かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

社会ってなんだろう?

2017-03-30 11:37:13 | アズワンコミュニテイ暮らし

毎日の暮らしって、そんなにドラマチックなことが起こるものでは

ないです。毎日、同じことの繰り返しのように感じたりします。

当たり前にしている暮らしが、なんでこんな風にできている

のか、ふと何か当たり前のとしているものが、パッカッと割れて、

何かが、見えて来るような時があります。

 

昨年12月初め、心臓の不整脈治療のため三重大学病院に入院しま

した。それ以来、3ヶ月、妻は24時間ではないですが、毎日病院に

顔を出してくれました。病院が名古屋に移ってからも、ほぼ一日

かけて、通ってくれました。

妻はコミュニテイのなかで、サイエンズスクールの合宿コース参加者の

生活スタッフをしていましたが、他の人が代わってくれて、「宮地の

世話に専心したらいいよ」と送り出してくれたそうです。

3ヶ月にもなると、妻が来てくれるのは当たり前みたいになります。

そのために、周囲の人たちが日々工夫をしながら、妻を支えてくれて

いることが当たり前のことって、なっていました。

ほんとにそうだろうか。

退院して、ハタと湧いてくるものがありました。考えてというより、

なにか包まれているものに触れた感じでしょうか。

 

療養生活です。1週間に一回、大学病院で心臓リハビリをはじめましたが、

心臓から全身に血液を送り出す働き、普通に人と比べると3分の1という

現状らしいです。

心不全の、どうも最低に近い状態のようです。

急な動作をすると、めまいや息切れがします。

今は1日20分、散歩することを、リハビリとしてやっています。

20分が、やっとなんですね。

倒れる前は、「理想の暮らしを語る会」で近しい人たちと、老いの

生き方、それに介護が要るようになった人と、どんなふうに地域で

暮していくか、けっこう熱心に語り合ってきました。

それは、どこか「そうなる人」は自分ではないと、決めてるような

ところがあったかなあ。いい気なもんです。

そんな自分がまさに当事者になっている、と自覚し無い訳には

いきません。

 

今、妻と出戻りの息子と3人暮らしです。

収入源は妻と私の国民年金、月7万ほどです。息子はときどき

稼ぎにいきますが、そんなに収入はありません。

妻も私も、療養のため年金以外、収入源が無い状態です。

それでも、毎日、普通に暮せています。お金が無くて心配という

ものがないとなあ、と気がつきます。

これは、家族のように親しい間柄で暮していこうという気持ちの

人が、お互いに支え合っていこうと寄り合っているためです。

物や人手が足りないときは、声掛け合って、出来るようにしています。

お金が足りない人があれば、持っている人が融通しています。

ファームやお弁当屋さんから、野菜や惣菜がプレゼントされます。

一人ひとりの持ち寄りでくらしているって、いえるのかな。

療養生活で困ったときはありません。

きのうは、オフィスから声がかかりました。

「いまの暮らしはどうですか?」と聞いてくれました。

オフィスっていうけど、そういう仕組みができた目的は、社会が

一人ひとりの意思を尊重し、困ったことがあっても、その人だけ

のことにしないで、先ず困ったことはどんなか、それを解決

するにはどんな知恵がいるか、などそこを見てくれているスタッフと

話し合っていくんですね。

いつも体験しますが、自分の中で思っていることを聞いてもらうと、

どこで詰まっていたか、あるいはこんな工夫ができるとか、どん

どん開けてくることが多いです。そこで、解決できなくとも、

先の見通しがもつことができるのです。

不思議です。

 

鈴鹿の隣、亀山市の長男一家が暮しています。

3歳と1歳3ヶ月の男の子がいます。和(わたる)と駿(しゅん)です。

2人の子は、鈴鹿にあるアズワンコミュニテイの同じような子ども

をもつ親たちといっしょにな部屋を借りて、「子どもの家」と呼んで、

共同の保育をしています。

夜はそれぞれの親元で暮します。

6人の幼児がいます。まだ増えるようです。

もちろん、一人ひとり、見ていくのですから、親たちだけではできる

はずもないです。実際の婆や子どもが好きな爺とか、いろいろな人が

その人の気持ちの分でかかわって、運営されているようです。

 

 

