かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

投句が具 おでん味わう 句会かな

2015-11-28 21:42:50 | わが健康生きがいづくり三重の会記録

ああ、めっきり冷え込んできた。

ついに長いパッチもはきだした。

11月は今年最後の岩魚句会。28日10:25分、集合。

もうかれこれ13回。よくぞ、ここまで来たもんだ。

今日の参加者16人。

三浦順子さん、句会に飛び入り。

自己紹介、三重県環境学習センターで地球環境をすすめる人を

養成している。蔓で籠をつくる人。

 

一人3句、各自書いて、提出。敏子さんが、一句一句台紙に貼る。

康子さんが、近くのコンビにで、プリントしてくる。

その間に、お弁当。おふくろさん弁当特製。

敏子さんがゆずの香りする大根の酢の物、佳子さんがお味噌汁。

カラダが温もる。

 

めいめい選句。

「今日は、人数が多いし、点がかたまららないように、7句選び

ましょう」と敏子さん。

 

どんな句会だったかなあ。

やっぱり、一人ひとりの句を紹介したい。

句だけで、本人が参加しなかった郡山さん、深田さんの句も。

点がたくさん入った人だけでなく。

選者の評が面白かった句。

作者の話を聞いて、「へえ、そうだったの」とその人が身近に

なったり。

句のなかから、その人の暮らしが垣間見えたり。

 

○ 我が職場株式なれどおでん味           中井正信

    1点句。敏子選。おでんというのは、同じダシのなかにあっても、

    具の一つひとつは、そのもの味を出している。

    「長い竹輪は、長いままだもんね」(なーる!)

○かくれんぼ雲の間に間に冬の月           辻屋哲男

    雲に隠れたり、出てくる様子を”かくれんぼ”と捉えたんだね。

○満月のハッと目が合う秋の暮れ           今井亜子

    残念ながら点は入らなかったけど、満月とそのとき、どう付き合ったか

    「満月に」がいいか「満月の」にするか、推敲したという。他の句では

    サツマイモや大根など身の回りのものを題材にしている。

○魚市場声たかだかにのどぐろと            郡山恒久

    「活気がある」郡山さんの句と分かって、「魚、食べるのすきなんだよな」

    2点。

○目が笑うせつなのときを冬の道             栗屋 章

    栗屋さんは、読んだだけでは意味不明の句をけっこう作る。

    分からないけど、つい好奇心か選んでしまう。

    今回は、音楽を聴きながら、笑ったりして、自分の世界に

    浸っている人とすれ違ったときのことを詠ったらしい。



○満月や手のひら乗せて撫でてみる           深田哲男

    7点句。「満月を撫でてみる、という気持ちに共感した」

    「自分の人生も、撫でてやりたくなった」(爆笑)

○秋晴れへ吸い込まれゆく赤トンボ            金治

    1点。選者中井さん「澄み渡った青い空に、赤のとんぼが

    飛んでいる。いいなあ、と」余川さん「秋と赤トンボ、季語が

    二つだなあ」(なーる!)

○焼き芋に舌鼓して夢談義                 宮地小浪

    「焼芋に、夢と取り合わせたところ、面白いね」「サツマイモ、

    息子がつくったの、えーと、品種は夢はるか!」「・・・・?」

    「ああ、ゴメン。紅はるか、だったわ」(笑い)

○秋焼けの庭先映える落ち葉かな             森原としこ

    この句に2点。ほかに、「露天風呂アニオセオが豊かさを」という句。

    ??であった。作者の解説。「旅先で、いっしょの温泉

    になった人から、”アンニョンハセヨ”(アニオセヨ、と聞こえた)

    声かけられた」おそらく湯気の中で、心温まる体験をしのでしょう。

○お日さまの温もり包む熟柿かな              余川彬夫

    「温もり包むというとらえかた、いいなあ」余川弁「熟柿のところ、

     ずいぶん推敲した」(それで、熟柿になっちゃったのかな)

