今日は快晴である。
きのうは、頭痛や胸の動悸、むかつき、息切れが激しく、終日
ベットに横になっていた。
読むのは目が疲れる。スマホで、いろいろな詩人の朗読を聞いた。
夕焼け 吉野弘
いつものことだが
電車は満員だった
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼もいわずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀相に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。
吉野弘の詩が好きだ。
この夏、息子の結婚祝いに、吉野弘の「祝婚歌」という詩を友人に
書いてもらって、額縁はその人の兄上に作ってもらった。
兄上は快く引き受けてくれた。
詩の言葉をジッと見ていて、「ちょっと、教訓じみた感じがしますね」
とポツンと感想。
「そうかあ」
自分が惚れこんでいるところとは、別の新しい世界に触れた感じで
新鮮だった。
「夕焼け」も何回も読んできた。
としよりに席を譲ることが、すんなりと出来た。
これは、思わず譲ったもの、と受け取った。
2度、3度ととしよりが娘の前にたった。
3度目は、立たなかった。
娘の心のなかで何かが起きたんだろう。
吉野弘は「やさしい心の持主 他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから」と表現した。
それはそうかもしれない。
娘ははじめ、自然に譲れたものが、何かが起きて、としよりが
前に立っていても、唇を噛みしめて坐っていた。
もともと、娘のうちに発露しようとしている「やさしい心」に
ブレーキがかかる。
「それが、じぶんの内からのものか、何か外から迫られているものか」
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。
「娘はどこまでいけるだろう」
これには、じぶんが重なってきて、深くこころに残った。
何年か前から、一級の身体障害者の証明書や駐車場の優先
カードをもらっている。
はじめは、社会の一人ひとりに支えてもらっているという
気持ちだった。
最近、それであたりまえという気持ちがでてきたいるなあ、
と感じるときがある。