かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

偶々、ここに

2016-08-11 10:23:11 | わがうちなるつれづれの記

小学生の3,4年のころだったかな?

親父とケンカして、家を飛び出した。

「こんな家に金輪際帰って来ない」と心に叫んでいたのを鮮やかに

覚えている。

と言って、行くところもない。

隣にある曹洞宗の本山総持寺の境内に寝転がって空を見上げていた。

空は高く、雲も流れていたかな。

ふと、「何でぼくは偶々、このおやじ・おふくろのところに生まれたんだろう。

なんで、この日本なんだろう。ブラジルやほかの国ということだって、あった

んじゃないか」

とっても、不思議な感じに見舞われた。

こういう感じは、何かのときに、ときどき湧いて来た。

 

皇太子と美智子さんの結婚式のテレビは、近所の散髪屋さんで、

見せてもらった。わざわざ、「見せて」と行ったと思う。

1959年4月10日だったから、ぼくは小学6年だった。

美智子さんは、子どもから見ても美しかった。

語り口は、ぼくらにはない品のよさを感じた。

子どもながらに、人として仲睦まじくあるお二人に好感がもてた。

今から、思うと、そのなかにも、これから皇室という仕組みや

伝統のなかで、苦労されるのかな、という見通しみたいなもの、

子どもとはいえ、あったかもしれない。

偶々、皇太子は、物こころがついたら、皇居にいた、ってなことか。

 

先日の明仁天皇のお言葉は、皇室で生まれて、育って、後継を

自分の意志とかかわりなく負って、82歳までお過ごしになってきた

なみなみならぬ、感慨がにじみでていた、とうけとった。

庶民感覚からいえば、親がどんな家柄であれ、職業であれ、それを

継ぐかどうかは、子どもの意志がベースになると思っている。

歌舞伎役者など、子どものころから、後継を託されて育てられている。

皇室もそれと同じといえば、同じかもしれないが、後継するものが、

憲法や法律で規定されているところが違う。

 

明仁天皇の今回のお言葉では、「象徴の天皇として、どのように行えば

いいかを考え、模索してきた」と述べられた。

これは、自分の意志にかかわりなく置かれた立場のなかで、ご自身の

意志として、主体的にやられてきたことだと思った。

 

皇室について、どこかで思っていることは、制度というより、そこで暮らして

いる人たちが、品格を感じさせる人たちだなあということ。

テレビでよく出てくる、政治を担う人たちとは、別の世界の人たちに

感じる。

今の日本で、こんな皇室があることが、現象面では、一つの救い

になっているかも。

 

それでも、一人の人の人生が、自分とはかかわりない、法律とか

決まりごとや、慣習で縛られているのは、これからの人類にとって、

すすんでいく方向ではないよう思う。

皇室の人たち自身が、思うところを自由に発言できて、それを

うけとる周囲の人たちとの、自由な話し合いによって、すぐにではなくとも、

いずれそれぞれが思うがままに暮らせる皇室、そのときは皇室という

ものがどうなっているか分からないけど、皇室が醸し出している

品格のようなものが、庶民にも受け入れられる社会に様変わりしていない

だろうか。

偶々、日本と言う土地に生まれた者の妄想です。

 


百日紅

2016-08-11 06:25:06 | アズワンコミュニテイ暮らし

ずいぶん前、といっても15,6年前、炎天に咲く百日紅に思いを

馳せたことがありました。

見ていると、炎天が厳しくなればなるほど、あの縮れた紅色の

花をこれみよがしに咲かせているように見えました。

他の、いきものは暑さに息をひそめているらしいのに・・・。

この花を見ながら、Hさんを思い出しました。

周囲環境が厳しくなればなるほど、生き生きとする感じでした。

つかず離れず、厳しい時期をぼくといっしょに越えてくれた

思い出がありました。

Hさんが死んで、20年以上になります。

 

