かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

驚きと痛み

2016-10-30 18:06:36 | わがうちなるつれづれの記

10月20日朝、皇后陛下のお誕生日に際してのお言葉がテレビで

放映されていました。

8月の陛下のお気持ちの発表のとき、報道で「生前退位」という

見出しが出て、美智子妃は「大きな衝撃を感じました」と語られ

ました。

 

どんなことだろう?

美智子妃はどんなお気持ちだったんだろう、しばしそのことで、

どう受けとめたらいいのか、立ち止まっている感じです。

 

いくつか、調べてみると、「譲位」という表現はこれまでも使われて

きているらしい。

「生前退位」というのは、なんだかマスコミかどこかの造語らしい。

もしそれがそういうことなら、ぼくはすっかり、そういうものだとして、

受け取った自分のイメージに染まって、こういうニュースを見ていた

ことになります。

「生前退位」と言う表現に「衝撃は大きなものでした」と感じたという

美智子妃のお気持ちについて、宮内庁の人が「生前と言う言葉に”

死”を連想されたのではないか」とコメントしていたという報道も

ありました。

 

そのコメントについても、「そうかもしれないが、そうなんだろうか」

と感じました。

そこには万感の気持ちが籠められているのではないでしょうか。

そういうことは、ぼくなんぞが、どうこういってもはじまらないとも

おもいますが、内から湧いてくるモヤモヤ感はどうすることも

できないんですね

 

美智子妃のお誕生日に際してのお言葉のうち、陛下にかかわるところ

は、以下のようでした。

 

 「8月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が

 伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,

 これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や

 親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,

 皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,

 謹んでこれを承りました。

 ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は

 大きなものでした。

 それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度も

 なかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。

 私の感じ過ぎであったかもしれません」

 

やはり、何回読んでも、どういうことを表現されているのだろう、と

湧いてきます。

こうです、と分かったらそれで済むものとも思えませんが、

「どんなことを言われようとしたか」というのは、ぼくのなかの

どこかでは、残っていくように思います。


このことについて、有識者の人たちが意見を述べる機会が

これからあるそうです。

政権を担う人やその周辺の人たち、メデイアの人たち、

それぞれ、いろんな意見が飛び交うのでしょう。

わが身も振り返り、何かあったとき、その人の気持ちより、自分の

ほうの考えを高しとして、それを優先しやすいです。

相手の気持ちを顧みない人については、そういうことだと受け取る

ほかありませんが、相手の気持ちを大事だとして、受け取っていこう

と思っていても、よく見てみるとそうじゃないときありそうです。


自分やその人の気持ち、それを受け取るって、どういうことだろうか、

その辺からはじまるのかなと・・・ちょっと切ない気持ちになっています。



 

 

 

 

 


ボケともうろくと

2016-10-30 09:31:13 | わがうちなるつれづれの記

近ごろ、ボケともうろくが、見境なくなっている感じがします。

 

ボケというのは、天然ボケとかともいって、一番の特徴は

忘れっぽいということらしい。

人の話を聞かないというのもあると言います。

そういうことで言うと、歳とは関係なく、若い時分からそんな

徴候はあったように思い出されます。

 

この時間に会うと予定しているのに、その間際、他の関心事が起きて、

予定されていたほうは、すっぽらかすことになってしまうのです。

ダブルブッキングも、しょっちゅう。

予定をしっかり記憶しておけば起こらないだろうけど、それがどうも

曖昧になってしまうのです。

 

何人かで話しているとき、一部聞き取れていなというときがある。

聞きたれなかったことから、話の流れがつかめなくなって、そうなると

、何かほかの連想も入ったりして、ますます分からない感じになる。

「それって、何の話だっけ」と流れを蒸し返すハメになる。

いやはや。

耳が遠くなってきた、というのは老化かもしれないが、それに

往年のボケがくわわっているかもしれない。

 

 

今日は、14時30分で寄よろうと、4人で確かめて合っていました。

朝から息苦しい感じもあり、午後は布団を被って寝ていました。

ラインの呼び出しで、起きた。3時前でした。

「そうだ、14時30分に寄ろうということだった」のだ、とハッと気が

つきました。

14時の4が、いつの間にか、頭のなかで、4時に”変かん”されていた

のでした。4時だと思って休んでいました。

 

