かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

どじの味

2017-09-30 16:21:29 | 家族あれやこれや

朝方は雲にさえぎられていた秋の空は、お昼ごろ、真っ青に

澄み渡り、天空から陽の光が眩しいほどになった。

今日は、孫晴空の運動会。小学6年、これが最後だ。

大阪のパパが、朝からやってきていた。

 


ジジとババは、午後1時ごろ、組み体操で晴空の出番があると

聞いて出かけた。

小学校まで歩いて行った。ちょうど、日課の散歩のつもりで。

暑かった。

校庭の周りは、両親やジジ・ババで一杯だった。

人ごみのなかで、娘と会えた。

「晴空、徒競走でころんじゃったの。それで、わーっと泣いちゃた

のよ。席に戻っても、泣いていて、友だちからなぐさめられていたわ」

どうも、一番で走っていたらしい。悔しかったのかなあ。

「今は、気持ち切り替えているけど、どうなるか心配しちゃった」

(徒競走)

(綱引きは気持ち切り替えて)

 

晴空の出番まで、木陰で坐って待つことにした。

娘がマスカットをすすめてくれた。

「このマスカット、学校に行けない4年、5年のとき、担任の

先生とは別に、毎朝、「今日はどうする?」と訪ねてくれていた

先生から差し入れてもらったもの」だという。


 

3年生の後半から5年生まで、学校に行かなくなった。

一日中、部屋にいて、ひたすらゲームをしていた。

そういえば、結構、その2年間、いろいろなことがあったなあ。


同じアパートと近くのマンションに同学年の女の子が4人いた。

晴空は男一人。

この5人は、晴空の部屋には出入り自由。娘が、玄関をオープン

にしているからか。

玄関の前は、広いプラットホームのようになっている。

晴空が学校に行ってなくとも、下校してきた4人の女の子が

玄関前で、よく車座になって、どうも学校の宿題をしているよう

だった。

晴空も、この仲間たちから誘われたときは、けっこう、いっしょに

遊んだりしていた。勉強をいっしょにしている姿は見かけなかった

けど。

 

晴空は、この女の子たちとは、相性がいいのか、お互い、拒むものが

ないように見えた。勉強していたかどうか、分からない。

いっとき、「晴空、学校に行かないのはずるい」みたいになったときが

あったようだ。

見てくれている学校の先生や近隣の親ごさんが温かく見守ってくれて

いつのまにか学校にいかない晴空を受け入れてくれるようになった。

 

6年生の新学期から、みんなと学校へ行くようになった。

どうして、行くようになったかなんて、とても「これがあったからよ」

とか、残念ながら、言えない感じがする。

娘が、晴空を部屋に一人にしておけないと職場に相談したり、晴空を

見ていて起きてくる自分の気持ちを相談する人がいたり、ホントに熱心に

晴空に毎日、声をかけてくれた学校の先生、この方はわが子のように

孫を受け入れてくれていた。今回の運動会にはブドウの差し入れも。

分かれたパパと娘の間柄が、晴空たちの親として、隔てがないように

なっていったこと、などなど。

周囲の社会の空気も・・・いろいろありながら。

 

組体操の前に、紅白対抗のリレーがあった。早い子が選抜される。

晴空は選ばれていない。

1年から6年まで、順番につないでいくんだけど、6年生のとき、

走りが、ずば抜けて見事な女の子がいた。

後で、聞くと、その女の子は、晴空も入っているご近所5人組み

の一人だという。

「あの子ってねえ、生徒会長なのよ。運動会の選手宣誓もしてたよ」

と娘。

 

 

組み体操は、オリンピックのイメージで5・6年生全員で行われた。



往時の、男どものワイルドさはない。いろいろ、パフォーマン

しながら、4段のピラミットをつくって、そこがクライマックス

だった。

ピラミットの解体も、一気につぶれることはなく、

そろそろ、上段から降りていく。


晴空にどうしても、目がいってしまう。

力んでやっているわけではなく、何かゆとりをもって楽しい

気持ちでやっているように見えた。

 

(そういえば、学校に行っていないときでも、運動会は参加して

いた、練習には行かなかったけど)

 

