かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

金時豆が好きだ!

2016-04-30 18:30:41 | わがうちなるつれづれの記

この冬は、ホント出無精だった。

周りでは、いろいろな動きや暮らしがあったようで、ラインやFBなどで

近況が入ってくるけど、炬燵に寝転びながらただ眺めているような

こころ持ちだった。

 

4月の後半妻がある日、温泉と蕎麦を食べに行こうと誘ってくれた。

こんなとき、「うーん」と、行くのか行かないのか、行きたいのか

行きたくないのか、漠としてとりとめもない。

「どうするの?」

「うーん。温泉は行きたい、蕎麦はもっと食べたーい、でも出かけるのが

なんとなく面倒・・・」

「いつならいいの?」

これまた、漠としたこころ持ちになる。

いつでもいいような気もするし、スマホのスケジュールカレンダーを

見ながら、幾つか行けそうな日時があるんだけど、「この日!」という

のがなかなか決められない。

やっと決めても、どこか「ほんとに、ぼくは行くんかなあ」と自分で

自分がたよりない。

妻小浪は、自分が行きたいというのはもちろんあるだろうけど、

わが立ち居振る舞いを身近に感じながら、外に連れ出そうという

プランを立てたのかもしれない。

口には出さないけど、有難いと、心の奥のほうでつぶやいている。

 

妻の運転で、午後、伊賀の温泉に行く。

心臓に植え込んである除細動器が昨年作動して、医師からもう

大丈夫と言えるときまで、運転は止められている。

これ幸い、なのか。うーん、今は、そんな感じかな。

温泉はよかった。

来るまでは、オロオロしてた割りに、実際、来てみると

「ああ来て、よかった」となる。

炭酸水の温泉なるものがあった。

血行を良くするという効能が書いてあった。

その湯船には、たくさんの人が入っていた。

しばらく待って、空いたところに入ってみた。

炭酸水の温泉の効能が現れるには5分以上、10分ぐらいは

浸かるのがよいと説明があった。

5分以上経ったころから、腕とか赤みを帯びてきた。

いきつけの温泉では、湯上りで身体が赤くなったことはなかったなあと

思った。

湯上りは、心地よい。

温泉の玄関を出たときは、晴れ晴れと清清しい。

「さあ、蕎麦屋」と車に乗り込んだけど、妻、忘れ物したといって、また

引き返しなかなか帰って来ない。

 

やっと、温泉から少し離れた、行きつけの蕎麦屋に行った。

夕方、駐車場には車が一台も止まっていない。

入り口の看板に、「今日の夜の営業は休みます」と書いてある。

「ありゃりゃ」ときどき、こんなことがある。

これまでの経験から、いろいろ「どこにするか」と迷って、ほかのお店に

入っても何か満ち足りないものが残ったりする。

「そんなのはやだなあ」

「もう帰ろう」と、ぼくははっきり言った。

妻は、「せっかく来たんだから」と帰るとは言わない。

「名張に食べてよかった蕎麦屋があるので、そこに行こう」

スマホでその店を探し、電話して、7時までに着いたら、

食べられると約束を取り付けた。

そのとき、6:30。

お店まで30分はかかるという。夜道である。行き方も定かでない。

「おい、行って道に迷ったりして、行き着けなかったり、着いたとしても

閉店だったら、目も当てられない、やめよう」

妻は、「行くわ」と、ここはきっぱりしていた。

蕎麦屋目指して走り始めた。

妻の気迫に呑まれたと感じた。

「よし、その店に辿り着かなくても、食べらないことがあっても、恨みツラミ

は言うまいぞ」

 

車は街から上り下りのある里山の中に入っていく。

日が沈み、周囲は暗くなってくる。

二車線の舗装道路が続いている。坂道を上ったら、街が見えるかと

思うが次の坂が前方の闇のなかに浮かんでみえる。

「おかしい、これでいいかな」妻がつぶやく。

長い時間に感じた。心のなかがザワザワしている。

口には出さない。

そのうち、山ん中にある集落で、「このへんかな?」となり、そこらを探すうち、

古民家に蕎麦屋ののれんを下げている店に辿り着いた。

7時を過ぎていた。蕎麦屋の主人は「やりますよ」と入れてくれた。

お蕎麦とてんぷら。

てんぷらは、時期の山菜もあって、てんこ盛り。

蕎麦にも満々足。

あのザワザワはなんだったんだろう。

それにしても、妻のあの気迫はどこから湧いてきたのか、いまでも

何だったろうと、忙しそうにしている彼女の隣で日々過ごしている。


 

