かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

どんなことしてるのかなあ

2011-02-26 15:47:44 | サイエンズスクールのある暮らし
 昨夜の「レッスン」では、じぶんの実例を出しそびれた。
 一つ目。
 妻「ストーブのタンクは、ぶら下げると、灯油がこぼれる!」
 ぼく「ぶら下げて、持ってこなかった」
 二つ目。
 ぼく「ふだん、はくズボンって、三本だけだよな」
 妻「知らない、あんたが一番知ってるんでしょ」
 ぼく「・・・(知ってるでしょ!と言われたところに反応している?)」
 一つ目。
 妻は、なにを言いたかったのかな?
 二つ目。
 ぼくは、なにをいいたかったのかな?


一瞬のできごと

2011-02-24 15:43:42 | サイエンズスクールのある暮らし
 パソコンの前にいる。画面を開いて、はじめかけていた。そこに、妻からの声。「ねえ、布団、取り込んで」一瞬、ぼくは「やらん!」と声にだした。日常の当たり前の会話ともいえるし、じぶんのそのときの気持ちを出しただけだともいえるかもしれない。でも、「やらん!」と即座の反応をしたじぶんに、ちょっとひっかかるところはあった。
 日常化レッスンで、吉田順一さんが、恩田さんから「灯油タンク、そこで洗ったらいいよ」と聞いて、「いや、洗わない」と反応したことについて、「どうも、なにか変なんだ」みたいなことを言っていた。「順ちゃんは、なにが、いいたいのかなあ」と聞いているうち、自分の場合、「取り込んで」と「やらん」の反応の、その瞬時の間に、ぼくのなかで、どんなことが起こっているのか、急に焦点が当たった感じがした。
 「やるか、やらないか」というふうに妻が言ってきた、と聞いている、とらえているのかな。とっさに出た反応から逆算したら、そういえそうだ。
 じゃあ、妻は、じっさいそういうことを言ったのか?
そう自問したら、「そう言ったと聞いた」とは言えそうだが、「言っってきた」とは言いにくい。
 「そう言ったと聞いた」んだったら、「じゃあ、どう聞いたのか?」
「やれ」と聞いた。
 


ブログに写真をいれるのだ

2011-02-23 11:25:09 | アズワンコミュニテイ暮らし

 今朝、小野雅司さんに手ほどきを受けた。「実際にやってみないと身につかない」と聞いた。一人でやってみる。たしかに、迷路にはまった感じ。やっと、3枚入れてみた。

 韓のくにからやってきた娘、四人。
 今頃、どうしているのでしょう。

左から、イエピンさん、イノックさん、小野みゆきさん、ウンソさん、ジュンユンさん。

「なにができるのかしら?ちょっと、心配だけど」

弘子さん、それってどういうことですか?」

韓のくにからようこそ

2011-02-23 08:06:04 | アズワンコミュニテイ暮らし
 韓流ブームは日本で続いていると感じる。
朝鮮半島のことを「チョウセン」というとき、なにかちょっと微妙に気持が揺れる。半島の南地域を「韓国」と呼び、それは平常心でいえるようになった感じがする。小学生のころ、「李承晩ラインで日本の漁船が拿捕された」というニュースをたびたび聞いた。暗い海と揺れる波のイメージで韓国が染まった。いまは、北の地域を「北朝鮮」と呼ぶとき、なにかの感情というか、漠とした色が恐ろしげなメロデイーとともに、こころに滲み出すのを感じる。一瞬のことで、じぶんでどうすることもできない。
 韓国というより、韓のくにといったほうが、ぼくにはシックリする。日常の会話では使わないかもしれないけど。言葉としては、韓国の人たちは母国語を「ハングルマル」(韓国語)と言い、北朝鮮の人たちは「チョソンマル」(朝鮮語)と言っている。もとのところで、ちがいはないのではないか。南と北の交流の経過のなかで、重なっていくのだろうと思う。海のむこうの出来事ですませられるかなあと思いつつ。
 
