1月末、西からの低気圧で、日本列島は冷え込んだ。
雪は降るし、冷たい鈴鹿おろしが吹き込むし、晴れても寒さが
身に滲む。
毎月寄っている「理想の暮らしを語る会」が、1月16日にあった。
その日、歯茎が痛いなど不調で、参加しなかった。
中井正信さんから、ラインにその日の会の感想が入っていた。
「時間が足りないくらいでした。次回も続~。です。
今日はそれぞれの日常で何処の医者にかかっているか?薬は?
そこのお医者さんの感想は?を出しあいました。
これは意外と人に話してないなぁ~。笑いながら楽しく話したり聞いたり
しました。これはいい!
次に要介護になったらどんなことを望むか等々を話しました。
そこで「看取りの家」に住みたいなぁ~と誰かが出しました。
ハード面は作れるが、やはりどういう人たちがそこで暮らすか、
そういう環境が大事だなぁ~と。
僕は看取りの家と聞いてガンジス川べりにある簡素な看取りの
場を思い浮かべました。中身をみんなで話し合いながら出来て
いけるような感触を得ました。みなさんはいかがですか?」
「みなさんはいかがですか?」、かあ。
そういえば、1月26日、今年はじめての診察に行ってきた。
三重大学付属病院循環器内科。
小浪もいっしょだった。今の状態を知りたいと付き添ってきた。
血液検査とレントゲンのあと、診察を受けた。
病歴を簡単にいえば・・・
14年まえに、心不全状態になった。
「拡張型心筋症」という心臓の状態が影響しているという診断で、
以来、薬で心臓の負担を軽減する治療をつづけている。
2012年、心肺停止から一命を取りとめたあと、心臓に除細動器
を植え込んで、今にいたっている。
診察室で、D医師は先ず「どんなですか?」と聞いてくれる。
「最近、息切れと目まいが当たり前になっています。むくみもけっこう
あります」とぼく。
「そうですね、血液検査ではBNPが350ありますから、心臓への負担が
寒さもあって、増えていますね。去年の冬も400ありましたね」
(BNPというのは、心臓に負担があると、あるホルモンが血液中に出てくる。
正常値は18.4以下とされている。)
「今の、この心臓の状態で、これからどれくらい生きられるんですかね」
とぼく。
D医師「それは、なんともいえないですね」
「もっともです、分かるはずがないですよね」
「・・・・」
「この状態の心臓の場合、死ぬときは、どん死に方になるんでしょう?」
D医師「そうですね、突然死か・・・、心不全状態になって、食べられなくなり、
点滴が必要になるでしょうね」
「点滴と言ったら、病院の世話になるということですね」
「そいうことになるかな」
「点滴が必要になったようなとき、病院に行かないでも、在宅とかで
看護してもらいながら、死んでいくという途はないものでしょうか?」
「そのためには、在宅医が必要だとおもいますが、今はそういう体制が
できたいませんね」
「・・・そうですか」
D医師から、聞いたときは妙に納得した気持ちになった。
突然死はシンプルだし、在宅となれば、今からそいう医師を探せば
いいし・・・。
あとから、いろいろ思いはじめた。
大学病院はどこまでも、救命と研究に邁進するのだろう。
極端なことをいえば、一人ひとりがどんな死に方をするかは、大学病院の
守備範囲にはない。
社会の働きとして、当然といえば当然かもしれない。
いまの現状では、その辺は自分で考えながら、いくしかないだろう。
「突然死、ねえ」とも思う。
心肺停止の状態が起きて、周囲に人が居たら、おそらく救急車を
呼ぶなりして、病院に担ぎ込まれるだろう。
発見が遅れて、命はとりとめても、後遺症が残るかもしれない。
そういう余生というのもありうる。
突然死とはいうものの、そんなにシンプルになるかどうか、予測
できないだろうな。
今、飲んでいる薬は6種。
いまの心臓の状態に応じて、負担を軽くしたり、血栓を予防したり、
不整脈を防いだり。
1、アーテイスト 心臓の働きを改善、心不全を治療する。
2、アカルデイカプセル 心臓の収縮力を強め、血管を拡げて、全身の血液の
流れをよくする。
3、コバシル 抹消の血管を拡げて血圧を下げ、心臓の働きを助ける。
4、ダイアート 利尿薬、むくみをとる。
5、ワーファリン 血液を固まりにくくする。血栓症の予防。
6、アミオダロン塩酸塩速崩錠 心臓の異常な興奮をしずめ、脈のリズムの乱れを
