かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

真夏の暮らしーー探訪・出会い・研究機会

2015-08-28 09:22:53 | アズワンコミュニテイ暮らし

       

    1、今夏、たくさんの人たちが鈴鹿に来られた

 

6月から8月にかけて、たくさんの人たちがいろいろな企画に参加された。

お互いが出会い、触れあい、ときにじっくり聞き合うこともあり、深い感動を

体験された人もあったようです。

 

昨年夏、なぜ「新しい社会の試み」としてのアズワンコミュニテイへの来訪を

すすめているか、検討したことがあります。

見えてきたのは、アズワンコミュニテイを見てほしいというより、言葉にすれば、

世界中の誰もが願っているような「争いのない、幸せな世界」の実現が

どうしたらできるのか、そこをともに考える機会をもちたい、そのことじゃないか、

ということでした。

その実現のための一つの試みとして、アズワンの試みも参考にしてほしい、

そんな願いがあります。

今年7月、「戦争ができる国」にしようという法律が国会で強行に採決され、

猛暑に加え、さらに熱い非戦の気持ちが湧いてきます。

 

    2、ビジターズステーションチームの発足

 

今年の春、アズワンコミュニテイを訪れる人たちの受け入れをしてきた

メンバーの検討会がありました。これまでも、自発的に自宅を開放して

受け入れをしたいという人や案内をやりたいという有志でやってきました。

自発的な意志でやろうというのはかわらないけど、お互い得意の分野を

もっと生かして、手分けしてチームでやりたいね、となってきました。

期せずして、10人ほどが寝泊りできる一軒家が借りられることになり、

見学や滞在や研究に来られる人たちを受け入れていく体勢が、充実し

つつあると感じます。

 

    3、いろいろな来訪・交流・研究機会

 

アズワンコミュニテイへの来訪については、訪れて来られる人たちの

希望や提案を聞きながら、多様な受け入れ企画ができてきました。

 

〇探訪デイ

 毎月2回、土日に1泊2日でコミュニテイを見学したり、コミュニテイで暮らす

 人たちと交流する企画。

 最近は、2泊3日のコースも出来て、好評です。

 

〇持続可能な社会づくりカレッジ

  ーー コミュニテイづくりは持続可能な人間関係から

 カレッジの期間は3ヶ月。毎月一回2泊3日の研究機会をもっています。

 研究機会とふだんの暮らしを組み合わせて、より深く人間関係の

 本質を探っていきます。

 これは日本エコビレッジ推進プロジェクトチームが、アズワンコミュニテイを

 使って、開催しているものです。このように使ってもらえるのがうれしいです。


〇コミュニテイ交流

 韓国江華島にあるフリースクール”サンマル高校”との交流が5年、

 つづいています。卒業生がその後、長期で交流に来ることもあります。

 

〇サイエンズスクール”マイライフセミナー”

 マイライフセミナーは自分の生き方や各自が願う社会実現の道筋を

 サイエンズを理解しながら、探っていく機会です。

 サイエンズの入門コースともいえます。

 毎年6回ほど、不定期ですが、5泊6日で開催しています。

 探訪デイやカレッジに参加して、湧いてきた希望を実現へと

 一歩踏み出すキッカケをつくっているようです。


〇サイエンズ留学

 マイライフゼミナーに参加された方のなかから、そのあとサイエンズ

 スクールの各種コースに、アズワンコミュニテイの暮らしを体験しな

 がら参加したい、という希望がありました。

 1ヶ月以上、長い人で2年のサイエンズ留学がはじまりました。


   

     4、今年の夏の探訪デイ、多彩な出会いだったなあ

 

〇7/4~5 明治学院大学の教授と教え子、主婦の方3名

コミュニテイスペース”JOY”にて。

お金が介在しない、人のこころが要る空間で話題が弾む。

大学教授のHさん、シリア内戦を人と人の心の解決から、和解に

持って行きたいと熱く語られていました。


〇7/18~20  願いをもちながら社会活動や仕事をするなかで、このまま

           でいいだろうか、2泊3日でじっくり味わって、そして考えることが

           出来たようです。

 

