かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

夕焼け

2017-11-25 10:53:04 | わがうちなるつれづれの記

今日は快晴である。

きのうは、頭痛や胸の動悸、むかつき、息切れが激しく、終日

ベットに横になっていた。

読むのは目が疲れる。スマホで、いろいろな詩人の朗読を聞いた。

 

      夕焼け           吉野弘

  いつものことだが

  電車は満員だった

  そして 

  いつものことだが

  若者と娘が腰をおろし 

  としよりが立っていた。 

  うつむいていた娘が立って

  としよりに席をゆずった。 

  そそくさととしよりが坐った。 

  礼もいわずにとしよりは次の駅で降りた。

  娘は坐った。 

  別のとしよりが娘の前に  

  横あいから押されてきた。 

  娘はうつむいた。 

  しかし

  又立って 

  席を 

  そのとしよりにゆずった。

  としよりは次の駅で礼を言って降りた。

  娘は坐った。 

  二度あることは と言う通り 

  別のとしよりが娘の前に  

  押し出された。 

  可哀相に

  娘はうつむいて 

  そして今度は席を立たなかった。 

  次の駅も 

  次の駅も

  下唇をキュッと噛んで

  身体をこわばらせて--。

  僕は電車を降りた。 

  固くなってうつむいて

  娘はどこまで行ったろう。

  やさしい心の持主は

  いつでもどこでも

  われにもあらず受難者となる。

  何故って

  やさしい心の持主は

  他人のつらさを自分のつらさのように

  感じるから。

  やさしい心に責められながら

  娘はどこまでゆけるだろう。

  下唇を噛んで

  つらい気持で

  美しい夕焼けも見ないで。


吉野弘の詩が好きだ。

この夏、息子の結婚祝いに、吉野弘の「祝婚歌」という詩を友人に

書いてもらって、額縁はその人の兄上に作ってもらった。

兄上は快く引き受けてくれた。

詩の言葉をジッと見ていて、「ちょっと、教訓じみた感じがしますね」

とポツンと感想。

「そうかあ」

自分が惚れこんでいるところとは、別の新しい世界に触れた感じで

新鮮だった。

 

「夕焼け」も何回も読んできた。

としよりに席を譲ることが、すんなりと出来た。

これは、思わず譲ったもの、と受け取った。

2度、3度ととしよりが娘の前にたった。

3度目は、立たなかった。

娘の心のなかで何かが起きたんだろう。

吉野弘は「やさしい心の持主 他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから」と表現した。

それはそうかもしれない。

娘ははじめ、自然に譲れたものが、何かが起きて、としよりが

前に立っていても、唇を噛みしめて坐っていた。

もともと、娘のうちに発露しようとしている「やさしい心」に

ブレーキがかかる。

「それが、じぶんの内からのものか、何か外から迫られているものか」

 

   

  娘はどこまでゆけるだろう。

  下唇を噛んで

  つらい気持で

  美しい夕焼けも見ないで。

 

  

 

「娘はどこまでいけるだろう」

これには、じぶんが重なってきて、深くこころに残った。

 

何年か前から、一級の身体障害者の証明書や駐車場の優先

カードをもらっている。

はじめは、社会の一人ひとりに支えてもらっているという

気持ちだった。

最近、それであたりまえという気持ちがでてきたいるなあ、

と感じるときがある。

 



病気とつきあっていくと楽しい

2017-11-22 17:34:20 | 理想の暮らしを語る会

公開講座「介護は新しい文化を創造する」のパネラーの一人、

金治智計さんが、「病気と付き合っていくのは楽しい。たえず、

ゼロに戻れる。自分を変えていける」という話が心に残っている。

彼は、人工透析で暮らしていて、その合併症でもいろいろ疾患も

起きている。

 

中井正信さんが、地域包括ケアシステム勉強会のラインに、医療者

の語る話を紹介してくれていた。

 

 ーー人生の最終段階においては、「治療する」が答えにならないと

   いう現実があります。

   治らない病気や障害とともに生きる人を前に「治療」という

   伝家の宝刀が抜けない医療職は、それでも、最期までその人の

   穏やかな日々を送れるよう、支えていかなければなりません。

   