「さあ、退場!」と先生の号令。

晴空も笑顔でみんなの列を走って行った。

その後、すぐ「晴空、またころんだのよ」と娘。

ぼくには、見えなかった。

「今度は、泣いてないよ」

 

晴空見ていて、みんなから好かれている感じがした。

今回、2回ころんだんだけど、どこか”どじ”の味を醸し出して

いて、友だちをなごませているのかもしれない。

 

秋の空は、どこまでも澄み渡っていた。

「晴空」って名前、悪くないかもしれない。

 

 

 

 


雨の日のモーニング

2017-09-28 09:17:14 | 家族あれやこれや

朝、曇りから雨が降りそうな空模様。

「今朝は炭焼きコーヒーにモーニング行かないか」

「そうね、7時でやっているかしら」妻小浪。

「息子は?」

「起きていたら一緒に行こう」

 

マンションの玄関へ出ると、本格的雨になりそう。

妻とぼくは傘をさした。

息子は、傘なしで出かけた。

カフェまで歩くうち、結構降って来た。

 

モーニングを3つ注文する。

起きぬけのコーヒーを啜る。美味しい。後口もいい。

 

窓の外を見ると、雨がシトシト降っている。

雨の日が好きだ。

この間、本のあとがきで、雨の日が好きだという人が書いていた。

  

   --雨の日に閉じ込められる感じとうす暗さ、物が境界線を曖昧に

     し、植物や家や家具といった普段言葉を持たないものたちが、

     俄然生気を帯びるあのひそやかさ。書物の内側と外側、物語の

     内側と外側、は、雨の日にほとんど地続きになる。

 

この感じがどんなところか出てくるか、もっと聞いて見ないと分からないが、

雨の日に、シトシトと雨音を聞きながらの時間は心やすまる。

 

ふと、帰るとき、三人で傘が2本、どうやって雨に濡れないで帰宅できるか、

が話題になった。

「先ず、息子が傘をさして、わが家の車を取りにゆき、迎えにくる」

妻はこの案がいいと思っているふうに感じた。

「一組はアイアイ傘で、歩いて帰る」ぼく。

いくつか、選択肢がありそうだとなってきた。

「お店で傘を借りることも出来る」と息子。

「娘に連絡して、車で迎えにきてもらう」妻。

妻は、息子に「ほんとうはどうしたい」と問いかけた。

「いや、おかあさんがそうしたいなら、そうするよ」

・・・・・

「いや、ちょっと待って。どうするか、に行く前に、もっと

選択肢がないか、考えてみるのはどうか。

息子。「うーん、もうじき雨は止むかもしれないし、そこまで待っても

いいのかなあ、と思っている」

「ここに居座るのもね」妻。

「いや、結構長く坐っている人もいるよ」息子。

「うーん、いまは周りの事情や、他の人の思いを斟酌するまえに、

自分がどうしたいか、を見るのをやるのはどうかな」ぼく。

 

(これまでのことが浮かんでくる。どこかに、どうするのが、いちばん

いいのか、自分で決めようとする傾向がありそう。意識の上には

はっきり上ってきていなかったんだけど・・・)

 

そうだよな、まず始めに「いちばんいい」というところをやるという

思い込みがあるときは、いろいろな選択肢がでてこないだろうな。

そんな感じがした。

 

「どうする?」というほうにいかないで、それぞれの気持ちを確かめ合う

雰囲気になると、こうして3人でいることが懐かしい気持ちになった。

3人は、それぞれ外の雨の様子を見ながら、落ち着いていた。

 

息子とぼくら夫婦は、いつからか8時ごろ、モーニングとか言って、

寄るようにしているが、最近はテレビを見て、妻は洗濯ものを干し、

ぼくは朝のトイレに行くということで、なんとなく終わっていた。

 

暮らしにも、ちょっと変化が加わると、見えなかった部分が照らし

だされるのかもしれない。

 

 


病気が好きになる

2017-09-24 15:39:16 | わがうちなるつれづれの記

なぜか、以前から精神科医の中井久夫さんの書いたものが好きで

読んでいた。

専門的な分野の話になると、さっぱり分からないが、視点の置き方に

見えなかったものに、新たな焦点があたり、実際どうなのだろうと、自分の

見え方をもう一度、確かめてみるときが多かった。

 