3月になって、長男の妻悠海さんから、サイエンズスクールの1週間の

合宿コースに参加したいんいだけど、婆である妻に相談がありました。

「社会を知るためコース」ということでした。

いままでも、そういうときが何回かありました。

昼間は二人、子ども家で遊び、夜、和はパパといっしょにわが家で、

駿くんはお母さんがいるスクールの研修所で一晩過ごしました。

今回は少し思案しました。

療養中のぼくを配慮してくれたのでした。

この期間中、二人は9時過ぎから3時過ぎまで、子どもの家で

遊びます。

「3時過ぎから、夕方6時ごろまで、預かってくれる人がいない

かなあ」話し合ったみたいです。

わが家の2階で暮す、小学生の娘が2人いる純奈さんが、「いいわよ」

と引き受けてくれました。

駿くんをご飯を食べさして、夕方6時ごろ、スクールのお母さんの

ところに送ってくれることになりました。

和は、わが家でパパといしょに夕食とお風呂に入り、子どもの家に

移って一晩過ごす段取りです。

パパが朝6時ごろ、職場に出かけるので、朝、子どもの家が

はじまるまで、見てくれる人も要ります。それも、難なく決まり

ました。

お母さんのもとにいる駿くんは、小浪婆がスクールに迎えに行き、

子どもの家に送り届けます。

 


ところが、はじまってみると、考えた通りにいかないのが世の常です。

純奈宅で夕方、和と駿を見てくれていましたが、階下の住民から

ドンドンという音が響いて、迷惑という苦情がありました。

和に静かにといっても、ちょっと無理でしょうね。

純奈ちゃんは、スマホのラインで、事情を説明し、「誰か3時半から、

パパが迎えに帰ってくる6時まで、和(わたる)見てくれる人がありま

せんか?」声をあげました。

何年か前から、コミュニテイではスマホが普及し、お互いの連絡は

ラインでやりとりするようになっています。

はじめは、さっぱり馴れず、苦労しましたが、いまでは老いも若きも

ラインを使いこなしています。

この声に、反応は素早かったみたいです。

ラインには「火曜日ならできる」とか、「木曜日の何時までなら

できるとか、「じゃあ、そのあとは私がやります」とかあっと言う間

に1週間の見てくれる人のシフトが出来て行ったようなのです。

実際のコミュテイでは、おふくろさん弁当にしても、ファームに

しても、手が欲しいときはラインで声を上げると、だいたい誰かが

手を上げてくれるようです。

面白いのは、声を上げる側に、「来てくれない」と不満が起こる

ようなことないみたいです。

応じる人は、自分の気持ちがあり、やれる分でやっていて、それで

けっこう上手く回っているようなんですね。

子ども達も、どこへいっても、人が代わっても安心して遊んで

いうようです。


一人ひとりはどんな気持ちでかかわっているんだろう?

 

こんなふうに書くと、「そのコミュニテイには、人が好い、善意の

人が集まっているんじゃないの?」と思われる方もあるかもしれ

ません。

人が好い、善意だけで、そんな現れになるんだろうか。



わが越し方を振り返ってみますと、「社会」というと、自分とは

疎遠に、むしろ自分に対するものというイメージがずいぶん

しっかりとあったように思います。

その後、コミュニテイで暮しながら「社会は一人ひとりの人間が

幸福になるためにある」と聞く機会が増えました。

そうだよな」と共感はしますが、どうも自分の中で得心が

いきませんでした。

そのうち、自分の行動の原動力が「人に迷惑かけたくない」

「なんでも、自分でやれるのがいい」

他人にやってもらうときでも、何か申し訳ない、見たいな気持ちが

あるようだけど、「これって何だろう?」と焦点が当たるように

なりました。


「社会」というけれど、どういうことを言っているんだろう。


春とはいっても、まだ寒さが残ります。

心臓リハビリとして、1日20分散歩しています。

散歩の途中、側溝の土手に土筆が天に向かって、佇立して群生して

いる風景に出会いました。

しばらく見ているうち、春の日差しを見たように思います。

土筆は太陽の光に照らされて、土筆の個性のままに、自分を表現

しているように見えました。

そういう目で散歩道の風景に触れていくと、日の光はどんな事物の

上にも振り注ぎ、分け隔てがないのです。照らされた事物の内実には

おそらく光についての反応し合う働きが起きているのでは。

ぼくは、「迷惑かけたくない」という気持ちがあっても、周りの

人たちに支えてもらいながら暮しています。

隔てのない社会の光を受けながら、生きるのが当たり前なのか、

繋がりのある人なかで、遠慮気兼ねをしながら生きていきたい

のでしょうか?


