かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

もういくつ寝ると・・・

2012-12-30 14:42:05 | アズワンコミュニテイ暮らし

 28日の昼、三重大病院を退院した。

 おもえば、11月19日から、しばらく自宅にいたあと、再入院、

一ヶ月ほど病院暮らしだった。

 一年を締めくくり、来年にむけて、なんかを準備するみたいな

そんなものないの?

 ぼんやりしている。そろそろしている。息切れもする。

 カラダのなかのすべての細胞が、お互い全力をあげて、世間で

暮らすあれこれに、対応しているように感じる。

 

 佐々木良司さんが、退院した日、さっそく、顔だしてくれた。

 話しているうち、「父の法事で秋田に行った帰りの高速道路、雪で

スピンしてしまったんだよ。何回転かして、分離帯のロープに後部が

ぶつかって、止まった。死ぬかとおもったよ。なんとか、帰ってこれた

けど、いやあー、はじめて怖いとおもった」と、つい昨日のことを

知らせてくれた。こんな事故、いままで起こしたことない。

 ただただ、びっくり。

 

 翌日、深田の律子さんが、来訪。

 「お守りをもってきたのよ」という。

 最近、沖縄の小浜島にいってきた。律子さんの友人がそこで

暮らし、土産物店をしている。そこで、買ってきたという。

 ミンサー織りという布に、模様がついている。

「五つと四つとあるでしょう。いつの世までも、よろしくね、という

意味らしいの。ニライカナイ信仰のような感じなのかしら・・・」

 じぶんのなかの細胞は、沖縄の海を想像し、律子さんの友人に

おもいを馳せている。

 

 中井佳子さんが、埼玉の深谷ネギ、タイから郵送されてきた

マンゴー、それに本人が漬けた白菜を、「ちょっとだけど・・」と

持ってきてくれた。

 しばらく、タイについて。彼女は8年ほど、タイで暮らしたことが

ある。親しくしている人がいる。彼女は、タイにいるとこころが

安まるという。そんな彼女を、ちょっぴりうらやましくおもった。

 

 純奈ちゃんが、ミカンを一箱、届けてくれた。

 彼女の母上が用意してくれたようだ。

 小浪もぼくも、なんか病院ボケ、看病ボケのところがある。

 まわりの人が、正月準備をしてくれている。

 

 小浪の誕生日は、12月27日。

 毎年、この日は二人だけで、おでかけして、食事をすることを

してきた。

 「ちょっと、遅れたけど、29日に行くかい?」

 「なにか、食欲がでなくて、気持ちがわるい」と小浪。

 結局、和食なら、というので、温泉と豆腐料理のお店におでかけ

した。小浪もさっぱりしたらしく、じぶんも久しぶりの温泉で、細胞が

「おい、おい、このおっさん、温泉に入ったぜ」と対応におおわらわ?

じゃなかったかな?

 「小浪さん、いろいろお世話になっちゃたね・・・・」

 

 そして、今日、30日アズワンコミュニテイーの若者や鈴鹿ファームの

メンバーたちの準備で、餅つきが、まちのはたけ公園であった。

 久しぶりに、人、人のなかに入る。

 ここでも、いろいろな人に出会い、いろいろな人の近況がカラダに

入ってくる。

 

  夕方、小林耕一くんが、のし餅をもってきてくれた。

 お正月の準備は、まわりから天から降ってくるように整っていく。

 

 このぼんやり、どんなふうになっていくのやら・・・

 もう、いくつ寝るとお正月、あと二つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


病院暮らしつれづれ  (つづき)

2012-12-27 06:36:50 | アズワンコミュニテイ暮らし

 きのうの夕方。三重大病院で精神科の医師をしている

松本龍介くんが白衣姿で、病室を覗いてくれた。

 入院中、手術の前とかあととか、ちょくちょく来てくれる。

 龍介くんとは、高校のころから知っていて、20歳すぎて

韓国で暮らすようになり、帰国したときいろいろ話をする

付き合いがはじまった。

 「医師になる」といって、取り組みはじめたのが8年前。

 そのときは、結婚してたんじゃなかったかなあ。

 父上が医師で、龍介くんがそっちにすすむ、と聞いて

なにができるわけでもないけど、応援したいとおもった。

 もう、医師として仕事をしているという。

 

