かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

忘れられない一冊

2017-04-24 09:57:47 | わがうちなるつれづれの記

いつの間にか、新緑の季節になってきました。

何を思ったのか、吉田兼好の「徒然草」(西尾実・安岡康作校注 岩波書店)を

読み直してみようと思いました。本棚から出して、まず序段を開きました。

「つれづれなるままに」からはじまる2行の文章に4つの注がありました。

「つれづれなる」の注には、「することもないものさびしい」とありました。

することもない世界に住む人の書き綴ったものなのか、と新鮮でした。

 

北朝鮮のミサイル発射が話題になっています。

アメリカの太平洋軍司令官(?)と言う人が「日本海に空母を派遣したのは

北朝鮮を屈服させるためでなく、正気になってもらうためだ」という趣旨の

発言をしていました。

一瞬、えっと、思いました。

この司令官はじぶんは「正気」の世界にいるんだと固く信じているのかな、

と不思議な感じがしました。

 

 

北朝鮮から日本ミサイルが飛んでくるかもしれないと、あちこちの自治体で

避難訓練をしているとか。

この国の首相が「北朝鮮は、ミサイルにサリンを搭載することもできる」と

国会で話していました。

先日は、ミサイルが首都圏に飛んでくるかもしれないと、ある時間帯、

地下鉄を止めたとニュースで知りました。

何が起きているか、俄かには掴みかねています。

昭和8年に信濃毎日新聞の桐桐悠悠さんが「関東防災大演習を嗤う」という

社説を書きました。「敵機が首都圏の上に来て爆撃することになれば、日本が

敗北したということだ」と。

人びとの知らないところで何かが起きているのかもしれないけど、オオカミ

少年の寓話が、ある世界では、当たり前に流行っているのでしょうか。


嘘みたいな話が気がついてみると、目の前に現れてくる恐れがあります。


 

20年前に読んだ一冊、「あのころはフリードリヒがいた」(ハンス・ペータ・

リヒター作,上田真而子訳、岩波書店)が思い起こされました。

忘れられない一冊です。

作者のリヒターさんは、1925年ドイツに生まれました。

この物語はリヒターさんの子ども時代を自伝的に書いたものらしいです。

ドイツは、そのころ、ヒトラーが政治の実権を握りはじめていました。

物語のなかの「ぼく」は物心ついたころ、同じアパートに住むユダヤ人の

子「フリードリヒ」と遊ぶようになりました。二人とも、1925年生まれ

でした。

「ぼく」とフリードリヒは、ごく自然に切っても切れない兄弟のような

世界に暮しているようでした。

ユダヤ人の排斥、迫害が社会の趨勢として、顕著になりつつありました。

フリードリヒは、ユダヤ人だという理由で「ぼく」と一緒の小学校を

辞めざる得ませんでした。

「ぼく」は、フリードリヒの家族のユダヤ教の暮らしに無邪気に興味を

もって接してきました。

その「ぼく」が、いつかヒトラーの「ドイツ少年団」に入会していました。

フリードリヒが、そこに入団できないか、薦めさえしました。

ポグロムというユダヤ人を直接攻撃する事件も起きました。

「ぼく」は、ユダヤ人の寮に押しかけるドイツの一団とともに気がつくと、

その現場に立っていました。

一団は、寮の戸を壊しはじめました。

 

 --そのときだった。その「よいしょ。」につられて、ぼくの口から

   声がでた。そして、一声一声、ぼくはドアに体をぶつけている

   人たちの方に近寄っていったのだ。

   気がついたときには、ぼくは力いっぱいドアを押していた。

   どうやってドアのところまできたのか、自分自身、もうわからなかった。

   そのときには、見物している人はもう一人もいなかった。

 

この場面は、衝撃的でした。

無邪気な子どものなかに、こんな反応が起きる可能性があるんだ、と知らされ

ました。リヒターさんの体験に裏打ちされているように感じました。

「ぼく」にとって、じぶんでも不可解な打ち壊しに驚いて、わが家のアパートに

帰ると、今度はフリードリヒの家にドイツ人の一団が突入して、家具や食器など

ありとあらゆるものをメチャメチャしていました。

 