   そのために重要なポイントは3つあると思います。

   ■治せないという現実を受容できること

   ■最期まで生活や人生を諦めないこと

   ■支持療法・緩和医療がしっかり提供できること

 

   「受容する」というのは「諦める」ことではありません。

    事実に新しい意味を見出すこと、そして、そこから始まる

    新しい人生を納得して生きることだと思います。

 

この医師の言葉を聞いて、少し自分を振り返ることができました。

昨日、大学の循環器内科の主治医の診察を受けました。

医師は「腹膜透析したほうがよさそうですね」と、客観的な

口調で語りかけてくれました。

「どこか、悪いですか?」

「腎臓の数値が悪化しています。すぐ、透析するかどうかは

一度入院してもらって、心臓を落ち着かせて、それからでも

いいですが」

 

疾患がまた一つ次の段階に移ったんだなあ、すこしショックでした。

事実を受け止めると、意識はそう言い聞かせていますが、なにか

落ち着かないものがありました。

「もう、心臓の疾患は回復することはありません」と何回も

聞かされています。それは、納得しながらやってきたつもり

でしたが、新しい事態が起こるたびに動揺するのは、どういうこと

だろう。

「まだ、どこかに回復するかもしれないという希望があるのかしら」

同行の妻が言った。

 

そういえば、自分の疾患についての、その状態やこれからどうなって

いく可能性があるのか、医師とじっくり話し合うことはしてこなかった

感じがする。

「受容する」

これも、ただ疾患の話だけで、できるかどうか。

分かっていても、心の中にはいろんな気持ちが湧いてきている。

 

先に引用した医師はこう書いている。

 

 ーー治らない病気や障害とともに生きる人を前に「治療」という

   伝家の宝刀が抜けない医療職は、それでも、最期までその人の

   穏やかな日々を送れるよう、支えていかなければなりません。

 

これは、医療の根本的な文化の創造かなと思った。

医療について、ぼくが何か言いたいことがあるとすれば、一人ひとり

の患者を一人の人間として、総合的に見る観点から、疾患について

診ていく、そんなことはどうだろう?

できれば、お医者さんや看護婦さんや、同じ疾患を持って暮らして

いる人たちと、お茶でも飲みながら、よもやま話をしたいもんだなあ。

死んでいくことを、もっと大らかに、はなしあいたいなあ。


背筋がシャンとしたこと

2017-11-19 10:02:42 | サイエンズ研究所のある暮らし

木曜サロン

腹が立つのは、思い込みやキメツケがあるからだ、と深く思い込んでいる。
思い込みやキメツケがあったら必ず腹が立つだろうか?

岩田さんが以前、スクールブログで「怒りは個人の問題、って思っていない?」と問いかけていた。
ハッとした。「怒りが発生する原因として、その人が置かれている立場を、他の人が犯しているばっかりに、その人は怒りたくなくても、嫌がって、怒っていることがある」
本来の人間、社会、健康正常な姿が明らかになれば、社会に怒りは発生しない」
背筋がシャンとした。除細動器の電気ショックみたいだけど、それとは違って、明るい気持ちに包まれた。

思い込みやキメツケを外すのは、怒りを無くすためというより、そこからゼロになって、本来の人間や社会を知ることから、はじまる。素直とか検討しているのはそこからか。そこが、見えたら不健康な状態が明るい陽の光に照らされて、自然消滅するのだろう。
ほんとうは、何をしたいのか?