 人との出会いについておもった。

 彼には、持病がある。彼を見ていてくれる教授が、「その

持病もふくめて、オレが見てやるから、安心しろ」といった

ような声かけをしてくれたと、奥さんの智子さんから聞いた。

 龍介くんは、にっこりうなずいていた。

 奥さんの智子さんも、小3の娘をつれて、見舞いにきてくれた。

 過去のぼくの振る舞いをよく覚えていて、そのときの感想を

ありのままに話してくれるので大笑いだった。

 

 25日の朝、妻からメール。

 知人の辻屋哲男さんが24日夜、三重大病院の集中治療室に

運ばれた。脳内出血したらしい。

 集中治療室は、同じ病棟の2階なので、奥さんの康子さんに

様子を聞きに行く。

 「病院としては、だれがいるとかは言うことはできません」という

返事だった。

 妻に様子をきくと、治療はおわっていて、麻酔が切れたとき、

意識が回復するかどうか、ということだった。

 26日午後、麻酔が切れて、本人の意識がもどったと聞く。

 きのうの夕方、ちょうど見舞いに来ていたブラジルの箕輪省吾・

奈々子夫妻、高崎夫妻と小浪で、付き添っている康子さんの

いる集中治療室に行く。

 「本人は、呑気なのよ。ここはどこ?なにがおきたのか?と

いっているわ」と康子さん。

 「そのセリフ、どこかで聞いたことがあるなあ」

 集中治療室のまえの廊下で、ほっとした康子さんや辻屋さんの

娘・息子、それにぼくら、顔がゆるんで、それぞれおもいの丈を

出し合った。どうも、ついこのあいだ、同じような体験をしている

ので、「よかったな」とを湧いてくるじぶんは、いったいなんだろうと

不思議な感じがした。

 

 テレビを見ないとすると、病室では読書しか能がなかった。

 きのうの夜、石牟礼道子さんの「苦海浄土」をはじめて読了した。

 水俣病は、昭和28年から表面にあらわれてきた。

 昭和22年生まれのぼくにとったら、水俣病はぼくの人生とともに

経過してきたことになる。いまでは、政府は「今後の申請は打ち切り」と

いっているが、実際はまだまだつづいている。

 

 なんで、いままでこの本をよまなかったのか?

 なんで、いまになって、読みたいとおもい、読んだのか?

 

 じぶんにとっては、興味深いけど、いつかゆっくり向き合うことが

あるかもしれない。

 

 いまは、読後感。

 この本の巻末、同じ熊本の渡辺京二さんが、「石牟礼道子の世界」

という文を書いている。

 渡辺さんは、この作品を「水俣病という肉体的な”加虐”に苦しみ

ながら、なおかつ人間としての尊厳と美しさを失わない被害者の

物語であるというような読み方」について、「そうだろうか?」と

投げかけてくれている。

 どちらかというと、正直、そういう感想で治めかけてはいた。

 それでも、それでは治めきれないものもが、残った。

 

 渡辺さんがいうような読み方、じぶんの読み方は、どこまで

いっても、”自分から見て”という世界から離れられない。

 どこまでいっても、理屈はそうでしかありえないとおもうが、

なにかそういう”自分なりの世界”に籠っていては、というより

籠っているらしいじぶんが、揺すぶられている、根底から・・・

「そんなんで、分かり合う」とか「人を理解する」とか、おもっていても

なにか足りない。根本的に欠けているものがありそう・・・

 

 5歳で水俣病を発症した少女ゆりちゃん。この少女は、熊本大の臨床

報告では「全精神機能と運動機能が高度に、不可分に障害されて

いる」と診断されている。

 

 その母の叫び。

 「あんた、じゅんじゅん(しみじみ)と考えてみてみはいよ。

 草よりも木よりもゆりが魂はきつかばい。

 草や木とおなじ性になったものならば、なして、ゆりはあげんした

 ふうな声でなくとじゃろ。

 どのように生まれたての赤子でも、この世に生まれたという顔して

 生まれ出る。

 あくびのなんのして、この世に生まれればもう、眠っとる間も

 ひょいと悲しかったり、おかしさに笑うてみたりするもんじゃ。

 赤子は、ゆりがあげんふうに泣きよるのはやっぱり魂が泣き

よるにちがいなか」

 

 母は、娘がおかれた世界から語っている。それを、この作品の

作者石牟礼道子さんも、その母が憑依したかのように、語って

いる。そんなに感じる。

 

 娘は人間として生まれてきながら、人でもない草木でもない

あわいに生きている。その世界を”外”からみるのでなく、その

世界を身のうちのものにする、その世界の一人になる、

「苦海浄土」の表題の意味がじぶんのなかで浮かびあがってきた、

 

 ふだんの暮らしでは、このようなことは、どんなことになるんだろう?