    ほかに、「くるくると枯葉のおちてからからと」の句。

    余川弁「擬音語を二つ入れた句にチャレンジしている」

    今回は、1点も入らなかった。乞う、次回。



○人はみな夢追いかけて悟道                三浦順子

     初参加の句。4点入った。「夢追いかけて、若々しい」「悟道って、

     どんなイメージ?」「最終章?」(笑い)「諦めじゃない感じがしている」

     「ところで、この句、季語がないんだよね」あとで、そうかということ、

     あるよね。

○時運び最速背負えぬ軽き母                 鈴木英二

    7点句。受け取り方に諸説。「母が軽かったら、なぜ背負えない?」

    「母はすでに亡くなって、骨になっている」

    作者の弁「母と墓参に行った、自分が腰椎損傷があり、背負う

    ことが出来なかった。ポイントは、時はゆったり進むが、母について

    は。時は待ってくれない、そんな気持ち」あれ、これも季語なし。

○七五三幼きわが子今は母                  伊藤敏正

    5点句。「”幼きわが子”は”幼かりし”ということだよね」と敏子さん

    ポツリ。「ああ、でもその時の父の気持ちなんだよね」と共感へ。

    他に「孫生まれ逆単身の夜長し」と言う句。これにも、敏子さん、

    「仕方ないもんね」と一言。「生まれしがあって、夜長し、とあるから

    仕方ないだけじゃないかも」(大笑い)

○舞う落葉狂気の沙汰も地に還れ              宮地昌幸

    「フランスの詩人、アル中のランボーを思い出した」

    「いまのフランスで起きた事件を詠っているのかなと思った」

    「切実な気持ちがあるけど、言葉にならなかったけど・・・」

○沖縄に春の来る日を願わんや              大平達男

   「ずばり、その気持ち、そのまま」2点入った。

   他に「パテシエや栗を練り込み街つくる」がある。菰野に

   美味しいケーキ屋さんがあるという。「練り込む」に力が

   感じられる、熱血男のうた。



○母が着し晴れ着愛おし七五三               辻屋康子

    7点句。「晴れ着というのは、母のものか、祖母のものか」

    「ここでは、祖母じゃないか」

    「三代ものの句はみんな良いになっちゃうな」

    作者弁「そうなのよね。ここでは、孫のことより、晴れ着のこと

    うたっているかも」   

○冬日なた老いた背に聴く長き日々             大平照子

    7点句。「日なたの情景と背中を見せた老い人に思いを馳せて、

    現われてくる世界いいなあ」

    「きくも、ただ聞くというより、聴くだもんね」

    余川さん。「冬日なた、の冬っているかなあ」「うーん」「日向ぼっこ」

    「冬の外気の冷たさのなかの、日向という趣もいいんじゃない」

○冬帽子壁に残して父の逝く                     伊藤敏子

    7点句。「壁に残っている、冬帽子。そこから、さまざまな情感が浮かんで

    くる。金治さんは23年前、父がなくなた時の光景が蘇ってきた。

    「壁に残して、というところ、まだ父の温もりが残っているのかな」

    作者弁。「そうなんですね。11月のことでした」

○幻想か茜に染まる秋漁港                       上野

    上野さん、句会の途中で現われた。

    敏子さんが、それとなく声かけて、句会へ参加しやすいようにして

    くれていた。

    最後、上野さんの句についての話題、聞きそびれている。

    覚えている人、足してください。

 

とっても、盛りだくさんな句会だった。余韻がいつまでも続く。

上野さんが届けてくれたお土産は、来年の正月の新年会の

会場の情報。

志摩町にある上野さんが以前勤めてた会社の保養所のホテル。

1月24,25日、土日です、

どんな年になるのか。

でも、今はあと一ヶ月、今年、どんなに締めくくっていくのかなあ・・・

外気は、ぐっと冬になる。

 

    

  

 

 

 

 

   

 

 

 

    

 

 

 


老年期をどう生きる

2015-11-27 14:37:55 | アズワンコミュニテイ暮らし

理想の暮らしを語る会を有志ではじめて、もう3年経つかな。

はじめは「年寄りの会」とか「耄碌の会」とか、会の名称に

ついて意見があった。

有志が60代の年寄りが多いので、そんな案が出たけど、

年齢にかかわりなく、どこの年代であれ、理想の生き方や

暮らしがあるはずで、目指すのはそこだよな、となって、

いまでも、その名称でなんとか続いている。

 

毎月第3土曜日を定例の寄り合い日にしている。

 ここのところ、認知症をテーマにして、わが身を振り返ったり、

これから老年期を迎えるにあたって、今どう暮らすなど

話し合っている。

 

先日11月21日は、友人の四国にいる妹さんが、認知症の

母上を介護した体験談がDVDで送られてきたので、それを

観て、感想を出し合った。

母上の介護は8年にわたり、3年前に亡くなっている。

 