それから、何日かたって、妻がまた、温泉と蕎麦コースに行こうという。

たまたま、高崎夫妻に会ったそうだ。

先日の体験を話したら、いっしょに行こうとなったらしく、「いつにする?」

と言う問いかけだった。

ちょっとオロオロしたけど、妻はどうも、あの夜、ぼくが「高崎にも食べさせ

たいな」と漏らしたのを覚えていたらしい。

また、2回めのお出かけの逡巡をした。

結局、今度は名張温泉、蕎麦コースに高崎夫妻と出かけた。

行く前や、行く道すがら、ほんとに行くんだろうというこころ持ち。

温泉に入ったら、心地よくなる。

「ああ、来てよかったなあ」

蕎麦屋に向かう車のなか、高崎の奥さんに、何の脈絡もなく、

「みゆきちゃん、金時豆食べたいなあ」

以前、なんども金時豆煮を作ってもらっている。

「要求してるんかな?」とぼく。

「要求してるんでしょ」乗り合わせた人たち。

 

 

翌日の夕食、金時豆が届いていた。

みゆきちゃんだと妻が言う。

夕食をすべて食べた後、デザートのように金時豆だけを一粒づつ

食べる。それが金時豆の食べ方の流儀だ。

食べたあとに残る一粒一粒の豆のコク、その旨みの余韻。

「ああ、金時豆が好きだ!」

あっという間に、一皿腹に治まった。

 

 

 

 

 

 

 

 


新緑のいなべ散策

2016-04-24 11:05:51 | わが健康生きがいづくり三重の会記録

                 1 、遠足気分

桜が散って、新緑の季節に様変わりしている。

大気も温もってきている。身体中に血がめぐっていると感じる。

この日、4月23日、健生みえの会の老人たちが、いなべ市の

三岐鉄道沿線をピクニックして、阿下喜(あげき)温泉に行く。

 

夜、あまり眠れなかった。

当日は、阿下喜駅(あげき)10時集合だった。みんな車で行くという。

ぼくは、電車で行くと伝えた。

平田町駅7:30~伊勢若松~桑名~西桑名~阿下喜駅9:30。

「あんた、もう起きたほうがよくない」7:00前、妻から声かかる。

もし、一人なら、「今日は止めとこかな」となるような気分だった。

妻が、平田町駅まで車で送ってくれた。

 

陽は射していたが、うす曇。薄ら寒くも感じる。

途中の駅で、若いカップルが電車を待っていた。

電車が止まると女性のほうが乗り込んだ。

電車のドアが閉まると、二人は互いに目配せして、手を軽く振った。

何か、二人の間に、ほのぼのとした恋心が微かに

ただよっているように感じた。

一瞬、自分のなかにも、忘れていた感覚が蘇った感じがした。

さっき、駅まで送ってくれた妻に「ありがとう」って言ったとき、ふと

恥じらいのような、新鮮な気持ちがふくまれていたかも、と思った。

 

       2、三岐鉄道を行く 

 

西桑名から、三岐鉄道に乗る。

単線で、レールも小幅で、車両も狭い感じ。遊園地のお猿の電車?

おとぎの国に運んでくれる?

家の間近かを走ったり、途中庭先の端を行くときはスピードを落としたり。

カーブが多いし、線路が緩やかに上下し、視界が広がる麦畑をゆったり

と走ったりしていた。

駅名も一筋縄では読めない。

昔、朝鮮半島からの渡来人にちなんだ名前、「穴太(あのう)」「治田(はった)」

などの駅が連なる。

「いなべ」という名前が、そもそも朝鮮半島からの渡来人に由来すると言われる。

日本書紀には、新羅から来た水工技術集団として猪名部(伊那部)の名がみえ、

それがルーツとされる。摂津から伊勢を経由して来たとされる。

20歳のころ、韓国慶州の田舎に行ったとき、のどかな里山と田園風景が印象的

だった。この新緑の鉄道沿線はそのときの心の風景と重なる感じがした。

 

      3、八幡神社・めがね橋・ねじれ橋

 