今、焦点を当てたいことがあります。

「決して個人の意思を妨げない」という考えがありますが、

そう思っている僕自身の中に、個人の意思を妨げることになりかね

ない、「人に強いたり、強いられり」という心の状態が自覚のない

まま、自分の言動に現れてきていないだろうか、観察するように

なりました。そこは、どうなっているのだろう?

身近な人の間で、「なんでやらないの?」とか、言葉にしなくとも、

そいういう気持ちが起きていることが見えてきています。



自分自身のなかでも、人と人の繋がりでも、社会にも、

こういう「人に強いたり、人に強いられたりが一切ない」

世界の実現を目指したいです。

みんなで知恵や心を寄せ合って。

その過程で、どんな社会や人が現れてくるのでしょう?




 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


隣人の情

2017-03-24 10:45:30 | わがうちなるつれづれの記

晴れていますが、まだ肌寒さを感じます。

退院後は、部屋で暮しています。一日、一回、20分ほど散歩します。

風と向き合うと、息が切れます。休み休み歩きます。

部屋の中では、テレビを見たり、本を読んだり、たまに調理の手伝いを

します。調理というのは、息を殺すようなことになるのか、立って

居るだけで、息が上がったりします。はじめて気がつきました。

 

何日か前、HNKのBS番組、「関口知宏の鉄動の旅<クロアチア編>」を

録画で見ました。妻が録画してありました。

この番組が好きです。関口さんの旅先での関心のもち方、人と接する

ときの無理の無さ、その後のつぶやきなど。

自分が行けなくとも、世界各地の風光が味わえます。

 

クロアチア編で、関口さんとクロアチアの人と接している様子を

見ていて、自分の中にもクロアチアの人に親近感が湧きました。

クロアチアはアドリア海に面したところから北上して、スロベニア、

東に行ってハンガリーとセルビアと接する鉤がたの地域です。

首都ザクレブからスタートして、ぐるりクロアチア一周の鉄道の

旅です。

ザグレブでは、日本に住んだことのある女性が俳句に魅了されて、

帰国してもその面白さを隣人とともに公園で”句会”をしている

場面がありました。

ある街では、昔、オスマン帝国の侵攻を受けたとき、男たちが連れ

さられました。女たちは、特別の衣装を身に纏い、刀を持って、

助けたという物語があります。

関口さん、しきりに「へえー」と反応していました。

それを偲んで、お祭りもあるそうです。

若い美しい女性がその衣装を着て、「そんなときは、助けに行くわ」

と笑っていました。

 

クロアチアとセルビアが接する地、スラヴォニア地方の町に行くと

街にある建造物、家、学校に弾痕がそのまま残っているところが

ありました。

1991年から1995年にかけたクロアチア紛争の爪痕でした。

関口さんは丁寧にそれら見て回っていました。

この紛争が起きる前は、この地域にクロアチア人、セルビア人が

共に暮らし、言葉も共通だったと聞きました。

当時、紛争が起きとき、テレビのドキュメント番組で、それまで、当たり前に

隣人として暮していた人と人が、機関銃などで撃ち合いをしている場面を

見ました。

「なんで、そんなことができるんだろう」

そのころ、とても不可思議な気持ちを抑えられかったです。

なかなか、そういう場面は映像で見ているが、それがどういうことか、想像で

きなかったです。

 

関口さんは、当時セルビアの爆撃で息子を失った家族に会います。

その父は今も、そのことが深い悲しみとしてつづいていました。

学校へも、立ち寄りました。校舎には、いまだ生々しく弾痕が無数に

残っていました。

学校の教師は、関口さんに「紛争の後は、セルビア人も戻ってきて、

今は子供たちは、この学校に一緒に学んでいます」と語っていました。

「ただ,いまのところ、クラスはクロアチアとセルビアに分かれて

いるんですよね。いつか、いっしょに机を並べられる日が来るとは

おもいますが」

関口さん「・・・・」

 

旅の番組でこんな場面に出っくわすと思っていませんでした。

旅好きのファンには、この場面に不興を感じる人もいたようです。

関口さんが、よくそこに関心をしめしてくれたなあ、というのが

ぼくの感想です。

ユーゴスラビアが崩壊して、人と人の繋がり言うより、国家や民族が

前面に突出して、人びとをあっと言う間に、対立、憎悪、殺し合いに

までに発展していっんじゃないかと、思っています。

国家とか民族というけれど、それはどこにあるんでしょう。

それらは、人間が頭で作り出した架空の物語ではないだろうか。

その架空の物語を、実際にあるものと思い違いして、それに自分や

家族の生命まで犠牲にするようなことになっているのではないで

しょうか。

国家でも、民族でも、人間の頭のなかにあるものということの

自覚が大事かと思います。個人が自分をクロアチア人と捉えていて、

ある人はセルビア人と捉えています。

それらの人と人が隣人として同じ村に暮すことに何の不思議はないように

思います。

 

