かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

木枯帰るところなし

2016-11-07 11:08:31 | 鈴鹿川流域の暮らし

鈴鹿で山口誓子展が11月5,6日ありました。

 

ヒョンなことから、この企画を知って、妻と行ってきました。

誓子の弟子で、彫刻家の長谷川八寿雄翁のお話がありました。

昭和23年~28年まで、鼓が浦海岸で結核療養している誓子の

世話していたときの話がほのぼのとして、身近になりました。

展示は、誓子自筆の掛け軸や手紙などが、ショウーケースに

入れられことなく、展示されていました。

写真撮影も、どうぞということでした。

誓子の文字の息つかいが伝わってくるようで、こんな家族のような

展示会ははじめてと思いました。誓子が奉られていないんじゃないか。

ほんに、隣にいて話しかけてくれてるようでした。


昭和19年5月26日、高田本山専修寺で書かれた句に目が留まりました。

 

昭和19年ごろは、特別攻撃隊が話題になっていました。

 

 「海に出て木枯帰るところなし」の句も19年作です。

誓子の心のうち、どうだったんだろう、って残っています。

 

誓子は鈴鹿の学校校歌の作詞をしています。

その殆どが鈴鹿地域だということでした。


鈴鹿での暮らしが偲ばれる写真もありました。


こんなコトバも、心に残りました。



 

 



街歩き白子(下)

2016-05-13 09:10:11 | 鈴鹿川流域の暮らし

   3、誓子句碑巡り

 

とくに俳句に関心があるわけでもなかった。

2000年ごろ、伊勢神宮前のおかげ横丁をぶらぶらしていたら、

誓子という看板が目に入った。何か展示館のようだ。

「これ、何だろう?」

好奇心で入ってみると、山口誓子という人の俳句が展示されていた。

よく分からなかったけど、句を読んでみて、何か印象に残る

ものがあった。

自註つきの「山口誓子集」という本まで買っていた。

 

三重県のあちこちに誓子の句碑があると聞いて、句碑を探しにいくことに

熱中したことがある。

 山口誓子は肋膜炎の療養の為に昭和16年から28年迄の12年間、

三重県の四日市市富田、天ヶ須賀海岸、そして鈴鹿市白子の鼓ヶ浦に

居住していた。

 

何年か前も、鈴鹿の白子海岸に誓子の旧居があると知って、見に行った。

堤防沿いの道を何度も行ったり来たりした。

家があると思い込んでいた。何回目かに、堤防の下、浜辺に

「誓子旧居跡」という立て札を見つけた。

今どき、浜辺の堤防の中に家が建っているなんて、ありえないよな、

と思った。

 

 

その日は、まっすぐ白子の海水浴場の入り口前にある舞子館に

行った。

ここに、誓子の句碑がある。



 一湾の潮しずもるきりぎりす         昭和24年  

  <誓子自註>伊勢湾の全体の潮がしずまりかえっていた。

  その海のほとりのくさむらに、きりぎりすが鳴いていた。

  大きな潮のしずまり、その近くでなくきりぎりすのかすかな声。

 

伊勢湾の海。その広さ、深さ、奥深さ。

身近には、きりぎりすが鳴く声がかすかに聞こえている。

誓子は戦時もここに暮らしていた。敗戦のあと、この海を眺めながら、

どんな感慨が去来していたのだろう。

 

舞子館から、子安観音寺のある寺家町に行く。

子安観音寺の駐車場に車をおいて、街歩きをした。

街のなかにいくつもお寺があり、それが町並みのなかにしっくり

溶け込んでいる。


 

 

西方寺の境内に誓子の句碑がある。

この句が好きだ。何度読んでも、なにか深い感興が湧いてくる。

 

 海に出て木枯帰るところなし     昭和19年作

  <誓子自注>木枯は、山から吹き下して、野を通り、海に出ると、

  行ったきりで再び日本へは帰って来ない。

  日本の木枯は日本の国籍を失ってしまうののだ。

 