この事件のショックでフリードリヒの母が死んでいきました。父も、職を

失い、ユダヤ人嫌いの家主から、立ち退きを迫られていました。

ドイツ社会は、ユダヤ人の迫害とともに戦争への道に突き進んでいました。

彼らは、思春期になっています。

「ぼく」とフリードリヒは、彼らなりのもう一つの現実(世界)に生きてる

ようでした。

ユダヤ人は入場禁止という映画にフリードリヒと見に行って、ユダヤ人だと

ばれて、会場から追い出されもしました。

フリードリヒは、「ぼく」に聴いてほしいと、出会った女の子について、

胸のうちを明かしました。デイトのとき、その女の子は、ぼくが

ユダヤだと分かっていたらしく、ユダヤ人専用の黄色ベンチに連れて

いき、「ここなら安心して座ってられる?」とさらっと言ったのでした。

女の子はフリードリヒの手をしっかり握り、「来週の日曜にまた会いま

しょう」と言い残して別れました。

「・・ずいぶん迷った。日曜日、やっぱり行かなかった。行けないじゃ

ないか。ぼくといっしょにいるところを見つかったら、かのじょは

収容所行きなんだもの!」

 

フリードリヒの父はナチス警察に逮捕されてしまいます。

フリードリヒは2年ほど、「ぼく」の前から消息を絶っていました。

あるとき、「ぼく」の家の戸をノックするものがありました、

フリードリヒがやって来てたのです。

上着もズボンも汚れていました。あまり食べていないのか、母が

用意したパンとソーセージに前後のみさかいなくかぶりついて

いました。

フリードリヒは、小学校の入学式で撮った父と母の写真がほしいと

いうのでした。

1942年、そのころは連合軍の空爆がドイツの街を破壊していました。

ちょうどその時、サイレンが鳴り、空爆がはじまったのでした。

「ぼく」の一家は防空壕にフリードリヒを連れていくかどうかで、

迷いました。ユダヤ人を助けたら、この先どんな仕打ちが起こるか。

一家は、フリードリヒを部屋に残して、避難しました。

爆弾が近くに落ちました。

フリードリヒが防空豪の戸に来て、「助けてください。怖いんです」と

叫んでいた。入れてやろうという声を無視して、アパートの家主は彼を

閉め出しました。

空爆のあと、フリードリヒは入り口の壁に凭れて、気を失っているよう

でした。

家主はそれを見つけて、「とっとと消えうせろ」とフリードリヒを足で

蹴りました。

彼は入り口から敷石道に転げ落ちました。息が絶えていたのでした。

はじめて、この物語を読んだとき、この場面で涙が湧いてきました。

一人で泣いている、妙な気持ちでしたが、泣くにまかせました。


「ぼく」やフードリヒにとって、戦争とかユダヤ人迫害は悲惨と

いうより自然の災害のように、雨なら雨で、嵐なら嵐で、その子

らしく受けとめて行く世界があったのではないでしょうか。

リヒターさんは、彼の内なる記憶のなかから、人間と社会の

ほんとうの姿を透視しようとしてるかのようでした。

 

 

戦時下の日本は、天皇のため、お国のためと、好戦一色に

染まっていたわけではないでしょう。

歌人土岐善麿が敗戦後の昭和21年、こんな歌をつくっている。


 あなたは勝つものとおもっていましたかと老いたる妻のさびしげにいふ


あるとき、老いた妻が「あの戦争に本気で勝つと思っていたのですか」と

尋ねたのです。

善麿は、ある時期から戦意を鼓舞する歌もつくっていた。

善麿とその妻が住んでいた世界の違い、異いといってもいいかも、

そんなものが、この日常のささやかな会話のなかにあるように感じました。

戦争は、日々の暮らしを異様な姿に変え、人の幸せには繋がっていかない。

幸せというのは、なんだろう、願うしかない、妻の世界。



いっとき、故吉野弘さんの詩が好きで読んでいました。

なぜか分からないですが、「虹の足」という詩を思い出しました。

こんな詩です。

$自分に還る。

 

   雨があがって 

   雲間から 
   
   乾麺みたいに真直な 

   陽射しがたくさん地上に刺さり 

   行手に榛名山が見えたころ 

   山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。 

   眼下にひろがる田圃の上に 

   虹がそっと足を下ろしたのを! 

   野面にすらりと足を置いて 

   虹のアーチが軽やかに 

   すっくと空に立ったのを! 

