かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

孫の威厳

2013-05-30 19:32:40 | アズワンコミュニテイ暮らし

 数日前、孫の晴空(はるく)が咳き込んで夜寝れなかった。

 学校を休んで、病院に行くと娘から聞いた。

 小児喘息と診断され、薬をもらってきた。

 

 夕方、娘宅に晴空の様子を見に行った。

 娘と孫娘の風友(ふゆ)二人だけでご飯食べていた。

 晴空は、一人炬燵にもぐって、うつらうつらと横になっていた。

 ときおり、咳がつきあげてくるらしい。

 痛々しく感じる。

 「晴空、どうだい?」

 「うん・・」と返事して、目を開けて見上げてきた。目が合う。

 なんとも、愛らしい。

 

 翌日も学校休んだ。

 娘は薬ではなく、足湯で咳がおさまらないか、考えた。

 晴空が苦しがるので、病院からの薬を飲ませたら、咳が

おさまって、動きはじめてという。

 

 朝、知人宅にいたら晴空から携帯に電話。

 「おじじ、部屋にいる?」

 「他所の家にいるんだよ」

 「いつ、戻るの」

 「昼すぎだな」

 晴空は「うん」といって、電話を切った。

 

 わが家にもどっていたら、晴空から電話。

 部屋にいるといったら、「遊びにいく」という。

 「ああ、おいで」

 

 すぐ、やってきた。

 「何して遊ぶ?」と聞くと、「サッカー」という。

 もう、外で遊べるのかあとおもった。本人は動きたそうだった。

 「ボールとってくる」と出て行った。

 しばらくして、戻ってきて、「やめた」という。

 「じゃあ」と、カルタとか折り紙とかひっぱりだした。

 結局、切り抜き式の紙飛行機のシートがあったので、「これ、

つくろうぜ」とハサミとか用意していたら、「ちょっと自転車に

乗ってくる。出来たら言って!」と飛び出した行った。

 紙飛行機をつくることになった。

 晴空は、ときどき外から「じいちゃん、出来た?」と聞いてくる。

 出来たのを飛ばすが、うまく飛ばないと、「また、来る」といって

どこかに行ってしまう。2機つくったが、見ただけ。

 暗くなって、いつの間にか、お母さんのところに帰ってしまった。

 作った2機の飛行機はわが家の居間のテーブルの上。

 

 晴空は、好きなように振舞っている。

 お爺になにも気を使っていないように感じる。

 晴空は、ぼくの回りで何かをすることで、それだけで満足してる

のかなあ。

 

 今朝、集団登校で子どもたちが寄ってるところに、晴空の様子を

見に行った。

 晴空はちょうど集合場所にランドセルを背に前屈みで集合ポイント

に向かっていた。

 「おーい、晴空!」と声かけた。

 晴空は、ぼくの声ほ聞いたとはおもうが、何のリアクションもせず、

くるりと、今出てきた家の方に戻りはじめた。

 スタスタと、家にむかって、一直線に戻っていく孫の姿は、はっきり

本人の意志のもとに、何かに向かっていく、きっぱりとしたものだった。

その孫の姿に威厳を感じた。

 

 晴空の様子を、娘の家に見にいったら、晴空は「上着をとってほしい」

と娘に言っている。

 娘は「今日は、なくてもいけるよ」と答えていた。

 晴空「じゃあ、いい」

 集団登校のグループはもう歩きはじめていた。

 晴空は、それを追って行くことになる。

 「いっしょに、行こうか?」とぼく。

 「いい、自分で行く」と晴空、きっぱりと。

 

 「行ってくるうー!」と晴空。

 「行っといで」とぼく。

 晴空「ママあー!」

 ママ「いってらしゃい!」

 

 清々しい。

 咳でくるしんでいる孫を、ぼくは自分勝手に心配している。

 孫は、ぼくに関係なく、気を使うことなく、じぶんの意志を

出し、考え、そしてきっぱり行動している。

 爺からなにかしてもらったとか、心配してもらった、みたいなもの

がない。

 ママから「いってらっしゃい」と言ってもらって、満足して、飛び

出せる、かけのないもの、そこで生きている。

 シンプルだよな。

 

 

 

 


 


エクハルト・ハーン氏がアズワンを探訪した(下)

2013-05-28 15:40:03 | アズワンコミュニテイ暮らし

 ハーンさん、一日まわってみてどんなでしたか?