終点阿下喜駅に着くと、健生みえの面々は、車で到着していた。

まもなく、いなべの石ぐれ町に住む伊藤正敏、敏子夫妻が到着。

コースプランは、いろいろ臨機応変に考えているようで、ほかの

面々はおんぶに抱っこと決め込んでいた。

 

まず、一行は、車で駅から東にもどって、めがね橋近くの八幡神社に

出かけた。

神社は三岐鉄道の踏み切りを越えた北側にある。

拝殿の左に大きな丸い鉄製の球体があった。ぼんやりしていた。

「大きいな、丸いなあ、何かな?」と横目で見ながら、拝殿東の広場に

移っていた。

敏正さんが、火の神様の案内してくれたり、石碑が「娘の書道の先生の

先生の書なんです」という案内に感心したりした。

戦没者の碑もあって、そこに刻まれてある年月日とどこで亡くなったか、

これにやたら反応していた。

「昭和19年10月20日 レイテ島」

これは、戦争末期、勝てないことが分かっていて、玉砕のためのレイテ戦が

始まった日だと思った。

どんな感情や理屈があるにせよ、そうして日本は敗戦した、ここのところ

今、もういちど向き合いたいと思った。

帰りがけ、「あの球体は、ブイかしらね」「いや、機雷でしょ」

「よくもそんなもの、神社に奉ることができたね」など、聞こえてきた。

あとで、調べてみると、その拝殿前には14インチの砲弾も奉られてあった。

 

「もうじき、めがね橋の上を電車が通るよ」と誰かから、声がかかった。

一行。とくに電車好きでもないだろうに、いつ来るか、いつ来るかと待って

いる。子どもの心境だなとおもった、

大気は日を浴びてうらうらと。

そのうち、「来たぞ、来たぞ」

東からくると思ってスマホカメラ用意していた。あわてて、西に。

そのあと、歩き始めていたら、今度は東から来るぞ、と声かかる。

それも、パチリ。

にわか鉄道カメラマン。

 

すこし歩くと、ねじれ橋。

土木学会の推奨の銅版があった。

たしかに、石がねじれて積んである。

「なんで、ここでねじれた橋をつくらなきゃいけなかったんだあ?」

「水路や周囲の水田をそのままで、レールを通すとしたら、こう

するしかなかったんじゃない?」

どんなんが正解か、それぞれそれほど関心があるわけじゃない。

案外、あっさりと通り過ぎた。

 

 

お昼ごはんは、いなべ公園で、いう流れだった。

「ありゃ、弁当をもってきてない」宮地。

「いいよ、余分に持ってきているから」と中井佳子さん。

ベンチに座って、中井さん、さあ弁当を、という勢いで黒いビニール袋

を持ち上げた。

「わあ、弁当じゃない。トウガラシの袋だった」

「何、出掛けに、これっていったじゃない」と佳子さん。

そのとき、何を言ったって、どういったて無いものは無い。

わがピクニック一行はあるものを分け合った。

余川さんは、あちこち歩く間、しきりとメモをしていた。

「俳句の材料、ありましたか?」

「いっぱいあるよ。今回は、三岐鉄道は軽便鉄道と言っていたらしい

ので、それを句に出来ないかとおもっているんだけど・・・」

(そうか、軽便鉄道と聞いて、あの車体がこの五月の空に浮かんでいったら、面白い

だろうな!ってなこと浮かんできた)

「余川さん、いい句作ってよ」

 

 

 

      4,木の花桜神事  

 

桜を見に行くらしい。

近くに今の時期でも咲いている桜の巨木があるという。

敏子さんがナビゲーター。

ふつうのお宅の庭だというので、敏子さん、「トイレは済まして行きましょう」

というので、コンビニで休憩して、出かけた。

「ここ、ここ!」と敏子さん。

桜の巨木が見える脇道に車を入れた。

ちょっといくと、黄色いヤッケを着たおばさんが厳しい顔して、飛び出してきた。

「シッ・・・!いま、神事をやっているので、車をもっと奥に入れて、2台目ももっと

奥にいれて、・・・・・静かに・・・・・」あとは、よく分からない。

突然の来訪で叱られているのか、神事に立ちあってもいいと思っているのか・・

分からぬまま、車を降りて、神事をやっている、桜の木の下の庭の隅っこに

はべらせてもらった。


 

神主さんが祝詞を詠んでいた。

「熊本地震で被災された方」とか、「福島で放射能で被害を受けた人」とか、

そういう言葉が聞こえてきた。

この巨木は山桜の変種で、木の花桜と言われている。野生では、京都亀岡と

いなべのこのお宅だけという。市の天然記念物に指定されている。

いなべ市長もこの神事に列席されていた。

コノハナサクヤヒメの神話は知る人ぞ知るである。

ニニギノミコトが、桜の花のように美しいコノハナサクヤヒメに一目惚れを

したのである。

神話では、そのあといろいろな葛藤があるようだけど、今の時代の桜に

よせる心情は、誰もが安心して豊かに、満開の桜のように、平和に繁栄したいという願いを

託すものではないだろうか?