 人と人が通じるとはどんなことか?

 

 昨夜はめずらしく、10時ごろに、眠りに落ちた。

 目が覚めたら、もう朝だった。

 夜勤の看護婦さんが、血圧を計りにきた。

 病室の窓から、遠く伊勢湾のむこうの水平線が赤く燃えてきて

いた、まだ顔を出さない日の出で影になった雲が横にたなびいている。

 「わあ、ほら朝焼けが・・・・」としばし眺める。

 看護婦さんも、「あら、わあ、ほんと・・・」

 「いつもこんなですか?」と看護婦さん。

 そりゃ、「朝焼けきれい」などとうっとりしていては、仕事に

ならないかも。

 

 こんなひとときは、天からの恵みだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


病院暮らしつれづれ

2012-12-26 13:24:00 | アズワンコミュニテイ暮らし

 なんだかんだしているうちに退院は28日になりそう。

 病院ではテレビを見ないできた。静かなものだ。

 あの、テレビって、なんだろう?

 当たり前のように、テレビのリモコン、カチャカチャやって

見てるけど、なにを見てるんだろう?

 東京方面から流されてくる電波の情報を脳のなかに、

しみ込ませている。なんのために?

 

 主治医の先生から”治験”の話をもちかけられた。

 「いまでも、ふつうに使われている薬が、心不全に効果があるかどうか、

実際の患者さんに、飲んでもらいねがら、見極めたい、それに

協力してもらえないか」という趣旨だった。

 「そういうので、カラダつかってもらったら、いいとおもっています」と

いうと、主治医は「そういうことではなく・・・」と、もうすこし、微妙な

ところが分かってほしいと、手を「まあまあ」という感じで振られていた。

 要は、治験者になるには資格条件があり、じぶんの場合、それに

合格したというのである、とこれは手前勝手な解釈。

 「詳しくは、専門の者に説明に来てもらいますが、いいですか?」と

主治医。

 「は、はい。よく聞いた上で、どうするか、考えてみます」

 

 妻と二人に、専門の方、女の人でしたが、懇切丁寧に説明して

くれた。「やってみよう」に傾いていた。

 

 病室は、外からの刺激が少ないので、ウトウトしている時も多いが、

いろいろなことにおもい馳せるときもある。

 黒瀬勝巳という詩人の詩から、おふくろのことを、おもいだした。

 この人は、36歳のとき、自死している。

 

  おれはおふくろをめくり 

  おれはくりかしおふくろをくりかえし読む

  いまではおふくろは文庫本くらいに小さくなり

  おれの尻ポッケトにも楽にはいる

 

 彼が中学生だったころ、母上は亡くなった。

 なぜ、彼はおふくろを読みつづけなかったのか?

 

 

 2006年2月、ぼくのおふくろは特養の近くにある病院で

亡くなった。享年86歳。

 おふくろは、まだ70歳を過ぎたころ、胃の手術をして、

そのころ、「じぶんが死んだら、大学病院に”献体”する」と

決めて、申請もした。

 おふくろの遺体は、その申請どおり、大学病院に運ばれた。

 どのように扱われたか分からない。

 しばらくして、骨で兄のもとに返された。

 9月だったか、兄と妹、それにぼくら夫婦の4人で、横浜

日野のある宮地家の墓に納骨した。小雨はぱらついていた。

 

 おふくろは、どんなところから”献体”なんて、おもいつたの

だろう。そして、申請までしたんだろう?

 黒瀬勝巳から「おふくろをくりかえし読む」と聞いて、どうも、

尻のポケットから文庫本になったおふくろを、ぼくも読みめた

といえるか・・・

 

 

  おふくろは、大正11年生まれ。

  両親が誰で、どこで生まれたか知らない。

  周りから入ってきた、おふくろは、東京世田谷のキリスト教の

慈善団体の施設で成人になり、たまたまオヤジの姉がそこに

関係していて、おふくろを嫁にもらった。

 

 おふくろは、字が書けないと言っていた。

 子どものぼくらに、勉強のことを言った覚えがない。

 毎日、ご飯をつくり、家事をして、時間のあるときは近所に

なんやかや手伝いに行き、小遣いももらっていたらしい。

 小学校から中学になるにしたがって、このおふくろがどんどん

うとましくなっていった。これは、ぼくにとってもつらいことだった。

 

 

 えーと、なんでこんな展開になっているのか?