感想。

・介護のなかで、嚥下障害が起こり、食事ができなくなって、

鼻から管を入れて、遺漏へ行きかけたが、母はほとんど

言葉が話せないにもかかわらず、鼻から管を通そうといたら

「やめて!」と叫んで、嫌がった。

遺漏ではなく、嚥下障害をリハビリする病院に移ったけれど、

上手く行かなかった。

医師からは、「認知症の人にこのリハビリは無理ですね。

老化がすすんでいると見た方が良さそうですね」と聞いた。

ここで、妹さんはハッとしたという。

「老化なんだ。老衰しているという当たり前のことを受け入れる

ことだ」

さっそく、母上を自宅にもどした。

自宅で、世話していこう。

母上は、障がいはあるけど、ベットの上に座るようになったり、

昔の歌も歌うようになった。

気持ちが通じるように感じた。

母は、とっても可愛い人だったと発見した。

いままで、そんな心を出さずに、じっとしまっていたのかもしれない。

介護していて、そういう母と最後一緒に過ごせたのは、とっても

うれしかったです。

 

ここ、「老衰を受け止める」ということが、話題になった。

もちろん、回復できる機能はそうできたらいいのだろうけど、あまりにも

そちらに関心が行き過ぎている。それしか、考えられなくなっている

んじゃないだろうか?

この辺は、まだ元気に暮らせている今、どう考えるか、話し合って

おきたいね。

「意識がなくなり、食べられなくなっても、遺漏はしない、と自分の

意志を書いておくとか。

「一概に、遺漏はすべてダメといものでもないとおもうけど」

「老衰がすすめば、食べられなくなる。食べられなくなって、死んで

いく。ここも、今、描いておいていいのかなあ」

「死にたくない、というだけでは片手落ちだよね」

 

死んだときの話に移る。

「Eさん、墓をかったんだよね。死んだら、使ってという気持ちがある

らしいよ」

「そうだ、死んだら、どうするか、あんまり考えていない」

「この近くに、そんなとこあったら、安心して、死ねるかもね」

 

「死ぬという話もあるけど、死ぬまでに、そこを看取ってくれるお医者さんが

いるといいよね」

「そうそう、かかりつけのお医者さんが・・・・」

「お医者さんと言ったら、なんとか生かしていくというので、遺漏とか

点滴とかの方向へ、行くしかないだろうね」

「もし、お医者さんと、気心が通じていたら、話合いながら、最後を

看取ってもらえるんじゃないかな」

「日頃、どこの病院にかかっていて、どんな付き合いしてるか、こんど

お医者さんの品定めしてもいいかもね」

 

とかなんとかいいながら、またそれぞれ、考えるテーマが出来た

感じでした。

 


参考までに。

「理想の暮らしを語る会」発足ものがたり。

トランジションタウン鈴鹿

 

理想の暮らしの会・・・老人から子どもから

 秋雨の降る日。
 とくに何を話題にするでもなく、話していくうち、「昨日、一緒に
飲んだ友人が老後、どんな暮らしになるか、真剣に考えている」
という話になった。
 60歳を越えるようになると、誰でもこころに浮上してくる気持ち。
お金のある人も、健康な人でも。なんとなく、人生をかんがえる。
 老人と子ども、家族、地域社会、こんなんが出てくる。
 「わが家でも、けっこういろんな人が出入りして、食事したり、
おしゃべりしたりしている。週1回は、子どものある2家族が
食べにくる。子どもといっしょに食べると、俄然気持ちが元気
になるんだ」
 「そうだね、わが家でも娘と孫たちがやってくると、自分の
なかの細胞が急に活発にうごきはじめる感じがする」
 「そういうのは、こういう施設をつくったらできる、とか、
老人の問題をなんとかしよう、というはじまりだと、なんか
どこかで行き詰ってしまう感じがするんだなあ」
 「目の前の問題にたいする対策ということかあ」
 「そかなあ、具体的な対策とか言う前に、自分は、それぞれ人は
どんなことねがっているか、誰もがこうなりたい、とかこうありたい
とか、願いというか、理想があるんじゃやないだろか」
 「そんなの無理、とか、現実はそんな甘いもんじゃないとか・・」
 「そこなんだよな、まず、いろいろやること検討する前に、
そうそう、理想の暮らしってのを、はっきりさせるのはどうかな」
 「なるほど・・・いいかもしれないね」
 いろいろしゃべって、さあそろそろ行くわ。
 外に出たら、小雨が降っていた。
 こんなひとときが、なんかになっていくのだろうか?
 なるか、ならんか、それは本当の願いかどうかに、
かかっているのだろうか?
 トランジションの意味もたずねつつ。
 