最近読んでいたなかに、個人的な体験とことわった上で、

 

 「病気から回復するには、自分の病気が好きになったほうがいい」

 

という一節が目に留まった。

これは、「結核患者が回復のリズムを巧みにとらえ、その波長に生活を

合わせてきた人がもっともよく治療した」と言う文脈で語られていた。

結核は身体の病いと見られることが多いが、感染したことによるさまざまな

精神的なダメージ、病気否認、焦りが回復を阻むことがあるらしい。

 

  「自分の病んだ臓器が親しい隣人のように、なつかしく感じられるよう

なったとき、彼からそっと離れていくようだ。「また近づいてきたら,

 いつでもお付き合いしましょう」という気持ちでいると、彼はかえって

 やって来ない」

 

これには、ハッとさせられた。

自分は、心臓疾患を抱えている。

いま、こう書いてみて、「抱えている」という言葉のもとの心の状態って

どんなかなと、いま思った。

昨年12月から心室の頻脈が、何回も起こり、アブレーション手術も

4回やった。

だから、もう起きないとはいえないと、医師から伝えられている。

 

その間、この疾患と闘うとは、意識のうえでは考えていなかった。

むしろ、不整脈が起きたらそれに影響うけるが、それが起きて

いないときは、他の臓器や細胞などが精一杯、「それならそれで」

と働いてくれているのが実際なんじゃないか、と思っていた。

うーん、というより、「言い聞かせて」いたといってもいいかなあ。

 

「自分の病んだ臓器が親しい隣人のように」なんて、思いもしなかった。

結核患者の方には、心の奥に、病気否認という、意識されない状態が

あるらしい。

ふりかえれば、2013年心室頻脈で心肺停止になったときも、その後

心臓の上にペーシングつき除細動器を植え込んだときも、内心の不安が

ありながら、つとめて当たり前に普通に暮らせる、と振舞っていたの

かも。

そうかもしれない。

自分の疾患がどんなものか、向き合わず目を背けていたかも。

 

   「自分の病んだ臓器が親しい隣人のように」

 

最近、夜中よく眠れないことがある。

どうも、寝床に入る、どうしても心臓の鼓動に関心が集中する。

除細動器の電気ショックが起きるかもと、どこかで気にしている。

 

そういうものが、考えたら無くなるとは思えない。

先ずは、自分がどんなこころの状態にいるか知るところから、

はじめるしかないかな。

そういう自分とも付き合いながら。

 

 

 


無銭旅行

2017-09-24 10:15:13 | わがうちなるつれづれの記

秋晴れの午後。

机の周辺の整理をした。

机のシートの下から一枚の写真が出てきた。

高校1年の夏休み、クラスメートと日光から小岩井農場まで無銭旅行を

したときのものだ。

なんで、そんなところにあったのか、覚えがない。


 話を持ちかけたのは、ぼくだったと思う。

よくぞ、彼が乗ってくれたものだ。

記憶は途切れ途切れ。

日光から福島に抜ける山ん中で、一見の農家に泊めてもらった。

おばあちゃんが漬物を出してくれた。酸っぱかった。

五色沼から山形へ。炎天下、延々と歩いた。

ヒッチハイクの車が来なかったんだろう。

仙台では女子大の教室に止めてもらった。

北上川の川辺の農家に休ませてもらい、そこの娘さんからリンゴ

もらったり、ちょっと甘い時を過ごした。

小岩井農場は、夏というのにストーブを焚いていた。

ご飯に牛乳を入れて、振舞ってくれた。

牛乳はバターのようだった。

友だちは、そこで、もう帰ろうとはっきり、強く主張した。

この旅のなかで、はじめてだった。

心残りはあったけど、二人、帰路についた。

旅の途中、お互い、どんな気持ちだったか。

聞いてみたい気もする。

10日間の旅。

その頃、無銭旅行といっても、社会が受け入れてくれていたんだなあ、

と振り返る。

牧歌的な社会気風は失いたくないなあ。

(友人は今、横浜で額縁研究所を成功させて、いま悠々自適の

暮らしをしている)

 


