今日も、何事もなく一日が過ぎた。でも、なんとなく、どこか変、物足らない。
日常化レッスンにて。
牛丸「ぼくが書けと言ったというけど、それって冗談でしょ?」
ぼく「もちろん・・」(と言ったあとで、さて・・)
きょう、何件か声をかけられた。
「韓国サンマウル高一行受け入れのレポート、書いてほしい」
「PIEESSの広報の打ち合わせに来てほしいけど・・」
「牛丸先生講演会の進行、やれないかなあ」
それぞれ、「はい」と言ったり、「いや、別の用事があって」とか応えている。
どれもこれも、検討しなかったら、あたりまえの会話として、通りすぎていっただろう。
「はい」とか、「いいえ」と受け応えているけど、果たして受け応えになっているのだろうか?
先ず、相手の人が、なにを思ってそう言っているか、聞こうとしているか?
相手の人が言ったことを、じぶんの捉え方で、それを「そうだ」として、それについて「はい」とか、「いいえ」と言っているのではないか。この回路については、頭では何回も理解している。でも、その回路
でじぶんが受けとっているにすぎないことを、相手の人が「そう言っている」とうけっとって、「そうだったら、じぶんはどうしよう」と一瞬のうちに、「する」「やる」という段階で反応をはじめている。 「聞くは先ず、聞く」
牛丸さんが「書け」と言った。ぼくは「書け」と受け取った。じぶんが捉えた「牛丸さんが書けと言った」だということが意識できていたら、じぶんはこう受けとったけど、実際はどうか?と聞き返せるはず。
そうしたら、牛丸さんが思っていることも聞けたり、思わぬ背景も知ったりするかもしれない。それで、「わかった」とはならないと思うけど、すくなくとも、話し合いながらやっていこうというベースができるのではないか。
声をかけられた。
言われた。
頼まれた。
人が発していることを、どんなに聞いているか、受けっとているか?
言葉の使い方というより、人とかかわるときの自分の状態について、
この観点から、見てみたい。
聞くだけでなく、言うというときも、それを発するときのじぶんの状態は?
なにげなく、日々が過ぎていっているようにかんじているが、もしかしたら、日々過ちの積み重ねかもしれない。
日常化レッスンにて。
牛丸「ぼくが書けと言ったというけど、それって冗談でしょ?」
ぼく「もちろん・・」(と言ったあとで、さて・・)
きょう、何件か声をかけられた。
「韓国サンマウル高一行受け入れのレポート、書いてほしい」
「PIEESSの広報の打ち合わせに来てほしいけど・・」
「牛丸先生講演会の進行、やれないかなあ」
それぞれ、「はい」と言ったり、「いや、別の用事があって」とか応えている。
どれもこれも、検討しなかったら、あたりまえの会話として、通りすぎていっただろう。
「はい」とか、「いいえ」と受け応えているけど、果たして受け応えになっているのだろうか?
先ず、相手の人が、なにを思ってそう言っているか、聞こうとしているか?
相手の人が言ったことを、じぶんの捉え方で、それを「そうだ」として、それについて「はい」とか、「いいえ」と言っているのではないか。この回路については、頭では何回も理解している。でも、その回路
でじぶんが受けとっているにすぎないことを、相手の人が「そう言っている」とうけっとって、「そうだったら、じぶんはどうしよう」と一瞬のうちに、「する」「やる」という段階で反応をはじめている。 「聞くは先ず、聞く」
牛丸さんが「書け」と言った。ぼくは「書け」と受け取った。じぶんが捉えた「牛丸さんが書けと言った」だということが意識できていたら、じぶんはこう受けとったけど、実際はどうか?と聞き返せるはず。
そうしたら、牛丸さんが思っていることも聞けたり、思わぬ背景も知ったりするかもしれない。それで、「わかった」とはならないと思うけど、すくなくとも、話し合いながらやっていこうというベースができるのではないか。
声をかけられた。
言われた。
頼まれた。
人が発していることを、どんなに聞いているか、受けっとているか?
言葉の使い方というより、人とかかわるときの自分の状態について、
この観点から、見てみたい。
聞くだけでなく、言うというときも、それを発するときのじぶんの状態は?
なにげなく、日々が過ぎていっているようにかんじているが、もしかしたら、日々過ちの積み重ねかもしれない。