 

  日本に着いて、翌日の街歩き、人々との出会い。

 ハーンさんは、若い時はヨットを操り、山歩きでもなんでも

ござれのスポーツマン。それでも、「だいじょうぶだったかな?」

と聞いてみた。

 「だいじょうぶ。だいじょうぶ」

 

 夕食のあと、コミュニテイの人たちと懇談。

  懇談といっても、そんなになめらかに語り合ったという具合ではない。

 ハーンさんは、ドイツ語ではなく、英語で。それを、片山弘子さんが

通訳。それを、参加したそれぞれが、それぞれの耳で聞く。

 ハーンさんは、その言葉でイメージしていることがある。

 通訳の人は、それをなるべく正確にとおもいつつも、その人の聞き方が

入る。それを、それぞれの聞き方で聞く。

 以下は、ぼくが受けとった、それぞれの発言というほかない。

 

 ハーンさん

  ーーいろんな人が、いろいろなプロジェクトをそれぞれ、やって

     いる感じ。なにかコミュニテイとして、共通の考え方があり、

     それに個人が合わせていくというのではない。

      個人、個人が大事にされている。そういう印象で、感動した。

  

  ーーおふくろさん弁当の会社でも、みんながみんな、サイエンズ

     スクールに参加しているわけではない。でも、職場の空気が

     楽しそう。どんなことも、思うがままに言えて、一人の意見でも

     ゼロから見直せる、そこがおもしろい。

      コンベアを導入して、みんながそこに寄ってきて、活発に

     声をかけあって、賑やかになった、というのもおもしろい。

  

  ーーはたけ公園のベジコミクラブ(素人野菜クラブ)も、考えに終わらず、

     地域の子どもや老人と野菜を育てるプロジェクトをしたり、採れた

     野菜はコミュニティライフストアに贈り物として届けている。

      ただ野菜つくるというだけでなく、それを通じて、お金では

     買えない和やかな社会を、できるところから、やろうとしている。

 

  ーー コミュニティライフオフィスでは、それぞれの人や家族がその

      人や家族の中だけ解決できないことも、その内容をオープンに

      して、オープンになった分、情報が寄ってきて、知恵を出し合い、

      検討できるような仕組みで運営されている。

       「喫茶店をやりたい」とか、「二台目の車がほしい」とか、先ず

      そこからはじまる。

 

  ーー私はこれまで、これからの人間生活はどうあったらいいか、都市の

     テーマでは、持続可能な都市というのはどんなものか、かんがえて

     来た。

      鈴鹿カルチャステーションのような、エコ・ステーションをつくり、街の

     いろいろな人たちが寄ってきて、自分たちの街をどんなものにしたいか

     話し合いながら、つくってきた。

      一つの例として食糧も都市のなかで自給できないかというので、

     誰もが参加できるコンパクトな菜園という方式も考え出した。

     農業の研修ができる仕組みもつくった。


 そして、感想のさいごに・・・

  ーー今回、まわってみて、まだまだ、アズワンの場合、閉じている感じ

     がした。


 同席していた岩田さん、

  ーーどんなところでそんな印象をもったのですか。

 ハーンさん

  ーーアズワンで積み重ねてきた経験は、コミュニティを作っていく上で、

     とても貴重な経験です。それを、広く他の人たちに広げていきたい

     という話をどこでも聞かなかった。あまりにも、知らせていないよう

     に感じました。

 岩田さん

  ーーそこなんですよね。

     ぼくの場合、10年ほどこの街に住み、アズワンともかかわって

     暮らしてきたんですが、ここでやっていることがどんなことを 

     やっているのか理解しはじめたのは、最近なんですよ。(笑い)


 翌日もハーン氏の言わんとしていることに耳を傾けた 

 

  ハーンさん 

  ーー昨夜は、アズワンがやっていることを街の人にもっとオープンに

     したらいいなとおもったんですよね。

      私の哲学から、ずっと話してしまいましたが、みなさんの考えも

     聞かせてもらえたら。

 