7月後半から連日、35℃を越える猛暑が続きました。

何かをしているわけではないのに、息が切れる感じがありました。

夜も、咳いているような状態で寝れないときもありました。

8月はじめ、病院の定期診療に行きました。

「心臓に負担がかかっていますね。心房細動もあります。

利尿剤を増やしましょう。疲れたときは、ゆっくり休んでください」

そんな診断でした。

外界の暑さと、じぶんの体内で何か起きていることが、じかに

つながっている感じがしました。

気持ちの上では、やれるというようなときも、ここしばらく、

しんどいときは休んでみようと思いました。

 

座っているのもしんどいときは、横になります。

横になり、扇風機の風にあたっていると心地よいです。

冷房は付けたり消したりします。

はじめは長いすで横になっていましたが、最近は布団を敷いて

そこで横になっています。

テレビはつけたまま、音だけ聞いているときが多いです。

 

天皇の言葉のときも、ウトウトしていたら、はじまっていて、途中から

見ました。

寝ながら聞いていました。

聞いていて、天皇が即位してから、国民の象徴としての天皇は

何をするのか、これを全身全霊で模索しながら、実際にも日本全国を

回られて来たんだなあと思いました。

こういう気持ちではないかとは、思っていましたが、天皇ご自身から

聞くと、また伝わってくるものがありました。

慰霊の行事や旅も、はっきりとした考え、信念があり、実行していたんだ

なあと感じました。

慰霊のときは、いつも日本人が戦場で亡くなったことと、この戦争で

犠牲になったアジア諸国の人たちへの慰霊も忘れていなかったです。

 

正直、他の人はどう感じているか分かりませんが、日々、ぼくらの手が

届かなところで、戦争の準備が当たり前のように、着実にすすんで

いるのをひしひしと感じます。

老人は、身体が思うようにうごかなくなると、妄想がいっぱい出てくる

といわれています。

横になりながら、そうしていたら心地がよいとかいいながら、自分の

周囲の人たちや、これまでかかかわってくれたすべての人たち、日本

地域はいうに及ばず、諸国の人々、それのもっと・・・

何が出来るわけではなくなっている感じがしますが、必ず、これから、

争いや対立のない、当たり前の暮らし、しあわせな暮らしが出来る

社会におのずからなっていく。そういう妄想を色濃くしていきたい。


天皇の言葉は、炎天の百日紅のようでした。


 

 

 

百日紅の俳句


「青天に 咲きひろげゝり 百日紅」  正岡子規

「又しても 百日紅の 暑さ哉」  正岡子規

「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅」  加賀千代女

「百日紅 浮世は熱き ものと知りぬ」  夏目漱石

 「炎天の 地上花あり 百日紅」  高浜虚子

 

 

 

 

 

 


味の記憶

2016-08-10 19:05:15 | わがうちなるつれづれの記

息が上がっている。

昨日は利尿剤を増やして、一日部屋で休んでいた。

今日はすこしマシになった。

 

昨日は横になりながら、一日テレビを観ていた。眺めていた。

内閣改造、東京都知事の小池百合子の話題が多かった。

それに、北朝鮮がノドンミサイルを発射して、日本の近海に落ちたとか。

 

ここのところ、食欲がない。

夜、NHKで、”きょうの料理”をやっていて、ボーッと観ていた。

四国の”ナスそーめん”だとか、鹿児島の”鶏飯(けいはん)”だとか、

いかにも日々の暮らしから工夫されてきた料理の紹介があった。

「あれ、食べたい」と妻を振り返る。

妻は長いすに横になって、もうウトウトしている。

 

「もう、先長くないと分かったら、どんなもの食べておきたい?」

なんとなく、そんなこと考えていた。

そうでなくとも、あんまり食欲がないとき、何が食べたいかとなって

でてくるのが、意外と子どもころ食べたやつだったりする。

 