もうろくというのは、老いる、ヨボヨボになるなど、歳をとっていくときの

老いの現れを指すらしいです。

目がショボショボするとか、ご飯を食べたらすぐ眠くなるとか、ぼくの

場合、すでに上の歯は入れ歯で硬いものは食べにくいのです。

たまに入れ歯のかみ合わせが悪く、食べることの楽しみが苦痛の

ときになるときもあります。

ああ、若いとき、小まめに手入れしておけばよかった、というような

ものですが、もう手遅れです。

 

もうろくとかさなってきますが、60代ごろから、医学の病名からいうと

”拡張型心筋症”という心臓の働きが身体に自覚できるように、現れ

てきました。

その診断があり、検査して、薬で心臓の働きが急に落ちないよう、

長持ちさせましょうと、治療をはじめて、もう15年になります。

今年の冬ぐらいから、息切れや息苦しさが普通にしているときも

現れてくる感じが顕著になりました。

2ヶ月に一回、大学病院のかかりつけ医で診察してもらっていますが、

身体の経過については、薬や暮らしの面で、注意することもあります

が、どうも進行していくということについては、見守っていくしかないよう

です。

回復というのは、無いんだなと思いました。

 

寒さや暑さに、とても敏感です。

加齢とともに、そうなっていくのでしょうが、個人差があると思いますが、

ここ1年あまり、そんな感じが強くしています。

息がせいている感じで、息苦しく、何かをやろうとする意欲が出て

きません。

夏は、ゴロッと横になって、クーラーではなく、扇風機の風に当たっている

のが、極楽でした。

9月になって、気温が下がり、身体の重苦しさがとれると、何か意欲が

湧いてきて、その感じが不思議というか、こういうのがいままで、当たり前

だったのかな、と思ったりしました。

 

一日のうちでも、夕方に身体が息苦しく、起きていられなくなるような

状態に見舞われることがあります。

寄り合いがあったときなど、無理したら座っているだけなら、出来るかな

とも思いますが、最近はそんな時は休むようにしています。

「やりたい、やろう」としているけど、実際にはできないことがある。

しばしば、経験します。

横になって、じっと、しているとき、いつからか、あれはあの人が

やってくれている、そのことはその人がやってくれるだろう、

実際やれない状態ではあるけど、やれないことが、意外と、心豊か

な想念を生み出してくれるのかな、と思ったりします。

 

 

先日、理想の暮らしを語る会の有志で寄っているとき、「歳になって、

衰えた、っていうけど、それって、実際はどんな状態を指しているんだろう」

という話が出て、「ううん?!」と立ち止まりました。

その人、その人、歳相応な現れはその人の身体で何か起きていることでしょう。

それをどんな風にとらえているのだろう。

捉えたことが、実際だとしていなかな、ということもあるのかな。

「そういえば、アズワンスタイルの”シニア”の項は、たしか”豊かな人生”

”頑固なし、愚痴なし”だったよね」

 「ここんとこ、探究したいね」

「健康正常なシニアの姿、だよね」

「そうそう、それって、こういうものがそうだ、というのとはちがうだろうね」

「人がが老いていくプロセスは、人それぞれで、その現れを観察して、

どう捉えているかをオープンにして、探究の材料にしたいね」

「出し合うことが、病気自慢になったり、愚痴になったりしないようにね」

「観察なのか、愚痴なのか、そのへん出してみないと分からないよね」

「そう、他の人に聞いてもらって、というのもあるだろうね」

もうろくの饗宴会、近々、やることになるのかな。

 

 

詩人のまどみちおさんが語っていた。

「むろん年をとってからは、昔みたいにひとつの考えを追求すること

は難しくなりました。根気は続かないし、自分の書いていることを

理解できなくなることもある。しかし、ボケてモタモタしとるちゅうのも

そう悪くないもんでね。

さわやかな頭で書くのとは、また違った雰囲気の詩が生まれるん

ですよ。思考がボヤーッとしたり、くっきりしたり、広がったり、

狭まったり・・・そういう違いを利用しながら、今の自分にできるような形

で詩に向かうようにしている。

 

まどみちおさん、このとき90歳。

詩を書くことでなくとも、その時その時に自由に適していくというのが

あるのかなあ。

いま、70歳のぼくは、まどさんからみたら、まだガキでしょう。

ぼくのほうから見たら、遥か向こうの山の頂を眺めているような

心地ですが、何か魅かれるものがあります。

 