神主さんの祝詞は、そんな願いが込められている名文だと思った。

神主さんの進行で神事は粛々と、歯切れよく進んだ。

最後、「天津祝詞 みそぎの大祓い」を渡されて、参列者で唱和した。

「木の花耶姫の命 守り給え幸(さき)はえたまえ」

 

水谷さんのお宅の巨木。

語り部の方が、神事のあと、木の花桜がどういものか、その由来など

案内してくれた。

 

桜の木の下には、さまざまな種類の花が咲いていて、女の人たちには

興味深かったみたい。

大平照子さん。「これ、ミヤコワスレって言うのね。母が、私は花では

これが一番好き!っていってたの。それも、この濃い色の花がすきだって。

母の言葉で、これが出てくるの」

さらっと、世間話のように言っているけど、そのとき、照子さんは母の声を

近くで聞いているのではないかと思った。

おごそかな神事のあと、そんな時間が現れてきたといえないかなあ。

 

お神酒を振る舞ってくれたり、水谷さんの奥さん手製のトチの実の

せんべいを食べさせてくれた。

女性陣には「美味しい。サクサクよね」と大好評。

そうそう、子どものとき、節分とか、ただでもらえるものがあると、

すっごくうれしかったよね。

 

最後に、みんなで写真撮りたいね。

語り部のおじさんにお願いしてパチリ。

 

「それにしても」とひとしきり。

健生みえの会のアクションでは、たまたま桜を見にいったら、木の花桜

神事に巡り逢うような、思いがけないサプライズが毎回あるんだよね。

このアクションデイにずっと参加しつづけている辻屋哲男・康子さん夫妻

には、感慨ひとしおではないかな。

伊勢の斎宮行きのときも、たまたまその日、滅多に見られない屋根吹き、

なんと言ったけ、そういう日に出っくわしたもんね。

 

      5、阿木喜温泉

 

10:00にスタートした阿下喜にもどり、温泉に浸かる。

何か今日は、うらうらとした4月下旬の新緑の里山の風景を堪能して、

満ち足りた、ちょっとうとうとしそうな感じ。

温泉は心地よい。

心地よさを通り越して、ほんとこのまま眠りに入ってしまってもいいかなあ。

「歩いたあと、温泉というのも、乙なもんだね」

誰かが言った言葉に反論はなかった。

 

そのあと、敏正夫妻と温泉で別れた。

辻屋さんが、「五百羅漢」に案内してくれた。

そのときは、正直、夢心地でした。

             (おしまい、宮地の個人的な感想)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 












 


無道人之短

2016-04-21 17:07:32 | わがうちなるつれづれの記

熊本大地震のニュースに触れるたび、心が騒ぐ。

エクアドルの地震はどうだろう?

隣人といえば、隣人である。

もし、エクアドルにいて、被災したら”騒ぐ”どころじゃないだろう。

シリアやリビヤやアフガニスタンで戦争に巻き込まれたり、そこから

逃げ出して、彷徨っている人たちについては?

パレスチナで逃げ場のない人たちの暮らしは?

 

この冬、ぼくの体調はよろしくなかった。

かかりつけの大学病院に通う回数も増えた。

それでも、すこしづつ、暖かくなってきて、身体の緊張が解け、血の

めぐりも戻りつつあるかな。

 

病院に行くと、薬局で長い時間待つ。

先日もまっていたら、サライという雑誌に石川九楊さんのエッセイと

空海の書いた書体の写真が載っていた。

 

無道人之短
無説己之長
 
これって、どういう意味?
 