受けとめてくれる人たち

2017-11-15 11:14:40 | 理想の暮らしを語る会

 もう、四日も経った。

11日の午後、理想の暮らしを語る会主催の公開講座

「介護は新しい文化を創造する」が開かれた。

会場は鈴鹿カルチャーステーションのカフェコーナー。

今回は、パネラーとして、妻と一緒に参加した。介護受ける人、ぼく。

介護する人、妻。

そのほか、疾患を抱えたパネラー3人や介護経験がある女性一人

がみんなから見えるところに並んだ。

参加されていた方は20人くらいだったか。

進行役の森原遼子さんや、事務局の中井さんから、「老いても、

ボケても、安心して楽しく暮らせる地域社会を実現したい」と挨

拶があった。

 

パネラーは進行の人から質問があり、それに答えたらいいと思って

いた。

「じゃ、宮地さんから語ってもらいます」と振られた。

どぎまぎして、病歴のことや今の暮らしについて話した。

どのくらい話したらいいのかも聞かず、しゃべっているうち

「この話、いつ終わるのだろう」と心配になった。

終わってみたら、30分も話していた。

 

ほっとして、気持ちが楽になった。

パネラーの人の話をゆっくり聞けた。

市川憲一さんが、大腸がんの切除する手術をしている。

再発しないよう抗がん剤を飲んでいたが、体調がおかしくなり、

病院に行って、ようやくの思いで「抗がん剤はやめます」と

医師に伝えたら「ああそうですか」とあっさり承諾。

今は、職場の人などに相談しながらストレスの無い暮らしをして

いるとのこと。

 

金治智計さんは、15年前、腎臓結核というので、腎臓を一つ

摘出している。8年前から、腎臓が悪化して、人工透析が

始まった。

一人暮らし。生活保護など申請したが、難しかった。

今は血管に血が回らない合併症がおこり、心臓や足の血管を

広げる手術をしに、足を引きずりながら名古屋大病院に一人で

行っている。

月、水、金、一日6時間の透析。

聞いていると、イタイタしい。

ところが、金治さん、「病気になって、付き合っていくのが楽しい」

という。

「いろいろ起こるけど、その瞬間瞬間ゼロにもどれる。

たえず、自分に戻れる。病気も悪くない」

うーん、そんな気持ちで暮らしているのか。響いてきた。

彼とは、今サイエンズ研究所のサロンに一緒に参加している。

サロンが一番の楽しみだと聞いた。

 

野尻四郎さんは、70歳。ぼくと同年。

17年前、腎臓ガンと診断され、鈴鹿中央病院で切除手術をした。

10年後にガンは肺に転移して、それを切除。

こんどは首の後ろに瘤。はじめは、軽くとったらいいという診断

だったけど、ガンと言うことが分かり、頚椎の放射線治療をして

いるという。

抗がん治療が顎の骨を砕いてしまうおそれがあり、今三重大病院

にも通いはじめた。

身体は、ガンの百貨店。食事も特別流動食。一日、横になって

いるときもある。

幸い、痛みはない、不思議といえば不思議。病院も自分で運転して

いく。身体は痩せこけている。

それがである。

飄々として、暮らしている。明るい気持ちが大きいという。

「明るいと免疫細胞が活発に働いてくれるのかな」

彼が、そんなに明るく暮らせているのは、何があるのだろう?

 

脳性マヒの介護の仕事の経験があり、夫のガンの看取りをしてきた、

今井亜子さん。その人の気持ちになる、身体の介助だけでなく、

心のケアが大切だと話してくれました。

 

こんな病歴の話、あんまり聞きたいとは思わないんじゃないかと、

勝手に思っていました。

ところが、参加してくれた方は、ジッと聞いてくれていました。

どんな受けとめかたをしてくれたんだろう?

 

あとで、聞いてくれた人の感想を聞きました。

すこし意外でした。

何かとっても深く受け取ってくれたみたいです。

 

 ーー講演会の中身の深さを改めて感じています。自分の言葉で

  素直に語れる、それが人のココロにしみるのでしょうか。

 

 

 ーー今日私はある物語を受けとった。それはいつか私もたどるで

 あろう人生の先を今たどる人から、そのたどってきた道のりの

 物語だった。

 その贈り物を受けとって、私のなかにはじわじわーっと

 広がるなにかがある。

 甘えられること。

 つながりのなかで生きること。

 それが細胞まで活性していると感じること。

 自分と病気を分けて考えること。

 合うということ。

 する側とされる側ではなくその人の身体の一部になるということ。

 などなど、どれをとってもまだまだ感じることが多い。

 飛ぶことと
 身をまかせることが
 ひとつになって
 自由に空を舞う鳥のように
 また大空も
 自分の身体のように
 鳥とひとつになり舞う

 そんな地域を作っていきたいと思う。

 