家庭訪問もありました。どんどん安心して、何でも話せるようになり、

これからが広々と見渡せるようになりそうです。

 


〇7/23~27 韓国青年2人、インドで社会福祉の活動をしている。

滞在しながら、インドで困った人たちを支える活動をする自分自身の

生き方に焦点をあてて、考えてみたいとなっていきました。



〇8/12~16 韓国青年5人、生き難さを感じつつこれからの生き方を

         探っていた。

日を追うごとにあけっぴろげになり、その分、自分の気持ちのなかで

はっきりしていないことにも気がつくようになり、サイエンズにも

興味を持つ人も出てきました。


〇8/15~16 「豊かな経済」セミナーでアズワンを知った人と

         大学院で「都市計画」や「町づくり」の研究をしている学生

(感想)

 Uさん「ふつうの町と共存している。みんな自由で好きな仕事している」

 Lさん「人間を尊重して、話して、聴くということを大切にしているように

     感じた」


〇8/17~18 将来、ゆとりのあるコミュニテイを描いている仲間3人


 

(感想)

Kさん「あっという間の1日半ですが、1週間ぐらい滞在した体感です。

    振り返り時間を設けることで、絶えず自分の立ち居地を意識させ

    られる中身の濃い内容でした」

 


    5、韓国の若者たちのアズワンコミュニテイ体験


〇7/1~27 サンマウル高の卒業生の2人。昨年、アズワンで交流した

        今度はもっと長期に暮らしも味わってみたいと、やってきた。



〇7/21~26 サンマウル高校の女の子5人、先生も引率してやってきた。

          どんどん天真爛漫の笑顔になっていった。



    5、持続可能社会づくりカレッジ、参加者同士の深まり


〇この時期は、3期のカレッジで、5・6・7月とやってきた。


第3期3回目のカレッジの日程を過ごして、全期間を通しての参加者の

感想があります。

http://jssc358.wix.com/college#!kansou3-3/c13s5



    6、マイライフセミナーの5泊6日


参加者の感想があります。

http://office.scienz-school.org/?eid=46


    7、サイエンズ留学


7月はじめから、韓国から、岩手から、福岡から、パラグアイから帰国した人、

が、サイエンズ留学をはじめた。

どの人も、マイライフセミナーのあと、もっとサイエンズを理解することを通して、

自分の生き方を見直したり、これから安心して生きていくベースを探りたい

という意欲が感じられる。


 サイエンズ留学については、先に2年間の予定で留学暮らしをしている

 鶴島夕子さんのブログがあります。興味のある方は見てください。

 https://amanakamuna.wordpress.com/2015/08/09/%E7%95%99%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%9B%AE%E7%9A%84%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%BA%AB/    

        


 

 

 

 

 



 

 

   


ラジオ体操

2015-08-25 11:49:46 | わがうちなるつれづれの記

先日、「Home away from HomeーーYKCの思い出」という

小冊子が送られてきた。45年前の同僚、Mさんから。

 


22歳から5年間、ぼくは財団法人海外技術者研修協会横浜研修

センターという、長い長い名前の職場で働いていた。

略称、YKC.

今は、その名前の団体はなく、名前も変わって、装いもあらたに、

いまの時代の要請にそって、続いているらしい。

 

Mさんから、「横浜研修センターの思い出集を出す。宮地さんは

当時のラジオ体操のこと、書いてほしい」と電話があった。

そんなこと、記憶から消えていると思った。

でも、思い出しながら、書いてみると、意外に覚えているもんだ。

思い出したこと、書いてMさんに送った。

それが、出来上がって、ぼくのところに届いた。

 

