かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

イマジンのリズムにのって

2017-05-31 17:21:50 | サイエンズスクールのある暮らし

 サイエンズスクールのことを知ったのは9年前です。

2009年の秋、スクールの短期セミナーに参加しました。

自分の目で見ているもの、聞いているもの、感じているものがとても

狭くて頑固なものだと身に滲みました。

コトバで言ってしまうと、「なーんだ」ということになりそうですが、

そのとき、ぼくは小さな穴から覗いている向こうに広々として明るい

世界が実在している、そういう世界に触れていた、またはそのとき、

すでにその世界に立っていたかもしれないと思い出します。

周囲の、身近な人たちにその感動を伝えようとしましたが、なかなか

伝わりませんでした。

(まだ、底の浅い分かりかただったかも。それは、今もかな?)

 

まず、自分自身がもっと、その世界を見極めてみたいと思いました。

サイエンズスクールは鈴鹿にありました。

サイエンズスクールのある暮らしがしたいと思いました。

身近にスクールがあるということもありますが、自分のなかに、そういう

道標がある暮らしがしたくなったのです。

理屈もありましたが、こころの内よりの欲求もあったように思い出します。

60過ぎて、残りの人生を悔いが残らないように、生きていきたいと思いました。

いままで暮してきたところを離れ、サイエンズスクールのある鈴鹿に移り住

ました。

 

まず、サイエンズスクールの会員になり、スクールを支えるサイエンズ研究

所の会員になりました。

経済的に、自分がどう暮らしていくかは、後回しでした。

 サイエンズスクールには、いろいろなコースが毎月定期的に開催されていま

す。

HPもあるし、FBではスクールの紹介やセミナーや開設しているいろいろな

コースに参加した人の感想文を紹介してくれています。

最近は、持病で養生暮らしのため、スクールのコースには参加できていませ

ん。それを、読むのが楽しみです。

 

先日、「社会を知るためのコース」に参加した人の感想文がFBで紹介されて

いました。

読みながら、ふと、ジョンレノンの「イマジン」が浮かんできました。

日ごろ、音楽のリズムと縁遠いのですが、不思議でした。

そのリズムで読んでみると、同じ感想文なのに違って映ってきました。

よろしかったら、聞いてみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=dS5A9gzQfWQ



さて、イマジンの歌詞を口ずさみながら、感想文を読んでみたいです

 

<心に描けるかな 天国なんて無いんだと                                            

 難しくなんてないよ、やってみたら簡単さ                                               

もちろん地獄だって無いし                                                                

 僕たちの上に広がるのは 空だけ                                                      

 ほら君の心にも描けてきただろ 誰もが                                                 

今この時を生き生きと刻んでいけるこの世界が...>

 

     「人と人」を「個人と個人」という観方で観るのが強かったのかも。

      それで、行き詰っていたところに、今回、「社会」という視点で見てき

     て、目から鱗だった。

  自分の中の「社会」というもののイメージが、がらりと変わった。

      今までは、社会は大きく上にあり、力があり、個人は下で社会に従わね

      ならない。

      そんな感じだったのが、社会は人人人、人がいる。一人一人に自由意志

      があり、社会は、そのベースとなって、人が人らしく生きるのを支えて

      いく。そこから、人(誰か)の中のやりたい気持ちが寄って、社会的な

      仕組みや機関ができていく。

     これらは人(私)の一部であるし、人(私)も社会の一部。

  対になることは、ありえない。(50代女性)


<心に描けるかな 国境なんて、元々どこにも無いんだと                  

 難しくなんてないよ、当たり前のことさ                                               

何かのために殺したり死んだりすることもないし                                   

そう、だから宗教にすがる必要もなくなる                                          

 ほら君の心にも描けてきただろ                                                               

誰もが心穏やかに生きられるこの世界が>

 

     「権利・義務、責任、所有」- 私たちの意識を支配している今の

  社会の根幹について、これでもかこれでもか、と見てきた。

      上下で、力で、一人一人を分断し囲おうとするこれらが、いかに

  私たちの内面 奥深くまで浸透しているかを実感した。

       なぜ私はこう考えるんだろう?こう思うんだろう?こう感じる

  のだろう?と、

  自分の考えや思いや感じを剥いでその奥を探っていくと、その奥底、

  足元にある流れが見えてきた。

  その目を周りに向けると、その流れは周りの人たちの足元にも流れて

  いて、それは世界中の人とつながるひとつの流れになっている。

  もともと人と人はこの流れでつながっている。(60代女性)