 小野さん

 ーーそうですね、ここは伝えておきたいです。

    アズワンの進み方は、コミュニティをつくる、とか社会をつくる、という

    とき、社会に決まりをつくって、それに人が合わせるという行き方を

    してこなかったんです。

     コミュニティに従うでなく、やるもやらないも一人一人の意志に

    寄って営まれる。それが、ベースというか、自然な人の姿かと。

     やりたい人はやる、やりたくない人はやらない。

    「やった方がいいかな」とか「やらないと、まずいんじゃないか」もない。

 

 ハーンさん

  ーーそれは、そうでうすよね。

 

 岩田さん

  ーー昨夜から話を聞いていて、ハーンさんはコミュニティの何に

     関心があるのかなあ、と聞きたくなりました。

     カタチはないけど、動いている。

     カタチのことを、あまり言わないので、もどかしいという感じも

    ありますか?

 

 ハーンさん

  ーーそうですね、ちょっと長くなりますが、言わせてもらいますね。

     私の関心から、世界中のコミュニテイというところに視察に

     行き、滞在し、研究してきました。

      実際を見ていくと、人と人の間に対立やたたかいのような

     ものがあり、かならずしも調和的ではない。途中で壊れてしまう

     ケースもある。

      アズワンがなぜ、こんなにもうまくいっているか、そこに関心が

     ある。私が思うには、サイエンズとよばれる考え方があるのが

     違う。

      今は、あまり知られていなくとも、今後人と社会を総合的に

     見直していく試みは大事だと思う。

      とは言っても、いまは、コミュニテイライフオフィスに相談に

     来る人は100人ほどと聞いた。これをおもうと、近隣の人とは

     少しオープンにして、クローズにしておきたいという考えがある

     ように感じてしまう。

      持続可能な社会の方向に育てていくには、エコステーション

          を立ち上げ、多くの人が交流し、より多くの人たちの協力が

     要ると思う。


 岩田さん、立ち上がって、部屋から出て行って、画用紙とマジックペンを

もってきた。


  岩田さん

  ーーアズワンコミュニテイといっても、周囲近隣と切り離されている

     わけでなないんです。(絵に描きながら・・・)

          境があるわけではない。


           それでも、ここにはサイエンズをベースに、お互い隔てなく、

     遠慮や気兼ねのいらない人と人の繋がりでやっていこうとしている

     人たちが暮らしている。

      そこから、醸し出される気風が近隣に伝わっていけば、もともと

     隔てがあるわけではないので、寄りたくなった人が、寄ってくるし、

     親しさで繋がっていくはずだけど・・


 ハーンさん

  ーーそうですね。サイエンズの中身を深めていくことと、その経験を

     伝えていくこと、両方いるでしょうね。


 懇談会は、だいたいこんな感じで終わった。

 岩田さんは、画家である。絵画のベースにサイエンズがあるという

のは、どういうことになるのか、考えている。

 岩田さんは、ハーンさんが都市の研究というライフワークのなかで、

サイエンズというのは、どんなふうに映るのか知りたかった、と

懇談会のあとで、懇談していた。


 二人は、固い握手をしていた。

 言葉での理解を超えて、時間をかけても、心底通じ合うお付き合い、

そういう人と人の間、社会が現前していくように。

      

      

      

 

 

     

     

 

   

 

 

 


エクハルト・ハーン氏がアズワンを探訪した(上)

2013-05-25 11:55:44 | アズワンコミュニテイ暮らし

 初夏の風が新緑を揺らしていた。

 ドイツから中部国際空港にエクハルト・ハーン氏がやって来た。

 5月20日の朝。

 

 久しぶりです、ハーンさん

 

 ハーン氏は、鈴鹿のアズワンコミュニテイに落ち着いた。

 コミュニティといっても、実際は街のなかにある、郡山氏宅で

受け入れた。

 

 ハーン氏は、72歳。ドルトムント大学で建築・都市計画、人間行動学を

研究していた。環境都市の観点で東ベルリンの復興にかかわった。

現在もEU各国における環境に配慮した都市計画アドバイザーとして

多忙な毎日を過ごしている。

 

