かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

まだない一つの街

2014-12-31 22:02:06 | アズワンコミュニテイ暮らし

毎年、年賀状はどんなのにしようか、とかんがえる。

干支とか、家族写真とかはなんとなく避けている。

来年はどんな年にしたいとおもっているかなあ、とか

今、どんなことに関心があるかな、それを受け取って

くれる人に伝えたいとか、そういうことをかんがえて

いるかな。

家族写真は避けているとはいっても、こんな家族で

暮らしてますよ、とご挨拶したい気持ちもある。

 

いろいろかんがえ、何か今の自分の気持ちにピッタシの

コトバがないかなと探していたら、こんな詩に目がとまった。

 

           木               高良留美子

   一本の木のなかに

   まだない一本の木があって

   その梢がいま

   風にふるえている

 

   一枚の青空のなかに

   まだない一枚の青空があって

   その地平をいま

   一羽の鳥が突っ切っていく

 

   一つの肉体のなかに

   まだない一つの肉体があって

   その宮がいま

   新しい血を溜めている

 

   一つの街のなかに

   まだない一つの街があって

   その広場がいま

   わたしの行く手で揺れている

 

この詩を紹介してくれたのは、茨木のり子さん。

「この詩は未来への恋唄。・・未来は、現在の現実のなかに

すでに胚胎している、というのがこの詩の主題です」と

言っている。

そうだよな、とぼくもこの詩を読んで感じたし、そうおもう。

 

おそらく「現在の現実」をどう見るか、どう見えるか、そこが

急所だろうな。

一つの肉体のなかで、まだない一つの肉体、新しい血を

溜めている、天地の摂理、目に見えないものの世界に

確かさをおく、自身の転換が要るなあ、とおもいつつ、

来年への架け橋としたい。

恥ずかしながら、2015年を迎えるにあたって、ひとこと。

  2015年もよろしくお願いします。

   

 

 


思わぬ来訪

2014-12-30 16:24:34 | 家族あれやこれや

 12月28日の夕方、部屋にいたら、玄関が開く音がして、

子どもの声が聞こえてきた。

北海道から息子とともに孫二人がやってきた。

聞いていなかった。

部屋はさっそく、子どもたちの基地になった。

あるもの、みえないものを二人、それぞれ探検、探索。

オルゴールが鳴り、ラジカセが音楽を奏でる。


 

明け方、ぼくらの布団に潜り込んでくるものがあった。

孫だった。

「あったかーい」と寝ぼけていた。


 

朝ごはん、みんなで食べた。

息子は「ああ、こぼれるー」とか子どもに叫んでいる。

「親というより親バカじゃん」



翌日、長男一家がやってきた。

満1歳の赤ちゃんをめぐって、北の国から来た孫たちが

「こっから、出ちゃだめ」といいながら、座布団などで

バリケード。

赤ちゃんは、隙を見つけて、絶妙のタイミングで座布団を

椅子の下に落とす。

 

師走にも、こんなひとときがあるんだあ。

 


沖縄つれづれ(1)

2014-12-28 19:35:31 | わがうちなるつれづれの記

 ことし10月、はじめて沖縄を訪ねた。

以来、沖縄からの便りには関心がいく。

 

きのう、テレビで沖縄と天皇のかかわりを流していた。

昭和天皇の御歌が紹介されていた。

 

思わざる病となりぬ

   沖縄をたずねて果たさむつとめありしを


昭和62年(1987年)沖縄秋の国体で、はじめて沖縄を

訪問できるという直前に病に倒れた。

そのとき、詠われた。

敗戦にいたる経過のなかでの沖縄戦、地上戦で住民・

兵士20万を犠牲にした。敗戦後、占領期のなか天皇は

沖縄をアメリカの信託統治にするという決断をしたという。

ちょうど、秦郁彦「裕仁天皇の五つ決断」を読み終えた

ところで、天皇自身の実際がどんなだったか、こうだと

いえないにしても、その成り行きのなかで、天皇の内面を

推察するに、沖縄訪問を直前に倒れたことは、悔やんでも

悔やみきれない、万感のおもいに見舞われたにちがい

ない、と想像する。

 

今上天皇は皇太子時代に何回も沖縄を訪ねている。

  戦火(いくさび)に焼き尽くされし摩文仁が岡

           みとせ(30年)を経て登り行く

この”焼き尽くされし”というコトバになる前の、皇太子の

こころのうちでなにが起きていたのだろう?