 --講座は介護に主を置いたものでなく、むしろ、闘病でなく、

  友病みたいな感じでしたね。

  病を通して、人と人の繋がりを感じて、その中で豊かに生きて

  いけるんだってことが、もっと本当に悩んでる人に知らせたいな

  あって思いました。

 

 --パネラーの一人が「病気も意外とわるいものではないなあ。

 どんな自分になっても自分でありつづける。何かが出来なく

 なっても、それで自分の価値がかわることはない」と。

 その人の淡々とした話しぶりや表情から感じる彼の心の世界を

 感ぜずにはおれませんでした

 

 

実際のぼくを見てみると、不整脈がいつ起こるかの心配とか、

息切れや立ちくらみにめげるようなときも。

身体が不如意になって、杖をついて歩くのが楽だと知ったり、

明るい気持ちで過ごしているかといえば、あんまり自信は

ありません。

病気と明るく、軽く暮らしている仲間とそばにおれることに

感謝です。

そこから、「介護は新しい文化を創造する」という大テーマに

向かい合いたいと思いました。

疾患を抱えている人の話をこんなにじっくり聞き、受け取って

くれる人たちにも感謝です。

 

 

 

 

 


非暴力直接行動

2017-11-02 20:55:47 | アズワンネットワークのある暮らし

ベトナム戦争のまっただなか、1960年代米軍を脱走した

元米兵クレイグ・アンダーソンさん(70歳)が、沖縄辺野古の

キャンプシュワブ前で座り込む参加者を激励したという

ニュースがありました。

ああ、同年代だと身近になりました。

辺野古でマイクを握ったアンダーソンさんは、冒頭

「みなさんの非暴力の行動を支持しています」とあいさつ

があったという。

アンダーソンさんの言葉の底に、どんな生き方があったん

だろう?

 

つい最近、友人から「鶴見俊輔さんの仕事⑤-なぜ非暴力直接

行動に踏み出したのか」(小泉英政・川上賢一・黒川創 編集

グループSURE)という小冊子が贈ってもらいました。

小泉さんと川上さんほか8人の人たちと、1967年11月12日夕方、

ベトナム戦争に協力するため訪米する佐藤首相に「行ってほしく

ない」と意思表示するため、羽田空港の道路に座り込んだ

(手をつないで寝そべった?)。

すぐ排除され、警察に連れていかれた。

 

そのあと、横須賀に寄港していた「イントレピッド号」から

4人の米兵が脱走した。いろいろな市民にかくまわれて、最後

は日本から無事離れることができた。

 

「人を殺したくない、殺されたくない」

それを、身をもって、表す。そのころは、その一心だった。

 

贈ってくれた「小冊子」では、「非暴力直接行動」とは

どういうことだったのかが、語られている。

身に迫ってきました。

 

以来、「戦争」や「対立」「争い」は無くなっていない。

沖縄辺野古に「新基地をつくってほしくない」という市民の

気持ちは、たえず大きな力で押しつぶされている。

 

キャンプシュワブ前では、座り込みがつづいている。

警察に引き抜かれても、どかされても、また座り込む。

見ていると、ほとんど身体での抵抗はしていない。

それが、つづいている源はどんなものなんだろう。

ときに、対立感情や怒りや勝ち負け感など、いろんな

気持ちが起きているだろうな、と想像できるにしても。

 

 優勢な力には、絶えず負けつづける。

一人ひとりの座り込みは、一人ひとりの願いが込められ

いる。

「人を殺したり、殺されたくない」

今とこれからに、大きな礎をつくっている。

押しつぶそうとしても、押しつぶしようもないこと。

一人ひとりの心底の願いに耳を澄ましたい。


 沖縄の基地は、すべて日本本土に移したい。

沖縄には、あまりにも負担をかけすぎている。

そういう社会は、先ず沖縄からおしまいにしたい。