 鈴鹿訪問は3回目。

 2010年、鈴鹿が環境調和型持続可能な社会のモデルになるようにと、

エコ・ステーションの提案をした。

 昨年、2年ぶりに来鈴、アズワン・コミュニティの実情を視察した。

3・11東北大震災や東北の研究者との交流もした。

 その後、ベルリンでアズワン・コミュニティの社会づくりの試みを

研究者や実際家に紹介したら、スタデイ・ツアで見学したいという

反応もあったという。

 

 20日の夜は、会食して、再会を噛みしめた。

 

○コミュニティを巡って、あの人この人に会う

 

 <アズワンコミュニテイステーション> 

  縁側ホールにて  小野雅司さんと会う


 ハーンさん「ここのコミュニテイの暮らしは誰でも関われるのかな?」

 小野「誰と誰が、コミュニテイのメンバーか分からないというのが、

実際かな。コミュニティの人として濃い関係のつきあいもある。

地域社会のなかで、学校・お弁当屋さん・はたけ公園・お年寄りの会など

いろいろなつきあいがあり、親しさにも濃い薄いがあるけど、そこに

隔てがあるわけではない」

 ハーンさん「心のメンバーシップですかね。これから、すすめ

たいことは?」

 小野「贈り合いの社会になっていくことですかね。もっと、社会に

甘えられる。他の人でやれることはやってもらい、自分が本当に

やりたいことが出来るような」

 ハーンさん「もっと、ありますか」

 小野さん「お金も贈り合いでやっていけたらと・・・」

 ハーンさん「えー?・・・ああ・・・。それはおもしろい!それは、いい!」

 

 <おふくろさん弁当屋>   

 泉田さんが案内してくれた。

 

 ハーンさん、自家産の米・野菜の割合を聞いていた。米なら、半年。

 野菜は季節によってちがう。

 ハーンさん「職場が楽しいときいたが・・・」

 泉田さん「やりたい人でやれている。急にお弁当の数が増えても

やりたい人がいっぱい。生活のため、お金を稼ぐという空気がないかな」

 ハーンさん「コンベアを最近入れたそうですが、何か変わりましたか」

 泉田さん「ふつう工場などでは、私語厳禁ですが、コンベアを使って

見ると、分散していたメンバーが一ヶ所に寄って、その賑やかなこと!」

 

 <街のはたけ公園>    

  中井正信さん・大平達男さんがいっしょに回ってくれた。

 

 この日、太陽は夏のように鈴鹿の街に照りつけていた。

 

 中井「はたけ公園は、鈴鹿ファーム会社と、地域の年寄りたちで

たちあげた地域創生みえの会の二つの団体で使っています」

 ハーンさん「地域創生って、どんな意味ですか」

 大平「地域の人と人が、野菜づくりでつながるだけでなく、人間と

して、隔てなくつきあっていける社会づくりを目指している」

 ハーンさん「地域の人とは、どのくらいの規模でかかわっていますか」

 大平「子どもと老人のコラボで野菜を育てたり、収穫して食べるイベント

とか、素人野菜づくり集団ベジコミクラブをつくって、コミュニテイに贈りもの

として届けている」

 

 この日の暑さにはちょっと参った。

 それでも、昼食・休憩のあと、探訪を続けた。

 

 <ライフストア>    

 岸上典子さんほか、寄ってきたたくさんの人たちに出会う。

  午後3時半すぎ。

 鈴鹿ファームからお米・各種野菜、お弁当屋さんからいくつかの惣菜、

ベジコミクラブから蕗やスナックエンドウなどが届く。

 コミュニティにかかわる人たちが、夕餉の食材を取りにやってくる。

 井戸端会議みたいな雰囲気に。

 ハーンさんは、昨年会った人たちと「やあ、やあ」と手を取り合って

いた。

 

 <コミュニテイオフィス>  

 竹本美代子さんが話してくれた。ライフオフィス事務所にて。

 

