かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

映画「風立ちぬ」を観て

2013-07-25 07:58:32 | アズワンコミュニテイ暮らし

 映画館がワーナーなんとかとかいうようになり、画面がでっかい、

音響もドーンと迫ってくる、余程のことがないかぎり、行くことが

なくなった。

 先日、なにをおもったか宮崎駿の映画「風立ちぬ」を見に行った。

 余韻がいまも尾を引いている。

 

 大正12年の関東大震災から日本が中国、アメリカとの戦争に

流されていく時代。

 当時の時代の街や人々の様子がリアルに描かれていて、

懐かしくも、リアルな背景画を追っていくだけで、十分満たされた

かんじがした。

 背景画になみなみならぬ気迫のようなものをかんじた。

 なにかを表現しようとしている・・・・なにを?

 

 心に残るのは、主人公の二郎が飛行機にかける熱情、

最愛の菜穂子への深い愛、というほかないもの。

 その二つとも、実際の日常の暮らしのなかでは、さま

ざまな現象として現れているのだろうけど、内面世界は

目では見えない。

 映画では、目には見えないけれど、実質、そこにあったで

あろう、そこにどこまでも焦点を当てていた。

 戦闘機をつくりたかったわけではない、飛行機に夢中

だったんだ。

 菜穂子を死なせたいわけではない、その時の真実を

大事したかっただけなんだ。

 

 健康を損なう、時代がどうしようもなく戦争のようなことに

突入する、そのいずれも、人の知能でなんとしても、無くして

いきたい。

 それでも、なお、そのことをどこのところから、願うのか、

人として、自分はほんとうは、なにをしようといているのか?

 じぶんのなかにこたえがあるのだろうか。

 

 「風たちぬ、いざ生めやも」

 

 青年のときに読んだものが、もう一度、あらわれてきた。

 人々の気持ちが平和に倦んできている感じもするとき、

内面でなにがおきているか、もっと関心をもっていきたい。

 なにやら、分からぬ、余韻のなかにいる。

  

 


なにを大事にして生きているか

2013-07-24 07:33:57 | わがうちなるつれづれの記

 朝のまどろみのなかで、ぼんやりかんがえた。

 人は、なにをしようとして、生きているのだろう?

 

 国のことを四六時中考えている人は、人を大事にする

といっても、二の次になるかなあ。

 会社の利益のことを第一に考えてる人は、人のこと

は二の次、三の次になるかなあ。

 お金がなければ、お金さえあればと、いつもお金のこと

から頭が離れない人は、人が大事だなんて、かんがえら

れるかなあ。

 「これはやらなくちゃ」とか「これはすべき」と強く

思っている人は、人の気持ちを大事にできるかなあ。

 自分の考えを大事にする人は、人を大事にするって

いっても、その人の実際に関心が向くだろうか。

 

  ここまでは、日曜日の選挙投票日の翌朝、フトンで

ゴロゴロしながら、かんがえた。

 今朝、目が覚めたら雨だった。雨音はなにか落ち着く。

スズメがチュッチュッ鳴いている。カラスかな、寝起きの

あくびみたいな声が聞こえてくる。

 涼しげ。散歩にでる。傘さして、ゴム草履に半ズボン。

傘に雨があたって、籠ったような雨音。溝の土手に小さな

薄紫の花が咲いていた。そっと、そこに咲いていた。

 

 自分を大事にしたい。

 それと同じぐらい、人を大事にしたい。

 そう思ったら、そうできるか、そうできているか?

 ここが、どうもそうではないらしい。

 

 じぶんが、良かれと思ってやることが、相手には

迷惑だってことがある。

 

 人を大事にするって、どんなことだろう?

 

 鈴鹿に引っ越してきて、2年余。

 どこかで、ずっとそのことをかんがえているかな。

 一人でもかんがえているし、そこを見ていきたいという

仲間ともかんがえている。

 まわりに、そういう仲間がいるのは、とっても居心地

がいい。

 

 社会が変わる。

 といっても、社会というものが自分の外にあって、

それをなんとかしたら社会は変わらるのだろうか。

 社会といっても、じっさいは、人と人の関係の

仕方にあるのではないだろうか。

 

 人と人の関係の仕方、これがどのようなものか。

 そこをかんがえるには、人とはどんなことか、と

なってくるようにおもう。

 

 「こうだ」とかんがえに結論をだすことではないように

感じる。

 それぞれが、またお互いに、このことが安心して

話し合える状態がほしい。

 それが、社会が変わるというとき、はじまりになる

のではないか。まどろっこしいと感じる人もいる

かもしれないけど。

 

 人の実際、見えているものと、見えていないけど

実際にあるもの。

 人と人の間柄、その実際、見えているものと

見えていないけど、本来の姿。

 

 唐突かもしれないけど、アホかと言われてしまう

かもしれないが、こんなことおもうときは、子どもたちが

公園の砂場で遊んでいる様子が浮かび上がってくる。

 どの子も約束とかルールもないのに、めいめいが

思い思いに、好きなように動き、だれがどこに加わって

きても拒むことがない。

 