      トンチンカン夫婦           まどみちお

  満91歳のボケじじいの私と

  満84歳のボケばばあの女房とはこの頃

  毎日競争でトンチンカンをやり合っている

  私が片足に2枚かさなてはいたまま

  もう片足の靴下が見つからないと騒ぐと

  彼女は米も入れていない炊飯器に

  スイッチを入れてごはんですよと私をよぶ

  おかげでさきばくたる老夫婦の暮らしに

  笑いはたえずこれぞ天の恵みと

  図にのって二人ははしゃぎ

  明日またどんな珍しいトンチンカンを

  お恵みいただけるかと胸をふくらませている

  厚かましくも天まで仰ぎみて・・・

 

トンチンカンを天の恵みと、胸をふくらませている・・・こんな感じ、

意識したって出来っこないよね。

でも、ゼロ歳や3歳の孫見ていると、もともと具わっているもの、

と見えてくるときもあります。

道すがら、まず夫婦からかな。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


先祖を訪ねる旅(3)

2016-10-29 17:23:48 | 理想の暮らしを語る会

旅のレポートはこれで終わりです。


ただ、おしまいに、もう少し「宮地」にこだわってみたいです。

 これから先、これほどまでにこだわることも無い予感もするので、もう少し

宮地にまつわることを整理してみたいです。

 

「姓氏家系辞典」で「宮地」を引くと、「宮所」「宮道」「宮路」も名前の起源は

そんなに違いはないようです。

「古事記」「日本書紀」では「中臣宮地連」とか「中臣宮地朝臣」とか出ている

ようですが、そこまでいくと具体的なことの関心から離れてしまいそうです。

「宮地」の地名や姓が多いところは全国に結構あることがわかりました。

三河・甲斐・美濃・尾張・飛騨・美作・備後・土佐・筑前・肥後など。


兄の話によると、尾道の祖父の先祖を辿っていくと、1400年代まで遡れると

いいます。それでいえば、ちょうど尾道鳴滝山を拠点にして宮地氏が時の

ながれに翻弄されていた頃になります。


ここからは、すこし脱線です。

 広島県福山市出身の作家井伏鱒二は「さざなみ軍記」という小説を昭和5年

(1930)に書いています。

平家一門が木曾義仲から帝都を追われて、瀬戸内海を逃亡します。

平家一門高貴な位の方の子息が戦さの指揮をとることになって、その顛末が

少年大将の日記として小説に仕立ててあります。

この少年大将には二人の老練な策士がつき従っていました。

その一人が宮地小太郎といって、瀬戸内海の水運に熟知した因島の豪族の

領頭というわけです。

小太郎というから少年みたいに思ってしまうのですが、すでに60歳になり、

平家の危急を救うべく、馳せ参じてきているのです。

平家一門の命運は須磨一の谷から帝都奪還のため攻め上るか、そこで守り

にはいるのかの岐路にありましたが、宮地小太郎たちがすすめる帝都奪還

にはならないで、平家一門は一の谷で総崩れになります。

宮地小太郎はそのとき悲壮な最期をとげます。


その場面。小説では・・・

――このときわが宮地小太郎が陣頭に進み出て、鎧を踏ん張り突っ立ちあがって

大音声に「これは去年の冬、備後の向島、伊予の大三島、備中の水島、三カ度の

合戦に打ち勝って、高名をきわめたる生年御年十六歳の武蔵守の侍大将、泉寺の

覚丹の部下にその人ありと知られたる、生年六十歳の宮地小太郎である。

わが生国、備後のくに因島を出てよりこのかた、まだ一度も不覚をとったおぼえが

ない。

汝ら源氏の武者どもは、きのうの院宣が下りたのを知らないか。

されば梶原とやら、汝は兇賊となってこの宮地小太郎に討ちかかれよ」と呼ばわった。

小太郎の声はかねて水軍を叱咤して鍛えあげられ、その大音声は城内にくまなく

響き渡った。


この後、敵兵の放った矢が小太郎の膝に突き刺さり、体勢を立て直す隙に源氏の

武士に体当たりをされて、馬から落ちるところで首をはねられたという描写が続き

ました。ちょっと、生唾をのみこみました。
  

井伏鱒二は小説が完成した昭和13年に作品について話しています。

テーマは少年大将がだんだんませていくようすを表現したかったようです。

そしてこんなことも言っています。

「全部空想で書いたが、風景は、鞆ノ浦を意識に入れて、室の津としたもの。

・・下士官出身みたいな宮地小太郎をつい戦死させてしまったのはまずかった。

あれは生き残しておきたかった」
 

なぜ「まずかった」のか、なぜ「生き残しておきたかったのか」、いまのぼくには

想像が出来ません。

それにしても「全部空想」というので納得しましたが、1300年ごろから「宮地」は

歴史に登場するようですが、源平合戦のころは、どこでどんなことしていたので

しょうか。


 