この句について、ある人が書いている。

 「軍も遂に特攻隊や回天といった人の命を犠牲に攻撃をする手段を

とり始めた(特攻隊が始めて出撃したのは昭和十九年十月)。

優秀な若者達は行きの燃料しかない戦闘機に乗り、米艦隊に向かって

突っ込んだり、墜撃されたり、燃料切れでその命を散らしたのである」

誓子が、そういう実際を念頭において、作句したかどうかは、あくまで

推測に過ぎないという。

この句を読むたびに、そういう背景の重みが浮かんでくる。

今の日本が、またしても、そんな方向へ舵をとりはじめている。

西方寺の境内は、誰もいない。しばらく、鐘楼の石の階段に

腰掛けて、一服した。シーンと耳鳴りがするようだった。

 

 

 子安観音寺の山門には「あ」と「ん」の仁王さんがいる。

 


なつかしい。子どものころ、わが家のすぐのところに曹洞宗の小さな

お寺があった。山門に仁王さんがいて、そこは遊び場の一つになって

いた。

「あ」の意味も知らず、「ん」のことも分からなかったが、仁王像は、

おっかないけど、近しい遊び仲間のようだった。

あの表情をまじまじと眺めていたな、と思い出した。

 

子安観音寺の境内にも誓子の句碑がある。


 

 虹の環を以って地上のものかこむ       昭和25年

  <自註>虹の輪が半円を描いて懸かっている。

  その輪の下に地上の一切のものが包括されている。

  それを逆叙すれば、虹の輪で地上のものをとりかこむのだ。

 

ふだん自分の立ち居地そのままで、見えたものを捉えている。

そして、その見えたもの、見たものをそうだとしている。

じっと、虹を見上げていたら、こういう世界も浮かんでくるのだろうか。

 

    

    4、寺家路地歩き

 

寺家町は、昔ながらの街並みが残っている。

 

西方寺の外壁を歩いていたら、赤い実をつけた枝が道に少し

はみ出していた。


赤い実って、サクランボじゃないかな。

手を延ばしたら、摘むことができた。

一瞬、背後に誰かいないかな、という感じで、採って、口に入れて

みた。ほの甘い。(そんな表現があるんかな)。サクランボだ

種をどうしよう?

見ると、道に種がたくさん落ちている。

ああ、同じことをしている人たちがいるんだあ。

すこし、目立たない脇に捨てて、行こうとしたけど、いたずら心が

むくむくとして、もういちどサクランボを採った。

この感じ、この感じ。他人の庭の石榴やイチジクを採って、食べるとき

の感じ。見つかったら、どうしよう、でもやめられない。

 

6年前に来たとき、「銭湯」という文字がついている建物に出会って、

「なつかしいなあ」と思った。

実際は、もう止めているらしい。入り口脇に車が置いてあったので、

人は暮らしているのだろうと思った。

今回、その前を歩いたんだけど、6年前と同じ印象を受けた。

裏には煙突があった。

銭湯の姿がそのまま路地に残されてある。

 

子どものころ、商店街に住んでいた。

わが家の前が銭湯だった。

銭湯に行くときは、パンツ一枚で走っていけた。

裏には木切れ置き場があり、記憶では子どもたちの遊び場の一つ

だった。小学校1年生ぐらいまでだったと思う。裏から男湯でも

女湯でも、遊びの勢いで出入りできていた。よくぞ、追い払われなかった

もんだ。

ああ、銭湯はなつかしい。

いまの時代でも、わが家の風呂とは別に、こういうお風呂があっても

いいなあ。

スーパー銭湯というより、なんというか、もう少しこじんまりしたもの。

 

玄関脇に「考える人」のような人物像が目に入って、ギョッとした。

その人は花に囲まれて、何かを考えていた。

この家の人に、彫像づくりを勉強していた人がいるのだろうか?

