何かがキッカケで、親近感が湧くときがあります。
フェースブックで同じ苗字の”宮地”さんと友だちになっています。
先日、ぼくの父や祖父のふるさと”尾道”の風景写真を載せて
いました。
8年ほど前、先祖を訪ねる旅のこと思い出して、コメントしました。
その宮地さんから因島の中ノ庄の出身と聞いて、ますます近親感が
生まれました。
その時書いたレポートを探してみました。ありました。
これは、人に見てもらうというより、自分の記録ということの気持ちが
大きいかな。何か、残しておきたいみたいな・・・
先祖を訪ねる尾道・因島への旅レポート
2009年10月22日
10月17日(土)から10月18日(日)かけて、ぼくら夫婦と太郎、桃子の4人で
尾道・因島の旅に行ってきました。
目的は、尾道にある祖父宮地基三の墓参りでしたが、祖父の背後につながって
きている先祖を訪ねる試みでもありました。訪ねた順にレポートします。
<10月17日正午前 尾道市宝土寺>
山陽線のガード下をくぐって、すぐ左に上る坂をあがって境内に入りま
した。
本堂の隣に玄関があり、そこで声をかけると、僧衣のお坊さんがにこやか
に現われました。玄関右の座敷にあげていただきました。
以前、来たときは薄暗い、陰気な印象でしたが、今回は最近、改築した
ばかりのようで、とても明るかったです。
住職は「お兄さまの手紙を見させてもらいました」とさっそく、この寺に
埋葬されている“宮地”と名のついている人を年代ごとに「過去帳」から
抜書きしたメモを見せてくれました。
それによると、
宮地儀八郎 明治22年3月18日亡
宮地良平 明治22年6月28日亡
宮地良平の妹タキ 明治22年7月26日亡
宮地竜造の母トヨ 明治25年1月6日亡
宮地義一 明治44年1月30日亡
宮地アサノ 昭和3年4月19日亡
宮地基三 昭和19年3月27日亡
宮地はる 昭和37年1月14日亡
宮地寿子 昭和42年2月3日亡
このメモの人たちすべて祖父宮地基三と血縁があるかどうかは分りません。
墓参りでは、住職が短いお経を詠んでくれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/15/02/d8d176ad8ed9d0f429b54efdf3e74fc0_s.jpg)
太郎が墓を掃除しはじめました。
タワシを見つけてきて、墓石をゴシゴシ磨きはじめました。
見ていた桃子も水を運んできたり、タワシでこすったりしていました。
この旅の言いだしっぺは、実は太郎です・
太郎にあらためて「なんで祖父の墓参りなんておもいついたんだ?」と聞くと、
「細木かずこのテレビを見て、先祖の供養をすると、その人の厄が落ちるとか聞いて
たんで・・・」
そんなのは一時の思いつきぐらいなものと一瞬、思いましたが、太郎が「尾道は
いいとこだ。墓も俺が見てもいい」とか。
「へえー」とぼく。
<17日午後1時前 尾道商店街にある「みやち」という中華そば屋で昼食>
小さな店でした。入口は商店街に面していませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/25/c3/42078f76afc8b46b78cb8af9d00815c0_s.jpg)
ちょっと暗がりになっている路地の方に、一間間口の戸がついている。
店内は2,3坪程度の広さで、壁に向かってカウンターがあり、それが食卓に
なっていました。
席は12人分。老夫婦で切り盛りしていました。
行ったときは、5,6人のお客さんが路地のところに並んで、席が空くのを
待っていました。
この人たちは観光客ではなく、根っからの地元の方たち。
「ここのは、豚骨スープの“尾道ラーメン”と違って、薄味のラーメンなのよ」
と並んでいたおば様が解説してくれました。
20分ほど待って、ラーメンを食べましたが、行列ができるだけのことはあると
思いました。
薄味というか、すぐに辛いとか甘いとか表現できない、とてもコクのある
スープでした。
とっても忙しいそうなので、「みやち」の由来を聞くタイミングが見つけられ
ませんでした。
食べおわって、席を立ったとき、店のおかみさんがレジの前に立った隙に、
「この“みやち”は宝土寺に墓がある“みやち”と関係がありますか」と
尋ねました。「いや、うちは別の寺ですよ。ねえ、あんた」
ご主人も「ああ、そうです」・・・直接のつながりはなさそうでしたが、ラーメン
のスープの、なんともいえない後味のよさに、4人とも満々足でありました。
<尾道商店街散歩>
昼食のあと、一行はなんとはなしに甘味のお店で一服したいような気分で
まとまりました。
尾道商店街を尾道駅の方へぶらぶらと歩きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5d/c5/1872895eae4e5b01be8f6910b03e0c2f_s.jpg)
結局、駅のそばにある林芙美子のゆかりの喫茶店に入ることにしました。
商店街のなかほどで尾道の歴史展が開かれているので、これから行く
「鳴滝山の宮地城」についての情報はないかと寄ってみました。
若い男の役所の職員みたいな人が、「それは伝説ではあるようですが・・・」
と何度もいいながら、写真入りの尾道史跡図鑑のようなものを持って
きてくれました。
鳴滝山は国立公園になっていて、「宮地城」といった名前では地域の人々
には知られていないようでした。
図鑑写真にはたしかに鳴滝山の写真が載っていました。
でも、そのページの右下に、「管理責任者 宮地太郎」と小さく印刷して
ありました。
一同、「ここにも宮地太郎がいる!」とどよめきました。
「もし、会えたら会いたいね」
<17日午後2時ごろ、鳴滝山に登る>