世界の各地で今なお続いている、対立、紛争、戦争などは、自分の頭で

拵えた架空の物語が、実際のものだ、思い違いしているということに、

根本の原因があると思ってきました。

架空の物語だと分かったら、社会の実際とは、どんなものか、もっと

冷静に研究、探究し、みんなで知恵を寄せ合うことができることで

しょう。

そういう見え方が、これから当たり前になっていく予感があります。

 

 

 

 

 

 

 

 


今いること

2017-03-17 10:01:14 | 理想の暮らしを語る会

 3ヶ月の入院期間に、ラジオを聞くということを思いつきました。

幼少期は、ラジオだけだったです。新聞の番組表をみて、落語のある

時間帯に赤鉛筆で印をして、その時間は外さないで聞きに帰ってきて

いたように記憶しています。

病院では、落語も聞きましたが、NHKの教養番組も、けっこう聞き

ました。

中村桂子さんの「まどみちおの詩で生命誌を読む」という番組が

興味深かったです。

 

退院して、それをアーカイブでもう一度聞いています。

第10回

「いることのすばらしさ  生きものの進化と<ぼくがここに>」

中村さんが話の最後らへんで、「今の世の中、障がい者なんていない

方がいい」という考えがある人がいるようですが、これはまどさんが

言っている「いることがすばらしい」というのと全く反対なんですね、

と語りました。

「ハッ」としました。

相模原の養護施設で起きた障がい者が殺害された事件をどんな風に

うけとめていたんだろう。

言葉にはしなかったけど、「ぼくは彼らとは違う健常者だ」という

無意識の意識があったんじゃないかな、気がつきました。

おどろきました。

3ヶ月の入院後、ぼくはまだ外を散歩することもままならない。

部屋の中にいて、食事や洗濯など、妻まかせ。

まだ、ちょっと動けば息切れ、不整脈が起きないだけで、妻なしには

今暮しは出来ないだろう。

「ぼくは、健常者じゃないんだ」

どうだったかな、このへんで障害者と健常者の違いって何だろう?」

わが身に迫ってきた感じがありました。

中村さんは、生きものの発生から、細胞内のDNAの複製の例を出して、

32億個のATGを間違いなく完璧に複製ができるなんて、ありえないと

語っていました。

むしろ、間違いがあるので、生きものがこのように進化してきていると

いうことでした。

そのようなDNAの実際の姿や働きを見たことはありませんが、

そうかもしれないなあ、と思います。

ぼくは、高校生のころ、心電図に乱れがあり、スポーツをやめました。

その後、50半ばを過ぎたころ「拡張型心筋症」という原因不明の心臓の

障害があると診断されました。どうも、遺伝によるらしい。

その後、心不全状態が慢性になり、今にいたっています。

中村さんは、言い切っていました。

「そういうDNAのレベルから観察すれば、健常者と障害者の違いは

ないと言えるでしょうね」

 

自分の考えとか感じ方、人間の考えや感じ方から観察するというので

はなく、生きものの成り立ちを知ることが、先ずあるのではないかと

思いました。

そういう実際、人間の考えで曲げられない理を知って、そこから

そういう一人ひとりが快適に暮せる社会の構造になっていくように

人間の知恵を出し合っていくことかなと。

 

まだまだ、自分のなかがこれまでの社会のなかで培われてきた観念に

気がつかない状態のものが多いかもしれません。

気がついた今が、はじまりだと思います。

うれしい感じです。

 

 

まど・みちおさんの詩を自分のためにも、ここに紹介します。

       ぼくが ここに

                  まど・みちお

    ぼくが ここに いるとき
    ほかの どんなものも
    ぼくに かさなって
    ここに いることは できない

    もしも ゾウが ここに いるならば
    そのゾウだけ

    マメが いるならば
    その一つぶの マメだけ
    しか ここに いることは できない

    ああ このちきゅうの うえでは
    こんなに だいじに
    まもられているのだ
    どんなものが どんなところに
    いるときにも

    その「いること」こそが
    なににも まして
    すばらしいこと として


穏やかに最期

2017-03-13 10:17:54 | 理想の暮らしを語る会

先日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀

「わが家で穏やかに最期を導く   訪問診療医 小澤竹俊」

見ました。

理想の暮らしをつくる会の中井正信さんが知らせてくれました。

 

「穏やかに最期」ということが、心に残りました。

わが家でなくては、穏やかな最期は迎えられというものでもないと

思っていますが、人が穏やかになるというのは、幸せの現れに

つながってくるかなと思いました。


小澤さんは、彼自身の願いとさまざまな患者さんとの経験のなかで、

「人間とはどういものか」を探究してきたのではないでしょうか?