 おふくろが、「死んだら献体に・・・」といったとき、おふくろは

どんな世界にいたのか、それを訪ねているのではなかったか?

 

 

 ちょっと、疲れた。

 ”献体”というのでは、ぼくも10年まえ、心不全で倒れて大学

病院に入院したとき、まじめにそうしようかと考えた。

 いま。

 ちょっと、ちがってきている。

 そうするか、どうか、と言う前に、人間って、どんなものか?

ここからかんがえていきたいとおもっている。

 死んだら、ただモノ。それには違いないが、死をまぬがれない

個としての自分、人間は、生きているってのは、カラダと心が

離れがたく、どちらかといえば、心の健康こそが大きいのでは

とおもうと、そこをよく見ないで、いきなり、死んだらモノといく

のには、躊躇するものがでてきている。

 

 

 病室から見る午後の伊勢湾は、沖に向かって何色かに

分かれて、ひろがっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


つかの間の外泊

2012-12-23 06:10:13 | アズワンコミュニテイ暮らし
 土曜日の昼、小浪が病院まで迎えにきてくれた。
 
 外の空気は、さすがに冷え冷えしていた。それでも、うまい!
 
 
 
 車のなかで、小浪が「ふだん、あたりまえみたいにしていることって、
 
こんなことになると、当たり前というのが凄いって、おもえるのよね」
 
みたいなこと、つぶやいた。「おっ」と、運転している小浪の横顔を
 
ちらっと見た。
 
 「そうだよね、なにかひとつでも条件が欠けたら、当たり前なんて、
 
かんたんに崩れてしまうもんね」
 
 小浪はどんなことおもってそんな話題をもちだしたのか?
 
 じぶんのなかでは、病室のパソコンで見たコトバに飛んでいた。
 
 「平和は苦しく戦争は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべ
 
きでしょう」
 
 「平和が苦しい」というのは、「当たり前」に飽きてくるというのは
 
ありそう。つい「威勢のいい方にひかれる」

 
 
 
 
 
 
 娘桃子は22日、妻小浪は27日が誕生日。 
 
 退院が28日に延びたので、22日土曜の夜は二人の
 
誕生夕食会となった。
 
 手巻き寿司。すしネタは、小浪が白子漁港の直売所で仕入れ
 
てきた。寒ブリ、グレ、イカ、生牡蠣など。

 
 入院中の心臓食とのあまりの違いに、「あわわ」と目がくらみそう。
 
 孫たちといっしょに食事。「ああ、おいしいなあ」
 
 お料理の美味しさだけではないよなあ。量も、そんなに食べられない。

 
 
 
 デザートは孫娘風友が意気込んでつくってくれた。
 
 ココアのムースに生クリームをのせてあるお菓子だった。
 
 それが、生クリームを載せる前にムースが固まってしまい
 
失敗したらしい。しきりに「だめだった」という。よほど、悔しいよう
 
だった。

 
 桃子と小浪には、栗原はるみさんのお料理の本をぼくから
 
プレゼント。あんまり考えた形跡のないもの。
 
 しかも、病院から帰ってくる途中、本屋さんによって、小浪と
 
選んできた。お金も小浪が出した。
 
 風友は「わたしのママのプレゼントは、このお菓子だよ」と
 
一言加えた。「気持ちが大事だよね」そんな反応が一瞬、

漂ったように 感じた。



 
 
 
 みんなが帰ったあと、小浪と二人、きょうのメールやFBの
 
チェックをしていた。
 
 小浪が、桃子の近況から、「こんなのあるよ」と声かけてきた。
 
 
   
  ーーわたしも毎日テンヤワンヤ(≧∇≦)

     こどももどんどん成長して、その都度、いろんな気持ちに

     なりながら、いろんなことがおこるし、わたしも、その都度、
  
     いろんな気持ちになって、いつも慣れない、がーっと怒ったり、

     がーっと喜んだり、、、
 
      うまくお母さんになれないとか、背伸びしてかっこつけた

     時期はたいへんだった。
 
      今も多少そんな自分もいるけど、こどもは、うまくやる母
 
     なんて求めてないよね

      お母さんに愛されたい、

      お母さんといて安心したい、
 
     そんな気持ちがあるのかなぁと思ったりして、なかなか、毎日

     そんな気持ちになれないほど、がーっとなったりするけど、

     そんなふうに思いながら、、、

       毎日テンヤワンヤ(≧∇≦)

       結局、テンヤワンやねん!
    