2月9日午後、ユー・サンヨン(柳相湧)さんを通訳にして、韓のくにから8名の方が鈴鹿にやってきた。12日朝まで、サイエンズ研修所に宿泊して、アズワンコミュニテイの施設や人たちに触れた。
到着日の夜、自己紹介からはじまった。
 ○8名のうち2名は江華島から。
 ユン・ヨクンさん(尹汝捃)49歳  
以前、鈴鹿に滞在したスンニさんの父上。
   キムチ工場の経営をしながら、地域活動をしている。
 ソ・ジョンフンさん(徐正勲)47歳 
「コン・セアル」という会社を経営。
    “コン”は豆。“セアル”は三つ。豆、三粒播いて、二粒は虫    や鳥が食べ、残り一粒を人が食べるという民話から会社の名前    をつけたと聞いた。社員26人。
  ○6名は韓国YMCA連盟や地域の活動家の方たち。
  イ・ピルグさん(李強九)50歳?  
    全国連盟で仕事。今回の訪問メンバーの世話役。
    お酒は一滴も飲まない、飲めない。飲んべえ仲間の中にいて、    最後まで付き合える人。人と話しを聞きとる容量が広くて、深    いのかなあ。感心した。
  イム・ウンギョンさん(林恩慶)女姓44歳   
    全国連盟。21年のキャリア。消費者問題南北関係、共同組合へ    のかかわりと幅広い。顔合わせで、「いっぱい学びたい」
  キム・ヨンマンさん(金容満)44歳   
    全羅北道地域にある鎭安市(チンアン)で、農産物直販店や     小単位のコミニテイ―づくりにかかわる。
  ハン・ヒョリムさん(韓孝任)女姓 29歳
    同じく鎭安市で、青少年の教育にたずさわる。
 ユンパク・ギョングさん(尹朴京)女姓 40歳?
    元YMCAで活動。昨年まで、パルダン生協に所属して、漢江流域    で有機農業をしていた。漢江の巨大開発をやめさせる運動もし    てきたが、具体的問題を解決していくやり方には限界を感じて    いる。居住地、学校、地域が連携するコミニテイーづくりに関    心がある。
  キム・ユウチュル(金有徹)39歳
    京畿道安養市(アニャン)で村づくり、街づくり、青少年教     育にかかわる活動をしている。


左から、ユーサンヨンさん、ハンヒョリュムさん、イーピルグさん、イムウンギョンさん、ソジョンフンさん、ユンヨンクンさん、キムユウチョルさん。下を見ているのが小林耕一くん。
 
こうして聞いてみると、韓国各地で活動している人たちが鈴鹿の地で顔を合わせたともいえなくもない。歳を聞いていると、50歳前後が4人、あとは40歳代の人たち。(ハンさんは20代でしたが。)50歳前後というと、小野雅司さんや坂井和貴さんたちと同世代。
 韓国では、いっとき世代論が流行ったらしく、1960年前後に生まれた人たちを第一新世代、1970年前後に生まれた人たちを第二新世代と呼んでいたそうだ。韓国の第一と第二がそろったことになる。
 第一新世代は、朴軍事政権のあと政権を取った全斗煥時代に20歳になっていた。全羅南道光州市で起きた光州事件をはじめ、この時代に生きたことの記憶は彼らのこころにさまざまな形でいまに引き継がれているように感じる。
 
今回来訪された人たちは、江華島(カンファトウ)やソウルで韓国各地で、いろいろな社会運動を実践してきている。近代化を急ぐ韓国社会のなかで生じる具体的な諸問題に対処するためにやってきたが、やってきてどうだったかと立ち止まって考えてみるところにきているようだ。
 懇談会で、ユン・ヨンクンさんから「人間自身、どういうものかに関心をもっている」と聞いた。ユンさんは事業家であり、1992年のアジェンダ21の地域リーダーでもある。

 イー・ピルグさんからは、「共同体というと、“連帯”のイメージがついてくる。一人ひとりのこころのじっさいを見たら、内に向かっていく力と外に広がっていく力と、そのバランスのなかにあるのじゃないか。そういうところから社会をしらべてみたい」(そんなように聞いた)
 イム・ウンギョウさん。「人と人との関係に関心がある」彼女は、YMCA韓国連盟の活動をつくってきた人らしい。その人から発せられた、この言葉のもとは・・


 ソ・ジョンフンさん。「じぶんは暮らしと生産の現場でずっとやってきた。ここが、一番難しい。人と人とが通じ合わない。人間自身がじぶんを見ない」彼は、経営上の難問に直面している。どう、そこを乗り越えるか。26人の社員といっしょに。「人に合わせて考えていきたい。その人の中にあるものをその人が発見し、それを周囲が応援する。そんなことができる社会・・」