 

<僕のこと、ただ夢みてるだけって言うかもしれないね

でも、この世界が見えてるのは僕一人じゃないはず

いつしか君も手を携えて、共に歩く日が来るよ

だって元々僕らは「一つの世界」に生きてるんだから

 

   自分や社会を縛っているもの、人間の作り出した考え(責任、

   権利、義務、所有、悪平等など)とはどういうものなのかと

   ゆっくり考えた。

   それがあると架空の世界を実際のようにし、人の姿が見えて

   こない。 

   自分はなにで動いているのだろうか? まわりの人はなにで

   動いているのだろうか?  

   なにを願っているのか、もっと知っていきたくなる。 

   なにか私の中で動き出している。(60代女性)

  

 心に描けるかな 所有なんて無いんだと

「持つ」なんてこと誰にも出来っこないって 

だから、欲張って取り合ったり、飢えて苦しむことも無くなるよ 

人は皆、家族や兄弟なんだから当然さ

ほら君の心にも描けてきただろ 誰もが

贈り合って暮らしていけるこの世界が...>


   “子どもが子どもらしく”だけではなく、子どもも・大人も“

   人が人らしく”成長していくための社会。

   権利や義務、責任、所有から開放されて、自分も、人も、社会も

   縛る事のない、自発的な自由意志で調和され、保ち合う社会。

   すでに実現していたんだなあ。  

   日常から「本心はどうかな?」「どういう状態だったかな?」と

   観察していきたいし、そういう風に成長し合える間柄(社会)に

   したいなぁ、と思う。(20代女性)

 

<僕のこと、ただ夢みてるだけって言うかもしれないね

でも、この世界が見えてるのは僕一人じゃないはず

いつしか君も手を携えて、共に歩く日が来るよ

だって元々僕らは「一つの世界」に生きてるんだから>


    社会と人は、別なものと、捉えていたが、人は、大きな社会の

    中に抱かれて。。。 

    社会と人と、別けようもなく、一つだった。 

    初めて自分が溶けていった、離れようのないもの、その

    ゼロベースで、大きな転換点だった。 社会と人 →「一つ」

    (70代女性)


感想文では、暮らしのなかであまり使われないコトバもときどき

出ています。

そういうコトバとしてでてくるのは、その人の内面のどういう世界

から発してきたものだろうと、その声を聞こうとして読みました。

一人ひとり、コースのなかで、これまでに気がついていなかった

世界に出会っているように思いました。


    <人と社会 どうなっているのだろう?>

   「みんなが幸せに生きられる社会。」

    だれでもが願っていることでしょうが、

    そもそも「社会」とはどういうものでしょうか?

 

参加者は、「社会」というものを自分はどう見てきたのか、どう感じて

きたのか、どう捉えてきたのか、ありのままに、お互い出し合ってきた

んじゃないでしょうか。

そこから、いろいろな捉え方はあるだろうけど、実際、「人と社会は

どうなっているか」という焦点で、観察し、探究したのでしょう。

なにかの結論が出たと言うより、自分で見たり、聞いたり、捉えたり

している「社会」を「実際は、どうなっているのだろう?」という問い

を立てて見極めようとしたんではないでしょうか?

その自問とお互いの交流から、なにか、かつてない新しい自分や社会に

出会えたという感動が湧いてきたのでしょう。

そこが、最初の一歩だと思いました。

周囲社会は、忙しくて、そんな問いにかかわっておれないかもしれません。

この問いを、そこが大事だと暮せる人とともに、もうすでにある

「一つの世界」を見失わないように、暮していきたいです。

 

(「イマジン」の和訳は、アズワン鈴鹿コミュニテイの坂井和貴さんです)

 




 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



 



