かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

ラジオ体操

2015-08-25 11:49:46 | わがうちなるつれづれの記

先日、「Home away from HomeーーYKCの思い出」という

小冊子が送られてきた。45年前の同僚、Mさんから。

 


22歳から5年間、ぼくは財団法人海外技術者研修協会横浜研修

センターという、長い長い名前の職場で働いていた。

略称、YKC.

今は、その名前の団体はなく、名前も変わって、装いもあらたに、

いまの時代の要請にそって、続いているらしい。

 

Mさんから、「横浜研修センターの思い出集を出す。宮地さんは

当時のラジオ体操のこと、書いてほしい」と電話があった。

そんなこと、記憶から消えていると思った。

でも、思い出しながら、書いてみると、意外に覚えているもんだ。

思い出したこと、書いてMさんに送った。

それが、出来上がって、ぼくのところに届いた。

 

小冊子を開いてみたら、当時YKCの主事をしていたS氏の手記が

あった。

S氏がインドネシアを訪問した際、30年前にYKCで研修をしたという

インドネシア軍の士官の方から「ラジオ体操の先生は元気ですか?」

と声をかけられたというエピソードが語られていた。

Sさんは、その人が当時痩せていて、華奢な記憶があり、目の前の

恰幅のよい大柄の青年が見違えるほどになっているのに驚いた。

そのときは、ひよこの鑑別の研修をして帰国した。

そのあと、一念発起して、士官の道を選んで、成功したらしい。

 

Sさんは、手記で書いている。

「インドネシアでの所謂エリート層は陸軍と伺っていた。今では、准将か

大将になっているか、あるいは既に引退し、天下りしているかもしれない。

日本、YKCでの生活が彼に大きなインパクトを与えた事実は否定できない。

また、YKCでの出会いは、彼の人生にとって、大きな転換点になっていた

に違いない」

Sさんとの出会いの別れ際、その彼が「YKCの皆様に、そして体操の

先生に宜しくお伝えください」と伝言されたと聞いた。

なんか、それを読んで、こそばゆかった。

 

ラジオ体操の思い出を記録として、載せておきたい。

そんなことも、あったなあ。

 

        ラジオ体操の思い出         

                              2014年8月

 ラジオ体操が好きだったという思い出はない。

小学生の頃、夏休みに眠いのに空き地でやっているラジオ体操

会場に行って、確かに来たというハンコを大人から押して

もらった。ハンコのために、しぶしぶだった。

23歳のころ、一口では言えない名前の団体の横浜研修センター

で働くことになった。そのとき、真山静子さんは食堂で栄養士として

働いていた。ほかに10人ほど若い女性が食堂で働いていた。全員

栄養士さんだった。

「諸国から異国日本にやってきた人たちが初めて接するところなので

手厚く受け入れたい」という空気がなんとなく漂っていた。

そのころは“発展途上国”という言葉があり、そこからの技術研修生

を受け入れて、その国の発展のお手伝いが出来ればという空気もあった。

 

 

ラジオ体操というのは、一人でやったというのではない。

記憶では、100人が宿泊できる研修センターのマイクで全館に

「グット・モーニング!」と呼びかけ、滞在している研修生を

道ずれにする勢いだった。

もちろん、強制ということはない。来たい人が来てもらったら

いいというつもりだった。

誰も来なくても、一人でもやる。そんな覚悟もあったかな。

一人でもというより、自分がやる、やり続けてみようという

気持ちもあったかと思う。(これは、書いていて思い出した)

一人でやろう、ってなことなら、何も朝っぱらから、全館放送

までして、研修生を叩き起こすようなことはしないよね。

じゃあ、なんで、そんなラジオ体操なんてことするなんて、

思いついたのか、今となっては思い出せない。

 

 

毎朝、「グット・モーニング!庭でラジオ体操しましょう」とか

言っていたのかな。

自分のつもりでは、研修生一人ひとりに声をかける気持ちも

あった。

同時に「研修生がこんな全館放送をどう聞いているのか?」

と不安でもあった。

集団行動を促すような、極端いえば軍国日本を思い出させない

せないだろうかと・・・。

放送すると、何人かの人が研修センターの芝生の庭に出てきて、

ラジオ体操第一だけをみんなでやった。

そうそう、なんとなく、「おはようございます。今日一日、

よろしく」みたいな感じもあったかな。

 

 

いつから?

ぼくが採用されたのが、1979年の5月だった。

その年には始めていたと思う。

いつまで?

4年ほどは続いたのではなかったかな。

1974年の秋に横浜研修センターを退職した。

なんかのときに、AOTSの職員がインドネシアで帰国研修生の

人と会ったとき、「あのときのラジオ体操が懐かしい」と言っていた

というのを聞いた。

「へえー」とおどろいた。そんな人もいたのかあ。

 

 

ちょっと蛇足。

1969年1月東大安田講堂陥落。ぼく、授業料2年未納のため

4年生の最後に私立大学除籍。

横浜で新聞販売店に住み込み、朝は新聞配達、昼は日雇いで

働いていた。

5月ごろ、カラダが持たないので、事務仕事に就職しようと

新聞の求人広告を見ていたら、「横浜研修センター」という

のが目に留まり、面接に行った。

1人の採用に20人ぐらいの人がいた。初めて、面接なるものを

した。

しばらくして、「採用します」と連絡があった。

研修センターに住み込んで、施設の管理をするのが仕事だった。

研修生との付き合いは、仕事の一部とも言えそうだけど、自分の

なかでは、隣の人として接したいという気持ちがあった。

 

 

この就職は奇縁だった。

大学のころ、学生新聞を作っていて、そのころベトナムから国費

留学生として千葉大学に来ていたウ・タト・タンくんがベトナム

戦争反対という意思表示をしたことが、本国で問題になり、文部省

から国費打ち切りとなったことが各界で波紋を呼んでいた。

ウ・タト・タンくんを応援していたアジア学生文化協会に取材に

いったことがある。そのとき、田中宏さんに会った。新星学寮という

留学生の寄宿舎も紹介され、穂積五一さんにも会った。

横浜研修センターに就職して、財団法人海外技術者研修協会の

理事長というのは穂積五一さんだと聞いた。

「へえー」とびっくりしたのを覚えている。

 

 

ラジオ体操とこの奇縁がどんな結びつくのか分からないけど、

明治維新以後、アジアとかかわってきた日本人、具体的に

自分、どんなにかかわっていきたか、かかわっていきたいか。

事柄のこともあるけど、どんな気持ちで、というあたり。

それは日本で育ってきた自分の感性を認めながら、これから死ぬ

までのテーマかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-09-10 20:53:37
ふとYK Cの事を思い出し検索の末に貴ブログにたどり着来ました
私は78年6月くらいから79年9月くらいまで真山さんのいた食堂で泊まり込みのアルバイトをしてた者です
在職期間が被っていたらお会いしてると思います
今の時代ではあり得ないようなのんびりとした職場でしたね
職員旅行で伊豆大島にも連れて行ってもらった事も思い出です
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