人は死が免れないと知ったとき、心身についてどんなことを思い

巡らすのでしょうか・・・

出てくる気持ちはいろいろだと想像できます。

身近な家族も同じじやないかな。

小澤さんも医療のなかで、「死んでほしくない」と言う家族、

「もう死なせてくれ」という本人の間で、解けぬ難題を抱える

時期があったらしいです。

自分は患者の側に居て、何も出来ない、弱さと無力。

でもそんな自分が側に居てもいいと知ったというのでした。

 
(自分の最近の体験が蘇りました。

不整脈が夜中に出て、止まらない。かといって、それに打つ手はない。

看護師の女性が「何もしてやることがない」と言いながら、しばらく

ぼくの側にいてくれました。

その女性の気持ちが嬉しかったんです)

 

ガン末期を自宅で迎える夫に、奥さんは何とか栄養のある食事を

用意する。夫は、「いや今は食べたくない」と手でその気持ちを

表していました。

その時、画面で、本人が冷たいアイスキャンデイを食べる映像が

一瞬写りました。

「ああ、美味しいだろうな」と唾を飲みました。

それはともかく、小澤さんはこのご夫婦の気持ちを聞いていきました。

夫本人に、奥さんの事を聞くと「やさしいけど、きつい」と応えました。

奥さんはその後、元気になって欲しいと、どこかで夫に強いていた自分

に気がつきました。

「ああもういいかな、食べさせようとしなくても」

奥さんから強いるものが無くなって、夫も楽になったようでした。

最期は、まだ話せるうちに、自分の人生で大事にしてきたこと、

家族に残して置きたい気持ちなど、専門の心理士が聞き取りました。

それを、年の瀬、家族が集まっているとき、奥さんが読み上げました。

何日か後、ご本人は穏やかに亡くなりました。


テレビでは、在宅診療医の小澤さんの焦点が当たっていましたが、

当然、医師一人の努力では、穏やかな最期というのは迎えられない

だろうな。

本人、身近な家族、隣人、医師、看護師、介護師、ケアマネジャー、

行政の人たちなどなど・・・

仕組みを整えるのはもちろん、一番の焦点は社会が、その本人が

「穏やかな最期」を迎えられるように、本人や家族の気持ちに

関心が起こるような社会の空気が欠かせないと思います。


「穏やかな死に方」もありますが、「穏やかな生き方」というのも

あると思います。むしろ、こっちが大事かな。

「穏やか」というと、人の外に現れてくる姿をとらえることに

なりやすいかな。

ここで、もっと観察したいのは、穏やかさが現れがでてくる内面の

元がどんなものかということが大きいと思います。

「人間とはどんなものか」

生まれたときから、いや生まれる前から、自分の心身はどこまでも

健康正常になっていこうという作用で生きているのではないか?


例えば、人は共に生きていこうと思うと思わざるにかかわり無く

一人では生きていけないことを知っている。

よく孤独死が悲惨だと言われる。そうかもしれない。そういうことが

多いかも。

一人、誰にも看取られず死んでいく人のなかには、一人では生きて

いけないと知っていて安心して、他の人にかかわりなく、自分の

好きなことに没頭して穏やかに死んでいった人もいるのではない

だろうか。

このときの安心って、人が人に何かを強いたり、強いられたり

しない、というのも大きな要素だと思います。

この点については、強いているとは自覚してなくとも、よくよく

静かに観察しないと、浮かび上がってこないこともあります。

個人でも、社会でも。


社会として、「穏やかな最期」というのは、本人や家族、隣人、

関係者が、本人と気持ちを確かめ合いながら、日々つくって

いくものかもしれない。

それらの気持ちが、どこまでも健康正常になろうとする働きに

適う方向へ、探っていくことになるかな。

社会がそういうことに一番関心があるようでありたいと思います。


そのためには、その本人はもちろん、関わっている立場の人が

自分の立場から、「穏やかな最期」「穏やかな生き方」が

あるがままに、現れてくるようなところ、見ていけないだろうか。



 