 

摩文仁が丘で献花したあと、琉球の古歌で気持ちを

表わしたと知った。

(琉球の古歌について、学んでいたんだ・・・)

    花よおしゆげやん (花を捧げましょう)

       人知らぬ魂    (人知れず亡くなっていった

                 多くの人々の魂に対して)

       戦ないらぬ世よ  (戦争のない世を)

       肝(チム)に願て (心から願って)

 

慰霊の塔は、生き残った人々が、散乱している 遺骨を

集め、敵味方の隔てなく納骨し、慰霊の塔として祀ったも

のだ。

 

 天皇は今年81歳になられた。12月23日の記者会見。

ーー先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。

   その人々の死を無にすることがないよう,常により良い

   日本をつくる努力を続けることが,残された私どもに

   課された義務であり,後に来る時代への責任であると

   思います。そして,これからの日本のつつがない発展を

  求めていくときに,日本が世界の中で安定した平和で

  健全な国として,近隣諸国はもとより,できるだけ多くの

  世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう,切に

  願っています。

 

日本が起こした満州事変から15年戦争の犠牲者はアジア・

 中国・朝鮮で1000万から3000万と言われている。

 

ここでは、コトバを選んで、万感のおもいで、自身のお気持

を表わそうとしていることが伝わってくる。


首相の座についた安部さん、振り返ると、ずっと日本という

国を「戦争が出来る国」につくりかえようとしているように

見える。

それも、いちばん大事な、この国に暮らしている人たちの

意見に耳を傾けないで。


沖縄では、県知事選と衆議院選の二つで「辺野古に

新基地をつくってほしくない」という民意が出ているのに、

今のところ、「粛々と進める」と公言している。

翁長雄志沖縄県知事が東京に行って、首相に面会を

求めたが、断られという。

こころが痛いです。


10月沖縄訪問のとき、地元の方に案内してもらって、

「辺野古新基地反対の座り込みテント村」に行ってきた。

座り込みをしている人たちのなかに、入ってぼくも座った。

隣に居た女性に「どこからお出でですか?」と声をかけた。

「メールマガジン9条」に辺野古の様子を映像にして、

配信している人だという。三上智恵さん。

「標的の村」という映画も各地で上映されている。

沖縄から鈴鹿に戻った。

三上さんのレポートは毎回見るようになった。


最近の三上さんのレポート。

三上さんから見た沖縄の人たちのこころの底にあるもの、

生身の人として、情勢のあるなかで、したたかに、

しなやかに、現われてくるものの実態、ここにやはり

未来を感じる。

東京で行われていることの空虚さを浮き彫りにするかの

ように。


http://www.magazine9.jp/article/mikami/17123/



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


かかりつけ

2014-12-27 14:53:20 | アズワンコミュニテイ暮らし

  鈴鹿市では市民に各自かかり付け医をもつ

 ようすすめているという。

 

 秋、入れ歯が不具合になったとき、かかり

 つけの歯医者さんが長期で休診していたので、

 別の歯医者さんにかかった。 

 治療もやりながら、入れ歯の調整をしてもらったが

 2ヶ月、歯茎の痛みが治らなかった。

 悩んだ末、かかりつけの歯医者さんに移って

 受け入れてもらい、調整もすすみ、痛みも治まり、

 なんとか年始を迎えられそう。ホッ・・・

 

 ”かかりつけ”の理容師さんがいる。予約が簡単、

 急所を押さえて短時間に仕上げてくれる。

 せっかちのぼくに最適。気ごころも知れて、遠慮もない。

 高倉健さんも、いつも行く理容店があったという。

 俳優並み。いいなあ。

 