「湯豆腐」と妻に言ったことがある。

「鍋に水をはって、豆腐を入れる。鍋の真ん中に、薬味をいれた

醤油のタレがあって、それぞれは豆腐をつまんで、タレをつけて

食べるんだ」と説明した。

何回か土鍋などで、その試みをしてくれたけど、子どものころの

あのタレの味とみんなでつっつく醍醐味は醸し出せなかった。

しごく簡単、単純、質素なものだったけど、何か温まるものがあった。

 

いつも腹を空かしていた。

でも、その分そのものの旨さやそれを兄弟で競って食べた記憶が

今から思うと、味があった。

 

冬の朝は納豆と決まっていた。

兄妹3人で分けて食べる。

最後に、どんぶりに残ったネバネバにおこげのご飯を入れて食べるのが

最高の味わいだった。記憶では、他の子に負けないようにしようと

していた。

秋口に白菜を大量に漬けていた浅つけの白菜がおいしかった。

 

すき焼きのメニューのときは、おふくろが「時間に合わせて帰っておいで」

とか言ってくれていた。

すき焼きの肉は、ボロ雑巾のように、縮れてくしゃくしゃしていたけど、

たまに食べる肉に興奮していた。競って食べる。兄や妹がどんなふうに

食べていたか、思い出せない。まして、親父など。おふくろは、ほとんど

食べず、ご飯をよそっていたと思う。

一切れの肉でご飯がどれほど食べられるか、ぼくはそういうことに

気をおいていた。

そんな肉がおいしかった。不思議だけど、いまで牛肉を見ると、

くしゃくしゃしたところが旨いと固持しているようだ。

 

肉には飢えていたと思う。

そういうものは、まともには食べられないと思っていた。

我が家の数軒先にあるとんかつやさん。一度も入ったことが

なかった。

成人して、厚さが1センチ以上もあるとんかつをはじめて食べた

とき、腹を壊すんじゃないかと思った。

 

うなぎやも、学校に行くときの商店街のなかにあった。

いい匂いをいつもさせていた。

落語じゃないけど、匂いだけで、まるまる食べたことはなかった。

 

これも不思議だけど、「死ぬ前に食べてみたいもの」というなかに

とんかつとか、ビフテキとか、うなぎの蒲焼など、そんなに浮かんで

こない。子どもの暮らしには縁がなかったからだろうか。

 

そうだなあ、言えば秋刀魚、それも七輪でじゅじゅじゅじゅと焼いて

油が滴るようなやつを、フハフハしながら食べる。

それも、一番の好みは秋刀魚のはらわただった。脂ぎっていて、

ほろ苦い味、他に代えがたい。

落語の「目黒のさんま」には、おおいに共感していた。

 

肉のことでいっても、そういえば肉本体より、内臓系に好みがありそう。

子どものころ、肉といえば鯨だったけど、レバーが好きだった。

鶏だったら、断然、皮のところ。

鮭でも、どちらかというと皮が旨いと感じる。

 

豆類に目がないな。

納豆は、その筆頭かな。残念ながら、いまは血液さらさら、ワーファリンを

飲んでいるので、食べていない。

金時豆は、大好物。これは、死に際でも食べたい。

良く炊けて豆をかみ締めたとき、醸し出すあの旨み。。最高。

子どものころ、この豆とベーコンと合わせて炊いた、料理が我が家で

ときどきあった。

親父がブラジル移民で8年過ごしたときの郷愁の料理なんだろう。

大人になって、それが、ブラジルの主食フェジョンらしいと知った。

 

わが家では、母がときどきぜんざいをつくってくれた。

どういう気分のとき、つくってくれたか分からないけど、物がない

貧しさのなかでも、小豆の旨さと甘みは、とっても心豊かに

させられた。

あの味は、いまでは難しいかな。

 