 こんな世界は実現するか。

 方法をもってすれば、実現できるとおもうのですが、

どうでしょうか。

 遠回りのようでも、順序よくやっていけば・・・・

 

 あっ、雨はまだ少々降っている。涼しい。

 

 

 


鈴鹿の里山 炭焼き窯まつり

2013-07-22 10:59:34 | アズワンコミュニテイ暮らし

  鈴鹿と亀山と隣り合わせにある徳居(とくすい)町。

 谷津田の囲む里山の一角。

 炭窯づくりがいよいよ大詰め。

 7月21日、炭窯の天井になるところに赤土をならして、

寄ってきた人たちで窯たたきをする行事が、なんとも

いえない、ほっこりするような感じであったのさ。


 

 この日、朝から南伊勢町で炭焼き暮らしをしている

炭焼き名人右田翁はじめ、楽農会の面々8人ほど

かけつけた。

 さあ、みんながやってくる前に赤土を均して

窯の天井のかたちを整える。右田翁の作品に

仕上げる大事なとき。

 もちろん、鈴鹿の炭焼き窯プロジエクト、地域創生みえの会の

メンバーも汗流す。

 

 やがて、近所の親子づれ、地主さん、議員の

人たち、地元新聞の記者さん、老若男女。


 さあ、それじゃ、右田さんの歌にあわせて、窯たたき

をはじめましょう。

 右田翁、力まないけど、心のこもった、歌をしづかに

歌いはじまたんだね。

 木槌で土を固める。たたくと、地がしまるのが、土の柄を

とうして伝わってくる。

 ドン、ドン、ドン。もう一つ、ドン、ドン、ドン。ヨイショ!

 大地に根付いて、いるんだなあ。ちっちゃい子は手の

ひらで土をペタペタ。

 子どもは、大地となかよし。

 大人だって、大地と触れてるのは、心和むぜ。

 

 みんなでやるから面白い。
 ショッ、ショッジョジ、ショジョジ ノ ニワ ハ・・・・

 きんきんキラキラの森の中・・・・

 みんな出て、来い、来い、来い・・・

 さあ、これからだよね。


ちょっとしたこと

2013-07-20 08:29:01 | アズワンコミュニテイ暮らし

 朝、倉庫兼パソコン室で、インターネットを見たいたら、

妻が「せんぷーき、ね!」と持ってきて、つけてくれた。

 この部屋はクーラーがない。妻と共用している。

 扇風機は、ときどき台所にいったりして、あちこち移動

する。

 そのときは、わがパソコン室にはなかった。

 

 そんとき、なんとなく「うん」と言って、ちょっぴり心地が

よかった。

 こんなこと、いままであったかな?

 

 インターネットが一段落した。

 食堂にふらりと出ると、妻が台所で、コンロの前で、

鍋のなかのものをかき混ぜていた。羊羹らしい。

 身体がふわりと、というか自然というか、パソコン室に

もどって、扇風機をもって、流しの奥にいる妻にむけて

風をおくった。

 

 たったこれだけのこと。

 なにか、いままでのやりとり、呼吸とちがう。

 いままでって?

 お互い、会話の受け応えに、「エッ」とか、「ナニー」とか

言うに言われぬ、積年、積み重ねてきた、われら夫婦の

リズムというものがある。

 そのリズムは、いちいち、「ウッ」とつっかかるような

 

 ある日、突然、そんな感じがなくなった。

 といっても、いままでがそれぞれ、どんなところでやって

いたか、じぶんをもっと深く知らないと、またいつ、

いままでのリズムにもどるやら。

 

 この感想かいているとき、妻が洗濯ものをもって、

パソコン室に入ってきた。

 第一声「なんでこんなところに、脱いだ服、置いとくわけ?」

 トゲトゲしいものは感じなかった。

 妻の口調がそうだったのか、ぼくの受け取りがかわったのか。

 ここんとこは、しずかにふりかえらないと・・・

 

 夫婦の間の会話のリズム。

 お互い、相手に求め合うような、あのねっちこい感じ。

 これは、本来の姿とはいえない、とおもう。

 霧が晴れる、清澄明朗の大気の下、暮らせる世界が

あるはず。

 先ず自分からだし、妻とともにだし、そんなのが当たり

前の社会気風を描いていきたい。

 

 


はたけ公園の黄昏

2013-07-17 06:47:24 | アズワンコミュニテイ暮らし

 日中の暑さがやわらいだ。

 ポツポツと雨のしずくが落ちてくる。

 夕方、はたけ公園に向かう。

 毎週日曜日夕方”サンデイ屋台”の日。

 

  「えっ、それって何のこと?」

 「はたけ公園広場にカマドをつくる。薪でご飯を炊く、料理を

する。食べたい人が食べに来る。なんといったらいいか、屋台横丁

のイメージ?石油にたよらないで暮らす、人が寄って、ご飯を

たべる。そんな場?」

 昨年10月から、毎週日曜夕方、ときどき休んだりしたけど、

厳寒の冬でもハウスのなかで、続いてきた。

 