 

細い路地に入る。

ブロック塀のところに、丹精に手入れされたツツジの花が見事だった。

 

板張りでつくってある外壁の家の横を歩く。

板には、なんという塗料かわからないけど、黒い塗料が塗ってある。

家の板の壁に沿って、歩いていくと、途中少し広い路地に出て、右に

曲がって、それからけっこう、それが続いた。

「わあ、大きなうちなんだあ」

何を基準にそう言っているのか、そんなことが出てきた。

「板で外壁の家を維持管理するのは、何かそうしたいという

ようなこだわりがいるだろうな」と、余計なことを思った。

 

路地から離れて、近くにある公園に行った。

家族連れでソフトボールやっていたり、草野球チームが練習して

いたりした。

5月の太陽の日差しはやさしい。

でも、歩いて身体がほっててきた。ベンチに座って、ぼんやりする。

公園の北の端に赤い半てんを着た十人以上の若い男女が何か

している。


じっと見ていると、踊りの練習をしているみたい。

そういえば、鈴鹿や津で、夏”よさこい祭り”というのがある。

この街にそんなに若者がいたんだっけ、とびっくりするほど、子どもや

若人が集まってきて、夢中で踊りを披露してくれる。

そのためなんだろうか?

もし、それに向けてなら、こんな地道な時間をみんなでともにしてるん

なあ、と新鮮だった。

 

この街歩きを始める前、いまの日本は気づかれないように戦時色に

染まり始めているという、頭のなかの世界が、まてまて、じぶんの

意識になくとも、日々、時々刻々、生きられている実際があるんだろう

と帰りながら思った。

               (おしまい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


街歩き白子 (上)

2016-05-08 10:39:22 | 鈴鹿川流域の暮らし

    1、白子の街に行く

なんという気持ちの良い日だろう。

5月5日。

メガネの修理で、白子の街に車で出かけた。

メガネ屋さんのあと、隣の文房具屋さんで、4色ボールペンと折れない

シャーペンとノートを買った。

ボールペンは何本もあるけど、これは使いやすいというのがなかった。

シャーペンは高価なやつを最近無くし、今使っているのが、ペン圧の

強いぼくのクセでは、すぐ折れていた。

白子を歩こうと思った。

白子港から、海岸に沿って南に行き、寺家町という昔ながらの街の

たたずまいが残っているあたりを。

 

 

    2、浜辺逍遥

白子駅から西に向かうと白子漁港にぶつかる。

入り江には白い色の船が身を寄せ合っている。

船という物体というより、漁に出ない間、波もない入り江で仲間と

憩っているように見えた。


 

橋を渡り、白子海岸に行く。

堤防沿いの道に入り、堤防の切れ目から車を海岸に入れた。

浜辺を歩いてみよう。

 

錆びついた赤いエンジン発動機が打ち捨てられていた。


ここは、往時、小女子の天日干しの作業場だったところだ。

今は見る影も無い。

作業場の棟が堤防沿いに十数件たたずんでいるけど、すべて

廃屋のようだった。

6年前は、まだ使われていたという形跡があったんだけど。

 

 

海岸では、若い男女が貝か何かを拾っていた。

とても集中している。


浪打際にたつと、ざざざつ、ざざっという音だけが、シンとした浜辺に

響いている。なんという規則正しさ。

これが、あの大津波に変貌するなんて!

 

風が光っている。

遠い沖合いに帆が見える。ヨットらしきもの一隻。

風は北から吹いている。さらっととしていて、肌を撫でて行く。

暑くもなし、冷たくもなし。心地いい。

浜辺を北に向かって歩くと、テントが立っていて、その周りを子どもたち

が遊んでいる。

大人たちはバーベキューをやっている。いい香り。肉が焼ける匂い。


こうやって、5月晴れの時間を過ごせるなん!

人々は、めいめい、ゆったり寛いでいる。

時間がここでは止まっている。

 

 

大黒屋光太夫の記念公園にぶつかった。白子漁港の隣にある。


何度も訪れているけど、そこから海を眺めてみたかった。

1700年代、白子の浦を出航して、江戸に向かう途中嵐に遭って、

カムチャッカの島に漂着して、その後8年ロシアの皇帝に

まで会い、日本にもどってくるという壮大な物語。

その海を遠望する。波静かである。

 

浜辺をもと来た方に引き返す。

若い、高校生ぐらいのカップルがまだいた。

浜辺に寄せられた貝殻のなかから、何かを見つけようとしているらしい。

「何、探しているの?」女の子に尋ねた。

「えっ」と一瞬、怪訝そうだった。

、「しーがらす」と女の子は、恥らうようすで、でも楽しそうな言葉を

発した。

「えっ、どういうもの」返答に???だった。

「海のガラス」女の子は言い換えてくれた。

タオルに何か包んで抱えていた。

「そのシーガラス、見せてくれる?」

たしかに、ガラスのように透き通った貝が女の子の手にのっていた。

「写真撮ってもいい?」

このカップルは、なにか時計の時間とは異う時間を過ごしているなと

感じた。

               (つづく)