母、おふくろといえば、海苔巻きやお稲荷さんのときが嬉しかった。

海苔巻きを巻いていると分かると、台所に行く。

おふくろの手元をじっと見ている。

巻いたあと、端っこを切り落とす。

その端っこをさっと失敬して、口にほおりこむ、この旨さ。

向田邦子のエッセイ「父の詫び状」の中に、苦労人の父が

海苔巻きの端っこが好きだったというエピソードがたしかあった。

父を理解しようとしていなかった向田さんが子どものころの

父を通して、父を知っていくささやかな挿話なんだなと思った。

向田さんの父上が身近になった。

 

食べ物のことで書けばきりがない。

てんぷらは大好きだ。生野菜は苦手だけど、てんぷらにしてもらうと

なんかおいしく食べられる。

その日のてんぷらもいいけど、翌日とか、それを甘辛く煮て、トロトロ

になったのをご飯にかけて食べるのが好きだ。

こればっかりは、食欲がないときでも、けっこう食が進む。

天カスが好きだ。

味噌汁に入れてもいいし、かけうどん、かけそばには欠かせない。

とくに、うどんの汁に天カスが溶け込んで、汁とテンカスがヌルヌルに

なったところが絶品だと感じる。もう、やめられない。

以前は、それをすすりつくしていた。いまは、やめている。

東京では、かけうどんに天カスをいれるのを、たぬきうどんと言っている。

大学のとき、新聞をつくるサークルにいて、いよいよ印刷するというときは

印刷所にいって、最終のチェックをみんなで夜更けまでやる。

そのときは、「たぬきうどんライス」が定番で、そのときの旨さは忘れられ

ない。

 

まだまだ、食べ物のことをいえばいろいろある。

もうやめよう。

味というけど、そのものの味もあるけど、そのときどんな風に食べたか、

それも大きな味の記憶の要素になっているなあ。

サルから分化して、ゴリラ、チンパンジなどに枝分かれしていくけど、

そのうちゴリラは食べ物を食べるとき、食べること自体以上に

仲間とともに食べることに価値を置いているらしいという観察記録が

ある。(山極寿一さん)

読みながら、わが身を振り返り、なつかしいものが湧いて来た。

 

 

 

 

 

 

 


責めがない

2016-08-01 09:28:15 | アズワンコミュニテイ暮らし

きのう、サイエンズ留学生の暮らしのミーテイングがありました。

ヨッシー(26歳)の話がおもしろかったです。

先週は、ご飯炊きをやった。ある日、最初から最後まで一人でやることに

なった。初めてだった。

やってみたら、その日の分を300食分を余計につくり過ぎていた。

「失敗したあ」という気持ちが出てきた。

でも、周りはの人たちは、ぼくを責める感じがなく、すぐに余った分

どうしよう、と考えている感じだった。

自分はそっちには、関心がいっていないなあと思った。

ヨッシーは「責められなかった」に感じいっていた。

和貴さんが、周囲に責める空気がないと、考えやすいね」と言った。

熊井さんが、「そんなときは、他の人から責められなくとも、自分で

自分を責めたりするんだよね」と反応していた。

 

そうしたらヨッシーがボソリと。

「責めないと、責めがないって、ちがうんだよな」

 

聞いていて、ハッとするものがあった。

「どういうことだろう?」というものが湧いて来た。

これって、おもしろいなあ、と思った。

こういうことは、これまでも聞いたり、自分でも言ったりして、分かっている

つもりになっていたかもしれない。

聞いて、「あれ、そこんとこ、どんな風になっているかな?」

「こうなんだよな」という答えがほしいのではないらしい。

いえば、自分はどんな世界に立っているか、生きているか、暮らして

いるんだろう?、という問いかけのようでもあった。

 

こういうことは、一人部屋のなかで考えていても、自らに問うのは

難しいように思う。

このミーテイングに参加して、そこに座っていれたからこそ、かなと

おもいました。

 

「責めがない社会」が実現したら、一人ひとりの人がどんな現れに

なるか、少しかいまみることができそうです。

「責めのない社会」への道筋を研究していきたい。