これでもかということになりますが・・・

井伏の作品に「シグレ島叙景」と言う作品があります。

昭和4年、井伏氏三十一歳。


瀬戸内海らしきところにあるシグレ島に座礁した

廃船に中年の二人の男女がアパート代わりに住んでいる。

二人は夫婦ではない。ここに来たとき男は野ウサギを持ち込み、女は

家ウサギを持ち込み、いまでは400匹になるほどに増えている。

それがだれのものかわからなくなっている。

そこへ新しく「私」が参入して、二人の言い合いにまきこまれていくと

いう筋書き。

その中年の男の名前が宮地伊作なのでした。

「口論はいつもの法則通り兎を売る売らぬという問題にはいっていった」

宮地伊作としたら、女「オタツ」がウサギを売れという話題を持ち出さな

ければ「私らもオタツらと、いっそ懇ろにしたのだりました」という気持ちは

あるのでした。あるとき、口論のあと、オタツがいなくなります。

しばらくして、オタツは帰ってきて「伊作に足袋を買ってきた」と明かすの

ですが、話はふたたびウサギのことになるのです。

オタツは伊作に言い募るのです。「こくな、お前らは何故に兎を売ろうと

はせなんだか」
 

ここの宮地は「さざなみ軍記」の宮地とはおおいに違います。

井伏氏はよほど、宮地という名前に親しみをもっているのでしょうか。

ぼくのばあい、名前というよりシグレ島の伊作さんに、より親近感を

覚えるのをどうすることもできません。

 

<これでほんとにおしまいです>

                   

                        人間ピラミッド                     北原宗積(きたはらむねかず)           

   気がつくと

         父を 母を ふんでいた

   

   父も母も それぞれ

   祖父を 祖母を ふんでいた

 

   祖父母もまた

   そのふた親をふみ

   むかしのひとびとをふみ

       

         いのちの過去から未来へと

   時のながれに きずかれていく・・・  

        人間ピラミッド

 

   そびえたつ そのいただきに

   ぼくは たち

   まだいない 子に 孫に

   未来のいのちに ふまれていた

 

 いまのじぶんから25代遡ると、6718万8062人によって、

ここに「ぼく」がいることになるらしい。

計算したらそうなるんですね。

25代といったら、700年前、鎌倉時代になるのです。

詩のなかでは、「そびえたつ そのいただきに ぼくは たち」と

ありますが、そういう自覚はあったろうかとはっとさせられました。

そうして「未来のいのちに ふまれていた」ということにも、

あらためていまのじぶんがどう感じているか、考えさせられています。


太郎が祖父の墓参りをしたいと言い出したのがキッカケでしたが、

これからも続くにせよ、なにかこころたのしい旅をさせてもらったと

思っています。


     (おしまい)

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 


先祖を訪ねる旅(2)

2016-10-28 10:27:20 | 家族あれやこれや


17日の夕方、因島に渡りました。

<夜7時ごろ、因島・重井にある民宿に着き、1泊する>

暗くなっていました。

食事は鯛の造りやその鯛の頭の甘辛煮や海のものの料理がならび4人が

全部たいらげたときは、お腹がはちきれるばかりになっていました。


密度の濃い1日でした。

食後の一休みをしながら、瀬戸内海の歴史にくわしい作家森本繁氏の

「村上水軍のすべて」という本を読み返しました。

そのなかに「村上水軍武将列伝」と言う章があります。

村上水軍は中世期、南北朝の争いのなかで、南朝に加担した村上義弘

のもとで、瀬戸内海での勢力基盤をつくりました。

それが三つに分かれ、因島、来島、能島と三島村上水軍が形つくられて

いきました。

鳴滝山の熊野神社で見た案内文からすると、戦死した城主宮地恒躬の

嫡男大炊介明光はそのうちの因島村上水軍を頼ったことになります。

始めは鳴滝城の奪還を図ったのでしょうが、森本氏の書によると、

「後に(因島)中の庄の大江城に移り、ここが宮地氏の本拠となりました」

とあります。


中の庄には村上氏の菩提寺「金蓮寺」があり、文安6年(1449)宮地明光

とその子息宮地資弘が主君村上吉資のため薬師堂を建立したり、金蓮寺

の屋根を葺き替えたりしたと言われています。

また中の庄八幡宮も重修しています。

森本氏はそのころの宮地氏について「経済的に富裕な武将で、因島中の庄

の実権を握っていたにちがいありません」と言っています。

 