ユンパク・ギョンクさん「活動の事柄中心の生き方では、やれないと考えはじめている。
じぶんはじぶんとして生きていく。1000人いたら、1000人の成長や豊かさがあると思う。」
彼女は、社会運動に傾注してきた。いまは、その前のこと、それをかんがえたり、進めようとしているじぶん自身について、見てみようとしているように感じた。

 1971年2月だったと思う、同僚の先輩と二人で韓国に10日ほど旅行したことがある。ぼくは24歳。発展途上国の技術研修生を世話する団体にいて、視察という名目だった。韓国は朴政権時代で、戒厳令下にあった。クラブでお酒を飲んでいても、12時前になるとパッと照明が明るくなり、客も店員さんも一気に帰り仕度に入る。店からでると、タクシーやバスが猛スピードで走っている。酔いも覚めるほど。ドキドキとホテルに帰ったのを思い出す。
 朝は、同僚と町の路地を歩いた。食堂に入ると、労働者風の人たちが、小さいやかんから白い汁を湯のみに注いでいる。味噌汁を飲んでいる人もいた。白い汁は、マッコリという酒だと知る。酒というより、どぶろく。口当たりは、はじめあっさりしている。やかんいっぱい飲み終わる頃、「あれ、なにか変だぞ」酔いがまわりはじめる。働く人は、朝これをひっかけてから、仕事にでているのかなあとその時、思った。
 訪ねた先の韓国サラムはよく酒を飲んだ。浦項製鉄所の近くの会社だったか、日本で研修されて帰国した生産部長さんを訪問した。夜は、町のクラブに繰り出した。12時近くまで飲んで、部長さんと別れ、ぼくらはホテルに戻った。朝は、例によって町の路地を散策した。ぶらぶらしていると、屋台のような飲み屋の客のなかに、昨晩別れた部長さんがいたのだ。
思わず「昨晩から、飲んでいるんですか?」と聞く。部長さんがどんな様子で、どんな反応があったか、もう詳しく思い出せない。ただ、「飲み方が生半可なものじゃないなあ」ということと、「部長さんといっても、一人の庶民で、庶民のなかにいて“くに”を興して行くぞという気迫のようなものをもってるんだなあ」と思った。当時の韓国を歩いて、正直、じぶんが暮らす日本から比べたら、20年遅れていると思った。でも、会った人たちから感じた生きることのエネルギーはぼくのこころに深く刻まれたように思った。
 この韓国旅行は、韓国のことを知らないままのものだった。1964年、大学入学のころ、日韓条約反対のデモがあった。傍観者だった。大学除籍のあと、技術研修生を世話する団体に就職して、韓国からの人たちをたくさん受け入れた。浦項製鉄所の稼働準備で研修生が来た時、その人たちと親しくなり、韓国語を習ったりもした。旅行では、溶鉱炉も見せてもらった。その後、韓国は政治の民主化と並行して、一躍近代化がすすんだようだ。
 韓国の風景として、当時のぼくの印象は、「緑がない、赤土の山肌、土を盛った墓が妙に目立つなあ」だった。あとで、それがどういうことかすこしづつ分かってきた。日韓条約というものも、どんなものか、おぼろげながら知ってくる。朝鮮半島という位置から起こってくるさまざまなことどもにも、思いがはせる。日本が過去、やってきたことなど。そして、今。

 三日目の朝、サイエンズ研修所で懇談会があった。野尻四郎さん、中井正信さん、小林耕一くん、中野敏美さん、小林照子さんが参加した。
 江華島のユンさんやソさんから、アズワンカンパニーについて、かなり突っ込んだ具体的な問いかけがあった。
 「経営方針はどのように決めていくのか。意思決定のしくみを知りたい」
 「話し合いで決めると言っても、違う意見があったり、意見が一つにならないときはどうするのか」
 「仕事の配置はどうやってきめるのか」
 「給料はどうやって決まるのか。以前は50万円もらっていた人が最近10万円になって、やれているという話を聞いたけど、どうなっているのか」
 「会社経営としては、どうしても利益を求める。求めなかったら、存続できないと思う。アズワンカンパニーはその辺どう考えているのか」
 こんな感じの問いかけだったかなあと思いだす。