 美代子さん「ここは、昨年7月ごろからはじまりました。暮らしの

相談窓口と言ったらいいですかね。仕事のこと、家族のこと、家計のこと、

なんでも安心して相談できる」

 ハーンさん「相談に来る人は決まっているのですか。どのくらいの

人がいますか」

 美代子さん「今は、100人ぐらいかな」

 ハーンさん「どんなことをしてるのかな、具体的に」

 美代子さん「安心して話ができるようになると、その人が望んでいる

ことが自然にでてくる。ファームの青年が野菜を作っているけど、ほん

とうの気持ちは売りたいのではなく、欲しい人に食べてほしい、と

おもっている。それを、オフィスで聞いて、やれるところから、そういう

願いを実現させたいと、ライフストアを立ち上げた」

 ハーンさん「わかります、今見てきました。一人ひとりの家計の

相談ののるというが、財源とかどうなっているのか」

 美代子「生計は、それぞれの家族で立てている。おふくろさん弁当

で働いている人は、そこが生活費の財源になっている。他の働き

から収入を得ている人もいる。ある若夫婦で子どもが生まれて、車が

要ると聞いた。当面、お金がない。それを聞いて、かんがえているうち

に、お金を無利子で貸すよ、という人がでてきた」

 ハーン「その方法は、適切だ。オフィス自体に財源はないが、お互い

の垣根がなくて、情報がいっぱい集まってくる。それを、一人ひとりに

とって、最適になるように、支え合いになるように、仕向けているの

かな。成功的事例と言えるだろう」

 

 この日は、ドイツから日本に着いて、一晩寝ただけの翌日。

 時差の睡魔に見舞われないか心配だったけど、昼すこし

休んだだけで、熱心にアズワンコミュニテイが、実際どうなって

いるか、耳を傾けてくれた。

 

 

 

 

 

 


本を読む(2)

2013-05-23 08:34:49 | わがうちなるつれづれの記

 沢木耕太郎「無名」

 

 この本を友人は、どうして薦めてくれたんだっけ。

 昨年、ぼくが死にかけた話をしたので、父の死を看取るという

この小説が、そこを考えるのにふさわしいと思ったのか。

 父と子の関係が、抑制が効いた語り口で語られてあって、

なにせおもしろいと、友人から聞いた。


 作者の沢木耕太郎は、1947年生まれ。

 ぼくと同年代。親近感が湧いた。ぼくの父は20年前に亡くなった。

 3年前、内観というものをしたとき、「父に対して」と観ていった

とき、父についてほとんど何も知らなかったし、だいいち、

知ろうともしていなかったじぶんを発見して、びっくりした。


 小説「無名」では、脳出血で入院してた父がだんだん病状が

進行していく過程で、主人公の私がそれをどのように受け止めてい

くか、その内面世界を丁寧に克明に自己洞察していく。

 

 88歳米寿の祝いで、父のつぶやき。

ーー「少し、長く生きすぎてしまったかもしれないな」

   その言葉に私は胸を衝かれた。

   ・・・そこにはたとえわずかなものであっても、自分の人生を

   無に近いものに見なす気持ちがあるように感じられた。

    どうにかして父に一生が決して長すぎなかったことを父自身に

   知らせる方法はないものだろうか。

    たしかに父は何事も成さなかった。世俗的な成功とは無縁

   だったし、中年を過ぎる頃まで定職というものを持ったことすら

   なかった。

    ただ本を読み、酒を呑むだけの一生だったといえなくもない。

    無名な人の無名な人生。だが、その無名性の中にどれほど

   確かなものがあったろう・・・

 

 「確かなもの」があったろうか、主人公は自問している。

  

 「無名」の主人公は、父が、晩年密かに俳句をつくっている

ことを思い出す。

 死に近づいていく父をみて、息子の私は句集をつくろうと

思い立つ。

 

 「何事もなさなかった」という一節を読んで、じぶんの父を

思い出した。

 ぼくが、小学校3、4年生のころ、商店街に店を構えていたガラス

屋を廃業した。以後、家の居間で、八百屋で使う袋を古新聞でつくり

はじめた。酒は飲まない。本も読んでいるところ見たことない。

黙々と新聞の縁に糊をぬり、ヘラで折り返していた。

 「父は何を生きがいに生きているのか」

 言葉にできないけど、「あんなふうには生きたくない」とおもった。

 

 内観のとき、はじめて「父について」ではなく、「父に対する自分」を

観た。

 父に対して、「世話になったこと」「迷惑かけたこと」「して返したこと」

この三点を小学校低学年からいままで、思い出していく。

 やり始めたは、曖昧模糊とした記憶が観ていくうちに場面まで鮮明に

思い出してくる。

 「そのときの自分」がありありしてくる。

 そのとき、「父はなにを思っていたのか?」・・・まったく出てこない。

 これは、じぶんの場合。

 

