かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

年の瀬の満月

2015-12-27 15:55:28 | 家族あれやこれや

 

年の瀬25日の夕方、中井さん宅を出たところ。

路地の向こうの屋根の上に、橙色に近い濃い色のまんまるの

おっ月さんがぽっかり浮かんでいた。一瞬、息をのむ。

しばし、眺める。

「いろいろあったなあ」

 

長男秀剛の連れ合い悠海さんが、二人目の子どもを産んだ。

23日朝方、男の子3920g。

お腹のなかでよく育ち、安産だった。

 

 

出産日の前、悠海さんは体調が芳しくなかった。

前日は下痢と吐き気などで休んでいた。

2歳になった長男坊”わたる”がノロ胃腸炎にかかっていて、

移ったらしい。

なかなか陣痛が来ないし、大丈夫だろうかと心配していた。

ホッと安堵。

 

22日は、娘桃子の誕生日だった。

小浪がロールケーキをつくっった。

夕食後、風友、晴空、ジジ、ババでローソクを立て、お祝いしたあと、

食べた。

風友と晴空は、合作で手作りのイヤリングをママに贈っていた。

 

 この時期、秀剛一家はわが家で晩ごはん食べていた。

ぼくらも胃腸炎にかかって、下痢と吐き気に見舞われた。

あんまり外をウロウロしないよう謹慎の何日かを過ごした。

 


 12月は、誕生日ラッシュだ。

和(わたる)の2歳の誕生日は26日。

2歳になる行事は、お母さんの悠海さんが、出産する前に、

やっておいた。

お祝いっていったて、いつもと変わらない。

だいたい食べ終わると、部屋中を好奇心や遊びの仲間にして、

居間や寝室は絵本やトランプやおもちゃをひろげて足の踏み場も

なくなる。

 

 長男秀剛は、産後1週間の育休をとった。

この間、ゆったり息子わたると二人暮らし。

ときどき、助産院にいるお母さんと弟に会いに行く。

この育休、お父さんにとっても、息子にとっても、何か満ち足りた

時間がもたらされたように見えた。

秀剛「こんなにゆっくりできて、最高!」

 

27日は悠海さんと第2子の男の子が助産院から出発。

わが家で昼食を食べて、その後、悠海さんの父母のところに

1ヶ月ほど、滞在させてもらいに行った。

その間、秀剛は引越ししたあと、まだ未完成のお風呂を仕上げる

ことができるかな。

 

この日は、こんどは妻小浪の誕生日。

夕方、譲の運転で亀山の温泉に行き、そのあと伊賀のおそばを

食べに行った。

お酒は2人でお銚子一本。それをすすりながら、譲とともに、心地よく

とりとめもない話。

譲の4人目の男の子峻基がまだ2歳ぐらいのとき、5人目の出産が

あった。

「峻基を負ぶって、トラクターを運転してたんだ」と譲。

「そうかあ」

「それを近所のKさんが見ていて、それまで子どもは要らないと

思ってたみたいだけど、そのあと、できちゃったんだ・・・・」と譲。

「ねえ、そのKさんって、譲が世話になった人?」と妻。

「・・・・」譲。「・・・・」ぼく。

ちょっと、間があく。

しばらくして、大笑い。

しみじみとして、と言いたいが、ざるそばの大盛りが最後に

運ばれてきた。

音立てて、吸い込んだ。メチャ旨かった。

蕎麦湯でほっこり。

 

28日は、桃子のとこの、風友と晴空が大阪のパパとおばあちゃんの

ところに出かける。年末年始。

いつもは、孫二人だけの大阪への旅だったけど、今回は近鉄八木まで

いっしょに行って来たと桃子。

それで、今夜は桃子、ひとり。

晩ごはん、わが家に食べにきた。

食べたあと、なんとはなしに、おしゃべり。

ふと、桃子、風友とのやりとりを話してくれた。

「八木駅までいっしょに行こうっていったら、風友、とっても喜んだんよ。

でも、特急券、お金かかるのよね。やめよかな、っていったら、風友、

そんならいいよ、と反応した。見ていたら、風友のなかで何か起きている

ように感じた。あっ、風友がまた、ぐっと我慢のほうへいきそうって感じて。

ママ、やっぱりいくわ!と言ったら、顔がパッと明るくなった。電車の

なかでは、トランプやろう、とか、いろいろ遊んだんよ」

風友は中2。

桃子「あぶないとこだった。よかった。なんか、そんな毎日なんだ」

 

来年の健生みえの会新年会で、句会もやるという。

朝、ふとんのなかで、まどろみながら、句作する。

まあ、できた。

 