 

 

 

 

 


ばんごはん大作戦

2015-11-21 09:51:56 | アズワンコミュニテイ暮らし

大作戦といっても、なにか計画を立てて、何事か成し遂げるという

大それた気持ちはなかったけど・・。

 

先週、娘が11月15日からサイエンズスクールの「人生を知るため

のコース」に参加するんだけど・・・と、わが家に現われた。

妻とぼくが、そのとき、居た。

「1週間、子どもたちと離れるんだけど、基本、晩ごはんはジジババの

のとこで食べる、って伝えたいの」

孫娘は中2、下の男の子小4。

自分たちで、食べようとすれば出来る。

「それがしたいときは、したらいいけど、基本は決めときたいの」と娘。

娘のアパートとわが家は、目と鼻のさき。

別棟といっても、見え方では同じ敷地の離れともいえるのかな。

ときどき、孫娘が「トイレ~」とかいって、飛び込んでくる。

 

妻は「いいよ」と返事した。

娘の、コースへの参加を応援したいという気持ちからだと思う。

妻は、その週、サイエンズスクールの食事や暮らしの世話をする。

わが家の晩ごはんは、スクールの晩ごはんを用意をしてから、

戻ってきて、こんどは、こっちの晩ごはんという流れになる。

 

 最近、長男一家が亀山の地域の中だけど、引越しした。

風呂が出来ていないこともあり、長男夫婦と1歳10ヶ月の

男の子が、ここのところ、夜、わが家で風呂と食事をすることが

多い。

ちょっと指を折って、数えてみると、長男一家3人、娘の子ども2人と

娘のパートナー、それにわが夫婦に三男坊の3人、計9人が

食事をすることになる。テーブルと椅子は、ぎりぎりOK.

 

11月15日の夜から、この9人の晩ごはんがはじまった。

この夜は、カレーのメニュー。

妻は、7時ごろ帰ってきて、準備してみんなで食べて、後片付けが

あり、もちろん長男の嫁さんともいっしょやって、みんなが帰ったあと、

妻は「ふーっ」と・・・

「この調子では、妻は1週間つづかないだろうな」と思った。

 

ここ2ヶ月ぐらい、朝、三男坊とぼくら夫婦3人でモーニングカフェ

をやっている。

きのうあったことや、これからのことや、いまの気持ちなど、ボソボソ

出し合っている。

ずっと、黙っているときもあれば、しばらくテレビのニュースをみている

ときもある。

9時には終わることにしている。なんとなく、今も続いている。

 

はじめての、”9人晩ごはん”があった翌朝、ぼくからこんな

言葉がでてきた。

「この、娘を送り出している1週間、きのうみたいな感じで

ばあさんが一人頑張ってもつづかないと思ったんだ。

おばあさんは、スクールからもどってきたら、用意されている

テーブルについて、なにもせんと、そのまま食事に入れるように

ならんもんかな?」

「・・・・」

3人、しばらく沈黙。

「この1週間、どんな夕食ができるか、考えてみたいなあ」

「洗濯物をたたんだり、テーブルの準備だったらやれるよ」とぼく。

それがキッカケで、それぞれの中にあるいろいろな気持ちやら

具体案が出てきた。

「そりゃあ、お母さんが一人でやらなくっちゃでやっていて、

他の人がやってないと見えていて、ちょっとは手伝って、という

気持ちがあったりしたら、何か手伝おうという気持ちが出てこない

じゃない」と三男譲が言いだした。

・・・・・しばらくそれぞれの気持ちを出し合った。

最後は、1週間のメニューを決めて、それがどんなふうに

できるか、食べに来る人とも相談してみよう、となった。

実際は、そんな相談しなくても、初日の夜に、長男のお嫁さん、

悠海さんが明日、ピザを焼くんだったら、1歳10ヶ月の”わたる”を

見てほしい言うのがあってと、娘の長男の晴空が早めにきて、

”わたる”と遊ぶということになったらしかった。

晴空はこれまでも、わたると居るのがうれしいとおもっているよう

だった。

 

ばんごはんメニュー案

11/16(月) ピザ

11/17(火) 豚しゃぶ

11/18(水) おでん

11/19(木) 白菜と豚ミンチの重ね煮

11/20(金) トンカツなど揚げ物

11/21(土) ママ、桃子が帰ってくる!