えーっと

「人の短を言うことなかれ

己の長を説くことなかれ」
 
 
そういう意味らしい。中国の人の言葉を空海が座右の銘にしていたという。

 
 
 
こんなこと、連想ゲームみたいだけど、この程度の受け取りなんだけど、
 
思わず、わが日本地域の行政府の長、安部さんの国会での言動を
 
思い出してしまった。
 
人をこき下ろし、わが説を主張し、他のいうことは聞かない。
 
唖然とするが、公の場でそのように振舞っても、周囲は何にも言わない。
 
 
 
この空海さんの座右の銘の真意や奥深い人間観察については、
 
ゆっくり考えていきたい。
 
権利だ、義務だ、責任だ、と言い募るんだけど、古来から人間の
 
品格というものが重んじられていた時代や文化があったし、その
 
底流も人間観察によって、これからも何度でも白昼にうかびあがってくる
 
ものとおもう。
 
ここさえ、外さなかったら、意見や感覚の違いがあっても、他の意志を
 
妨げたり、押し付けたり、縛ったりしなくとも、円滑で住みよい、平和な
 
社会ができるのでは。
 
 
 

   総理大臣からその国を守らねばならないといふこの国の危機 
                              

                        

これは、昨年の安保法制が国会で話し合われているとき、その感想を

朝日歌壇に投稿されたもの。 永田和宏さんが選んだ。

「ああ、そうだよなあ」とつくづく思った。

こういう人に、こういうことをやらせているのは、他でもないぼくなのかも

しれない。

「ああ、ほんとに安部さん、やめてほしい」

 

このあと、スマホを見ていたら、「徹子の部屋」に出演していた

なかにし礼さんの詩が掲載されていた。

掲載した人の弁。

「徹子の部屋」になかにし礼さんが御出演され、昨年出版され大反響を

呼んだ詩を徹子さんが朗読されました。

旧満州の引き揚げ者として凄絶な戦争体験を経てきたなかにし礼さんが

平和の大切さを訴えています。

番組では、ほんのごく一部分しか読まれなかったので… 全文をどうぞ」

 

    『平和の申し子たちへ!』

泣きながら抵抗を始めよう

2014年7月1日火曜日
集団的自衛権が閣議決定された
この日 日本の誇るべき
たったひとつの宝物
平和憲法は粉砕された
つまり君たち若者もまた
圧殺されたのである
こんな憲法違反にたいして
最高裁はなんの文句も言わない
かくして君たちの日本は
その長い歴史の中の
どんな時代よりも禍々しい
暗黒時代へともどっていく
そしてまたあの
醜悪と愚劣 残酷と恐怖の
戦争が始まるだろう
ああ、若き友たちよ!
巨大な歯車がひとたびぐらっと
回りはじめたら最後
君もその中に巻き込まれる
いやがおうでも巻き込まれる
国のため?大義のため?
そんなもののために
君は銃で人を狙えるのか
君は銃剣で人を刺せるのか
君は人々の上に爆弾を落とせるのか
若き友たちよ!
君は戦場に行ってはならない
なぜなら君は戦争に向いてないから
世界史上類例のない
69年間も平和がつづいた
理想の国に生まれたんだもの
平和しか知らないんだ
平和の申し子なんだ
平和こそが君の故郷であり
生活であり存在理由なんだ
平和ぼけ? なんとでも言わしておけ
戦争なんか真っ平ごめんだ
人殺しどころか喧嘩もしたくない
たとえ国家といえども
俺の人生にかまわないでくれ
俺は臆病なんだ
俺は弱虫なんだ
卑怯者? そうかもしれない
しかし俺は平和が好きなんだ
それのどこが悪い?
弱くあることも
勇気のいることなんだぜ
そう言って胸をはれば
なにか清々しい風が吹くじゃないか
怖れるものはなにもない
愛する平和の申し子たちよ
この世に生まれた時
君は命の歓喜の産声をあげた
君の命よりも大切なものはない
生き抜かなければならない
死んではならない
が 殺してもいけない
だから今こそ!
もっともか弱きものとして
産声をあげる赤児のように
泣きながら抵抗を始めよう
泣きながら抵抗をしつづけるのだ
泣くことを一生やめてはならない
平和のために!