 7月14日、はたけ公園の黄昏、雨は本降りにならず、

仄かに涼しさを感じさせる風をおくってくれる。

 広場の丸テーブルには、男五人、ご夫婦一組。

 いずれも団塊の世代人。

 本日のメニュー、カレーと釜ご飯。災害時も炊き出し、の如し。

 カレーはOさん。コクがある。釜ご飯は、Nさん。なにか、うまい。

 

 とりとめもなく、座っている面々。

 K「りっちゃん、福島だったけ」

 R「うーん、そこは生まれただけ、暮らしたのは北海道」

 M「北海道はどこ?」

 R「網走・・・」

 一同「へえー」(きっと、網走番外地の歌と高倉健が

立ち上がっている?)

 R「お父さん、土建屋でね、服役の人も使っていたみたい。

渡世人みたいな人もけっこう出入りしてた」

 「そう・・・」だれともなく。

 

 M「Fさんとは、どこで知り合ったの?」

 R「名古屋よ。なにかの会合のとき、いかにも食べるものも

食べてないという感じでいたんで、かわいそうとおもったわね」

 F「あんときゃ、飯場で寝泊りしてた」

 

 Kさん、三杯目のカレーのお替りに行く。

 K「ぼくは、清水建設で働いていたことある」

 一同「・・・・」

 だれか「京都大学出て、清水建設かあ」

 だれか「それが、いま、ここにいる」

 

 O「オレは若い頃は設備会社でやっていた」

 なにかのキッカケで、戦前の731部隊の話題に。

 O「若いころ、東京新宿の現場に仕事で入っていた。地面を

掘っていたら、人骨がでてきた。石井部隊で人体実験していた

ところだったらしい。1ヶ月、ぶらぶらして過ごしたなあ」

 「そんなことも、あったの?」何人か。

 

 頭の上に張った寒冷紗がゆらりゆらり揺れている。

 だんだん、周囲は薄暗くなってくる。

 

 OさんとNさんは、今日の昼、ご近所の子連れ親子

50人余の人たちといっしょに、大豆まき、スイカ割り、

釜ご飯、カレーを食べた。

 この二人、そしてぼく、このはたけ公園広場がどんな

使われ方していくのか、ぼんやりだけど、描いている。

 どこからともなく山のほうから、涼風が広場にやってきて、

たわいない、われらがおもいをのせて。海のほうに運んで

いく。


 今日は、鈴鹿の里山では、南伊勢から炭焼き名人、

右田翁が泊まりがけできていて、釜の天井をきめる、

一番大詰めの日。そこでは、団塊世代の、もの好きが

3人ほど、右田翁の手元でやって、ついにあと一歩

というところまで、やってきた。

 里山の連中は、ヘトヘトになっていた。

 「ああ、もうなにもかんがえたくない。横になりたい」

Tさんは早々帰路へ。

 

 ときどき、頬をなでていく風をかんじながら、ぼくも一日を

ふりかえる。

 昨夜、兄からメールがきた。「叔母が亡くなった」

 子どものころ、母とは違っていても、身近な人だった

 

 翌日朝から、サイエンズスクールが主催している

「マイライフミーテイング」に参加。東京、岐阜、石川

などから参加している人もいる。20人ほど。

 この1ヶ月、じぶんのなかでどんなことがあったか

出し合った。

 「なにをした、というより、どんなじぶんだったか?」

 

 食事の時間は、はたけ公園の子ども企画を見に

行く。カレーをいただく。

 子どもたちが、スイカやキューリにかぶりついているのが

印象に残った。

 

 午後は、朝に引き続いて、「マイライフミーテイング」

 

 いろいろやったなあ、いろいろなことがあるなあ。

どうなんだろう、あれやって、これやって、次はなんだっけ、

忙しい感じが、あるかなあ。

 飛躍してしまうけど、孫なんか見ていると、あれやって、

これやって、というような、そう予定のようなものないんじゃ

ないか。

 そのとき、そのとき、そのことに没頭している。没入している。

 その姿って、どんなんだろう。

 なにか、根本的なちがいを感じる。

 

 黄昏につつまれる、60余歳のわれら、これまで、何かをして、

生きながらえてきた。

 いまも、忙しそうに、あれやって、これやって、と老体に

ムチを打つがごとく、動き回っている。

 こころのなかでも、なにやかやと、おもうことが浮かんだり

消えたり。

 なにをしようとするこれまでだったのだろう。

 なにをしようととするこれからなのか。

 

 はたけ公園広場は、お互いの顔がぼんやりするほど

薄暗くなっていた。

 だれともなく、皿を片付かはじめた。

 Nさんが、「そうそう、スイカがあったんだ」と出してきた。

 それを、すすった。「うまい!」

 それぞれ、家路についた。

 西の空は、まだ日が落ちきっていないのか、遠く

ほの明るかった。