なぜそのような経済力が発揮できたのか。森本氏は資料などからこう考察

しています。

「この宮地氏は吉和鳴滝城主であった頃、木梨杉原氏の船奉行をつとめ、

備後内陸部の鷲尾山城(尾道市木ノ庄木梨)に本拠を置く杉原氏の外港吉和

で海運に従事していましたので、海事にくわしく、因島村上氏の下でも兵站輸送

関係の仕事を担当していたと思われます。

(中略)そればかりでなく「戊子入明記」という書物によりますと、享徳三年

(1454)に明国へ渡航した船として「備後国院(因)島熊野丸、六百石」があげられて

いますから、宮地氏は備中入道吉豊の亡きあと、その嫡子備中守吉資を助けて、

対明貿易にも従事していたことがわかります。」

 

「なるほどね」となにか新しい発見でもしたような気持ちでした。

宿の主人が「この場所からしまなみ海道を越えて反対側に行くと、中の庄と

いうところがあるけど、そこは宮地という家がいっぱいあるね」ということでした。


<18日朝、因島中ノ庄>

わが妻小浪はこのような旅先では、日々のくらしではあまりぼくには見せない

積極性を発揮します。

その朝6時すぎ、がばっと起き上がり、「朝日、見に行かない」とぽつんと言って、

ぼくが「いやあ」とかなんとか考えているうちに、あれよという間に宿を飛び出して

小浪はデジカメに朝日が昇るときの様子を撮ってきて、「それ、見てみな」と満足気

でした。

8時前に宿を出て、すぐ中の庄に着きました。

朝市が開かれていたので、そこに顔を出してみました。


お店のテントに宮地という名前がついていたり、テーブルに並べられているケーキ

や野菜にも宮地と生産者の名前が見えました。

そうなると、俄然親しみの感情がわいてくるものです。

   