 

16日、ピザの日。

三男坊が風呂桶を洗ったりして、風呂の準備している。

これは、いつもは、妻がやっている。

誰かがやらないと、風呂へは入れない。

 「えっ、そんなことするのはじめてじゃん」とぼくは思った。

それに、やるよ、と彼が宣言したわけでもない。また、宣言して

やるようなもんでもないのかも。

(三男坊の中で何がおきているんだろう?)

 

晴空は夕方、早々と来た。

「あれ、まだ来てないの」と晴空。

悠海さんとわたる、そのあと来る。

わたるは、晴空が居ると、晴空が何か遊んでやるとかいう前に

とてもうれしい表情をする。

 

ピザは子どもたちには大好評。ただし、焼くのにはどうしても

手間と時間がかかる。おばあさんが、スクールから帰ってきても、

そのままテーブルに座るわけにはいかなかった。

悠海さんとおばあさんが替わりばんこに、立ったり座ったり。

その間、わたるは食べたり、遊んだり、部屋中、動き回る。

わたるが静かになったときは、一瞬、みんなが「はっ、わたるは?」

と、?に見舞われる。

わたるが、何をしでかしているか?覗きにいくことになる。

わたると晴空は、居間とキッチンの周りを這い回ったり、じゃれ合ったり。

孫娘風友はそんななかでも、食べあと、コタツで学校の練習帳を

開いていた。

 

片付けしたり、デザートでアイスクリーム食べたり、一段落の

雰囲気のとき、風友が「じゃあ、帰るわ」と居間から出かけた。

「あっ、そうそう、相談したいことがあるんだあ」とぼく。

風友、居間のドアの外側から、顔だけ出して、「なあーに?」

「うん、この一周間の晩ごはん、おばあちゃんが一人でがんばらんで

いいように・・・・」ぐらいまで、言いかけたぐらいで、

「ああ、じゃあ、いい。わたし、家で食べるから」と孫娘。

おっとー!

そのまま、帰ってしまうのかと思いきや、すぐあと、ドアから顔だして

「来週のテスト勉強、やろうとおもってんだ」と言う。

「そうか、それは、そっち、やってほしいなあ」とぼく。

「しまった」と思った。風友のこころのうちについて、想った。

その夜、みんなで何か話し合ったりはしなかった。

それぞれ、帰路についた。。

 

面白かったのは、その翌朝の3人のモーニングカフェ。

昨日の夜はどうだったんだろうね?

「いやあ、何か自分がどんなところから、この一週間のこと、考えて

いるんだろう、って思ってね」とぼく。

「風友が、じゃや家で食べる、って言ったこと?」と三男。

「うーん、そこらへんかな。」

この朝は、3人それぞれが、その時思ったこと、今、思っていること

など、結構なめらかに出し合っていたな。

 

17日は豚しゃぶ。

準備に悠海さん、早めに来ていた。

晴空は、来るだろうか。この夕方、すぐには来なかった。

と、見ていたら、譲はわたるを連れて、どこかに出かけた。

暗くなるまで、戻らなかった。

夜7時ぐらいに、孫娘や晴空がやってきた。

三男とわたるも帰って来た。長男もやってきた。

悠海さんが、野菜など用意して、長男が煮込んだ大きな土鍋を

テーブルにおいた、

豚しゃぶがはじまった。

野菜を先ず食べて、そのあと、豚肉が出てきた。

三男が、しゃぶしゃぶの度合いを見極めて、一人ひとりに

取り分けてくれた。こういうのを鍋奉行っていうのかな。

孫娘は、肉が大好き。お奉行さん、その気持ち分かるらしく、

「ほれ、出来たよ」と孫娘の器に入れてやる。

ジジにも、ババにも。

ずっとやるかと思いきや、自然に長男の奉行が替わったりして

いた。

わたると晴空は、湯気が漂う、あたたかな居間とキッチンを、

昨日よりも、駆け回り、這いずりまわり、はしゃいでいた。

最後は雑炊。「おいしい!」満々足。

ここで、アイスクリームというのが定番だったけど、三男から

「待った!」がかかった。

シュークリームに似たお菓子があるという。

三男がわたると一緒に散歩して、その途中で買ってきたという。

「やるじゃん」

孫娘も、学習帳は出していたけど、このような騒ぎに、うれしそうに

乗っていた。

 

