病いを豊かに生きれるような社会にしたいという目標がある。

そのために、コミュニテイづくりに取り組んでいる」

 

宮地「この間、”理想の暮らしを語る会”で大津さんにそば打ち

してもらって、食べた。そのとき、老後の不安が話題になった

とき、足利友紀さんがカラダが動かなくなったとき、そのところは

誰かに補ってもらい、やれるところは自分でやっていく、難しい

ことないわよ、って言ってくれた。何かもっとお互い親しく話し合える

ようになっておくのが、大きいなあと思った」