      わたしは、子どものとき家族をしらずに育ったから、

     いまいちわかんなかったけど10年家族がいて、わたしは安心してるし、

     家族がいてうれしいなぁと最近かな、じわじわ思う~、




 これは、中学生時代の友達が、最近出産して、育児にテンワヤンワしている

という近況について、娘の感想を言ったもの。


 
 娘が離婚して孫二人連れて、鈴鹿に引っ越してきたのが、2年前の

いまごろ。当時、娘は心身ともに衰えきっていた。それが、いま、こんな感じに

なっているのが不思議なほど。

 サイエンズスクールの内観に2回、入ってきた。そのあとも、近所に

なんなと話ができる年上の女の人、同じ子どももつお母さんとか、
 
だんだん人との間でも、安心してくれせる感じがでてきたのかなあ・・・
 
 
 
 
 そうそう、小浪が高倉健さんの「単騎、千里をゆく」という
 
DVD借りてきていて、それを土曜の午後は、一人部屋でみた。
 
 こころおきなく泣いた。
 
 
 日曜日の朝は、埼玉から来ている佐藤しんじさんと中井正信さんの
 
3人でもろもろおしゃべりした。
 
 遠慮気兼ねなく、あれやこれや、男同士が、これも悪くない。

 
 
 
 ああ、もうそろそろ、帰ることになる。
 
 



 
 
 
 
 

病院通い

2012-12-22 17:38:29 | アズワンコミュニテイ暮らし

 今月10日に入院して以来、妻ほとんど毎日顔をだしてくれて

いる。 代行の用事も。

 

 三重県立図書館に「サイエンズ1~3」の寄贈に行ってもらった。

 「新刊コーナーに置いて欲しい」とも伝えてきてくれた。

 寄贈ということは、置くも置かぬも、図書館に任せる。

 寄贈本も返却なしだ。ただ、置くことになったときは連絡くれると

のこと。妻が動いて、やっと年内に果たせた。

 

 チェルノブイリ子ども基金から、「チェルノブイリの子どもたち」と

いう通信が届いた。

 今年一年、ベラルーシとウクライナにどんな支援をしてきたか、

その内訳レポートがあった。

 甲状腺ガンの薬代、老朽化した医療機器の買い替え、

年に一度、子供たちの夏のサナトリューム参加の支援など

だいたい1千万円の支援だった。

 現地の医師たちの声は、それが有難いと言っている。

 今年の夏、子ども基金の事務局の佐々木真理さんが、津に

来て子どもたち現状を報告してくれた。

 「みなさんからの支援があった分で、その分の気持ちを子ども

たちに届けたいとやっているだけです」と語られていたことを

思い出した。

 そういう人がいて、この支援は地道だけど、かけがえのない

血液が確実にベラルーシ・ウクライナとどけられている。

 この12月で4年間やってきた里親はいったんやめるけど、

ささやかでも血液をおくりたいとおもった、妻と相談して、いくらかの

支援金を送った、。

 (チェルノブイリ子ども基金の支援活動は、市井の人たちの気持が

実質、相手国の病院や被災家族の血肉なっている、例ではないか。

金額の多寡でなく)

 

 妻には、なに持ってきてくれ、あそこにこんなのなかったかなあ、

とかいろいろ煩わしている。

 ときどき、病院にきて、「ふー」っと、ため息をつくときがある。

 「眠い」というときもある。

 「こっちで、横になったら」とベットに誘うと、意外やもぐりこんできた」

 しばらく、目をつぶっていたが、さすがに人の足音で飛び出して

しまった。

 

 きのうは、ぼくが椅子にすわって、パソコンをしていて、小浪は

「しばらく、寝る」とベットで布団をかぶった。

 だいぶ、しばらく眠っているようだった。

 看護婦さんが、血圧など計りにやってきた。

 とき、すでに遅し。

 看護婦さんは、笑いながら、ウインクして、「いいですよー」と

言ってくれた。

 

 12月22日は、娘桃子の誕生日、27日は妻小浪の誕生日。

 退院日が28日に延びたこともあり、22日~23日は一泊の

外泊。

 夜は娘家族と夕食会。手巻き寿司。

 担当の看護婦さん、「くれぐれも水分制限、減塩をわすれない

ようにね」と念押し。

 それにしても、ちょっと気分転換。