10月27日村田秀剛と旧姓元田悠美の祝婚の会が開かれた。
秀剛は再婚した妻小浪の長男。悠海さんは、元田和之・容子
夫妻の4人の子どものうちの次女。
会場はご近所の無花果農家の内田さんが経営するカフェの庭。
秀剛は、将来農ある暮らしを描いている。鈴鹿に隣接した亀山
地域を選んだ。新居探しをしていて、内田さんに出会った。
会の料理は、亀山にあるトラッテリア・ユリテルロのオーナー
シェフが受け持ってくれた。
ウクレレをもった青年たちが演奏してくれた。プロのウクレレ奏者
”しげちゃん”もこころに響く旋律で秋の空気を震わせてくれた。
新郎新婦の登場と退場は、二頭立ての馬車だった。
ご近所の馬場の主人が協力してくれた。
内田さんは、会の裏方で動いてくれて、最後に技を磨いている
少林寺拳法まで披露してくれた。
秀剛が内田さんに出会ったのは、今年に入ってからだろう。
いつの間にか、近所づきあいができている。不思議な男だ。
秋の日射しを浴びて、ご馳走に舌鼓。
列席の、二人の仲間や親族の人たちも、ゆったり、まったり。
二人の仲間の祝婚の合唱。
会の流れはあるのだろうけど、誰かが進行するでもなく、
ときどき新郎新婦が動くと、立派なケーキが出てきたり・・・
そういう秀剛を見ていて、母小浪。「秀剛らしい・・・」
ケーキは、悠海ちゃんの仲間がつくってくれた。
どこにも力が入っていない、あとであの会はなんだってんだろう?
と思ってしまうような・・・そうそう、秀剛と悠海の門出の祝い。
* * *
秀剛の実父村田亘さんは1983年にガンのため他界した。
母小浪とぼくは、1986年年結婚した。お互い、再婚だった。
小浪は、ぼくのほうの二人の息子・娘の母になり、ぼくは
小浪の二人の息子の父になる。
秀剛、小学3年生。ぼくの息子太郎と同学年。
村田一家と僕ら一家は、いまから35年ほど前、集団生活を
していて、たまたま部屋が隣同士だった。
よく村田さんの部屋に酒を飲みにいっていたらしい。あんまり
覚えていない。小浪は記憶にあるらしい。
村田さんは、建設部で設備の仕事をしていた。ぼくは、鶏肉の
肉処理をしていた。毎朝5時前、ボイラーを着火させて、鶏の
放血・脱毛して、一日がはじまっていた。
ボイラーが着火しないときが、しばしばあった。その度に、
村田さんを部屋まで起こしに行っていた。
その頃、乳牛を導入して、牛乳の冷却・殺菌が喫緊の課題に
なっていた。アイスビルダーという設備が求められていた。
お金も無かったが、自分たちで作ってみせるという心意気が
あった。村田さんは、それにかけていた。何回も失敗した。
村田さんは、「ダメだ」と言わなかった、そんな記憶がある。
秀剛の父になり、その村田さんの代わりができたか、と
問われたら、とても心許ない。
母小浪を支えて行きたいと、再婚当時思っていた。
それが出来たかと問うても、どうだったか。
小浪の記憶は、厳しいものだった。
秀剛は高校生の頃、林業に打ち込んだ。
林業の師匠瀧本さんから多くを学んだ。
それが、いまの秀剛を支える、なにかになっているか。
たしかになっている。
仲間も居た。見守ってくれる人たちもたくさんいた。
そういうときに感じるのは、秀剛の心のなかに実父村田亘さんが
しっかりと居て、それがいろいろな環境がありながらも、彼をここ
まで育んできた、そんなふうにもいえるのかな、と。
秀剛・悠海の門出に、乾杯。