野尻四郎さんが、「まあ、その、なんだけど・・・。あのー、えーなによ~」とか言いながら反応していた。「また、はじまったぞ」とはじめ聞いていた。ところが、知らない間に車にギアーがはいったように、熱がこもってきた。アズワンカンパニーは、株式会社と言う形をとっているけど、利益を求める会社とはちがう。一人ひとり、しあわせになっていこうというコミュニテイの人たちがつくったもの。だから、利益をもとめるのではなく、一人ひとりのしあわせが目的だ。それには、先ず人が人を尊重する基盤が要る。人と人との話し合いで、物事がすすむ。物事をすすめることに重点を置くのではなく、話し合える状態になって話し合えているか、そこに重点を置いている。人がその人として、成長するとか、豊かになっていくという時、(ちーと直接的でないかもしれんけど)、それが欠かせない。そこに力いれてるんやけど・・・
 四郎さんの語り口が、かなり流暢だったので、聴き惚れてしまった。以上は四郎さんから聞いたことをぼくなりにアレンジした。それにしても、こんな四郎さんには、はじめて触れた。
 ユンさんは、四郎さんの話の間、目をつぶって聞いていた。ソさんもじっと四郎さんを見つめていた。ぼくには、四郎さんの話が参会の人たちのこころに響いているように見えた。

 それにしても、韓のくにからやってきた人たちはよく飲んだ。初日の夜も近くのセブンイレブンに買い物に行っている。そんなに早く寝たとは思えない。2日目は、中井さん宅で中井さん“謹製”のどぶろくを囲んで、アズワンコミュニテイの住人と懇談した。中井宅から宿泊先の研修所に戻ったのは11時前。そこで寝るというふうにはならない。3時ごろまで、話していたのか、飲んでいたのか、ユーサンヨンさんが翌朝もらしていた。サンヨンさんは
朝食というより、水をよく飲んでいた。最後の夜は、小野雅司さんが10時ごろ研修所に行って、感想とかこれからの話を12時ぐらいまでしたと聞いた。そのあとも、2時過ぎまで、飲んでいたんじゃないかとは早めに帰った小野さんの話。
 
40年前の韓国の旅を思いだしている。ぼくが会った韓国サラムの酒の飲み方は半端ではない。酒を飲むというとおなかに入って、酔うとなる。韓国サラムはおなかというより、おなかをささえる身体の芯に注ぎこむと言った感じ。それも、底にしみ込むように飲んで、そして酔うとでもいえばいいのか。地方都市の路地の屋台で明け方まで飲んでいる部長さんの面影がぼんやりだけど浮かんでくる。あのとき、韓のくにで感じたこと・・意外に強く印象ずいている。そのとき、部長さんの内面を知ることはできない。また、いま今回来られた人たちのこころのうちも、わかっているわけではない。
 自分の中に感じている韓のくにの人々、ぼくはつかず離れずでつきあっていきたいなあとおもっているらしい。

牛丸仁先生「日本人のふるさと観」最終回を聴講して

2011-02-21 08:00:32 | 鈴鹿カルチャーステーション企画に参加して
 最近、牛丸先生に童話が一つ、出来あがったそうだ。信州の童話誌「とうでのはた」が最終号を迎えるので、「ぜひ」と依頼があった。「とうでの・・」「遠出の旗」とぼくには聞こえた。あとで、先生が信州大学教育学部に在学していたとき「とうげのはた」という同人誌を出しはじめたというから、「とうで」ではなく、「とうげ」「峠?」かもしれない。でも、「はた」は、果たして「旗」か?
 
「誰か旧き生涯に安ぜんむとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思えるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」
 先生が通った高校の校長室に島崎藤村の直筆の額がかかっていた。校長室を掃除して、終わった時、はげ頭で髭の校長から「きみ、この文読めるか」「意味わかるか」と声をかけられた。身体が縮みあがりながら、校長の御言葉を拝聴した。
“新しき言葉は新しき生涯なり”
その頃、先生のこころのなかに満ちていたなにかに、光が射したのだろうか。「私の文学開眼の原点でした」と話された。
 言葉になる前に、なにか、その人その人のなかに、その人の生涯を日々新たにするように問いかけてくるいのちの発光源のようなものがあるのだろうかと思った。
 