<八幡神社(別名隠島神社)を訪ねました>

朝市をやっている広場の北側が山になっていて、坂を上っていくと金蓮寺や

村上水軍城博物館があり、その反対側、南のほうに山並みが連なっていて、

その一番手前の山の中腹に八幡神社らしきものが見えました。

行ってみると、神社の長い石段が急勾配についています。

えらいことだと思いながら、上がりきったところ、また次の石段が同じぐらいの

長さで待っていました。「はあはあ」とぼくは息をついていますが、太郎や桃子は

石段の左右に並んでいる、神社に寄進した人の石柱の名前に宮地が多いことや

「あっ、宮地の隣に松浦もある」

「あっ、ここにも」

「信二くん(桃子の夫君、松浦姓)とは、なにか縁があったのよね」と騒いでいました。

境内は手入れが行き届いて、荒れたようすがどこにもなく、清楚な静けさにつつまれて

いました。

急斜面に神殿がいくつも建てられていて、それを繋ぐ回廊もあり、独立した神殿の

周囲は庭園のような佇まいでありました。

人影には行き会えませんでしたが、多くの人たちがこの神社には手をかけていることが

想像されました。本殿前の鳥居から、遙か向かい側の山に村上水軍城博物館が

見えました。しばし中の庄というところの空気を吸いながら往事に思いを馳せました。




 < 金蓮寺と村上水軍城博物館>

金蓮寺は山の中腹に斜面を背にして本堂があり、周囲は段をなして墓が立ち並び、

境内を扇形に見下ろしている風情になっていました。

村上氏一族の墓があるというので、本堂左にある坂道をのぼりました。

ちょっと行くと、その左側の一角が村上氏一族の墓で、「どの墓石が誰のものかは

分らなくなっている」と案内が書いてありました。

太郎が「ここに宮地の名前の墓がある!」「あっ、上の段にもあるわ」と新発見の

声をあげていました。

村上氏と宮地氏のつながりは、深かったのかもしれません。


博物館は山の頂上にありました。

水軍の城としては、そこからはどこにも海が見えません。

そのはずです。そこは博物館であって、往古の水軍城は因島の南端の岬に

あるとか。

太郎は水軍の兵士が往古着用していた観光客用の鎧兜に身をかため、

桃子らがわいわい言いながらその写真を撮っていました。

博物館には村上氏と金蓮寺と宮地氏の関係をうかがわせる文が刻まれた

瓦などが展示されていました。

金蓮寺の山門の右に尾道市因島史料館もありました。

ここでは因島の人々が瀬戸内海海運を通じて暮らしてきた足跡をたどって

います。

パンフレットをもらって、よく読んでみると、「展示史料概要」という欄に

こんなことが書かれてありました。

「・・港町として発展した尾道を中心に、芸予諸島は、中世・近世の帆船時代、

潮待ち、風待ちの港として、多くのの商船で賑わい、浦々は交易で栄え、

警護の武士集団として村上水軍が活躍した。

関が原の戦後、村上氏は毛利氏に従って防長に移り、交易などこれまでの

生業は否定され、家老職にあった宮地家を中心に、島に残った家臣団の

多くは、海運・造船・水産業・製塩・農業などに従事した。・・・」

解説としては、因島は帆船など造船の基地でもあり、江戸の経済を支えた

北前船や菱垣廻船などでその時代の海運に貢献したとありました。
 

また中の庄から輩出した世界的な人物として、天文学者の宮地政司、

動物学者の宮地伝三郎が紹介されていました。

宮地伝三郎はサルの研究をされた方とぼくも知っていて、まったく知己でも

ないのに懐かしいと言う気持ちが出てきました。

(だから、どうとかいうことはないのですが)

 

 

< この後村上水軍城跡を訪ね、因島公園の頂上から瀬戸内海を眺望しました>

先祖宮地を訪ねる旅は、今回は金蓮寺で終わりました。

旅から帰ってきて、史料などみていたら、中ノ庄で宮地氏が本拠としていた

「大江城跡」というのが、どうも「八幡神社」のとなりあたりにあったようです。

朝市のとき、“宮地おばさん”に聞いたとき「さあてね、あまりきいたことない

ねえ」という反応だったので、深追いしなかったのですが、その道の人の間

では「ここ」とはっきりしているようでした。

村上水軍というのはどんな集団だったかという問いでしらべはじめたら、

またどんどん興味がわいてきそうです。

今回も宮地の先祖をたどるとしたら、村上水軍のことを調べなければ分らない

ことでした。でも今は、この辺で踏みとどまったほうがよさそうです。

今回の旅では、因島公園の頂上からすばらしい瀬戸内海とそこにつらなる

島々の景観に見とれてきました。

この観光のあと、三島村上水軍の一つ「能島村上水軍跡」にも行ってきました。

うず潮体験という観光船で水軍城のあった島をめぐってきました。

水軍の拠点があった島の周りには、島の配置によるのでしょうか、ものすごい

勢いの潮の流れができていて、それがぶつかりあい、渦をつくっていきます。

帆船時代、この潮の流れを熟知したものでなければ、その付近は航行できない

というのは、十分に肯けました。

太郎は潮に翻弄される船の縁にしがみついていました。

桃子と小浪は存外平気らしく、桃子は太郎の緊張した顔をパチパチ撮るし、

小浪はこれでもかとばかり、うず潮のようすを撮影していました。

水しぶきを浴びながら、海とか島とか船を暮らしの基盤にしてきた人たちが

いたんだなあと、思いはじめています。

学校とかでは、奈良時代、平安、鎌倉、室町など、陸地それも京都を中心にして

歴史を習ってきましたが、この辺も今回の旅では「どうだったんかな」という感想

ですが、これはこれからの宿題にして、この辺でいったん区切りにしたいと思います。


        (つづく)

 

 

 


先祖を訪ねる旅(1)

2016-10-28 08:06:31 | 家族あれやこれや

何かがキッカケで、親近感が湧くときがあります。

フェースブックで同じ苗字の”宮地”さんと友だちになっています。

先日、ぼくの父や祖父のふるさと”尾道”の風景写真を載せて

いました。

8年ほど前、先祖を訪ねる旅のこと思い出して、コメントしました。

その宮地さんから因島の中ノ庄の出身と聞いて、ますます近親感が

生まれました。

その時書いたレポートを探してみました。ありました。

これは、人に見てもらうというより、自分の記録ということの気持ちが

大きいかな。何か、残しておきたいみたいな・・・


 

先祖を訪ねる尾道・因島への旅レポート

                   2009年10月22日

 10月17日(土)から10月18日(日)かけて、ぼくら夫婦と太郎、桃子の4人で

尾道・因島の旅に行ってきました。

目的は、尾道にある祖父宮地基三の墓参りでしたが、祖父の背後につながって

きている先祖を訪ねる試みでもありました。訪ねた順にレポートします。

 