わたしらしい人生を送るためのセミナー

2017-05-20 11:31:28 | サイエンズスクールのある暮らし

ゴールデンウィークの5月2日から7日まで、5泊6日のアズワンセミナーが

ありました。会場は鈴鹿にあるサイエンズスクール研修所です。

サツキの花が満開でした。。

全国から23名の参加者がありました。2会場に分かれて、はじめて会う人も

ふだんよく顔を合わしている人も、ともに暮らしました。

 

終わって、それぞれの暮らしの場に戻っていきました。

そのあと、アズワンセミナーにスタッフとして参加していた岩田隆さんが、

参加した人の感想のいくつかを紹介してくれました。

何か心に響いてくるものがありました。

 

よかったら、ゆとりのあるとき、その記事を見てみてください。

http://as-one.main.jp/sb/log/eid725.html

 

 

岩田さんは、このレポートで、こんな感想を書いています。

 

 ーー生活スタイルも価値観も違う見知らぬ人どうしが、同じ場所で、

   暮らしを共にし、「本心」で過ごせる体験となったようです。

  「本心でいていいんだ」と思えた仲間たち。安心できる関係。

   元々、人と人はそういう間柄なのかもしれません。その本来のものに

   出会えただけなのかも・・・


さらっと、書かれていますが、ハッとしました。

「本心でいていいんだ」という仲間との安心が、もともと人と人はそうい

間柄なのかもしれません、と言うのです。

 

ぼくらは、今、どんな世界に生きているのだろう。

アズワンセミナーのような機会がなければ、周囲に対して気遣いや警戒心で

接していながら、それは当たり前のこととして、不思議とも思っていなかっ

のではないでしょうか。

「本心でいていいんだ」

とっても、深い気づきだし、体験だと思いました。

 

ある参加者は、6日間のセミナーを終えて、

  ーー伝わってきたものは忘れていた何か大切な何か、自分の中に元々あ

    る何か、であると感じます。

    今まで当たり前だと思っていたことがガラガラと崩れていく心地よ

    さを味わったような気持ち。

と感想を書いてますね。

 

ある人は

  ーー知識や経験を外してゼロから実際はどうなのかを探究してみようと

    することで、その仲間たちとの間の結びつきが日を経るごとに深ま

    っていくのを感じました

と言っています。

 

「本心で生きていきたい」とか「仲良くやっていきたい」など願いは、どう

仲間たちとの(その日出会ったばかりのひとたちでも)、忌憚なく話し合

ところから、気がついたら、そうなっていたというようなものかも知れま

せん。

 

 

改めてアズワンセミナーの趣旨を読み返してみました。

そこには、こう表現されています。

 

  ーーアズワンセミナーは、本当の自分を知り、わたしらしい人生をる 

    ためのセミナーです。

    ゼロの地点から見直すことで、自由で、楽しい生き方をスタートす

    ることができます。

    身近な人と何でも話し合えるようになり、悩みや不安なく、積極的

    に暮らせる道が見えてきます。

 

アズワンセミナーへの参加の動機は千差万別でしょうね。

アズワンセミナーには、それ自体で何をするところか、という目標が

あると思いました。

「わたしらしい人生を送るためのセミナー」になっていくため、その前に

「本当の自分を知り」というのがあるんですね。

自分のことは、自分がよく知っている、とぼくも60歳過ぎるまで、思い込ん

いました。

ぼくが知っている「自分」の他に、「本当の自分」があるのかいな、とおど

ろきでした。



今回のアズワンセミナーのレポートを読みながら、「わたしらしい人生を送

る」ってのは、「本当の自分って、なんだろう?」と言う問いを、それを一

人でじっくり、考えるだけでなく、仲間とともに、探っていく、それそのも

のが、どうも「わたしらしい人生を送る」ことのように感じました。

これは、無理がないし、誰でもすぐに、できることじゃないでしょうか。

コトバの違う世界各地の人たちとも。

世界が一つに開かれていく、まず各人の心の門戸が開かれていく。


サイエンズセミナー

2016-07-19 00:40:06 | サイエンズスクールのある暮らし

 サイエンズセミナーは、NPO法人サイエンズスクール鈴鹿で開催されています。

サイエンズスクールの目的は「人として成長し、自己を生かし、発揮する」と

しています。

その実現の順序として、「サイエンズ」理解からはじめたいと、2006年から

マイライフセミナーとしてはじまりました。

今年になって、「サイエンズセミナー」と名称が変わりました。

「サイエンズ」といっても、何のことをいっているのか、どんなことをそう表現して

いるのかといことになりますが、やさしく表現すると「人間を知り、人間らしく

生きる」営みといえます。

「人間を知る」となれば、当然、自然界や社会が関係してきます。

「知る」とはどういうことかにもなります。

「そのことは、もう知っている」という状態からは、知的に「知ろうとする」

という営みは生じにくいです。

「探究する」がそこからはじまります。

サイエンズスクールのブログに、6月のサイエンズセミナーの様子が

レポートされています。

紹介させてほしいです。

 

