かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

家庭医療専門医駒田雄一さんを訪ねる

2018-06-02 09:03:41 | 理想の暮らしを語る会

車のワイパーがないと前が見えない。

結構な雨だ。

中井さんの運転で、ぼくら夫婦を案内してくれた。

 

6月1日、津市芸濃町にある駒田医院。

大通りからちょとは中に入ったところにあって、閑静な佇まい

だった。駒田医院の駒田雄一さんは30代。中井さんは、地域の医療、

とりわけ在宅医療に熱心な人とコンタクトをとっている。

 

今回は駒田医師が外来の診療から在宅の緩和ケアーや看取りまで

幅広く活動されていると聞いていた。

いま心不全の状態が、生活が不如意になるのは、目と鼻のさきという

自覚があり、病院の入退院のほかに、動けなくなるときの緩和ケアの

話しを聞きにいった。

いまのところ、心不全が悪化したら、大学病院というのは、はっきり

しているが、日常の暮らし方については、夫婦であれこれ言いながら

日々でこころもとない。

心不全など、癌以外の疾患で、回復が望めない、しかもいつ激変するか

分からな状態の緩和ケアについては、研究もこれからということだった。

 

まずは、専門医でなくとも、近所にいつでも往診してくれるような

お医者さんを見つけることですね、とアドバイスしてくれた。

一丁一石には行かないかも。だんだんと付き合いを深くしていく

ことですね。

 

将来はぼくのような患者は退院時に、処置してくれた専門医や

看護師などかかわった人、そして近所のかかりつけ医や患者家族が

カンファレンスをして、治療方針や療養中の気がかりなど共有して、

まだ動けるときにお互いの関係ができるよう。そのような方向での

検討が医学界ではなされているとのこと。

 

かかりつけ医といったら、駒田医師のような「家庭医療」、あらゆる

病気のことから、患者の置かれた環境やどんな考え方で、どう生きてきて、

いまどう思っているか、まで知った上で、措置だけでなく、相談にも乗る

という。

患者の気持ちや意思が一番重要だと、熱く語った。

もう治らないことが分かって、余命を生きていくときも、その人らしく

日々の暮らしをてほしい。そのときのポイントは患者自身の「自覚」

と「覚悟」だと思うときっぱり。

どうやって死んでいくかは、人それぞれだけど、本人の意思をはっきり

してもらうことが欠かせない。

家庭医療医としては、本人の意思が実現するように支援するのが役割

だと思うと、腹からの言葉だった。

そして患者家族との話し合い、意思疎通。もちろん、間際にはまだ何が

起こるか分からない。こうだとしていたことも、本人や家族から、

「いや、死なせたくない」という悲痛な叫びがあるかもしれない。

これが、本人とつねに意思疎通ができていたら、このやり取りこそ、

一人で生きてきたのではない、その人らしいといえるものかもしれない。

 

中井さんは、駒田医師の公開講座を企画している。

テーマ「人生の振り返りが地域の文化を創造する

     --地域のかかりつけ医が語る意思決定支援」

これは、駒田さんから提案されたという。

 

公開講座

 期日   8月25日午後1時30分

 会場   鈴鹿カルチャーステーション

        鈴鹿市阿古曾町

         TEL 059-389-6603

 

 

以前、国際医療福祉大学の堀田聡子さんか、「地域包括ケアーシステム」

の講演で、目指すところは「立場を越えて、人間中心の、人間復興の

街づくりだと話していた。

中井さんは、いたく共感して、そのような街づくりに情熱をそそいで

いる。

ぼくは、自身が患者の身になっているので、自分らしい生き方を

探っていく。妻や中井さんや、有志の人とともに。

 

帰るとき、待合室にかかっている診療時間を見てみると、午前は外来、

午後は往診、戻って夜まで外来という一週間びっしりのスケジュールだった

 

駒田さんの実践が伝わってきた。

帰路は雨が激しくなったようだ。

 

 

 

 


病気とつきあっていくと楽しい

2017-11-22 17:34:20 | 理想の暮らしを語る会

公開講座「介護は新しい文化を創造する」のパネラーの一人、

金治智計さんが、「病気と付き合っていくのは楽しい。たえず、

ゼロに戻れる。自分を変えていける」という話が心に残っている。

彼は、人工透析で暮らしていて、その合併症でもいろいろ疾患も

起きている。

 

中井正信さんが、地域包括ケアシステム勉強会のラインに、医療者

の語る話を紹介してくれていた。

 