きのうは、12月27日は妻の誕生日。

その夜、鈴鹿市の街の東端にあるフレンチのレストランに

行った。

お店の前の駐車場に車がなかった。

「もしかして、ぼくらだけ?」

お店に入ったら、予感的中。

オープンキッチンになっていて、50代ぐらいのシェフと

ウエイターの女の子が迎えてくれた。

キッチンの前の席にふたり座った。

「あれ、けっこう、よくない。ぼくらのために、おかかえの

シェフがデイナーを作ってくれる。しかも、お好みまで

きいてくれる」

運ばれたお皿の上には、とても芸術的な盛り付けの

お料理が乗っていた。

二人だけのためにつくってくれた・・・

とても、ゆったりいただいた。

ガツガツというようなリズムになりかけると、ゆっくり

ゆっくりとこころのなかで呟いた。


”かかりつけ”、といい、”おかかえ”といい、自分や

自分たちとか、顔や気心知れた間で治療とか

理容や食べることが用意される、そんな感じだろう。

悪くないなあ。いや、こんな感じが心地いいなあ。

誰でも、こういう環境がもたらされたらいいだろうな

と思う。


誰でも、とおもうと、たまたまそういう環境があったから

とか、そういう条件が揃っていたからというのでは、

不安定で、誰でもという世界に広がっていかないのかな。

 


また、カラダの健康でも、食材でも、技でも、実際そのときの偶然で

出来たというより、自然の摂理や先人たちが積み重ねてきた

文化から引き継がれ、もたらされてきたもの。

この人は享受できるけど、この人には享受できないとか、

お金の有る無しとか、学歴がどうの、とか、これによって

そういうことはないはず。


環境や条件が、一人ひとりを大事にし、心地よく、

満ち足りたものを一人ひとりにもたらすものでなければ、

不完全ではないか。誰でも、ということにはならない。

 


それにしても、そういう方向へ行くためにも、心地が

いいとか、満ち足りたという気持ちが自ずから湧いて

くるところから、はじまるのかなあ。

 


 


挨拶

2014-12-27 13:45:10 | アズワンコミュニテイ暮らし

年賀状を書いていて、ふとおもった。

こうして毎年、ご無沙汰している一人ひとりを思い

かべながら、年賀状を書いているけど、いつ、この世

から、おさらばするかもしれないんだよなあ、という

感慨に見舞われた。

だとしたら、こうやって、なにやら書いているけど、

これはこの世の別れ、最後の挨拶になるかもしれ

ない。

いくら、70歳に近づいているからといって、いつ死ぬ

かなんて、じぶんにも、誰にもわかりはしない。

老年期は75歳からという見解もあり、それまでは

成人期からの移行期と見たら、ことさらこの世の別れ

を口にするのは可笑しいみたい。

 

そこ、どうなんだい?

うーん、実感としては、この世とあの世がそんなに

距離がない、むしろ、隣り合わせという感じなんだ

よな。

そこからかどうなんか、「せめて」というのが出てくる

んだ。

「せめて、こうして生きている間に」というのかなあ。

 

去年から「理想の暮らしを語る会」っていうのを、

やっているだろ。

中井さんが、とっても積極的なんだ。ぼくは、あとから

くっついていく感じで。

この会のはじめの時、「老後を語る会」って、先ず考えた

んだ。

話していくうち、老後って、なんかうら寂しいよね、

カラダはどんどん衰えていく、これははっきりしている、

自分の中の願いや理想はどうだろう?

そこに、やれるとか、やれないを持ち込まないとしたら・・

やる、とかやらない、は次のことにしよう。

老いるといっても、その人その人がその段階でそうなって

いる、そういうなかで、こうありたい、とか、こうなったらいい

なあ、といようなものあるよね。

そこをもっと、もっと明らかにそいていく。

昼間のお日様さまの光に照らしていく。

そういう観点、焦点のあて方、生き方、いいとおもわない

かい。

まず、おもいきり、描いてみようよ。

そして、そこを”語り合う”ってのはどうだろう?

気がついたら、「理想を実現する会」ってなことに

なったりしてた、なんて。

 

人との出会い。最後のご挨拶。