車で頂上の下まで行くことができました。
標高400メートル、頂上から尾道や瀬戸内海の島々の眺望が素晴らしいと
聞いていました。
頂上までは10分ほどでした。僕以外はさっさと上りました。
ぼくは、はあはあと息をととのえながら上りました。
しかに眺望は見事でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6d/e8/d1ea7c284f0be20141f5a84badc2aab3_s.jpg)
その日はすこし霞んではいましたが、眼下の街並みや海にかこまれた
島々の佇まいにはしばし言葉もなく、「ああー」とか言いながら見とれて
いました。
「宮地城って、あの左下に見える、ほら岩肌が突き出している、あの小山
じゃないか」
みんなでその小山に焦点を合わせるとたしかに、いにしえに城を築くとした
ら、あんなとこにするかもしれないと思えてくるのでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/16/b2/81759f69ccb17327393b34b075985732_s.jpg)
もし、そこが城跡だとすれば、管理責任者の「宮地太郎」さんもその近くに
住んでおられるかも。
頂上から下り始めたところで、地元の方らしいお年寄が上ってくるところに
出会いました。
これ幸いに、お城跡と宮地太郎さんのお宅について尋ねました。
「ああ、ここを降りたら、お城があったと言われるところにいけますよ。
でも、いまはなんにもないですよ。宮地さんねえ、たしか竹林のきれたところを
右にいけば集落があるから、その辺に住んでいると思うがな」
さすが、地元の方でした。すこし、わくわくしてきました。
車で言われた竹林を過ぎたところに来ました。右下の斜面に農家が数軒寄り
添うようにたっていました。
太郎は勢いよく坂道を下りました。最初に右にあった家に飛び込んでいき
ました。つぎにぼくがその下の家に行きました。名前が違いました。
桃子は反対側の家に入っていきました。しばらくして、「こっちだよ、宮地だよ」
とみんなを呼びました。
門はあるのですが、鉄筋を十字に編んだ柵があってはいれません。
門の脇に細い通路があって、家の裏がわにつながるところをおそるおそる、
なかに進んでいきました。そうしたら、崖の下にあるその家の台所がある
ところに、二人の老人がなにかしていました。
そのうちの一人の方がはじめ、とっても怪訝な顔されて、ぼくらを見つめて
おられました。その人は野良着に、地下足袋すがたで、いかにも農家の
お年寄というふうに見えました。
来意を告げたら、少し緊張が解けたようすでした。
「宮地太郎というのは、私の祖父です。もう亡くなっています。たしかに、
そこの小山は城がありました。いまは、山の頂上と神社の土地を私が
管理しています。この家も実は普段は住んでいないのです。
息子たちをここで住まわせるように育ててきていないので・・・今日はたま
たまガス屋さんが点検にくるというので、今しがたここに来たところなんですよ。
最近は、イノシシが家の中まで入り込んできて、荒らしていくのです。
周りに柵をしているのはそのためです。」
宮地さんに、この日、この時間にたまたまお会いできたのは、ほんとに偶然
でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6c/59/a1234de86e24019d0945a83d88628b1c_s.jpg)
宮地さんとは、記念写真をとって、別れ、そのあと、宮地さんが管理している
熊野神社に参拝に行きました。
○<鳴滝熊野神社>
集落から少し離れたところに神社はありました。
神社は正面にお堂があり、その隣の祠があるだけの、簡素なものでした。
境内には鳴滝山城跡の歴史と熊野神社の由来の案内板がありました。
先ほどお会いした宮地駿明さんが、古い資料をあたってしらべて書いたもの
だと聞きました。
「鳴滝城跡
元享年中(1321-1323)宮地次政が築城、広義、広俊、恒躬と4代に
わたって受け継がれたが、100年後の応永30年(1423)、美の郷に
大平山城を構える、木須経兼の奇襲にあい、恒躬は久山田の守武谷で
戦死し、夫人鈴御前(木ノ庄木梨杉原氏の娘)も栗原門田まで逃げたが
殺され、その子明光は幸い落ちのび、因島の村上氏を頼って城の奪回を
図るが、◯◯◯らす、三原市仏通寺に◯つて◯◯と号した。
しかし、群山豪族の拠点となった山◯の離合集散は激しく、間もなく宮地
一族は鳴滝山に住みついた。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/19/9b/77d80e29c2f747e8afd24f86c60b0315_s.jpg)
「熊野神社
応永3年(1402)鳴滝山城の守神として鎮座されたと伝えられ、熊野三社神
のほか、伊邪那美命が祀られている。
また同社僧覚峰が筑紫から紀州大峰山に神命をおび赴く途次、この◯◯で
船が動かなくなり、神のお告げをうけ、山上に勧請したと言われている。
西光寺旧跡
鳴滝山二代目城主宮地広義が嘉暦3年(1328)建立した。
この寺は頂上にあって当時72坊をそなえ、近くの鉢が峯、弥次池を行場とする
山伏たちの吹き鳴らす法螺貝の音が山や谷をゆすったものとみられ、応永30年(
1423)鳴滝城奇襲の際、寺は灰塵にきし、建てかえられた。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/69/21/a2a69cca5f6ebcd2b226aa625f31faca_s.jpg)
熊野神社本殿の横に寄進者の氏名一覧。やはり宮地姓が多かった。
(つづく)