2012年の12月末に「若年性認知症」という診断を受けてから、
ninjinさんは、言葉が出て来にくい現われがおこり、2013年の
11月ごろは頭のなかが空白になるという自覚現象が起こってきた。
それにもかかわらず、その間の交信は、人間や社会について、
本質に根ざした考察をふだんの言葉で語っていることに、
ぼくはおどろきながら、共鳴してきた。
それが、2014年の新年を迎えたあたりから、一気に、
ぼくの気持ちからいえば、突然発語だけでなく、身体にも
不自由が現われてきたらしい。
ninjinさんの身体に何が起きているのか、分かりようもなく
よし、分かったとして、このじぶんに何ができるというのか?
2013年11月15日 ninjin→katatumuri 「つながるもの」
遠くにお住まいの息子様が見えられたのですね。
皆様にとって人生の一番豊かな時を迎えられて、読ませて
いただいて、ほのぼのとした気持ちをおすそ分けいただき
ました。
我が家もそうですが、子供たちがわがひこばえのように
成長していく様は、朽ちていく者にとってささやかな安ど感
をもたらしてくれます。
私という親をを土台にして生きていくこの子らとのつながりは
「確かに私が生きていた」、という証しであり、認知症の進行で
どのような姿のこれからになろうとも、この子らの中に自分が
いるのだと思うと、生きることに希望があります。
言語セラピーを受けながら、まるで1,2歳の子供のように・・・
犬・・ネコ・・車・・という言葉を音にして発音の練習をしています。
頭では分かっているのですが、音を組み立てて言葉にすること
ができにくいのです。
言葉が遅いことで、何もわからない人というようなとらえ方を
されてしまいます。
わかっているのですが、みなさんと同じように話せないのです。
認知症だからわからない人、という扱いをされることがあります
が、子供たちとその奥さんたちはじっと待ってくれて、ああ家族
だなあと心底の安心が湧いてきます。
家族っていいものですね。
2013年11月20日 katatumuri→ninjin
njinjinさんも、現象面では、いろいろな表れがあるようですが、
伝わってくるお気持ちは以前にコメントいただいたときと、ちっとも
かわっていない。それどころか、なにかより深くなっている感じが
しています。
家族のように、お互いがその人の気持ちをそのまま受け取れる
人と人の間柄になる、一人ひとりを大事にする社会でだれもが
くらせるように、願ってやみません。
またときどき、近況を知らせてください。
2013年12月20日 ninjin→katatumuri 「どうなさったのですか?」
人と人がつながっているということを、よくお考えのこと
と思います。
さまざまな、力 とでもいうのでしょうか、エネルギーの流れ
の方向は、どのように向かっても真理の方向へ向かっている
様な気がします。
いいとか悪いとかいう判断のしようのないもの・・・、そうとしか
ならないようなもの・・・、そういったエネルギーというか流れの
中の小さなパーツとして、ヒトの営みもあるのだと思います。
そちらの皆様のコミュニティの試みを読ませていただいて、
この時代に人の分際で生きる、希望の糸口のようなものを
感じています。
ポカッと空白 虚空になってしまう私の頭の中ですが、時折
電流がうまくつながって、自分というもの、アイデンティティを
捕まえることもできています。
しかし、言葉をつなぐということは、本当に高次な脳の営みだ
と思います。
悪戦苦闘しています。
ボイスレコーダーという機器を使って考えや、言葉のかけらを
つなぐことを覚えました。
2014年1月12日 ninjin→katatumuri 「脳、これだけが」
夫が家にいるので、カタツムリ様のページを開いてもらうことが
出来ました、御無沙汰しています。
最近急に脳の中が、空白になっていくのが分かるようになりました。
ぽかっと、電流がとぎれてしまいます。怖い、と思います。
今この瞬間が無くなってしまう感じ、ぽかっと。
かたつむりさま
本当に怖いです、今までと違う、全く違う。
言葉を言うときは出来るだけICレコーダーという機器でいつも
いったことを捕まえておくようにしていますが、じーじーと声では