    年の瀬や満月と鉢合わせ路地の宵

    幼な子と妖怪は朋夜長かな

    何ごとかあり何ごともなし年の暮れ


 

 どこかのだれかは、どんな気持ちで眺めたろう。

月から観たら、それぞれはどんなに見えるんだろう。

10年前の真冬のスイス。車で坂を上りきったら、

真正面に大きなまん丸の月が現われた。

そんときの記憶が浮かんできた。

 

 

 

 

 


師走の正装

2015-12-22 16:02:54 | 家族あれやこれや

黒いスーツ姿で現われた。

今どきの青年のように、すこしキチキチに着こなしていた。

ソファに座っても、すこしぎこちなく、照れているようでもあった。

二人で、お互いに決めたことに、何かいうことがあるだろうか。

まして、お互いにいっしょに居ると楽なんですという。

 

息子が産まれたときの気持が蘇った。

自分のことで右往左往してられない、何か自分を越えたものへの

関心が湧いてきたといえばいいのか。言葉にすると、違ったものに

なる。

いま、また自分のなかで、湧いてきて、はじまってくる感じのものが

ある。

 

 

今年、春頃から、3回、話があると、ぼくのところにやってきた。

はじめ来たときは、激しい雨が降っていた。

海が見えるカフェで、「おやじは何を思って、これまでやってきて、

いま、やってきたことをどう思っているか?」を問われた。

そんなこと、聞かれるの初めてだった。

2回目、おずおず、彼の考えをぼくにぶつけてきた。

3回目、はっきり彼の思いをぶつけてきた。

「それはできないよ」と伝えた。

精一杯というより、彼はある覚悟をもって臨み、その覚悟に立ち返って、

すっくと立った、という姿に見えた。

 

正装の男女とドテラを来たおっさんがスファーから立った。

「あら、お父さん、背が高いんですね」

「そう、でもあなたも」

 

正装の息子は、近所の妹のところに向かった。

分かれて、振り向かなかった。

こんなときの気持ち、どんな言葉にしたら、しっくりくるのだろう。

 

 


ジブリ「コクリコ坂から」

2015-12-09 21:13:30 | わがうちなるつれづれの記

去年ぐらいから、フェイスブックに、jyunichi nakajimaという名前の

「いいね」が入るようになった。何となく、誰だろう、こんな名前の人、

知らないなあと、ナゾのようだった。

何かの拍子に、ぼくの高校時代、親しく付き合った、加藤くんから、

「中島淳一」くんに宮地の電話番号を知らせてやりたいという

コメントが入った。

彼を思い出してみた。同級生だった。そんなに付き合った記憶はない。

うっすら彼のイメージがでてきたが、色白でおとなしいやつだったぐらい。

 

その後、中島くんから電話が突然がかかってきた。

ニューヨークからだという。

聞いていると、高校卒業後、服飾関係の会社に就職した。

東京日本橋にいたが、そのうち伊藤忠の服飾関係の部門で

やっているうちにアメリカに渡ることになり、ファッションデザインの

大学に入り、その後も伊藤忠でやっていたが、そのうち解雇に

なった。以後、これまでずっとニューヨークの下町にマンションを

借りて、暮らしている。独身だという。

マンションの周りは、物騒なところで、彼の部屋のドアが何回か暴漢に

壊されているとか。

「どうして、70になろうというのに、そんなところで、一人でやってるんだい?」

と疑問を投げかけた。

「うーん、まだやりたいことがあるんでね」

それ以上は、何も言わない。

 

その電話のあと、FAXが何回か入り、そのうちFBのメッセージにも、

いろいろ近況を知らせてくれるようになった。

よく分からないが、パソコンがないので、図書館のものを使っている

とか。それは、日本語バージョンがないという。なので、彼からの

メッセージはすべて英語はもちろん、日本語もアルファベット。

街の写真やニューヨークの川やヨット写真とか送ってくれるが、彼が

そのことから、どういうことを伝えくれようとしているか、分からない。

もどかしい気持ちがある。

 

あるとき、FAXが届いた、

ジブリの「コクリコ坂から」というアニメを観ろ、と言う。

横浜を舞台にしているし、ちょうどぼくらが高校生のころ、1963年ごろの

話だという。

最近、そのことを思い出し、DVDを借りてきて、観てみた。

それで、中島くんに、今日、その感想を送った。

偶然、今日は彼の誕生日だった。

 

 

「TO  Junichi Nakajima 中島淳一さん

 

 今日(12月18日)が誕生日なんですね。

おめでとうございます。

 