小冊子を開いてみたら、当時YKCの主事をしていたS氏の手記が

あった。

S氏がインドネシアを訪問した際、30年前にYKCで研修をしたという

インドネシア軍の士官の方から「ラジオ体操の先生は元気ですか?」

と声をかけられたというエピソードが語られていた。

Sさんは、その人が当時痩せていて、華奢な記憶があり、目の前の

恰幅のよい大柄の青年が見違えるほどになっているのに驚いた。

そのときは、ひよこの鑑別の研修をして帰国した。

そのあと、一念発起して、士官の道を選んで、成功したらしい。

 

Sさんは、手記で書いている。

「インドネシアでの所謂エリート層は陸軍と伺っていた。今では、准将か

大将になっているか、あるいは既に引退し、天下りしているかもしれない。

日本、YKCでの生活が彼に大きなインパクトを与えた事実は否定できない。

また、YKCでの出会いは、彼の人生にとって、大きな転換点になっていた

に違いない」

Sさんとの出会いの別れ際、その彼が「YKCの皆様に、そして体操の

先生に宜しくお伝えください」と伝言されたと聞いた。

なんか、それを読んで、こそばゆかった。

 

ラジオ体操の思い出を記録として、載せておきたい。

そんなことも、あったなあ。

 

        ラジオ体操の思い出         

                              2014年8月

 ラジオ体操が好きだったという思い出はない。

小学生の頃、夏休みに眠いのに空き地でやっているラジオ体操

会場に行って、確かに来たというハンコを大人から押して

もらった。ハンコのために、しぶしぶだった。

23歳のころ、一口では言えない名前の団体の横浜研修センター

で働くことになった。そのとき、真山静子さんは食堂で栄養士として

働いていた。ほかに10人ほど若い女性が食堂で働いていた。全員

栄養士さんだった。

「諸国から異国日本にやってきた人たちが初めて接するところなので

手厚く受け入れたい」という空気がなんとなく漂っていた。

そのころは“発展途上国”という言葉があり、そこからの技術研修生

を受け入れて、その国の発展のお手伝いが出来ればという空気もあった。

 

 

ラジオ体操というのは、一人でやったというのではない。

記憶では、100人が宿泊できる研修センターのマイクで全館に

「グット・モーニング!」と呼びかけ、滞在している研修生を

道ずれにする勢いだった。

もちろん、強制ということはない。来たい人が来てもらったら

いいというつもりだった。

誰も来なくても、一人でもやる。そんな覚悟もあったかな。

一人でもというより、自分がやる、やり続けてみようという

気持ちもあったかと思う。(これは、書いていて思い出した)

一人でやろう、ってなことなら、何も朝っぱらから、全館放送

までして、研修生を叩き起こすようなことはしないよね。

じゃあ、なんで、そんなラジオ体操なんてことするなんて、

思いついたのか、今となっては思い出せない。

 

 

毎朝、「グット・モーニング!庭でラジオ体操しましょう」とか

言っていたのかな。

自分のつもりでは、研修生一人ひとりに声をかける気持ちも

あった。

同時に「研修生がこんな全館放送をどう聞いているのか?」

と不安でもあった。

集団行動を促すような、極端いえば軍国日本を思い出させない

せないだろうかと・・・。

放送すると、何人かの人が研修センターの芝生の庭に出てきて、

ラジオ体操第一だけをみんなでやった。

そうそう、なんとなく、「おはようございます。今日一日、

よろしく」みたいな感じもあったかな。

 

 

いつから?

ぼくが採用されたのが、1979年の5月だった。

その年には始めていたと思う。

いつまで?