 ーー人生の最終段階においては、「治療する」が答えにならないと

   いう現実があります。

   治らない病気や障害とともに生きる人を前に「治療」という

   伝家の宝刀が抜けない医療職は、それでも、最期までその人の

   穏やかな日々を送れるよう、支えていかなければなりません。

   

   そのために重要なポイントは3つあると思います。

   ■治せないという現実を受容できること

   ■最期まで生活や人生を諦めないこと

   ■支持療法・緩和医療がしっかり提供できること

 

   「受容する」というのは「諦める」ことではありません。

    事実に新しい意味を見出すこと、そして、そこから始まる

    新しい人生を納得して生きることだと思います。

 

この医師の言葉を聞いて、少し自分を振り返ることができました。

昨日、大学の循環器内科の主治医の診察を受けました。

医師は「腹膜透析したほうがよさそうですね」と、客観的な

口調で語りかけてくれました。

「どこか、悪いですか?」

「腎臓の数値が悪化しています。すぐ、透析するかどうかは

一度入院してもらって、心臓を落ち着かせて、それからでも

いいですが」

 

疾患がまた一つ次の段階に移ったんだなあ、すこしショックでした。

事実を受け止めると、意識はそう言い聞かせていますが、なにか

落ち着かないものがありました。

「もう、心臓の疾患は回復することはありません」と何回も

聞かされています。それは、納得しながらやってきたつもり

でしたが、新しい事態が起こるたびに動揺するのは、どういうこと

だろう。

「まだ、どこかに回復するかもしれないという希望があるのかしら」

同行の妻が言った。

 

そういえば、自分の疾患についての、その状態やこれからどうなって

いく可能性があるのか、医師とじっくり話し合うことはしてこなかった

感じがする。

「受容する」

これも、ただ疾患の話だけで、できるかどうか。

分かっていても、心の中にはいろんな気持ちが湧いてきている。

 

先に引用した医師はこう書いている。

 

 ーー治らない病気や障害とともに生きる人を前に「治療」という

   伝家の宝刀が抜けない医療職は、それでも、最期までその人の

   穏やかな日々を送れるよう、支えていかなければなりません。

 

これは、医療の根本的な文化の創造かなと思った。

医療について、ぼくが何か言いたいことがあるとすれば、一人ひとり

の患者を一人の人間として、総合的に見る観点から、疾患について

診ていく、そんなことはどうだろう?

できれば、お医者さんや看護婦さんや、同じ疾患を持って暮らして

いる人たちと、お茶でも飲みながら、よもやま話をしたいもんだなあ。

死んでいくことを、もっと大らかに、はなしあいたいなあ。


受けとめてくれる人たち

2017-11-15 11:14:40 | 理想の暮らしを語る会

 もう、四日も経った。

11日の午後、理想の暮らしを語る会主催の公開講座

「介護は新しい文化を創造する」が開かれた。

会場は鈴鹿カルチャーステーションのカフェコーナー。

今回は、パネラーとして、妻と一緒に参加した。介護受ける人、ぼく。

介護する人、妻。

そのほか、疾患を抱えたパネラー3人や介護経験がある女性一人

がみんなから見えるところに並んだ。

参加されていた方は20人くらいだったか。

進行役の森原遼子さんや、事務局の中井さんから、「老いても、

ボケても、安心して楽しく暮らせる地域社会を実現したい」と挨

拶があった。

 

パネラーは進行の人から質問があり、それに答えたらいいと思って

いた。

「じゃ、宮地さんから語ってもらいます」と振られた。

どぎまぎして、病歴のことや今の暮らしについて話した。

どのくらい話したらいいのかも聞かず、しゃべっているうち

「この話、いつ終わるのだろう」と心配になった。

終わってみたら、30分も話していた。

 

ほっとして、気持ちが楽になった。

パネラーの人の話をゆっくり聞けた。

市川憲一さんが、大腸がんの切除する手術をしている。

再発しないよう抗がん剤を飲んでいたが、体調がおかしくなり、

病院に行って、ようやくの思いで「抗がん剤はやめます」と

医師に伝えたら「ああそうですか」とあっさり承諾。

今は、職場の人などに相談しながらストレスの無い暮らしをして

いるとのこと。

 