正常にして、不整脈を抑える。
はじめて、こういうところに、飲んでいる薬の名前とその効能を書いてみた。
気持ちは、はじめから薬は飲みたくなかった。
生存期間が延びると聞いて、14年続けてきた。
気持ちのどこかに薬にたよりたくないというのがあったような気がする。
その割に、先日、自分の薬にたいする気持ちを観察してみたら、
薬を飲まないなんて、とうてい出来ないというような気持ちがあることに
気がついた。いつからか「薬はのまなくちゃ」となってきていた。
まるで薬を飲まなくては、早死にするとでもいうように。
「飲まないことができるか?」で自問してみた。
自分のカラダは、薬だけで、こうして生きているわけではないよね。
心臓以外の臓器のお互いの関連があり、臓器をつくっている細胞の
働きがあり、大気の酸素やいろいろな環境があり、食べ物があり、
それを用意してくれる人がいるし、家族や周囲の人たちもいるんだよね。
「薬を飲まなきゃ」としているのは、そういう自分の思いが大きくなっていて、
実際のほうを見ようとしていなかった。
「薬は飲まないでもやれる」
そこがはっきりしたら、自分が、その時、そのときどう考えて、どうするかしか
ないわけだよね。
「いやあ、そうだよ」
そのことに気がついて、あとで思うと、薬も医者が飲めというから飲んでいる」
みたいな、トンデモナイ意識でいたかもしれないと、恥ずかしくなった。
主体はぼくなんだ。
薬も、どうするか、お医者さんと相談しながら、決めていくこと。
現状のじぶんのカラダを感覚的にいえば、息切れとかいろいろな
自覚症状は進んできていると感じる。
厳寒というのも、影響しているのかも。
この時期なら、炬燵に足を入れて、寝そべっているが一番気持ちいい。
そこから立ち上がるのは大儀に感じるが、いったん起きたら
なんとか動き出せる。
動き出したら、ある程度、人並みには話したり、考えたりはできる。
今、自分がどんな状態かというのは、カラダのなかで、何かが起きていて、
お医者さんでさえ、血液検査や外からの観察で推察するしかない。
まして、ぼくがいろいろ思っても、自分ではどうすることもできないかな。
できることは、今起きている現われを捉えて、何が起きているか、?に
していくことぐらいかな。
突発的なことがないかぎり、あと10年ぐらいは生きるかも。
誰もが必ず死ぬ、ぼくもそのうちの一人。必ず死ぬ。
といっても、いつ死ぬとか、どんな死に方するとか誰にも分からない。
分からないことは、分からないとしておくほか無い。
どんな死に方がいいか、考えるときがある。
病院に引きとられて、点滴や酸素吸引を受けながら、死に向かう
方向にあるのに、逆のほうを向きながら、死んでいくはしたくないなあ。
出来れば、痛みや苦しみもあるかもしれないけど、できたらそんな
ことも、和らげてもらいながら、自然に還って行くような状態で
”あの世”に逝きたい。
あの世がどんなところか、まったく想像できないけど、そこはぼくが
現に生きている、すべてものの関連のなかで生かされてきた、
そのような作用の世界ではないだろうか。
ある時期、死んだときは、研究用の献体にしてもらってもいいし、
臓器移植につかってもらってもいいと、真面目に考えたときが
あった。そのときは、どこかで、自分は物に過ぎないと、虚無的な
気持ちが、無意識のところを覆っていたのかもしれない。
今は、そうは思っていない。
そうだなあ、死んだら骨を粉にして、何かの木の下に播いてもらい
たいかなあ。
30代のころ、鶏や豚の肉処理をしていたころ、ぼくが死んだら
このものたちのエサにしてもらってもいいと真面目に考えたことも
あるけど、今となっては、どちらにしても、生きているときの希望は
言えても、どうするかは残った人で決めてもらったらいいと思う。
最近,思う。
死を想ことは、今の生をどう生きるかということ。
自分の生の前には数え切れないほどたくさんの先人の死があり、
自分の後ろには、まだ見ぬ人たちも含めて、永遠を目指す子どもたち
が息づいている。
この実態をそのままに、それぞれがその種を開花できる仕掛け、道筋
を、今、見出して生きたい。
ぼくぜんと、まだ漠然とだけど、おもっている。
いつ変わるか分からないけど、思いつくままに、理想の暮らしを語る会に
投稿します。
自分らしく老い、自分らしく死ねる社会の実現へ。