      *      *     *

「サイエンズセミナー」って、どんなセミナーでしょう?

具体的に何をするのかというと、そこでは、何でも出し合い、何でも聴きあい、

なぜだろう、どうなっているだろう、本当はどうなんだろう?と、話し合い、

調べ合う(探究する)のです。

そして、お互いの意見や考えを聴き合えば聴き合うほど、お互いの理解は

深まり、ひとりひとりの違いがくっきりとして・・・。さあ、お互いの間柄は、

どうなるのでしょう?

6月「サイエンズセミナー」に参加した方の感想の一部を紹介します。

   *  *  *

思い込みやキメつけが、こんなに人生を縛り上げていたとは・・・


そして、安心して話を聞き・話すことが、こんなに快適だとは。   

傷つくのも傷つけるのも嫌なのに、人との関わりを求めて様々な場所に出かけて

行って、浅い付き合いに留めていたことが、親しさのある間柄を作れなくしていたの

かもしれない・・・

一人で考えていては堂々めぐりだったことが、一緒に考え一人一人の異なる考えを

聞き、心ゆくまで探究する事で、新しい道を見つけていく。

この考え方が広がっていけば、もっと楽に生きられる。

これからの世の中が楽しみになってきました。

(40代女性)

 

今回参加した仲間も、考えてみると、ここまで深く話したことがなかったので、

お互いを知れてよかったです。

普段、自分は迷った時・悩んだ時・なるべく根本に戻ってよりシンプルに考える

ようにしていました。

も6日間のワークに参加して、まだまだ前提やキメツケ、思い込みがある

ことがよくわかりました。

もっと深く見ていくことが出来ると知り、今後の生活に使っていくのが楽しみに

なりました。

(40代男性)

 

ゼロから「実際はどうか?」探究する・・・とても面白かった。

実際、自分一人でゼロになるのは難しい。

経験や知識を元に導き出し「本当にそうかな?」といつも考えるようにしていたが、

一人の世界だと、前提ができてしまっている場合がよくある、くつがえせない。

でも、他の人と一緒に考えていると「え!!!」と思うような、予想外の答えや考えも

出てくる。

それが本当に楽しかった。

(30代女性)

 

すぐにつっかかりを感じ、ヘソ曲がりなところのある自分という人間がおもしろく感じる

ようになってきた。

そして身近に居る人、出会った人の中身をもっと知りたくなってきた。

それは実に愉快でおもしろいことである。

(30代女性)

 

本の読み合わせをしたり「社会」についてのセッションを通して、それまでに比べて

心持ちが緩んだ感じがした。

それまでのセッションでは、各々個別の考えや思考価値観を見させてもらっている

感じだったのだろうか?

「社会とは?」と自問しそれを出し合い、響き合い、又考えて・・・・

その時間こそが共に社会を創っていこうというのに似た感覚だったのかもしれない

なぁと振り返って今、そう思う。

何度も出てくる「分け隔てのない親しい間柄」という表現。

言葉にするのはとても簡単。

昨年も「そうだよね。確かに」そう思った。

今回の6日間で言葉には、しずらい深い感じを受けた気がする。

6日間を終えるのに当たり「自分のことをもっと深めていきたいなあ」というこ

とと「周辺はどんなになっていくかなあ」とワクワクとした気持ちでいる。

「親しい間柄」へのこころみ。

これからが楽しみだ。

(40代男性)