金治智計さんは、15年前、腎臓結核というので、腎臓を一つ

摘出している。8年前から、腎臓が悪化して、人工透析が

始まった。

一人暮らし。生活保護など申請したが、難しかった。

今は血管に血が回らない合併症がおこり、心臓や足の血管を

広げる手術をしに、足を引きずりながら名古屋大病院に一人で

行っている。

月、水、金、一日6時間の透析。

聞いていると、イタイタしい。

ところが、金治さん、「病気になって、付き合っていくのが楽しい」

という。

「いろいろ起こるけど、その瞬間瞬間ゼロにもどれる。

たえず、自分に戻れる。病気も悪くない」

うーん、そんな気持ちで暮らしているのか。響いてきた。

彼とは、今サイエンズ研究所のサロンに一緒に参加している。

サロンが一番の楽しみだと聞いた。

 

野尻四郎さんは、70歳。ぼくと同年。

17年前、腎臓ガンと診断され、鈴鹿中央病院で切除手術をした。

10年後にガンは肺に転移して、それを切除。

こんどは首の後ろに瘤。はじめは、軽くとったらいいという診断

だったけど、ガンと言うことが分かり、頚椎の放射線治療をして

いるという。

抗がん治療が顎の骨を砕いてしまうおそれがあり、今三重大病院

にも通いはじめた。

身体は、ガンの百貨店。食事も特別流動食。一日、横になって

いるときもある。

幸い、痛みはない、不思議といえば不思議。病院も自分で運転して

いく。身体は痩せこけている。

それがである。

飄々として、暮らしている。明るい気持ちが大きいという。

「明るいと免疫細胞が活発に働いてくれるのかな」

彼が、そんなに明るく暮らせているのは、何があるのだろう?

 

脳性マヒの介護の仕事の経験があり、夫のガンの看取りをしてきた、

今井亜子さん。その人の気持ちになる、身体の介助だけでなく、

心のケアが大切だと話してくれました。

 

こんな病歴の話、あんまり聞きたいとは思わないんじゃないかと、

勝手に思っていました。

ところが、参加してくれた方は、ジッと聞いてくれていました。

どんな受けとめかたをしてくれたんだろう?

 

あとで、聞いてくれた人の感想を聞きました。

すこし意外でした。

何かとっても深く受け取ってくれたみたいです。

 

 ーー講演会の中身の深さを改めて感じています。自分の言葉で

  素直に語れる、それが人のココロにしみるのでしょうか。

 

 

 ーー今日私はある物語を受けとった。それはいつか私もたどるで

 あろう人生の先を今たどる人から、そのたどってきた道のりの

 物語だった。

 その贈り物を受けとって、私のなかにはじわじわーっと

 広がるなにかがある。

 甘えられること。

 つながりのなかで生きること。

 それが細胞まで活性していると感じること。

 自分と病気を分けて考えること。

 合うということ。

 する側とされる側ではなくその人の身体の一部になるということ。

 などなど、どれをとってもまだまだ感じることが多い。

 飛ぶことと
 身をまかせることが
 ひとつになって
 自由に空を舞う鳥のように
 また大空も
 自分の身体のように
 鳥とひとつになり舞う

 そんな地域を作っていきたいと思う。

 

 --講座は介護に主を置いたものでなく、むしろ、闘病でなく、

  友病みたいな感じでしたね。

  病を通して、人と人の繋がりを感じて、その中で豊かに生きて

  いけるんだってことが、もっと本当に悩んでる人に知らせたいな

  あって思いました。

 

 --パネラーの一人が「病気も意外とわるいものではないなあ。

 どんな自分になっても自分でありつづける。何かが出来なく

 なっても、それで自分の価値がかわることはない」と。

 その人の淡々とした話しぶりや表情から感じる彼の心の世界を

 感ぜずにはおれませんでした

 

 

実際のぼくを見てみると、不整脈がいつ起こるかの心配とか、

息切れや立ちくらみにめげるようなときも。

身体が不如意になって、杖をついて歩くのが楽だと知ったり、

明るい気持ちで過ごしているかといえば、あんまり自信は

ありません。

病気と明るく、軽く暮らしている仲間とそばにおれることに

感謝です。

そこから、「介護は新しい文化を創造する」という大テーマに

向かい合いたいと思いました。

疾患を抱えている人の話をこんなにじっくり聞き、受け取って

くれる人たちにも感謝です。

 

 

 

 

 


公開シンポジューム覚書き

2017-11-01 18:34:17 | 理想の暮らしを語る会

理想の暮らしを語る会や地域包括ケアの勉強会など最近、養生の

ため出席出来ないでいる。

11月11日に「介護が新しい文化を創造する」という公開シンポジューム

をやるので、パネラーの一人になるよねと聞かれて、引き受けた。

10月末に打ち合わせをしたいので、メモでいいから、いま思って

いることを寄せてほしいということだった。

 