 

 

 

 

 

 


夜更けの妄想

2017-03-12 11:23:45 | わがうちなるつれづれの記

3ヶ月の入院暮らしの中で、ちぎれちぎれに眠れぬ夜に

後から後から出てくる妄想に付き合うことになった。

我慢できずに、深夜起き上がり、電気をつけて、ノートに

出てくる思いを書き付けた。

そんな夜が何回かあった。

書いている最中にも、自分の中のことが、文字にすると白々しい

感じもした。

どんな気持ちが出ても、ともかく書いてみた。

その記録が、ぼくの手帳に残っている。

 

2017年1月2日は、家族や友人が見舞いに来てくれたあと、

不正脈が起こり、一応止めたものの、またいつ起こるかと

不安がぬぐえなかった。

1月23日は、1月19日に3回目のアブレーション手術をしたにも

かかわらず、夜不整脈が起こり、いろいろ手を尽くしたが止まらず、

強力な薬を点滴で注入することで、なんとか治まった、

そのあと、なかなか眠ることが出来なかった。

 

   *       *       *

2017/1/2、いや1/3 0:30

このまま目覚めないこともあるか。

死にたくない。死ぬのは怖い。

小浪のことを思い、太郎や桃子のこと、風友・晴空、

譲、秀剛、悠海ちゃん、和、駿。

和は、昨日病室に来て、ジジに手をさしのべ、握ってくれた。

鈴鹿コミュニテイの一人ひとり。病院に居ても、身近に感じる。

そのメンバーの息吹きのなかにいると感じていた。

身はベットに横たわっていても。

 

小浪は賀状の返信のあて先を書いてくれた。

ぼくが寝ながら返信のことばをつぶやくと、小浪はとても

すんなり書いてくれた。

ひと仕事、2人でやりとげたと思った。

 

順ちゃんが写真集を届けてくれた。順ちゃんの顔いいなあ。

中井夫妻もきてくれた。中井さんは、地域包括ケアのこと、

誰もが安心して暮せる街づくり。

佳子さんは、ビジターズステーションのこと、話してくれた。

熱意が自然と伝わってきた。

しん子さん、気持ちありがとう。

省吾さん、奈々子、賢治、ホメオさん、恵吾・佳世、隆治・・。

 

この夜、死を身近に感じる。

ここから逃れることはできないだろう。

死の不安や怖れと向き合うことになるのか。

 

「世界中のみんなで幸せになろう」

まず、鈴鹿に本質的な社会を一つ。

そして、ブラジル・韓国・日本の各地へ、世界の各地へ。

「一つ」の人に出会えるように。

 

   年の瀬に君が手のひら命綱

   あらたまの見舞いの子らと海望む

   脈乱れ手を尽くしてや年初め

   差しのべし孫と結ぶ手出合い初め

   つぶやきを君書き留めて年賀の辞

 

1/23 10:00~翌2:00

   不正脈止みしかば深夜の闇にしばし眠らん

   生きるには生きるに足りる条件がわが心臓の乱れ足らざるか

   夜明け前彼方の淵を彷徨いて胸の高鳴り・・(次書いていない)

   溢れ出る君が思いを受けかねていやよ胸に刻みし君が真情

   明けざらむ彼岸の淵の旅ならむこの世の生を尽くしたきかな

   何願うわれ去りしのち世の中のすべて人の幸せなるか

   病室の窓から見ゆる青空は常に変わらず宇宙の涯に

1/24

   来て欲しいその一言が言えなくてそこがそこそこライン打つ

   病室の窓から見ゆる空・・・(書きなぐっている)

   分かちがたき死の淵めぐる妄想を・・・・(  〃  )

       君が背冬雲流るるを見ゆる・・・・・(  〃  )

   言い訳か思わず気づきやな感じ他聴かぬ世界今どこに居る

   

1/27 深夜2:00

   はからずも感染せしに君が今病のわが身何か言うらん

   この夜に死しても悔いず天地の間際街の音聞く

 

   *       *        *

この頃、寝ていてもムカつき、息苦しさがあり、辛かった。

医師からは、4回目の手術まで辛抱してほしいと告げられた。

このころは、自分の今の気持ちはどんなだろうと焦点を

当てて、それを和歌にしながら、苦しさを紛らわせていたようだ。

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  *        *        *