 

「抵抗」とは、自らの意志を妨げるものに、縛られないし、

自らも自分を縛らないということかな。

抵抗とかいわなくとも、「それって、どういこと」と現れてくるような

世界になりたいと思う。

 

 

安部さんみたいな人にたよらなくとも、ただの生活者のぼくらで、

十分に安心して、満ち足りた暮らしが描けるんだけどなあ。

 

      「イマジン  新訳」

  心に描けるかな 天国なんて無いんだと

  難しくなんてないよ、やってみたら簡単さ

  もちろん地獄だって無いし

  僕たちの上に広がるのは 空だけ

  ほら君の心にも描けてきただろ 誰もが

  今この時を生き生きと刻んでいけるこの世界が...


  心に描けるかな 国境なんて、元々どこにも無いんだと

  難しくなんてないよ、当たり前のことさ

  何かのために殺したり死んだりすることもないし

  そう、だから宗教にすがる必要もなくなる

 

  ほら君の心にも描けてきただろ

  誰もが心穏やかに生きられるこの世界が.


  僕のこと、ただ夢みてるだけって言うかもしれないね

  でも、この世界が見えてるのは僕一人じゃないはず

  いつしか君も手を携えて、共に歩く日が来るよ

  だって元々僕らは「一つの世界」に生きてるんだから


  心に描けるかな 所有なんて無いんだと

  「持つ」なんてこと誰にも出来っこないって

  だから、欲張って取り合ったり、飢えて苦しむことも無くなるよ

  人は皆、家族や兄弟なんだから当然さ

  ほら君の心にも描けてきただろ 誰もが

  贈り合って暮らしていけるこの世界が...

  僕のこと、ただ夢みてるだけって言うかもしれないね

  でも、この世界が見えてるのは僕一人じゃないはず

  いつしか君も手を携えて、共に歩く日が来るよ

  だって元々僕らは「一つの世界」に生きてるんだから

 

 

 

 

 

 

 

 


死んだらどうする?

2016-04-21 15:55:31 | アズワンコミュニテイ暮らし

4/17(日)14:00~理想の暮らしを語る会をしました。

まだ、じぶんの病気のこと、かかっている病院のことなど、出していない人が

いたので、病歴発表会を何人かしました。

森原さんは、笠井歯科、丁寧と絶賛です。坪井整骨院もかかりつけ。

竹本さんは、ヘルニア手術後、順調。回生病院、福島先生に見てもらっている。

喘息では、同じ回生呼吸器科の高橋先生。街の医者では、喘息という診断は

しないみたい。北井内科は、節子さんがかかっている。

 

ここでガラリと話が変わる。

中井さん、最近死んだら、そのあと、どうなるか、どうするか、いま元気なうちに

個人的にも、地域社会としても、どうかんがえるか、いろいろ調べている。

いまのところ、見えてきたところ、中井さん、フローチャートにしている。

 

 

中井さん、熱く語る。

死んだら、本人の意志で病院の献体になることもできる。

この場合、病院で火葬、骨にしてくれる。

それ以外、フローチャートでは、土、水、火、風などで葬送する道が

ある。遺棄は論外。

火葬にして、そのあとどうするかというのでは、いろいろある。

海で散骨してくれるという人に会って、中井さんが話した。

二見の浦で、カヤックでお骨を粉にして、撒いてくれるという。

粉骨したり、写真撮影などして、38000円だそうだ。

もうからないらしい。でも、海に思い入れがある。

 

鈴鹿のなごのあたりに、宣隆寺という由緒ある寺がある。

そこの寺に行き、住職と、中井さんはなしてきた。

大きな石に寝釈迦が彫られている。そこに、ニルバーナの森というのがあり、

そこに骨が土に還るように埋めてくれるという。

寺のなかに、亡くなった人の名前も分かるようにしてくれるという。

年2回、供養もしてくれる。それが、10万円とか。合葬ということになるかな。

 

葬儀屋さんや、そのほかNPOなど調べたみたいだけど、

死んでから火葬して骨にするまでは、安くて60000円、

葬儀屋さんが絡むと20万ぐらいはかかるという。

分骨とか、実家の墓にいれるというのも、それなりに費用はかかるだろう。

死ぬのに費用のことばっかみたいで、顰蹙をかいそうだけど、

 

理想の暮らしを語る会では、老いとか、死について、その本質をもっと探究して

いきたし、そういう検討のなかから、死んだあとどうするというイメージも。

それぞれ湧いてこないかなあとおもっていますが、どうなんでしょう。

死んだら、あとは野となれ、山となれ、というのもありますが・・・

 

ってなわけで、そんな会でした。

 


寄っておしゃべり

2016-04-17 13:13:36 | アズワンコミュニテイ暮らし
「理想の暮らしを語る会から、
「寄り合って楽しくおしゃべり会」が産まれでた!