4年ほどは続いたのではなかったかな。

1974年の秋に横浜研修センターを退職した。

なんかのときに、AOTSの職員がインドネシアで帰国研修生の

人と会ったとき、「あのときのラジオ体操が懐かしい」と言っていた

というのを聞いた。

「へえー」とおどろいた。そんな人もいたのかあ。

 

 

ちょっと蛇足。

1969年1月東大安田講堂陥落。ぼく、授業料2年未納のため

4年生の最後に私立大学除籍。

横浜で新聞販売店に住み込み、朝は新聞配達、昼は日雇いで

働いていた。

5月ごろ、カラダが持たないので、事務仕事に就職しようと

新聞の求人広告を見ていたら、「横浜研修センター」という

のが目に留まり、面接に行った。

1人の採用に20人ぐらいの人がいた。初めて、面接なるものを

した。

しばらくして、「採用します」と連絡があった。

研修センターに住み込んで、施設の管理をするのが仕事だった。

研修生との付き合いは、仕事の一部とも言えそうだけど、自分の

なかでは、隣の人として接したいという気持ちがあった。

 

 

この就職は奇縁だった。

大学のころ、学生新聞を作っていて、そのころベトナムから国費

留学生として千葉大学に来ていたウ・タト・タンくんがベトナム

戦争反対という意思表示をしたことが、本国で問題になり、文部省

から国費打ち切りとなったことが各界で波紋を呼んでいた。

ウ・タト・タンくんを応援していたアジア学生文化協会に取材に

いったことがある。そのとき、田中宏さんに会った。新星学寮という

留学生の寄宿舎も紹介され、穂積五一さんにも会った。

横浜研修センターに就職して、財団法人海外技術者研修協会の

理事長というのは穂積五一さんだと聞いた。

「へえー」とびっくりしたのを覚えている。

 

 

ラジオ体操とこの奇縁がどんな結びつくのか分からないけど、

明治維新以後、アジアとかかわってきた日本人、具体的に

自分、どんなにかかわっていきたか、かかわっていきたいか。

事柄のこともあるけど、どんな気持ちで、というあたり。

それは日本で育ってきた自分の感性を認めながら、これから死ぬ

までのテーマかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


JT生命誌研究館サマースクールに参加して

2015-08-12 07:53:17 | アズワンコミュニテイ暮らし

 

                    1  はじめての体験


とっても暑い。こんなに暑い夏ははじめてじゃない?

8月6日早朝、関西線加佐登駅に小浪に送ってもらう。

関西線で柘植経由、東海道線の草津に向かう。

その日、大阪高槻市にあるJT生命誌研究館サマースクールに

参加するためだ。

http://www.brh.co.jp/event/


 


6,7日と二日間。

よくぞそんな企画に参加しようと思ったものだ。

生命誌研究館は、生命誌という考え方を提唱した生物学者の

中村桂子さんが、20年前に立ち上げた。

そのころ、NHKの講座か何かで、中村桂子さんから、たしか受精卵

から細胞が人間の身体をつくりあげていく話を聞いて、以後中村さん

の著作など読んできた。

生命誌研究館にも10年以上前に見学に行ったこともある。

サマースクールの募集が、間際でまだ空きがありますよ、という

のを知って、何を血迷ったか、思い切って応募したら、「どうぞ」と

いう返事が来た。

ああ、行くことになちゃったあ、自分でそうしたのに。

 

選んだコースは「ハエとクモ、そしてヒトの祖先を知ろうラボ」

だった。

「ヒトの祖先を知ろう」に直感、反応した。

生命誌研究館に到着して、ラボの研究員の小田広樹さんから

実習の内容を聞いて、心底、ビビッてしまった。

「遺伝子から細胞接着を調べよう」

いままで、やったことも、触れたこともないような、とんでもない

世界に立たされてしまうという予感。


       2 冷汗まみれの遺伝子導入実習


遺伝子の記号が書いてあるレジメや、それをこの割合で混ぜるとか

小田さんは当たり前のように説明してくださるが、ぼくのほうは

アタマ、真っ白・・・。

mlの単位の液を吸えるスポイトが何種類もあり、その扱いも説明

していただくが、実際やってみると、扱いがままならない。

中学生の男の子と組んでやった。

彼は、こともなげにやっていく。


ぼくは、研究員の女の人に手取り足取りと言った具合に指示して

もらいながら、励まされながら、冷汗にまみれて、ビーカーに

各種遺伝子など混ぜていった。

そのとき、自分が何をしているか、分かっていない。分かっていない

というのが、また焦りの気持ちになったりした。


今だから、その時何をしていたか、言葉で言える。

「くっつく性質を持たないショウジョウバエの培養細胞に、ショウジョウバエの

くっつく性質をもつ遺伝子”カドヘリン”をトランスフェクションという方法で

導入し、カドヘリン分子を合成させ、細胞がくっつく性質をもつかどうかを

調べた」(ふーっ)