サイエンズスクール鈴鹿については以下をご覧ください。

http://www.scienz-school.org/hp/


「自分を知るためのコースに参加して」

2016-01-18 20:57:37 | サイエンズスクールのある暮らし

5年前に鈴鹿に引っ越した。その頃から、このブログを始めました。

カテゴリーというのがあるので、その一つに「サイエンズスクールのある

暮らし」というのをカテゴリーをつくりました。

これは、誰かに分かったもらおうとか、そんな感じは強くはないつもりだけど、

自分のこころのなかの推移については、記録しておきたいし、関心のある人

には何かの参考になればとも思っています。。

 

 

         *                   *                 *

「自分を知るためのコース」に参加して        2016-1-16

このコースは、たしか4回目だと思う。3年ぶり。
日々の暮らしの中で、表にはあまりあらわしていないけど、いろいろな

感情がじぶんの意志とは関係なく立ち上がっている。

それは、自分がいちばん分かる。

直接、それらのことを検討したわけではないが、検討が進むにつれて、

そのことがどんなことなのか、なぜ起きてくるのか、見えてきておもしろ

かった。

スタッも入れて、9人で検討したなあという実感。

じぶんのテーマを解決するというよりは、なにか別の感じ。

 

これまでも、「これは黒ですか」という問いを立てて、その色はどこにあるかを

観察してきた。分かったつもりになっていた。

今回も「色」もあったし、「これはエンピツですか」もあった。

はじめ、目で見て、即座に「エンピツ」と言っていたけど、何回も「これはエンピツか」

と問うていくと、そのものと、頭のなかで「エンピツと認識している」とういうのが

離れてきた。

「ビンのフタが開いているのは、事実か」という問いもあった。

このへんから、何かの状態があって、その状態のことを、自分が捉えて、

「フタが開いている」と言っている・・・ううん?ちょっと、見え方ついて

ぼくのなかで、何かが動いていた。
 

その夜の宿題。

「実際はどうかに関心がいかないのはなぜか」

 1月10日のコースがはじまって、3日目の夜。

 この夜も9時過ぎに寝て、深夜2時ごろ目が覚めた。

 ふとんのなかで、咳をした。咳をしたなあ、と思った。

 「・・・・」少し、間があったとおもう。

 「あれ、もしかしたら、ぼくは”咳をしたこと”を事実だとしてないかな」 

 「・・・、ぼくの身体に何かの状態が起きた。それが先ずあって、そのことを

 咳が出たと捉えた。

 咳が出たは、じぶんの頭の中のこと・・・」

 「ううん、まてよ、”咳が出た”が、事実としたら、その前の、何かの状態が

 あって、というのがすっぽり抜けていたことになる」

 「あらら・・・」

 夜中に目が覚めたのは事実か、ウンコが出にくいのは事実か、などいくつか

 の例で調べてみた。いずれも、それが事実だとしてしまっている。

 その前にある身体に何かが起きて、が抜けている。

 

 翌朝、コースに参加して、初めて散歩に出かけた。

寒かった。「寒い」というのは?うーん、自分の外界に何かの状態があって、

その状態をぼくが寒いと捉えた。

池の周りを歩いた。

「歩く?」歩くというのは事実かな。

右足を出して、左足を出して、歩く。足だけ出したら、歩けるのか。

実際は、何か状態、身体の相互の関連や心の状態などが先ずあって、

それをぼくが歩くと捉えた。

 池の端に桜の木があった。

 つぼみが赤みを帯びて膨らんでいる。これって、事実だろうか。

 つぼみは細い軸の上にあり、小枝から幹、根っこにいっている。

 そのひとつひとつに、目には見えないけど、何かの状態があって、それが

 相互に関連しあって、何かの状態が表れていて、それをぼくは「つぼみが

 赤みを帯びて膨らんでいる」と捉えた。

 「つぼみが赤みを帯びて膨らんでいる」が事実実際だとしてしまったら、

 その捉える前に、どんなことが起きているか、事実実際がぼくのなかでは

 消えていたことになる。 

 じぶんが捉えた頭のことを事実実際としてしまったら、そのことそのものが

 どんなものか?とか、何でそうなんだろう、という方に関心が向かないだろうな。

 大変なことしてたなあと思った。

 