とても明るくて、楽しげにも感じるチラシがいつの間にかできた。

 

あらためて、タイトルを何回も読み直して、「介護があたらしい

文化を創造する」なんて、畏れおおいテーマだと思った。

「新しい」といったら「古いもの」から転換という意味があるよな。

「文化」といったら、社会の人びとの暮らし方を根底から変えていく

と言う意味合いもふくまれるかな。

 

「介護」といっても、辞書をみて、こうだといってみてもはじまらない

とも思う。

自分が体調を崩してみて、始めて「医療」「看護」「介護」を体験して

僕はこんな風に今、受け取っているけど、どうか聞いてみたくもある。

それを、シンポジュームの前に覚書きとして、公開しておこうかな。

前置きが長くなっちゃいました。

 

医療・看護・介護をうける側から、思ったこと。

昨年12月から3月までと、そのあと7月はじめから8月はじめまで、

2回の入院を経験を中心に。

 

〇自分の疾患の実際を“素直に”受け入れられているかどうか。

・54歳(2001年ごろ)息がつけなくて、山登りが出来なかった。

 その後、熱と咳きが止まらず、病院に行ったら、拡張型心筋症を

 元疾患とする心不全を診断されて、治療がはじまった。

 投薬治療と塩分控えめの暮らしを伝えられた。

・2013年11月、夜寝ようとしたとき息ができなくなり、意識がなくなった。

 隣に寝ていた妻の心臓マッサージや近隣の人、救急車などで、病院に

 運ばれ、治療をうけ、一命をとり止めた。

 「心室頻脈」が原因だった。

 それがキッカケで、ペースメーカーと除細動器(AED)を心臓の上に

 植え込んだ。

 意識の上では、その状態を受けいれていたものの、振り返ると、心の底で

「まだ普通に暮らせるはず」という潜在意識があったようだし、「こんな

 ことがあっても」という気負いもあった。

 自分の現状を甘くみていた。


 ・昨年は体調が良くない日がつづき、部屋で休んでいるときが増えた。

  昨年12月に息が苦しくなり、入院した。

  不整脈の回路を焼き切るアブレーションという心臓手術を4回

  やった。

  3月退院。予後は「心室頻脈」は起こらないことはないが、

  減塩・水分調整・適度の運動をして養生することになった。

  週一回の心臓リハビリに大学病院に通った。

  

 ・普段の暮らしに慣れたころ、7月初め、再び心室頻脈が

  起こり、除細動器で止まらなくなって、5回目のアブレーション手術。

  8月退院。「だからと言って、もう起こらないとはいえない。

  心不全状態にならないように、暮すしかない」という診断だった。

 

 ・2回目の入院以後、「これはホントに、回復する望みはなく、心臓の

  実際を受け入れて、それに合わせて、生きられるだけいきる

  しかない」とやっと受け入れられた感じがする。

  疾患を受け入れたくない心理。

  ときに、「こんなはずはない」という気持ちがよぎる。

  「そんなに長くはないな」みたいな気持ちも出てくる。

  寂しさみたいなものも出てくる。

  そんなときは、とくに押さえ込まなくてもいいなと思っている。

  まずはそのまま、受け入れる。

  “素直になる”ってどんなことか、見ている。

 

〇自分が人の支えを必要になったことを受け入れる。

・妻にはずっと世話になっている。2013年の心肺停止のとき、妻の

 とっさの心臓マッサージがなかったら、どうなっていたか。

 感謝・感謝だけど、じぶんの中に、「人に迷惑かけたくないとか」

「人に頼って暮すのは、じぶんの気持ちが許さない」そんなものが

 あった。

・妻がコミュニテイの仕事をしていると、ぼくの世話のため、そっちを

 おろそかにしてほしくない、みたいなもの。

 それから、「人に何何をしてほしい」とか「大の大人が甘えるなんて」と

 いうもの。

 