初日は、シャーレにある培養細胞に、いろいろ調合したカドヘリンという

遺伝子を入れて、それを顕微鏡で観察した。

ぼくの場合、その日の最後、2種類のカドヘリンを2つのシャーレに入れて

なんとか実習に区切りがついた。。

研究員の小田さんが、「じゃあ、明日これがどうなっているか、また

見てみましょう」と言ってくれて終わった。

その間、宇宙を彷徨っているような感じだったなあ。


    

   3 「できましたね」と言ってもらったけど・・・


翌朝、一晩たったシャーレを顕微鏡で見てみた。

細胞に色がついているのが見えた。

カドヘリンが蛍光する細工がしてある。

「それが、カドヘリンが細胞のなかに入ったということです」と小田さん。


その後、シャーレの中のものを混ぜて、それがどうなるか?


2種類のシャーレのものを混ぜてどうなるか?


そのたびに顕微鏡の部屋に行って観察した。

 

 その次に、2種類のカドヘリンを内包した細胞を混合させて、それらが

 どうなるか観察したということだった。

その時は、まだピンときていない。

 


最後にその結果の写真を小田さんの指示のもと、撮影した。

 「青の部分と赤の部分が、分かれているでしょう。同じ種類が

 それぞれ集合していることが見てとれますね」

 「はあ」

 そのことがそうらしい、と思う。

 

 

隣に寄り添って、見守ってくれていた研究員の女性から、「うまく

できましたね」と言ってもらった。

「はい」と反応しているけど、ほんとういうと何がうまくいったのか

そのことの意味や意義は薄ぼんやりした夕闇のなか。

 

あとで、小田さんが写真をぼくら一人ひとりに手渡してくれた。

それが、ここに紹介した写真。

今回の体験の記録として、載せた。

 



小田さんにとっても、生物学の世界でも、この実験は画期的な

 発見の証明だったらしいのだけど、それを体験させてもらった

 喜びは、その時はなかった。


その後、この企画をスタッフの藤井文彦さんから小田広樹研究員に

影響を与えた竹内雅俊さんの細胞接着を発見にいたる研究エッセイ

を紹介していただいた。

http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no51/


生き物の豊かな世界の一端にふれながら、そこから真実のものを探究

していく面白さ、楽しさが伝わってきた。

その研究内容については、ついていけそうにありませんが。


     

   4 「カドヘリンのメカニズムと人間社会の間」(妄想)