あなたからのFAXを見てみると、2014年3月から交信がはじまったみたい

ですね。その間、FBでの交信ができるようになりました。PDFで写真や

英文の文章を送ってもらったりしていますが、なにせ、英文を読むのは時間が

かかり、難儀します。もどかしい気持ちもあります。

日本語で送られるようにならないかなあと思っています。

 

最近、ジブリの「コクリコ坂から」のDVDを借りてきて、見ましたよ。

主人公の女の子や男の子は、1962,3年ごろの高校生で、新聞をつくるのに

蠟の紙の下にガリ版を敷き、鉄筆で書いていく場面は懐かしく見ました。

そのころ、ぼくもY校の新聞部に出入りしていた。

高校生の部室が「カルチェラタン」というのも、面白い。この言葉を聞くと、

その時代の情緒が湧いてくる。

アニメに出てくる部室って、Y校の部室に似ていて、何かリアルだった。

ジブリは、ストーリーもあるけど、アニメの背景描写が好きだ。

坂道や、海が見える風景、商店街の風情など、映像で心に滲みてきますね。

横浜を彷彿とさせられたなあ。

あの頃、ぼくはバスケット部で、練習だといって、近くの丘に上っていく

カーブのある坂道をダッシュで走る苦行をしていた。ある日、練習して

いたら、映画の撮影をしていた。後で聞くと、黒澤明監督の「天国と地獄」

の丘の上の屋敷に上っていく場面を撮っていたらしい。

そんな記憶もでてきたなあ。

 

主人公の一人、俊くんが、メル(海)ちゃんが肉屋で買い物している間に、

コロッケを二つ買って、「はい、これ」って、差し出した。

二人して、あつあつ、ほくほくのコロッケを食べながら、別かれる。

これって、このコロッケの味(もちろん、ぼくの)が蘇ってきて、もうこの辺

からアニメの世界に引き込まれた、というか、気がついたら、その中にいた。

俊くんと海ちゃんは、淡い恋心が生まれている。

二人が、血の繋がった兄弟だと分かる。

二人は悩む。海ちゃんが、「たとえ兄弟であっても、俊くんが好きだ」と

俊くんに告白する。

海ちゃんが幼い頃、船乗りのお父さんは朝鮮戦争のとき、LSTで日本から

朝鮮に荷物を運んでいるとき、事故に会い死んでいる。

それからの経緯が分かってくるにつれ、実際は、2人は血の繋がった兄弟で

ないことが分かる。

そのとき、お母さんが仕事先のアメリカから帰ってきて、海ちゃんを

抱きしめて、海ちゃんのすべてを受け止めた。

ストーリーの展開のなかでは、姿が現われてこなかった父や母が最後に

大きな包み込み、慈しんでくれるものの象徴であるかのように現われてきた。

ああ、もうまったくその世界に入り込んでいた。

見終わって、実際の世界に戻った。余韻がいつまでも残った。

 

では、良い年を迎えてください。」

 

これから、彼と付き合いどうなるか。

もしかしたら、不可解なまま、どちらかが先に、あの世に行って

しまうかも。

そんなこともあるよなあ。

 

ちなみに、「コクリコ」というのは、フランス語で「ひなげし」の花とか。

花言葉は「初めての恋心」みたいな意味があるとか。

ああ、ぼくにもそんな、胸がキュンとするようなときもあったように

おもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


師走の見舞い

2015-12-09 21:08:18 | わがうちなるつれづれの記

師走の8日夕方、橋本沢也さんを遠山病院に見舞った。

元同僚、飲み仲間の中井夫妻は先に来ていた。

橋本さんは、酸素吸入器を使っていて、話せない状態になっていた。

目が合うと手を差し伸べてくれた。

両方の手のひらで,かれの手を握った。あたたかだった。

腕は、筋肉が落ちて、細くなっていた。

表情は豊かで、目がかれの気持ちを語っているようだった。

 

ついこの間、9月の末ごろ、三重大学付属病院で橋本夫妻に

出あった。橋本さんは車椅子に座り、奥さんの栄子さんが

押していた。

「もう、がんの治療は止めたの。痛み止めはしてるけど」と

聞いた。

橋本さんは、以前にくらべたら痩せてはいた。

話が弾んだ。

発してくる言葉はユーモアがあり、素直な気持ちをそのまま

出してくるので、楽しい気持ちになった。

そのとき、今度ゆっくり話しをしようぜ、と別れた。

酒も少しなら飲めるよ、にっこりしていた。好きなんだよなあ。


 