ない音が多いです。
ふっと、自分が消えてしまうような感じです。
怖いですね、
脳という体の一部のこの働きで自分という存在を覚知している
のだと改めて思います。
この病気にあらがわずに・・と思っていましたが
何とかならないものかと思うようになりました。
ふっとおそってくる空白、白という感じでも無いですが
怖いなあ・・。
自我を意識することで生きていることを確認できるのだとすれば、
ぽかっと失うこの瞬間が拡がる先にあるものを意識せずには
いられないような焦燥感に襲われています。
新しい年が明けたというのに、今はこんな感じです。
どこまで、いつまで、という訳の分からない不安がありますが
今年もよろしくお願いします。
2014年1月19日 katatumuri→ninjin 「あけましておめでとうございます」
ひどく寒い日が続いています。
正月3が日はのんびり過ごしたのですが、4日からお客さん
の来訪の受入れやら、なにやかやでブログのコメント欄まで
目がとどきませんでした。
今夜、眠れないので起き出してゆっくりブログを開いたら、
ninjinさんのコメントに出会いました。
夜中ということもあるのでしょうか、ninjinさんのコトバを
自分なりですが、受け取りながら、こみ上げてくるものが
あります。
これは、なかなかコトバにはできない感じです。
でも、こんな、こんなちっぽけなぼくですが、ninjinさんの
お気持ちを、深く受け止めたいなあと、そういう感じするなと
コトバにしたらそんなんでしょうか。
コメント、繰り返し、読み返し、どんな感じだろうかと、いまは
そこまでかな。
でも、ninjinさんから出てくるコトバの元に思いを馳せると、
なにか、未来への希望からのものじゃないかともおもいます。
2014年3月4日 ninjin→katatumuri 「必死で生きて」
かたつむりさま
67歳になられたのですね?
ふと ひと匙掬って息をする
という父の一句を思い出しました。
息をしていることさえ忘れています。
最近は、息をしていることでいきている、という単純なことを
忘れてしまっています。
息をする、とか水を飲むとかそういった事が今の自分に
とって、確かにできていることだと自信のない頭で考えて
います。
必ず死ぬ為に生きています。
2014年4月2日 ninjin→katatumuri 「おせわさま」
おせわさまでした。
ことばがでにくくなって、キーボードをうつにもおもうように
はできなくなりました。
だれかがそばにいないとまちがいがおおくて、きかいの
そうさができまあせん。
そういうことで、おせわさまでした。
もうおたずねできません。
2014年5月7日 katatumuri→ninjin
コメント欄をきのう見ました。
”おたずねできません”というのは、このブログは
もう開けませんということですか?
このコメントもninjinさんには、とどかないのかな。
こちらこそ、お世話になったし、ありがとう、と
いいたいです。
胸がいっぱいです。
ほそぼそでも、やりとり続けられないかなあ。
ninjinさんとの交信は、こうして途絶えた。
こんなに早く病状がすすむとは思ってもみなかった。
先日、老年期認知症の母上の介護を体験した知人から
「人の尊厳」について、気がつかされたと聞いて、ninjinさん
との2年の交信に思いを馳せた。
若年性認知症が社会の理解がすすんでないと聞く。
老年期認知症についても、早期発見、早期治療も言われて
いるけど、老齢の人たちが多数暮らす社会について、そこで
暮らす一人ひとりが豊かに、人間として自分らしく生きていく
という構想ははっきり浮かびあがってきていない感じがする。
ninjinさんも、そんな病気になった原因について、考察する
ところもあったけど、専門的には予防にしても治療にしても
これからだろうな。まして、そういう人たちを社会が受け入れて
いく素地については、夜の世界を昼の世界に変えてしまうほど
思い切った転換が人にも社会にも必要だろうな?
ninjinさん、いまのあなたの生命がそういう人間の活動に
繋がっていけますように、祈っているし、自分の今に生かして
いきたいです。
ninjinさんにとどくかなあ。
(未完のまま)