 

 「無名」の主人公は、衰弱する父の向き合いながら、「父に対する自分」を

観察していく。

 そして父の死。

 

 主人公はゆっくり父とのことを振り返る。

ーー私は父と争ったことがない。

 

ーーいつだったか、私と父が話しているところを聞いた知人が驚いた

   ように言ったことがある。ずいぶん他人行儀な話し方をするんですね。

   それを聞いて、私の方が驚いた。ごく普通に話しているつもりだったから。

 

主人公は以前小説を書こうとしたときのことをおもいだす。

ーー父の死顔を見ながら、私には深く納得するものがあった。

   その少年はやはり私の分身だったのだろう。

   私の分身である少年はどうしても父親を刺さなくてはならなかった。

   なぜなら、健気な少年であった私は、小説の少年を通して、ただの

   一度もしたことのない反抗しようとしたからだ。

   私は健気な少年であることを永く引き受けてきた。

   それがどこかで重苦しく感じられていたのだろう。

   畏怖する父親は同時に自分が守らなくてはならない父親でもあった。

   私は、その絶対的な矛盾の中にあった少年時代の私を救出しなくては

   ならなかった。

 

 「無名」の主人公は、「何事もなさなかった」と見える、父を守ろうとした。

 果たして、実際の父親はどうだったか。

 主人公は、父が書き残した俳句集を作りながら、自問はやむことはない。

 

 ーー私は句集を出すことで父の供養をしたと思っていた。

    だが、それは私の思い込みにすぎなかったのではなかったか。

    父は最後まで無名であることを望んでいたのではなかったか。

    死の直前、父が発した、自分は何もしなかった、というひとことは、

    悔恨の言葉ではなく、ただ事実を述べただけだったかもしれない。

    いや、むしろ何もしなかった自分をそのまま受け入れての言葉だった

    かもしれない。

 

 この一節に、ぼくは立ち止まる。

 わが父に対する、わが思いついて。

 じぶんの方からの一方的な思い込み・・・

 実際の父親はどうだったんだろう。


 小説「無名」の中の主人公の父の句。

    聖夜なり雪なくばせめて星光れ

 主人公が父の亡骸のヒゲ剃ったときの感慨。

   なきがらの、ひげそるへやに、ゆきよふれ

 

ーー・・父の句における「星」は、特定の誰かのためでなく、この世の

   すべての人のために「光れ」と言われていた。

   一方。私の句における「雪」は、父のために「降れ」と命ぜられ

   ている。

    しかし、父はあの部屋に雪が降ることなど望みはしなかったろう。

    そのように自分の死が特別に浄化されることなど望みはしな

    しなかったはずだ。ただ死を死とし受け入れてくれる家族が

    いれば、それでよかった。


 実際の父親が何を思い、どんなだったかは、どこまでも分からない

ように思う。

 ただ、どんな自分が父に対して、父の実際、父の真実に触れよう

としていたか?・・・これはどこまでも残っていくように思う。

 

 わが身と重ねて・・・

 父の生きる意味をじぶんの勝手な思いで「無い」としてきた、

そのことについて。

 生きてきた時代について。

 あたりまえの親子の間柄について・・・いまからでも

遅くないよね。

                                       (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


はつなつ の かぜ となりぬ

2013-05-20 08:17:03 | わがうちなるつれづれの記

はつなつ の かぜ と なりぬ とみほとけ は

をゆび の うれ に ほの しらす らし

 

  会津八一があ20代のとき、奈良を訪れたとき、歌ったという。

 今朝は、ふと、ひらがなが目に止まった。

 いま、肌で感じてる、大気からの風、「はつなつ」と読んでみて、

こころに響くものがある。

 

 その風の感触を、み仏は小指の先で、ほのかに感じている

と・・・

 「をゆび」は、小指。

 「うれ」は、末とか先。

 

 わが心の内に、湧いては消え、消えては湧く、妄想に

なすすべなく、いまはそれとお付き合いしよう。

 そんな自分にも、「はつなつ の かぜ となりぬ」、

そんな風がちょっとまとわっては、通りすぎていく。

 

 きょうは、どんな一日になるのだろう。