 

 

 


大黒屋光大夫

2015-11-04 20:57:35 | 鈴鹿川流域の暮らし

鈴鹿市の広報に「大黒屋光太夫記念館特別展ーー井上靖

「おろしや国酔夢譚の世界」が10月24日からありますよ、

と紹介してあった。

鈴鹿に引っ越して来て、6年目、光太夫さんの名前は聞いて

いたし、白子港に行くとなにやら立派なモニュメントが天に

向かって、佇立ししてるのに出会う。井上靖さんの文学碑が

あることも知っている。

文学碑は読んでいる筈だけど、そこから何か受け取っている

ものはない。

光太夫さんの記念館があることは、知っていたけど、行って

みたいとも思っていたけど、足が向いていかなかった。

それが、何を思ったか、二度目の死に損ないの体験が影響

したか、「行ってみよう」と妻と次男坊に声かけた。

 

25日の夕方、次男坊の運転で出かける。

駐車場には、車が一台も無い。

「閉館してるかな」と思いきや、やってそうだ。

人っ子ひとりいない、記念館は不気味だったけど、ドアを

開けると、受付には一人、女の人がいた。

展示室には、靴は脱いで、スリッパに履き替えて、入った。

 

光太夫らが1783年1月、白子の浦を出港して、嵐に遭い、難破して

アリューシャン諸島のアムトチカ島に漂着した。そこで4年を過ごし、

そこから、カムチャッカ~オホーツク~イルクーツク~ペテルブルグ

に辿り着く。そのルートが年月入りで、地図の上に書かれてあった。

帰りも、同じルートをオホーツクまで戻り、そこから根室に上陸したの

だった。1792年5月と記されていた。

地図上では矢印の線で引かれている。見ている、こちらは、「そうか、

すごい旅をしたんだなあ」と少し、関心が向く。

 

実は、何年か前、本屋を散策していたら、文庫本で井上靖の「おろしや

夢酔譚」が目に入り、何そのとき、魔がさしたように新品を買っていた。

最初のほうだけ、読んでいまは本棚に眠っている。

 

特別展は井上靖の手書きの原稿が、物語の流れに沿って、展示して

あった。その一つひとつを読んで回った。

妻と次男は、早々と受付の前にある長椅子に座って、ぼくが終わるの

を待っているようだった。

最後まで、読んできて、「ふーっ、ちょっと疲れたなあ」

周りを見回す。椅子があったらなあ、と思った。ちょっぴり、感慨に

耽りたかった。

そんなに長いこと居たわけでなかった。

ちょっと、物足りない感じ。

「海に行ってみよう」

 

海岸は風がきつかった。身体には堪える感じだったので、早々に

引き上げた。

 

あとで、あの記念館、海が見えるように作られていたら、いいんじゃない

か、と思った。

 

もっと知りたいとうのが、ムラムラと起こってきた。

「おろしや夢酔譚」の最終章を、わが家に戻って、一気に読んだ。

江藤淳が、この本の解説を書いていて、それも読んだ。

<「いいか、みんな性根を据えて、俺の言うことを聞けよ。こんどは

人に葬式を出して貰うなど、あまいことは考えるな。死んだ奴は、

雪の上か凍土の上に棄てていく意外仕方ねえ。むごいようだが、

他のすべはねえ。人のことなど構ってみろ、自分の方が死んでしまう。

いいか、病気になろうが、凍傷になろうが、みとりっこなしにする」・・・>

江藤淳は、ここがこの小説の核をなす部分だといっている。

 

後で、特別展のための小冊子を見ていたら、光太夫が帰国したあと、

異国体験をしてきた光太夫らの消息が知られていなくて、”不遇”な

生涯という評価があったらしいけど、鈴鹿の光太夫ゆかりの寺院とか

から、新資料が発見され、故郷鈴鹿にもやって来て、世話になった人

との再会も果たせたとか。

小冊子には、そういう経緯が明るみに出るに合わせて、井上靖さんが

文学碑を推敲していく過程が紹介されている。

 