中井さんに伝えたら、一緒に行こうという。

いつか決まらないまま、11月半ばになり、そのころ、今度は

ぼくが心臓発作を抑えるための除細動器が作動するという

ことがあった。

「ピカ!」と稲妻が走ったように見え、「ドン!」という衝撃があった。

かかりつけの三重大病院に行き、調べてもらうと、心臓が止まる

状態が起きたので”正常に作動した”ということだった。

しばらく様子を見ようということで、おとなしくしていた。

 

栄子さんから電話があった。

遠山病院に入院したと聞いた。

すぐ、中井さんと見舞いに行こうと栄子さんに連絡したら、今、

痛みで会えない状態なので、落ち着いた連絡するということ

だった。

 

中井夫妻とぼくとぼくを病院まで車で送ってくれた息子、病室は

個室だったけど、その4人が居るだけで、賑やか感じだった。

「これが、ぼくの娘だよ」と橋本さんにスマホの写真を見せた。

ウンウンというように、首を振るようなそぶり。

そうしたら、中井さん、佳子さんも孫の写真を橋本さんに見せる。

口が利けないから、表情で応える。

栄子さんも、と孫の写真を見せてくれた。娘の一人は、ぼくの

娘と一緒に暮らしたことがある。

橋本さんは、栄子さんを手招きして、何か訴えている。

何か本を・・・見せてやってくれ、みたいなことらしいが、栄子さんが

なんのこと指しているのか分からない。しばらく、やりとりしていたが

「もう、いい」という表情した。

そのころから、気管支が詰まるようになり、息ができないような状態に

なり、看護師さんを呼んで、痰を吸い取ってもらったりした。

 

ぼくらの会話はすべて聞こえている。

酸素吸入器を付けているので、しゃべれない。

目で会話に入っていた。

 

栄子さんは毎晩付き添っている。息子が替わろうかと言ってくれるけど、

「今は、私が」と。

橋本さんには。息子一人、娘3人、孫5人。

みんなに囲まれている。

 

橋本さんは、橋本さんとして生きている。

死ぬまで、生きていると思った。

生きている人は、死を体験できない。

死はいつも、他人だ。

死を人生の完成と見る見方がある。

いまでも、それってどういうことか、毎日の暮らしのどこかに

その問いが潜んでいる。

 

お見舞いの翌日、栄子さんからラインが来た。

ーーすべての人が

   この世に 生を受け誕生し 

   人生を全うする

   ひとりひとり違うように

   人生もその人らしくがいい

   有りのままを認め

   今を受け入れ

   頑張らないでその人らしく

   仲良く

   3日間苦しんだ

   娘の出産の時と今 病気の橋本さんを見ていて

   自分ではどうすることも出来ない 大きな力を感じます。

   この力はもしかしたら愛なのかも

   苦しいとそう思えなくなるけど

   今、いろんな人の愛の中にいるなと思います。

 

今も、橋本さんの手の温もりがつづいている。


遅ればせ成人祝い

2015-12-09 20:16:44 | アズワンコミュニテイ暮らし

遅い昼ごはんのあと、炬燵でウトウトとしていた。

12月8日、3時過ぎ、目が覚めて、ふとスマホを見た。

ラインで豪さんから。

「今日、おふくろさんべんとうのチラシ作成で、ももこが振袖を

着て、モデルをしました。その振袖姿見てもらえないかなあ~?

夕方SCSに行く予定です」

寝ぼけていた。小浪と先ずはSCSへ行ってみよう。

行ってみたら、だあれもいない。

オフィスにいた千恵さんに「振袖のももこ、来てた?」と尋ねた。

「もう、いないでしょ。おべんとやさんに帰ってないかしら・・・」

おべんとうやさんに行った。

泉田さんが言った。「ももこ、いないよ」

小浪、豪さんに電話。

「いま、ももこは美容室にいるよ」

 

行ってみると、豪さんがももこの頭をセットしていた。

「ももこ、成人式をしていないというので、おべんとうやさんの

写真撮影が終わったので、その振袖に合う髪型をつくって

いるんだ。出来上がったら、成人式の写真を撮ってやりたい

んだ。これは、ぼくがやりたくて、やっているんだあ」

そういえば、ももこが成人式の年の1月は、長女の初出産の

ときだった。

豪さんは、神業のごとく、髪をこしらえて、飾りをさしてくれた。

ハンター隣の弁天山公園で、夕日を背景に記念撮影をして

くれた。

きょうは、孫たちといっしょに、ももこの成人祝いをしたいとおもった。

ももこも、うれしそうだった。