初日の実習のなかで、ショウジョウバエの幼虫の解剖という時間が

あった。

小田さんは、顕微鏡を覗きながら、ピンセットとハサミで2ミリか

3ミリぐらいの幼虫を解剖して、外皮をひっくりかえしたりして、内臓を

出して、顕微鏡で覗けるようにしていた。

覗いて見ると、なんと一つひとつの内臓が現前していて、透き通って

いて、「ああ、綺麗」

いっしょにこのラボに参加した中学生の男の子は、この解剖にすっかり

嵌ってしまった。


30代の女性とぼくは、小田さんからカドヘリンの構造や、単細胞生物

から多細胞生物に変遷していく過程について、実験・観察・検討・研究

してきたいきさつを聞かせてもらった。小田さんの熱意がビンビン

伝わってきた。



自分が受け取ったこと。

細胞接着のカドヘリンの構造がだんだん「短縮化」していると見える。

「脊椎動物とホヤが、短縮が進んでいる点で同じところにいる」

「へえー」というほかない。

カドヘリンの短縮化ということは、細胞と細胞の間が”べったり”と

ひっついて、自由性があまりないところから、ひっつきかたに

自由性が出てきて、細胞間に動きにゆとりが出てきている。

と、これはぼくの受け取り方。

もう一つ、カドヘリンの性質が細胞と細胞の間のコミュニケーションを

微妙に伝えらるように変化してきているとか。

そして、そういう変化が環境適応性というような理屈で簡単に説明

できるようなものかどうか、小田さんは「自己組織化」ということを

言っていた。


この歳になると、実習は散々だったけど、”妄想”のほうは、身体の

動きが緩慢になる分、膨らんでくる感じがする。

二日目の午後、研究発表会。

実験の発表をする内容は、ぼくにはない。

苦し紛れに、「カドヘリンのメカニズムと人間社会の間」とメモして

妄想を話すしかないと決めた。

実際は、「ハエとクモ、そしてヒトの祖先ラボ」メンバー4人の発表

だったけど、ぼくは最後で制限時間が途中で来てしまい、話したい

ことが最後まで言えなかった。

今思えば、それでよかったかも。


細胞も、その歴史のなかで寄り集まったほうがよいというような

きっかけがあったろう。

人間でも、寄り集まったほうがよいだろうという契機があり、”社会”を

形成していったろうが、どこから一人ひとりの意志以外のもので

集団を統制したり、一人ひとりの意志を縛ったりするようなことが

おきてきたのだろう。

法律をつくったり、裁いたり、罰則をきめたりして。

争いや人と人の間の軋轢はどんなところから生まれてきたのだろう、

いまでは、争うのは当たり前、戦争だって相手が攻めてくるから

やらなくっちゃとなっている。

お金がなければ暮らせないなんて、よく考えてみたら不自然、無理

なことじやないかなあ。


一人ひとりの意志を決して妨げない社会。

社会が一人ひとりの意志を妨げない。

これを実現しようとしたら、一人ひとりの意志がどんなものか理解

し合っていくというのがベースになる。

いま、ぼくらはそのへんのところを試みているけど、細胞と細胞の

間でも、どうもそういう動きをしているらしい。

一瞬、人間社会でそんなことは出来るのかという感覚がでてくるけど

不自然なこと、無理なことはいずれ理のある方へいくのではないか。、

進化の方向も、もしかしたらそういうメカニズム、自由への理がある

のかしらん。

理があるからといって、生身の人間が暮らしている社会が一気に

そうなっていくとは思えないが、人間の知恵を寄せ合えば実現できる

と確信している。


そんな妄想が、サマースクールのなかで湧いていたのでした。


        5 生命誌研究館について想う


サマースクールの開講あいさつで、中村桂子館長から「人間も自然の

一部だということを知って暮らしたい」と聞いた。

シンプルな言葉だったけど、その背後に科学的な、厳しい研究や検証が

あってのことだろうなと、その重みについて想った。


顧問の西川伸一さんが、サマースクール2日目の「科学的とはどういいう

ことか」という問いかけをしてくれた。

中学、高校生に問いかけをした。

大人は答えないようにと、西川さんは口止めをされた。

問いかけのについて、西川さんは自答されていた。

  1)権威を疑う

  2)自分で考える

  3)わからないことは説明しない

  4)他人と同じ結果を共有する

これも、シンプルな言葉だけど、心に残った。


 