食後のおしゃべりで、、「明日、おでんだったら、俺、大根の面取り

しようか?」と三男。

妻と悠海さんが、即座に、「面取りはしなくていいの」と反応して、

しばらく、大根の面取り談義になった。

 

その翌朝。

例によって、3人のモーニングカフェ。

「昨日の大根の面取りの話って、どうだったんだろうね」

そのことをどうするかというほかに、三男坊の気持ちは

受け止めたかなあ、という話題になっていった。

 

というような感じで、晩ごはん大作戦は、「やってみて」と

「やってみてどうだった?」で、毎晩が楽しかった。

 

「おでん」と「白菜と豚ミンチの重ね煮」のメニューは都合で

入れ替わったけど、毎晩いろいろなドラマがあった。

「おでん」の夜は、孫娘と晴空が、はじめ冗談でやりとりして

いたのが、孫娘が怒り出す仕儀あいなり、晴空とパートナーは

孫娘から締め出しを食らって、夜中、二人で彷徨っていた。

 

何かしら、面白い1週間だったなあ。

娘は20日にサイエンズスクールから戻ってきた。

孫たちとどんな出会いをしたか、立ち会ってはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沖縄とケーテ・コルヴィッツ

2015-11-17 13:08:02 | わがうちなるつれづれの記

10月末、夕暮れが早い。

マンションに帰ってきて、ポストを何の気なしに覗いたら、一通の

ハガキが入っていた。

暗くて読めなかった。また、妻に来た何かのバーゲンのお知らせ

かな、ぐらいに思った。

部屋に入って見ると、「佐喜眞美術館」と書いてある。

 

佐喜眞美術館には昨年7月、妻と一緒に訪ねたことがある。

普天間基地に隣接し、むしろ基地に向かって、食い込んでいる。

「沖縄戦の図」という丸木位里、丸木俊さんの大作が館内いっぱい

に展示されていた。

夕方、美術館のテラスで、佐喜眞さんから美術館にかける気持ちを

聞かせてもらった。

「沖縄戦の図には、兵士は描かれてないんです」

「戦場で死んでいく人間には、目が描かれてないんです」

「よくみると、目が描かれいる子どもがあるの、気づきましたか?」

聞きながら、沖縄の地上戦がどんなものか想像した。

 

67歳になって、初めて沖縄に行った。

思いかけず、その沖縄の佐喜眞さんからのハガキ。

「NHK Eテレ アンコール放送のお知らせ」とあった。

「そこなわれし人々のなかに

   ーー沖縄でコルヴィッツと出会う」

11月1日朝5:00~再放送。

「これ、録画してほしい」妻に頼む。

最近、録画できる機械を購入して、この担当は妻である。

 

その夜、その録画を見た。いろいろ、湧いてきた。

番組の最後。ケーテ・コルヴィツが1945年、ナチス支配下の

ドイツで死を迎えようとしている。孫娘に語った言葉が心に

残ったなあ。

ーー私は時代にはたらきかけたい。

   いつかひとつの理想が生まれてくるでしょう。

   そして、あらゆる戦争が終わりを告げるでしょう。

   そのためには、人は辛い努力をなさねばならないでしょうが、

   いつかは成し遂げられるでしょう。

   平和主義をたんなる反戦と考えてはなりません。

   それは、一つの新しい、一つに理想、人類を同胞としてみる

   思想なのです。

 

 

 

美術館に行ったとき、「アートで平和をつくるーー沖縄・佐喜眞

美術館の軌跡」(岩波ブックレット)を買って、帰りの飛行機の

なかで、読んだ。

「沖縄の図」の印象が強く、コルビッツという版画家・彫刻家に

佐喜眞さんがどんな思いでいたかに、関心がいかなかった。

「アートで平和をつくる」といっても、漠然として、知りたい、という

ところはなかったかなあ。

 

今回の放映では、徐京植さんが佐喜眞さんにインタヴューする

というカタチだった。

徐京植さんについては、「デイアスポラ紀行ーー追放された者の

まなざし」(岩波新書)を読んでいた。

ケーテ・コルヴィッツ、佐喜眞道夫さん、徐京植さんが、なんで

つながるの?番組を見はじめのときの問い。

 