心臓の疾患があり、10年以上薬を飲んでいる。

医師の診療を受けながら、生存期間を延ばすと思ってきた。

この薬をやめられるか、とみんなのなかで自問してみた。

頭の中だけでなく、実際にやめられるか、と問うてみると、やめらられると言えない。

ほか人も「やめられない」という例や「できない」という例と向き合っている。

「やめられない」としているのは、何だろう?と見ていくと、医師がそう言ったからとか、

じぶんでもよくじぶんの状態を観察、検討しないまま、「飲まなかったら・・・」を固く

”そうだ”としてきた思った。

「実際、やめられる」とはっきりしたとたん、じぶんの身体はどんな状態か、

心臓の疾患というけど、人が捉えたもの、じぶんがここに生きているのは薬だけで

生きているわけでなく、何十兆個の細胞や肺や腎臓そのほかの関連や、食物、

空気、妻や、孫、周囲の人たち、などなど、事実実態の世界は豊かにどこまでも

広がっていく広大無辺の世界につながっていく。

 

「いないのは事実か」もおもしろかった。

ぼくは「やってほしいと言ったのにやっていない」という例で見てみた。

やっていないと聞いたとき、何かムっと立ち上がるものがあった。

事としては、表面上うまくいったようだったが、ぼくのなかは、いえば

暗く、ジメジメしていた。

じぶんの状態が、どうなっていたのか?

「言ってあったんだから、やって当然」という状態から始まっている。

「やってほしい」はぼくの気持ち。相手にもそのときの気持ちがあっただろう。

それがそのときあったことだと思うが、それが「やって当然」となっている。

「やっていない」と聞いたとき、あたかもそういう状態があるかのように

なっている。

よく検討してみると、「やっていない」というのは頭のなかのことで、

そこには何かの事実実際があったというだけだとおもう。

「やって当然」というのがあるので、「やっていない」が実際のようになるけど、

「やってほしい」というだけのことなら、そこには何かの状態があって、

それぞれの気持ちがあり、それをまえにして「今からどうしようね?」というのが

あるだけだろう。

具体的なことは、話し合ってすすめる、とてもシンプル。

暗く、ジメジメした世界と、事実実際の、広がっていく世界との異い。

ああ・・・。


「自信があるとはどういう状態か」では、探訪デイでのスクール案内に

ついてみて見た。

何年かまえに、そういうことをはじめるとき、自信がなくて、いろいろ過去の

資料や記録を読んだ。自信をつけようと思ったのかな?

その後、サイエンズスクールの集中研究会などに参加しながら、やってきた。

いつも「私はスクールについて、こう思うんです」とはじめるけど、いろいろ質問

などが出ると、熱くなったり、ムキにあるような気持ちがあったかなとあとで

感じたりしながら、後味の悪い思いをするときがある。

ここのところは、まだ検討し切れていない感じがするけど、ここでは、

「自信がない」といいながら、サイエンズスクールとは、こういうものだ、

という頭のなかのことを、あたかも事実のように、捉え違いしているところに

あるのではないか。”こうだ”とキメツケるものがある。

「サイエンズスクールとはこういうものだ」というものがあるわけではなく、

何かそういう事実実際があって、それをサイエンズスクールと、ぼくが捉えて

いる。

事実実際をもっと知っていくことではないだろうか。

こんな認識で、スクールの案内がどうなるか、なんとも不確かだけど、

現状はこんなとこかな。

 

自覚とは。

頭のなかに立ち上がったものを事実実際にしていないか。

頭の中のことに関心があるのか、事実実際に関心があるのか。

「これはエンピツだ」というのは、どこのことをいっているのか?

頭の中の世界が実際だと錯覚する世界で生きるか、広大無辺の

事実実際の世界で生きるか。

日々、見たり、聞いたり、周囲とかかわって暮らしているが、

そこに焦点を当てていきたいと、つくづく思っている。

 

 

 

 


人生を知るために

2014-04-01 07:20:30 | サイエンズスクールのある暮らし

振り返ってみると、2009年の秋ぐらいから、

”サイエンズスクールのある暮らし”というのを思ってきた。

それからいくと、今年5年目。

3月23日~29日まで「人生を知るためのコース」に参加

してきた。はじめ5名ではじまり、途中4名になった。

 