最終日の研究発表会で「道端で毛虫がつぶれているのを見て、汁が

でていると思ってたけど、今回ハエの幼虫を顕微鏡で見て、それは

いろいろな内臓だったんだと知りました」といっしょに参加したOくんから

聞きました。

彼はショウジョウバエの解剖に集中しながら、その発見を自らしたのだ

と思いました。

人の成長にとって、こういう発見が大事なんだろうな。

生命誌研究館の目指すところともいえるのかなあ。


二日間、研究館のなかで暮らしました。

こんなことがありました。

顕微鏡の部屋はクーラーがないです。

ぼくらは、小田さんに言ってもらったことを、その通りやっていこうと

必死で聞いて、見つめていた。

気がついたら、小田研究室の研究員の女性のみなさんがぼくらを

ウチワで扇いでくれていた。

その風の心地よいこと。

研究員の人たちからやさしい気持ちを受け取りながら、生命誌研究館の

気風みたいなもの、想った。


この感じは研究員の方たちだけでなく、事務方のスタッフの方、お掃除を

してくれている人たちからも感じました。

人間も自然の生き物の一つ、祖先は一つ。一つが見えてきたら、やさしい

気持ちがわいてくるのでしょうか?


最後にサマースクールの修了証を中村館長さんから手渡してもらいました。

「人間社会についても研究していきますからね」と声をかけてもらいました。


修了証には「生きものについて考え、語り合い、実験に挑み、生きもの研究を

見事に成し遂げられました」とありました。

これからの人生に、何か広がりがもたらされるような気持ちになりました。



 





 


真夏の日曜日

2015-08-03 10:14:55 | アズワンコミュニテイ暮らし

連日の暑さでへたっている。

わが家に居る時は、ほとんどヨコになっている。

日中は、大きな道を渡って鈴鹿カルチャーステーションに

出かける。

用事をしているときは、椅子に座ったりして、タテの暮らし。

わが家との往復では、ヨコになったり、タテになったり、

どちらかといえば、ヨコになったいるときが、多い。

 

頭が猛暑、炎天でいっぱいになっている。

周りの人は、そんなではないようだ。


7月29日、ブラジル青年、ママチャリで四国一周

”お遍路”の旅に出かけた。暑かろうに!


 

おふくろさん弁当7月31日の朝。

活気あふれる。

スペシャルお弁当デイ。

 

8月2日、日曜日、吉田順一さんは、朝早く起きて、伊勢湾に

面した海岸で日の出を見に行っている。

 

関東の千葉で暮らしている永野栄さんは、東京湾だろうか、

朝のうちから、ハゼ釣りを楽しんでいる。

 

ご近所の西島さん、自転車のツーリングでどこか山まで

上っている。

 

最近、鈴鹿に引っ越してきた佐藤慎時・文美夫妻は、滋賀の

風かおるさんちに出かけて、ロケットストーブで昼食。

 

小野雅司さんは、自転車で”すずかの里山”までサイクリング。

ハンモックに身を任せて、森林の空気を吸ってきた。


この日は、窯開きで鈴木英二さんたちが、出来た炭を

品定めしていたとか。

出来具合については、後で、英二さんがたっぷり聞かせて

くれるだろうな。

 

炎天、ハンター隣の弁天山公園ではスズフェス。

岸浪龍くん一家、おお盛り上がり。

 

中島実延一家も太鼓演奏で一役。

 

おやじの会の、おっさんたちは宮妻峡でバーベキュー。

夕子さんとゆいさんも、いっしょにいったとか。


 

おやじの会のほか、ぼくの娘一家もどこかにお出かけ。

FBで、その様子見た。


 

鈴鹿カルチャーステーションでは、午後”サックスとピアノ

真夏のコンサート”が開かれた。

葛原良和さんは、サックス・フルート・トランペットで自在に

その曲の世界に誘ってくれた。

ピアノは田原綾子さん、プロの方で、思わず聞きほれて

しまった。

ああ、こういうコンサートで、「猛暑、猛暑」という世界から

しばし離れることができた。感動。

 

サイエンズ留学で滞している若い女性たちも、参加していた。


夜は花火。山内一家の花火の写真。

 


韓国のユーサンヨンさんのペンションに、増田典子さんが

お母さんと訪問。


地球の反対側、ブラジルでは。

箕輪賢治さんの近況。

 

 

こんな暑い日本や韓国の地域だけど、ゼンプ久美さんが

暮らすスイスのルッツエンでは、もう秋の兆しが現われているとか。

 

 


 

