1、白子漁港
一夜明けて日曜日の朝。3月末。快晴だった。孫の風友(ふゆ)と晴空(はるく)は、ハンターのビンゴゲーム大会に二人して出かけた。小浪と桃子とぼくは、白子漁港にある直売所“魚魚鈴(ととりん)に魚を見に行った。
10時前、駐車場は車でいっぱいだった。店内も陳列台の前はけっこうな人だかり。ショウーケースに並んだタコのところに“前浜物”という表示があった。店の人に「これ、前の浜でとったもの?」と聞く。「ああ、そうだよ」あちこち、のぞく。“前浜物”は、すくないようだ。
小魚が山と盛ってあるテーブルのところに、はっぴ姿の若い衆がなにかしている。「小女子だね」と聞く。「ええ」と返事。「そういえば、もう小女子漁が解禁になっているんだね」と聞く。「今日は、漁には出なかったんですけど・・」彼は、小女子をパックに入れている。
小女子は、早朝漁に出る。それを水揚げして、夕方まで天日で干す。その間、何回か網の上の小女子を天地返しする。女の人が手際よく、それをひっくり返す様子を見たことがある。
小浪と桃子は、小女子の大きなパックを手に持って、「あとで、分けよう」とか言いながら、レジに並びに行った。
(あとで、“小女子・鈴鹿”でネットを見たら、白子の漁師さんのブログがあった。解禁日を前に試験操業したことが書いてあった。
「今年は水温が低いせいか、産卵が遅れたせいか、あまり成長しておらず。全長も身幅も例年に比べ小さく、冬の厳しい寒さが伺えマス(~ヘ~;) しかし加工してビックリ!痩せて脂を持ってないと思われた小女子ちゃん達ですが、仕上がりの色加減を見ると脂を帯びています(・・;)」)
2、鼓が浦海岸
鼓が浦の海岸を津の方へむかって歩いた。トタンにコールタールを塗った建物が防波堤の海岸側に建っている。小女子の加工場だったらしいが、いまは荒れ果てている。一軒だけ操業しているらしいところがあったけど、天日干しの棚だけがあった。カモメが群れていた。
波は静かに砂浜にたどり着くと、ばんと音をたてて、じわっと砂に滲みていく。カモメが波うちぎわを歩きながら、口ばしでなにかを摘まんでいる。桃子は、「かわいい!」と言いながら、近づく。カモメは一斉に飛び立つ。
鼓が浦海水浴場の海の家の近くに、山口誓子の句碑があった。
一湾の潮しずもるきりぎりす
自註つきの誓子の本を桃子が声をだして読む。
「伊勢湾の全体の潮がしずまりかえっていた。その海のほとりのくさむらに、きりぎりすが鳴いていた。大きな潮のしずまり、その近くで鳴くきりぎりすのかすかな声」
この句は、昭和24年作。誓子は戦前から戦後にかけ、5年ほど、鼓が浦に住んでいたらしい。
“山口誓子旧居跡”という矢印があったので、堤防沿いの道を南に行った。「あっ、あったわよ」と小浪が叫ぶ。だいぶ通り過ぎた。家を探していたんだけど、じっさいは防波堤の海岸側の松林のなかに、住居跡という木札が挿してあっただけだった。今なら、防波堤の内側に住むなんてことしないだろう。地元の人から、昔は海岸がもっと広かったと聞いた。誓子は、そのときどこにいたんだろう。「大きな潮のしずまり」って、どんなだろう?夜だったか、海の広さ、深さ、底知れなさ・・そこに「かすかなきりぎりすの声」じぶんはといえば、いま、連日テレビの映像に映し出される、東北の太平洋沿岸の海の姿を想っている。
3、寺家三丁目
海水浴場の近くに、寺家三丁目というところがある。そこに子安観音寺がある。「行ってみる?今日は(あるいは今日も)ぼくに付き合わせてしまうけど・・」とぼく。小浪と桃子から、反応がある前に、そっちへ向いて車を走らせているので、ついていくしかないという格好になる。
車を駐車場において、子安観音寺に向かう路地に入る。しばらくいくと右側に大きな木造の家屋があった。正面上に「昭和湯」とあった。いまは廃業しているらしい。この路地が往時、どんなだったか、想像をめぐらせた。
その先、ちょっと行くと、「昭和湯」の並びに、西方寺という寺がある。ここにも、誓子の句碑がある。
海に出て木枯帰るところなし
昭和19年の作。桃子が誓子の自註を読む。
「木枯は、山から吹き下ろして、野を通り、海に出ると、行ったきりで、再び日本へは帰って来ない
日本の木枯は日本の国籍を失ってしまうの だ
桃子から「木枯って、なに?」と聞こえてきた。小浪から「風よ、木枯らしよ」と聞こえてきた。「この句が、昭和19年作で、“帰るところなし”と言っているところがポイントかな」と会話に加わる。「昭和19年といえば、戦争で多くの日本人が戦地に赴いて、帰らぬ人になっている」ともう一言。桃子「ふーん」
いまだったら、東日本大地震の津波で、万を超える死者。行方不明者が出ている。“海に出て”と“帰るところなし”この言葉で、誓子はどういう世界を見ていたのかなあ。じぶんのなかにはどんな世界が見えてくるだろう。
4、子安観音寺
子安観音寺の山門には、「あ形」と「ん形」の仁王様が参拝客を見おろしている。子どものころ、我が家のすぐ近くのお寺にも、仁王様が立っていた。飽きずにその形相を見ていたこと、思い出した。
本堂の前で、赤ちゃんを抱いた家族連れに会う。正装をしている。本堂のなかでは、6,7人の人たちが観音様にむかって座っている。和尚さんが、紫の袈裟をかけて、座っている人たちになにかしている。
「生まれて、一か月したら、観音様のところにお参りに来るんだよね。桃子もやった。大阪のおばあちゃんがきっちりしてるので・・」と桃子。「そうかあ」とぼく。
ここにも、誓子の句碑がある。
虹の輪を以て地上のものかこむ
どんなことだろう?この句碑の近くにこのお寺の幼稚園がある。その門の左に、誓子の字が刻まれた石碑があった。
虹が懸っている光景が、“観音様の手が合わさっている”と誓子には見えたのか。子どもが 邪気なくこころから安心して育っていけることを願わずにはおれない。子どものころ、どんなに邪悪な気持が起きても、悪さをしても、孫悟空が気が付いたら観音様の掌のなかだったという譬えのように、「おふくろの寛容にはかなわない」といった、そういう言葉にはならないけど、こころの底のほうに、そういう気持があったように記憶している。
昨夜、身近な人の悲しみに打たれた感じがあった。酒瓶さげて、うろうろした。他人の悲しみといっても、じぶんのなかで、悲しみと感受する元を見ていくことからはじめるのかなあ。
桃子は境内にある天然記念物の不断桜にメジロが来てる、「かわいい」と騒いでいる。小浪は、花から花へ飛びまわるメジロにカメラを向けていた。