「これまで何をしてきたのか?」

この歳になってときどき発作的に出てくる感慨である。

このモヤっとした気分はこれからも出てくるかと思う。

ただ、今回いろいろ内観・検討してきて、こころの世界が

整っていれば知性が正常にはたらき、こころが整って

いない場合でも、知性を正常の方向で働かせていけば

こころが満ち足りてくる、この辺のことが見えてきたように

感じる。

まだ、日常の暮らしのなかでとか、身体がもっと衰えたとき

どうなるか、それは分からない。

分からないけど、楽しみな気持ちだ。

 

参加したときの感想文。記録として・・・。

どんどん自分が変わっている感じもしてるけど、

そのとき思ったこと。

 

 

         *             *              *

いままで何を見てきたのだろう?
いままで、それのどこを見てきたのだろう?

いままで何を自分としてきたのだろう?
いままで何をその人としてきたのだろう?

自分は下町に育ち、新聞で袋をつくって暮らして
いる親父と無学なおふくろのもとで生まれ育った。
商店街に面して、ガラクタが置いてあるような店を
友達に見られるのが、子供心に嫌だった。
自分は、そうであっても健気に生きてきた。
おふくろは無学。親類のなかでも、バカにされて、
蔑ろにされた人。おふくろは幸せだったのだろうか?
3歳下の妹は双子で生まれた。片方の男の子は4日間で
死んだらしい。弟は死んだ。「死んだ弟」
などなど・・・
自分についても、身近な人についても、
あたかもそれが実際かのように思っているし、
もし問われたらそんな話をしてきた。

果たして、それが自分なのだろうか?
果たして、それがその人なのだろうか?

 

目に見えるもの、見たものから感じたり、
思ったことを実際としてこなかったか?
「言葉や振る舞いなどには、元の心があるよね」
という場合があっても、それは「人ってそういう
もんだよね」という人間の考えの方でいっている
場合が多いのではないか。
ぼくは、そんな感じでやってきたと思う。

元の心こそ、実在。
元の心に作用しているもの。
すべての人にあまねく作用しているもの、
健康正常になっていこうという作用。
人の身体にもこころにも作用している。
目には見えない、感じない。
だから、無いとはいえないもの。

実際がどうなっているか?

人だけのことに止まらないだろう。
あまねくすべての人、もの、ことに行き渡っているもの。
生きとしいけるものすべて、人を形成する細胞、ものを
つくっている原子・分子、地球、宇宙、生命、
その実際はどうなっているのだろう。

実際は、人がどう思うか思わないかにかかわりなく、
細胞と細胞はお互い保ち合って生命体を形成するだろう。
人と人とによって、受精卵ができ、それは人になっていこう
という作用によって人になっていく。
その作用は誰にでも具わっているもの。
そのものこそ、人の本体。
こういう見え方はどうだろう。

人はそれぞれいろいろな因子を引き継ぎ、いろいろな
環境条件のもとで、その作用、人の本体がどんな環境の
影響をうけながらも、健康正常になっていこうとして、
最高最善の働きをしている。


その本体こそ、実在する、

こんな親のもと、劣等感にさいなまれながら、
そこからいろいろなことを思い、いろいろな
振舞をしてきた。
「そんなの、なんか変じゃない」とでもいうように、
ぼくの心に”もやー”とした信号を送り続けてくれて
いた。
「どうも、幸福はそっちにはないぜ」


新聞の袋ハリをしていた情けないオヤジがいたじゃない。
健康正常になろうとする、そういう作用が、そのときの
そういう形で何かを表そうとしていた。
無学なおふくろがいたわけではない。
実際は、おふくろとして、精一杯幸福になろうとして、そういう
作用がそういう形であらわれていた。
死んだ弟というのは無いだろう。
生まれて4日間、幸福になろうとして、そういう作用のも
とに生きた人だ。


いま、人生の実際について、知る端緒にいるように思う。
かりそめの、現象面のことを実際だとしてやってきた。
67歳。
遅くはないかんじもしている。
勘違い、間違いをしてきたとはいえ、67歳の人生を経験、積み重ねて
きてるんだぜ。

知る、正しく知性を働かせることさえできれば、
どれだけ、次代に大事なことをひきつげるか。
知性の、なんといえばいいか、人になっていくために、
知性の回復を!