講演の中ほどで、テイータイムが入る。
ふるさとを歌った歌謡曲を話題にした後だった。古賀政男の曲をクラッシック歌手荒川ゆみさんが歌っているCDを持ってこられていた。「人生の並木道」を聞いた。
 “泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けばおさないふたりして
    故郷を捨てた甲斐がない“
 荒川ゆみさんが古賀作曲の譜面に忠実に謡っている、こぶしも細かくゆれていて、息の継ぎ方もおかしなところで切らないと先生の解説。
 “あんな おんなに みれんは ないが”
「日本語の“ん”には、NとMの二つある。知ってるかなあ。この歌詞では、“おんな”の“ん”がMなんだな。荒川ゆみはそこを正確に歌おうとしてる」テレビの歌謡番組を見るけど、歌手のダメだしがおもしろいんだとうれしそう。
 “酒は涙かためいきか・・”
これは、美空ひばりが歌うのが人気ある。「じぶんの感情を入れて歌っている。楽譜どおりだと、大衆に響かないんだね。」
結局、20人分テイーが運ばれてくる間、古賀メロデイーを何曲も堪能した。参加者は60歳前後の人たちだった。ぼくは聞きながら、そのほとんどのメロデイーを知っていて、それが体内に入ると、なにかある感情が引き出されてくるのを感じた。普段、眠っているのに、「おいおい!」と揺り起こされた感じ。それも、いっぺんにその感情に包まれてしまう。
これって、なんだろう。
 
 牛丸先生の講演“ふるさとシリーズ”、前回は参加しなかった。その時、“一人ひとりのふるさとを語る品物を次回持参するように”という宿題があったらしい。
進行の坂井和貴さんから「だれか、持ってこられた方・・」と声かけ。
 吉田順一さん、「はい」と前へ進み出る。埼玉の深谷で生まれ育つ。小学5年の時、父を亡くしている。息子にじぶんの将来の夢を託したといわれる、亡き父が作曲した歌のテープを取り出す。利根川のある風景のなかで、人々が手をつなぎあって心豊かに暮らしたいという願いが格調たかく謳われているようにかんじた。いまの吉田さんがあらわれてくる源の一端を感じた。
 川瀬典子さんは、木でできた、旧かなの百人一首を見せてくれた。書かれてある字は、とっても読めたものではない。これを取っ組み合いになるほどに、取り合う遊びだったらしい。それが、好きだったらしい。幼少期、北海道釧路の横町を札取りに渡り歩く少女だった。
15年の戦争で父母、失う。20年後に実弟に出会った時、この百人一首の、好きな札を言っていくと、奇しくも弟と同じだったと・・典子さんは、「因縁」と表現していた。いまの典子さんを、日々新たにしていく「因縁」というものがあるのだろうか。

 「路地の入口」という、平成5年信州の放送局で放送されたテープを聞く。牛丸先生が書かれたエッセイの朗読だ。その文のプリントは手元にあったけど、耳だけで先ず聞いた。聞き終わって、先生は、「この風景は私が6歳のころ、じっさいにあったものなんです。」ということと、「この町は上松町なんだけど、火事はじっさいにあって、みんな無くなってしまいました」と付け加えられた。「これで、おわりです」とか聞いた。「あれ、それだけ」と, 物足りなく思った。
帰ってから、「路地の入口」が気になって、そのプリントを読んでみた。放送の朗読の声とプリントの文字が重なる感じのところがあった。文字で見ると「なまこ壁」って、どんなものか、そこで止まってしまう。わからない。でも、土蔵、黴、苔、どれともわからない緑と読みすすむうち、「子どもの肺活量の限界寸前で光の中に出る」で、あっ、いつのまにか子どもの目線の世界に入っていたじぶんに気がつく。
「どこへ行っても、通りすがりの道に、路地の入口を見つけると、そこへ踏み込めば、過ぎている時間の隙間が見つかるのではないかと、ふと立ち止まってしまう癖がある」
“路地の入口”って、どんなことを言われているのだろう。
“過ぎている時間の隙間”って、どんな感じのことだろう。
時計が刻む時間のながれから、人生をふりかえるとき、「ああ、なにをしてきたんだろう」と空しく思うときがある。どんどん時は前へと疾走している。
人の悲しみに出会う感じのときがある。人がそこにあらわれている光源のようなものにふれたような感じのときがある。じぶんでも、さびしくて闇にとざされているようなむこうに思わずいのちの源といえばいえるようなおだやかなものがありそうと感じるときがある。
駅前の商店街に生まれ、育ったぼくのなかの風景、決してしあわせいっぱいのものではない。でも、ふとしたときに、その風景の前のたたずんでいると感じるときがある。それは妙になつかしく、こころやすまる感じがするものだ・・これは「入口」?