<10月17日正午前 尾道市宝土寺>

山陽線のガード下をくぐって、すぐ左に上る坂をあがって境内に入りま

した。

本堂の隣に玄関があり、そこで声をかけると、僧衣のお坊さんがにこやか

に現われました。玄関右の座敷にあげていただきました。

以前、来たときは薄暗い、陰気な印象でしたが、今回は最近、改築した

ばかりのようで、とても明るかったです。

住職は「お兄さまの手紙を見させてもらいました」とさっそく、この寺に

埋葬されている“宮地”と名のついている人を年代ごとに「過去帳」から

抜書きしたメモを見せてくれました。

それによると、
宮地儀八郎     明治22年3月18日亡
宮地良平      明治22年6月28日亡
宮地良平の妹タキ  明治22年7月26日亡
宮地竜造の母トヨ  明治25年1月6日亡
宮地義一      明治44年1月30日亡
宮地アサノ     昭和3年4月19日亡
宮地基三      昭和19年3月27日亡
宮地はる      昭和37年1月14日亡
宮地寿子      昭和42年2月3日亡     


このメモの人たちすべて祖父宮地基三と血縁があるかどうかは分りません。

墓参りでは、住職が短いお経を詠んでくれました。

太郎が墓を掃除しはじめました。

タワシを見つけてきて、墓石をゴシゴシ磨きはじめました。

見ていた桃子も水を運んできたり、タワシでこすったりしていました。

この旅の言いだしっぺは、実は太郎です・

太郎にあらためて「なんで祖父の墓参りなんておもいついたんだ?」と聞くと、

「細木かずこのテレビを見て、先祖の供養をすると、その人の厄が落ちるとか聞いて

たんで・・・」

そんなのは一時の思いつきぐらいなものと一瞬、思いましたが、太郎が「尾道は

いいとこだ。墓も俺が見てもいい」とか。

 「へえー」とぼく。

 

<17日午後1時前 尾道商店街にある「みやち」という中華そば屋で昼食>

小さな店でした。入口は商店街に面していませんでした。

ちょっと暗がりになっている路地の方に、一間間口の戸がついている。

店内は2,3坪程度の広さで、壁に向かってカウンターがあり、それが食卓に

なっていました。

席は12人分。老夫婦で切り盛りしていました。

行ったときは、5,6人のお客さんが路地のところに並んで、席が空くのを

待っていました。

この人たちは観光客ではなく、根っからの地元の方たち。

「ここのは、豚骨スープの“尾道ラーメン”と違って、薄味のラーメンなのよ」

と並んでいたおば様が解説してくれました。

20分ほど待って、ラーメンを食べましたが、行列ができるだけのことはあると

思いました。

薄味というか、すぐに辛いとか甘いとか表現できない、とてもコクのある

スープでした。

とっても忙しいそうなので、「みやち」の由来を聞くタイミングが見つけられ

ませんでした。

食べおわって、席を立ったとき、店のおかみさんがレジの前に立った隙に、

「この“みやち”は宝土寺に墓がある“みやち”と関係がありますか」と

尋ねました。「いや、うちは別の寺ですよ。ねえ、あんた」

ご主人も「ああ、そうです」・・・直接のつながりはなさそうでしたが、ラーメン

のスープの、なんともいえない後味のよさに、4人とも満々足でありました。

 

 

<尾道商店街散歩>

昼食のあと、一行はなんとはなしに甘味のお店で一服したいような気分で

まとまりました。

尾道商店街を尾道駅の方へぶらぶらと歩きました。


結局、駅のそばにある林芙美子のゆかりの喫茶店に入ることにしました。

商店街のなかほどで尾道の歴史展が開かれているので、これから行く

「鳴滝山の宮地城」についての情報はないかと寄ってみました。

若い男の役所の職員みたいな人が、「それは伝説ではあるようですが・・・」

と何度もいいながら、写真入りの尾道史跡図鑑のようなものを持って

きてくれました。

鳴滝山は国立公園になっていて、「宮地城」といった名前では地域の人々

には知られていないようでした。

図鑑写真にはたしかに鳴滝山の写真が載っていました。

でも、そのページの右下に、「管理責任者 宮地太郎」と小さく印刷して

ありました。

一同、「ここにも宮地太郎がいる!」とどよめきました。

「もし、会えたら会いたいね」

 