・コミュニテイで、「甘える」ということを検討したことがある。

 人は産まれたときから、すべてに「甘えて」育ってきた。

「人に求める」「人に応じる」というのは、人間のもともとの性質

 じゃないか。

 入院して、何回目かの手術のあと、看護婦さんはいつでも来れる

 ようにしてくれているけど、なにか傍に妻がいてほしいという

 気持ちが大きくなってきた。

「来て欲しい」という気持ちを伝えるだけでいい。

 来るこないは、妻が決めたらいい、と思うけど、たったその一言を

 ラインに書き込むのをためらった。迷った。

 「えーい」とラインで送った。そのあと、妻ほ来てくれたと思う。

 病床には、短歌の本がいつもまくらもとにあった。

 上手い下手は度外視。気持ちを書いた。

     

   来て欲しい その一言が言えなくて そこがそこそこライン打つ

 

「そこがそこそこ」というのは、そのしっかり縛っているものから、

 本心を開いてみたら、と促していた。

 


・これは、どういうことになるかな。

 自分が支えが必要になったことの受け入れということと、「支え」は

 身体だけでなく、「ただそばにいてほしい」そういう気持ちもある、

 そんな気持ちも開放することかな。

 

あと、いろいろな思いが出てくる。


〇病気が好きになる。その臓器が隣人のように親しくなる。

 

〇介護する、介護されるの隙間を超えて。

 

〇何もしなくてもよい世界。
 本当は何をしたいのかに向き合う世界。

・本当は何をしたいのか?

 岩田さんが、ブログで「自分のなかの怒りや対立感情が

 なくなればいい」ぐらいにしか思っていないか。

 怒りには周囲環境から理不尽な仕打ちがあって、怒りたくなくても、

 怒らざるえないときがある。本当に怒りを無くしたいと思っているか、

 そうだとすれば社会全体から怒りや対立感情を無くしていくのが

 目的じゃないか、と問いかけてくれたと受け取った。

 背筋がシャンとした。

 自分の疾患の症状に気をとられて、本当にしたいこと、願っていること

 に焦点があたっているか、その実現は何か活動をするという以前に

 自分のなかの怒りや対立感情などがどのようなものかの解明から

 はじまるんじゃないか。

 目的は、社会全体から、実際なくなっていく一歩として。

 



シンポジュームまでは、まだ時間がある。

会のメンバーがいろいろ話し合ってくれている。

この「介護は新しい文化を創造する」というテーマは、どんな

ものか、しばらく見ていきたい。


家庭医とは?総合診療医とは?

2017-10-23 07:50:37 | 理想の暮らしを語る会

何年か前から、人生の最終期はどうなるだろうと有志の人たち

とずっと語り合ってきた。

かかりつけ医をもつようにと言われているが、なんか街のお医者

さんとは、近しい感じがしていなかった。

最近、「家庭医というのがあるんだって!」と聞いた。

「えっ、そんなのって初耳」知らなんだ。

聞いていくと、日本では、家庭医というより、ずいぶん前から

総合診療医として、行政から位置づけられているという。

”かかりつけ医”は、医師会が言っている名称で、どう違うかは、

市井のぼくらには、はっきり分からない。

調べると、総合医療学という医療分野があり、三重県には、

三重大学病院に竹村洋典教授がおられて、家庭医療学の研究、

総合診療医の養成など幅広く実践されているという。

 

いま、お医者さんといえば、どこかが不調になったとき、先ず

何科に行けばいいかと、考えていることに気づいた。

幼少のころの町のお医者さんという、何かのどかで、そのお医者

さんにいったら、行っただけで安心するようなところがあった。


いつの間にか、そうだなあ、病院と自分が縁遠くなっているな、

と思った。

 

総合診療医は、不調な臓器を対象とする前に、”患者その人”と

向き合うという。

町の中に、デンと坐って、病気ことだけでなく、何か心配なことや、

なにかはっきりしないことを相談にのっていく、そんなお医者さんの

イメージになるのかな?

 

竹村洋典教授を、”理想の暮らしを語る会”の中井正信さんと研究室に

訪問した。

多忙のなか、真摯に対応してくださった。

竹村さんが語られる”総合診療医”(家庭医)のお話は、世界各地の

総合医療に現状から、日本での進み具合、大学病院での各分野に

すすむ研修医への教育、三重県での実践例、一志病院や名張病院の

取り組み。

とくの名張では、”まちの保健室”として、住民の自治で開設している

など、など。
とてもじゃないけど、受けとめきれない。

それでも、地域包括ケアシステムが、市井の住民にとって、身近に

なっていく、竹村さんの夢をもっと知っていきたいと思った。

家庭医って、どんなものだろう、総合診療とはどんなものだろう?

そんな簡単に「そうか」とはならないなと思いながら、

研究室をあとにした。