おそらく、最終の文学碑の文章。

 

 

漂流民は、光太夫の前のもロシア地域に5回、本人たちの意志では

なく、国という枠からはみ出した。その人たちは、帰国は適わなかった。

光太夫は、時代の背景や光太夫の資質も加わって、国からいったん

はみ出したが、再び戻った。それが、どういことだったか、いまの

ぼくにはわからない。関心はある。

その後のジョン万次郎との比較もあるようだけど、そのこともしらべたら

おもしろそうだな。

中東から多くの難民が国と言う枠からはみ出して、おおきなうねりに

なっている。

国という枠が先ずあるというより、まず、一人ひとりの人間がいる。

それが、実際に見える。

一人ひとりの艱難がどういう方向を目指しているか、時間があれば、

光太夫物語も、読んでみたいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


興味本位に・・・

2012-03-25 06:37:21 | 鈴鹿川流域の暮らし
 3月24日(土)、25日(日)三重自然文化祭in鈴鹿の催しが
鈴鹿市文化会館で開かれている。

 NPO鈴鹿循環共生パーテイという名で展示コーナーを出した。
名前だけからは、なにをしている人たちか分からない。


 
 里山が好きで、荒れた雑木林に下刈りをし、”里山の小径
プロジェクトとか言いながら、子どもたちの遊びの場をつくって
いる男がいる。
 何のきっかけか知らないけど、ダンボールコンポストなるもの
が面白いと、仲間を募っているおっさんがいる。(これは、ぼく)
この寄合いの世話役は片山弘子さん。鈴鹿市の環境審議会の
委員さんだ。肩書きというより、そういうテーマについつい
向き合ってしまうようだ。
 
 ついこの間まで、「環境には関心あるけど、子どもには
関心ない」と言っていた青年が、”里山体験ジグゾーパズル”を
つくって、会場で子どもたちがそれに熱中しているのを見守って
いる。
 里山体験をしたいというお母さんに、「”てっらこや”という
子ども企画が一年と通じてありますよ」と案内している。

 子どもって、面白い。
 会場にはいろいろ、子どもの関心をそそるような遊びや企画が
用意されているけど、そななかで、いったん、ジグゾーパズルを
やりはじめると、その世界に簡単に入り込むらしい。

 バラバラになった、たくさんの小片を見ただけうんざりするのと、
それを一枚の絵にしてやろうと、それにとりつく、子どもの
こころ・・・どんなんだろう?


 はじめは,遅々として進まない。お母さんはやきもき。
 そのうち、なにか発見したかのようにパズルが解けていく。
 お母さんも引き込まれている感じ。


 「やったー!」
 それだけのことかもしれないが、子どもにとって、この時間は
なにものにも代えがたいものじゃないかな。

 孫二人が、隣のコーナーで伊勢型紙の手法で栞づくりに
はまっていた。



 会場を回ってみた。
 「蜘蛛には、いくつ目があるだろう」と子どもに聞いている、
子どものようなおじさん。

 蝶の観察が好きらしい。
 三重県で蝶の種類がどんどん減っていると憂いていた。
 里山が荒れていて、その蝶が吸いたい花が消えていくためらしい。
 説明してくれるおじさんの目が輝いている。
 
 

 鈴鹿川の魚たちの観察をしている高校生。
 水槽で実際の魚を見せてくれて、説明してくれた。
「ゴクラクハゼってあるけど、どこにいる?」
「ああ、この石の下です。愛嬌あるんです」
ほんの、何センチかの大きさ。アンコウのようなかたち。
「こういう観察、もう2年ぐらい続けてます」





 鈴鹿循環共生パーテイの展示をほとんど作った青年が言った。
「こだわりの人たちの集まりですよ」
 ”こだわり”といったら、なにか他を入れない固い感じも
するけど、一人ひとり、その人の興味にそって、楽しんでいる
というのはどうか?

 それに”本位”とつけたらどうなるかな。
 遊びはもちろん、暮らしにしても、仕事にしても、人との
つきあいにしても、”興味本位”になっていったら・・・
 そんなことで、この世の中、生きていけないかどうか。
 はなから、あきらめてはもったいないかんじも・・