<17日午後2時ごろ、鳴滝山に登る>


車で頂上の下まで行くことができました。

標高400メートル、頂上から尾道や瀬戸内海の島々の眺望が素晴らしいと

聞いていました。

頂上までは10分ほどでした。僕以外はさっさと上りました。

ぼくは、はあはあと息をととのえながら上りました。

しかに眺望は見事でした。

その日はすこし霞んではいましたが、眼下の街並みや海にかこまれた

島々の佇まいにはしばし言葉もなく、「ああー」とか言いながら見とれて

いました。

「宮地城って、あの左下に見える、ほら岩肌が突き出している、あの小山

じゃないか」

みんなでその小山に焦点を合わせるとたしかに、いにしえに城を築くとした

ら、あんなとこにするかもしれないと思えてくるのでした。

もし、そこが城跡だとすれば、管理責任者の「宮地太郎」さんもその近くに

住んでおられるかも。

頂上から下り始めたところで、地元の方らしいお年寄が上ってくるところに

出会いました。

これ幸いに、お城跡と宮地太郎さんのお宅について尋ねました。

「ああ、ここを降りたら、お城があったと言われるところにいけますよ。

でも、いまはなんにもないですよ。宮地さんねえ、たしか竹林のきれたところを

右にいけば集落があるから、その辺に住んでいると思うがな」

さすが、地元の方でした。すこし、わくわくしてきました。

車で言われた竹林を過ぎたところに来ました。右下の斜面に農家が数軒寄り

添うようにたっていました。

太郎は勢いよく坂道を下りました。最初に右にあった家に飛び込んでいき

ました。つぎにぼくがその下の家に行きました。名前が違いました。

桃子は反対側の家に入っていきました。しばらくして、「こっちだよ、宮地だよ」

とみんなを呼びました。

門はあるのですが、鉄筋を十字に編んだ柵があってはいれません。

門の脇に細い通路があって、家の裏がわにつながるところをおそるおそる、

なかに進んでいきました。そうしたら、崖の下にあるその家の台所がある

ところに、二人の老人がなにかしていました。

そのうちの一人の方がはじめ、とっても怪訝な顔されて、ぼくらを見つめて

おられました。その人は野良着に、地下足袋すがたで、いかにも農家の

お年寄というふうに見えました。

来意を告げたら、少し緊張が解けたようすでした。

「宮地太郎というのは、私の祖父です。もう亡くなっています。たしかに、

そこの小山は城がありました。いまは、山の頂上と神社の土地を私が

管理しています。この家も実は普段は住んでいないのです。

息子たちをここで住まわせるように育ててきていないので・・・今日はたま

たまガス屋さんが点検にくるというので、今しがたここに来たところなんですよ。

最近は、イノシシが家の中まで入り込んできて、荒らしていくのです。

周りに柵をしているのはそのためです。」
 
宮地さんに、この日、この時間にたまたまお会いできたのは、ほんとに偶然

でした。

宮地さんとは、記念写真をとって、別れ、そのあと、宮地さんが管理している

熊野神社に参拝に行きました。

 

○<鳴滝熊野神社>
 

集落から少し離れたところに神社はありました。

神社は正面にお堂があり、その隣の祠があるだけの、簡素なものでした。

境内には鳴滝山城跡の歴史と熊野神社の由来の案内板がありました。

先ほどお会いした宮地駿明さんが、古い資料をあたってしらべて書いたもの

だと聞きました。

 「鳴滝城跡
   

元享年中(1321-1323)宮地次政が築城、広義、広俊、恒躬と4代に

わたって受け継がれたが、100年後の応永30年(1423)、美の郷に

大平山城を構える、木須経兼の奇襲にあい、恒躬は久山田の守武谷で

戦死し、夫人鈴御前(木ノ庄木梨杉原氏の娘)も栗原門田まで逃げたが

殺され、その子明光は幸い落ちのび、因島の村上氏を頼って城の奪回を

図るが、◯◯◯らす、三原市仏通寺に◯つて◯◯と号した。

しかし、群山豪族の拠点となった山◯の離合集散は激しく、間もなく宮地

一族は鳴滝山に住みついた。」


「熊野神社

応永3年(1402)鳴滝山城の守神として鎮座されたと伝えられ、熊野三社神

のほか、伊邪那美命が祀られている。

また同社僧覚峰が筑紫から紀州大峰山に神命をおび赴く途次、この◯◯で

船が動かなくなり、神のお告げをうけ、山上に勧請したと言われている。
      

西光寺旧跡
 鳴滝山二代目城主宮地広義が嘉暦3年(1328)建立した。

この寺は頂上にあって当時72坊をそなえ、近くの鉢が峯、弥次池を行場とする

山伏たちの吹き鳴らす法螺貝の音が山や谷をゆすったものとみられ、応永30年(

1423)鳴滝城奇襲の際、寺は灰塵にきし、建てかえられた。」



熊野神社本殿の横に寄進者の氏名一覧。やはり宮地姓が多かった。


    (つづく)