理想の暮らしを語る会は、老後の暮らし方って、どんなに
なるんだろう、そんな関心からそれぞれの胸のうちを出し
ながら、毎月1回、ホソボソと語り合ってきた。地域社会の
医師、保健センターの職員、包括支援センタの人とも、
この会に来てもらって、お話を聞かせてもらってきた。

このところ、理想の暮らしを語る会といっても、漠然と
している。いったい、なにがしたいのか、ということになり
「自分らしく老い、自分らしく一生を全うできる地域社会の
実現」というのが、突然浮上してきた。
おっとっと、そんなとこまで、思っていままでやってきた
だろうか。
理想というところからいえば、「人間の本来性に適った」と
か、「老いる」というのはそこから見たらどういうことか、
「死」とは、とか語りたいこと、最近では自分の身体の
病気についても自分自身を観察して、みんなの場にだして
いくのも、面白いなあとなってきた。
「病、市に出せ」という格言もあるそうな。

自分のことを自分のなかで抱えておくのが当たり前の間がら
のなかで、ちょっとづつでもオープンにできる楽しさ、軽さ。
そういうことができる会の雰囲気、それは曲がりなりにも
出来てきたかなあ。

4/15 夜7時、地域包括支援センターでバリバリ活動をして
いるのTさん、浄土真宗の坊さんでこれまで生活困窮者の
支援をしてきて、最近鈴鹿に引っ越してきたKさん、それに
鈴鹿市の健康面の仕事をしているY女史、それに、中井、鈴木
宮地が中井宅に寄り合った。
「理想の暮らしを語る会」とは別に、実際、鈴鹿市内のなかで
暮らしていて、それぞれの立場で人と接している人がどんな
ふうにやっているか。やっていること、ほんとうはこんなこと
したいとか、やってみてどんな気持ちかなど、理想の暮らしを
語る会でやってきた”語り合い”を、そういう実際家の人との
寄り合いができないかなあ、と思っていて、この夜、やっと実現した。
Y女史は少し遅れて、駆け込んできた。小学生の女の子を
連れて。「まあ、先ずは晩ご飯はどう?うどんんつくるよ」中井夫人。

その夜は、Kさんのフードバンクをやっていきたいという話、
「生活困窮者に届けたいんだけど、届けながらそれらの人と
つながっていきたいんだけど、そこが見えないんだよね。
いまは、関連する人とのかかわりをつくっているところかな」
Tさんから、包括支援センターというところは何をするところ
か、熱く聞かせてもらった。Tさんから受け取るのは、仕事で
やっているというより、彼の人生をかけて、いろいろな事情や
背景をもった人と、人としてぶつかっていっているという印象
だった。彼の祖父が認知症で、不本意な死に方をしたというのが
原点という話も聞かせてもらった。

Y女史は仕事や暮らしに疲れはてているという感じで、「職場で
描いたことが実現しない」「やっても書類作りの追われて」とか
どちらかというと、ぼやき調だったけど、Tさんの話を聞いていて、
「Tさん、そいういことができるエネルギーって、どこから
わいてくるの?」と突っ込んだあたりから、彼女のなかで何かが
起きたと感じた。
「私の仕事って、65歳以下の人にもっと声をかけてもらいたいと
いうのがあるのよね。いまは、そうよ、ゼロなのよ。毎日のことに
かまけて、見失っていたかも・・・」

「こんなこと、漫然としゃべっていて、何になるのかしら」と
いう疑問もあった。
先ずは、具体的に問題に手を打っていくにはとか、対策の
話し合いというより、いろいろやってみて、起きてくる気持ち
など、肩書きや立場を離れながら、お互いと知り合うように
できたらいいなあ。
Y女史がTさんの話から、自分の中が変化したのなんか、
いいなあと思った。
「この会の名称だけど、”寄り合って楽しく地域社会を支える”
ってのはどうかな」
「長いなあ。”寄り合って楽しくしゃべる会”というのはどうか」
「それなら、Y・T・S ということにしたら」
「YTSの会か。まあ、いいか。もっといい名前がおもいついたら、
変えたらいいんだから」

お酒もなしに、その夜、このいい加減な寄り合いは10時まえ
お開きになりました。