病は市に出せ

2017-09-22 13:54:31 | アズワンコミュニテイ暮らし

台風18号通過の深夜2時ごろ、除細動器の電気ショックが起きた。

寝苦しいなと何回か寝がいりを打っているときだった。

「うおー!」と思わず声を発している。

隣に寝ている妻が目を覚ました。

「夢でもみたの?」

妻には、電気ショックのことは分からない。

7月に心室の頻脈(不整脈)が起きたときは、3回少し間をおいて、

電気ショックが起きた。

そのときは、さすがに救急車を頼んで、入院した。

その晩、また起きるかなと様子を見た。

妻に血圧計をベットに持ってきてもらい、測ってみた。

血圧80-50、脈拍70。

だいたい、毎日測っている数値だ。

脈拍は、最近74とか77とか、不安定だったけど、除細動器で設定

しているペーシング、脈拍70におさまっている。

何回か測ってみたけど、脈拍が上がっていない。

除細動器が心室頻脈を止めてくれたのかもしれない。

心細かったけど、深夜どうもできない。

夜が明けて、9時ごろ三重大病院に相談しようと思っているうち、

寝てしまった。

朝起きて、胸の辺りから、「ピーポー」というアラームが鳴る。

「何だろう」不安な気持ちになった。

台風一過の18日祝日。病院は、代表にかけると警備室の番号を

教えてくれる。電話をかけると、事情を聞いてくれて、ぼくの場合は

循環器内科病棟のナースステーションに電話を繋いでくれる。

看護婦さんが出てくれて、事情を説明する。

たまたま、7月入院していたときの担当医師がいて、「今、何も起きて

ないなら、明日診療を受けにきてください」と看護婦さんに伝言。

その日、ちょうど外来の担当医の診療日だったので、待つことにした。

アラームについて、どんなことか、除細動器の設定を見てくれている

臨床理学技師さんに聞いてほしいと伝えた。

昼ごろ、看護婦さんから電話があり、明日診療のとき、チェックします

ということだった。

 

翌日の診察は、担当医のパソコンには、電気ショックがあったことの

レポートがアップされていた。遠隔で、情報が担当医や臨床理学技師に

伝わる仕組みになっているらしい。

医師「除細動器のレポートみると、8/16、17にも不整脈起きていますね。

このときは、電気ショックを起こす前に、その治療を除細動器がしてくれた

ということですね」

7月のときは、除細動器が働かなくなっていた。

今回は、働いてくれたということになるのかな。

「これによって、ベットで安静とかして、リハビリでも普段の暮らしも、

やめないほうがいいですよ」というアドバイス。

除細動器は技師さんがチェックしてくれて、アラームはレポートを受けとり

ましたと、確認したので、もう鳴らないです」ということだった。

 

7月の入院のときは、電気ショックが日に何回も起きて、さすがに「助けて

ほしい」と訴えた。除細動器の設定を変えたり、心不全の治療したり、

薬を増やしたり、アブレーション手術などして、不整脈が起きない、という

ところでの退院だった。

拡張型心筋症という原疾病があるので、完治ということはないらしい。

いつ起きるか、分からないが、起きたときは除細動器に頼ることになる。

 

不整脈の徴候を何日か前に分かって、手を打つことができるのかな。

もしかしたら、できるのかもしれないけど、8月の場合も、今回の場合も

いまのところ、その徴候は分からない。

いつか、「そうだったか」というときがあるかも知れないが、様子を

みたい。

 

今回のショックがキッカケで、今を受け入れるということが、起きた

といえるのか。

気持ちに動くものがありそう。

何をということは、いろいろ出てくるけど、今は自分のなかで、何が

動いているか見てみようとしてるかな。

 

深夜などで、電気ショックが起きたりしたとき、大学病院はちょっと

敷居が高いなと思った。

かといって、地域のかかりつけ医が居てくれるといいなと思うけど、

除細動器のことや、これまでの治療暦は大学病院のデータの中と、

継続している担当医の見立てから、離れるのは今のところ、やめておこう

かと思っている。

先、どんなことになるか。

 

病は市に出せ、という気風の町があるという。

身体もそうだし、心の状態も、市に出したい。

というより、もうすでに出しているのかもしれない。

もうすでに、現れてしまっているもの。

20日の午後あったENJOYミーテイングで思った。