最近、韓国や中国で佐喜眞美術館のコルヴィッツのコレクションの

展示会が開かれていると知った。

1930代、魯迅が苦難のなかの人間の真実を追究している

とコルヴィッツの作品集を中国で出版したという。

徐さんは、在日朝鮮人として、ものごころがついてから、ずっと

「自分は何者なのか?」日本のなかで、自分自身に問いながら

生きてきている。

そこから、コルヴィッツを捉え、沖縄が置かれた状況のなかで

生きる佐喜眞さんはじめ、沖縄の人たちの思いを捉えようと

しているようにおもった。

「佐喜眞さん、こんな争いや戦争が続いているなかで、平和の

世が実現すると思いますか?」と徐さんは、問うた。

佐喜眞さんは、「出来ると思っています」と明快に応えていた。

そこに、なにか二人の間で言葉や表現の違いを超えて、共鳴して

いる響きが伝わってくるようだった。

 

そのあと、「ケーテ・コルヴィッツの日記ーー種子を粉にひくな」

(鈴木東民)を図書館で借りて、読んだ。

ケーテが芸術家としての途を歩みはじめたころ、両親が語った

ことがあると回想している。

ーー「人生には愉快なこともあるのに、お前は悲惨な面ばかり

   描くのか?」(これには、応えることが出来なかったとある)

   ケーテは述懐している。

   「それは最初から同情や共鳴からプロレタリアの生活描写に

   入ったのではなく、むしろ私は単純に美しいと感じたから

   である」

 

つぎ一節も、印象に残っている。

 

ケーテは、1914年第一次世界大戦で次男ハンスを亡くしている。

つづいて、1942年ドイツの戦争で孫ペーターを亡くしている。

再び、日記から。

ーー・・・ハンスやペーターが死ぬことがあっても、わたしの才能を

   最後まで伸ばし切らぬうちは、わたしのなかにある種が定め

   られてある通りに最後の小さい枝までも茂らせてしまわぬ

   うちは、わたしは退場しないだろう。

   このことは、もしわたしがどちらかを選ばせられたら、ーー

   ハンスやペーターの身代わりになってーーほほえみながらーー

   死んだであろうことは矛盾しない。

   ・・・ペーターは臼でひいてはならない種の実であった。

   彼自身は播種であった。わたしは、種子の播き手であり、栽培

   者である。・・・

 

 

佐喜眞さんの「アートで平和をつくる」を読むと、いま普天間基地に

食い込むように、丸木夫妻の「沖縄の図」の美術館があることが、

遠い彼方に必ずそうなっていく、一つの避けては通れない現れで

あるかのように感じる。

 

いま、沖縄では「辺野古に基地をつくってほしくない」という多数の

県民の気持ちがある。政治を進めている人たちは、そういう気持ち

を受け止めることが出来ないようだ。

東京から機動隊を出動させて、基地作りを強行しようとしている。

「自分のみの近道を行おうとする間違い」

出来ないことを、やろうとする試み。

 

パリで、11月13日夜、市民を狙った無差別殺人の事件があった。

中近東のISと言う組織が犯行声明を出したり、フランスや各国は

「テロには屈しない」と、勇ましい報復の誓いを宣言している。

日本のエライ人も、調子を合わせている。

シリアやパレスチナや中近東で起きていることは、武力による

解決しか考えられない、禽獣にも劣る愚かさからのもんじゃ

ないのかな。何十万という人たちが、安全な場所を求めて、

欧州などに移動している。これを、誰が止めることができるだろう。

 

佐喜眞さんは「アートで平和をつくる」と表現した。

アートというのは、どういうことを言うのだろう。

ケーテ・コルヴィッツの作品から、丸木位里・俊さんの作品から

どんなことを汲み取るんだろう。

佐喜眞さんが、修学旅行の学生や訪問者の人たちへ

のメッセージ。

ーー図の右下には骸骨の山があります。死んでいった人たちです。

  しかしよく見ると死んでいった人たちにもいくつか目が入っています。

  戦後の日本人がどう生きていくか、向こうから見ているのでしょう。

  しかし、目の表情は全部違って多様です。画家はこの目に何を

  たくしたのでしょうか。

 

アートは、じぶんの内面で気がつかないまま、埋もれていた

何かを開いて、照らしてくれるのだろうか。

なんどでも、確かめたい。じぶんのなかの、ほんとうの願い・・・