最後は、十六夜月。いざよい月。


満月のあとに出る月のことをいうとか。

月の出がやや遅くなるのを、月がためらっていると見立てたもの。

 今年は、7月31日が満月。

ためらいながらも、出るときは出ようぜ。

それにしても、タテの暮らしより、ヨコの暮らしが心地いいかな。

 

 

 

 


倶会一処(くえいっしょ)

2015-08-01 07:59:32 | 家族あれやこれや

猛暑の日、31日、金沢に墓参した。息子と妻とぼく。

妻は前夫を30年前、すい臓がんで見送っている。

息子はそのとき、5歳。

 

5時間かけて、金沢市内、小山全体が霊園になっている一角に

着く。

霊園前の花屋さんで、献花をお求め、妻は家から根っこごと

もってきた紫ランなど抱えて、前夫の墓所へ。

息子は、霊園のお休み処からバケツに2杯、水を持ち上げた。

 

妻は、もってきた紫ランを墓石の周りに植えた。

息子は、墓石を丁寧に、隅々まで水でこすって洗った。

墓所は大きな木の陰になっていて、涼しい。

墓の前は土で、コケが一面に張って、まるでしっとりした

絨毯のようだ。

そこに生えている草をぼくは引いた。

 

墓の前に花が飾られた。

「お母さん、花の茎をきらなくっちゃ」と息子。

最後は、息子が決めた。

 

お線香をあげて、それぞれ墓に向かって手を合わせた。

息子の心中はどんなだったか?

妻の心中は?

妻の前夫とぼくは、5年間いっしょに暮らした。

長屋の隣同士というときもあった。

仕事でも繋がっていて、よく助けてもらった。

「息子をこれからも、生きている限り、どこまでも

みまもっていくつもりだよ」と伝えた。

 

息子はお休み処で、一服。

車で待っていたけど、なかなか帰ってこない。

車の向こうに「倶会」と書いた石碑が目に入った。

 

息子は、お休み処のむくの木のテーブルと椅子の

ところで、感慨に耽っているようだった。

ときどき、風が通り過ぎて、心地よい。


息子の座っているところに行く。

「倶会って、あそこにあるだろ?意味わかる」とぼく。

「いいや」

「スマホでしらべたんだ。阿弥陀の極楽浄土で仏や菩薩と

一処に出会うという意味らしいよ。先祖とも」

「ふーん」

「ということは、亡くなったオヤジさんとも会えるってこと

だろうね」

「ふーん」

「でも、死んでから会えるなんてんでは、なんかさびしいね」

とぼく。

 

それから、息子とぼくは、ぼっつら、ぼっつら、今とこれから

について、ゆったり話した。

できれば、今が極楽浄土へ一瞬で入れるし、今に一瞬で

戻って来れる、そんなんだったら、いいなあ。

これは、二人、「そうだよね」

「そうしたら、ときには、浄土のオヤジと語り合ったり、遊んだり

しながら、そういう楽しい気持ちで、これからそうするかな、

こうしようかな、まあそんなんでやったみたら、みたいな感じで

今に戻って、来れるかもね」

 

帰りの車のなかで、こんどは妻も入れて3人で話した。

そのなかで、息子がポツリ、つぶやいた。

「オレって、ずっと、みんなといっしょにやりたかったんだよな」

聞いて、思わず込み上げてくるものがあった。

この一言に込められている、息子の真実ともいうべきものに、

正直たじろいだ。

そのとき、これが見えていたら。

いま、ここをたよりに、倶会するのかなあ。

 

帰途、夕日が、真っ赤に燃えて、比叡山の山すそに落ちよう

としていた。それを追って、京都方面に向かう草津サービス

エリアに突っ込んでしまった。

しばし休憩して、瀬田東で下りて。再び名神高速に乗り、

草津から新名神高速に入った。

進行方向にまんまるのお月様が見えた。

「わあ、満月!」

何か、3人、神妙な気持ちに一瞬なったように感じた。