   その虹の足の底に 

   小さな村といくつかの家が 

   すっぽり抱かれて染められていたのだ。 

   それなのに 

   家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。 

   ―――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ 

   乗客たちは頬を火照らせ 

   野面に立った虹の足に見とれた。 

   多分、あれはバスの中の僕らには見えて 

   村の人々には見えないのだ。 

   そんなこともあるのだろう 

   他人には見えて 

   自分には見えない幸福の中で 

   格別驚きもせず 

   幸福に生きていることが――。 
 
 

じぶんの目の前にあるものを、見たり聞いたり思ったりして、暮している
 
日々ですが、「他人には見えて、自分には見えない幸福のなかで、格別驚き

もせず、幸福に生きていることが」あるのでしょうか。

これは、どんなことなんでしょうか。

実をいえば、作者がどんな世界を見つめているか、よくはわかりません。

幸福とは何なのか、何処にあるのか、そういう問いを投げかけられて

いるのかな、と受けとめています。

じぶんの中や、社会の現象に現れているものを、見たり聞いたりして

じぶんの中に映っているものを、じぶんなり「それはそうだ」実際の

ことにとしている世界からは見えないもの。

そんなこともあるのかな、と思います。

 
 
 
散歩しているとき、息が切れて人の家の縁石に座って息を整えていました。
 
竹とんぼみたいなタンポポの種が、コンクリートの表面のジャリの窪みに
 
嵌って、種のプロペラが風で左右に揺れていました。

もし、しゃがみ込んで、下を見ていなかったら、こんな光景には

出会わなかったでしょう。

脇を見ると、種を放出したタンポポが縁石の下に生えていました。
 
種と言うイメージから、いのちの繋がりを想いました。

いのちが辿ってきた旅が目の前にあるんじゃないだろうか。
 
こんなコトバが湧いてきました。
 
    太古よりタンポポの種舞い降りぬ
 



(おしまい)



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


地域を耕す

2017-04-22 21:01:31 | 理想の暮らしを語る会

この頃、振り返って、気がついたこと。

いろいろなことや人にかかわったりするとき、一瞬起きる

反応、変な感じとか、いやな感じ、嬉しいというときも、

すーっと素通りさせていないなあ、と。

それってじぶんの中のどこからくるもんだろう?・・・など、

じぶんのなかで消えないで、つづきものになっているときが

あります。


先日、理想の暮らしを語る会主催の公開シンポジュウムに

参加しました。

テーマ「地域を耕そう、超高齢社会で安心して暮らすために」

パネラーは

  菊山佳昌(理学療法士)
  玉井巧輔(西部地域包括支援センター)
  伊東武夫(国府小学校学校運営協議会委員、元民生委員)

でした。

昼寝から覚めたら、はじまる時間でした。

慌てて、会場の鈴鹿カルチャーステーションに出かけました。

すでに、菊山さんがスライドを使って、話をしていました。

息が整うにしたがって、話が入ってきました。

菊山さんが、ふだん何処でどんな活動しているのか、聞き逃して

しまいました。

「病身者や障害者へのリハビリには限界があります。これからは、

そういう状態の人たちが、病気や障害と付き合いながら、

地域のなかで、いかにその人らしく、生きていけるようになるか。

ここを支えていくことがリハビリの目標になるように思います」

菊山さんの話が、そんなふうに聞こえました。

少し、しんと身に滲みる感じがありました。


昨年の年末から今年の2月まで、心室の不整脈の治療で入院して

いました。何とか小康状態になり、自宅に戻りました。

医師からは「心不全が良くなっていくことは望めない。これ以上

悪化させないように、薬や食事、リハビリなどしながら、無理の

ない暮らしをしてください」とアドバイスされました。

これから、菊山さんのお世話になるかもしれないなあ、と思い

ました。

じぶんがそういう境涯になったんだなあ、と何か俄かには

受けとめがたい隙間風のようなものがあるなあと感じました。


次のパネラーは、玉井さんでした。

地域包括センターで、認知症の人たちや一人暮しで身寄りが

無い人たち一人ひとりに寄り添っていこうとしています。

認知症の人を閉じ込め排除する社会から、受け入れて援助

する社会へ」という切り口から、具体的な事例を話してくれ

ました。

その事例を思い出そうとしても出てきません。

そのとき、シンポジュウムを進行していた今井亜子さんに

聞いてみました。

玉井さんが騙して認知症の施設に入所させてしまった老人が、

インフルエンザか何か感染する病気で一時帰宅した時に、

玉井さんに向かって”ありがとう”って感謝されて、もう二度

と施設には帰さないと、僕らが面倒みるわ、ってなった」

そんな事例を紹介してくれました。

いかにも玉井さんの活動ぶりが浮かび上がる事例だと

思いました。

そうだったなあ、と思い出しましたが、どうも、一時、

じぶんの世界でうろうろしてたようです。


 今から4年ほど前、定年で退職すると言う人が、そのあと、

どんなに暮していけばいいか描けないと漏らしたことが

キッカケでした。

「老いるって、どんなこと。生きがいは?死については・・」

何人かの有志で、老年期の暮し方を語る寄り合いがはじまり

ました。

一人ひとり、テーマにそって、今思っていることを出し合い、

出し合うだけに留まらず、人生の理想の姿を見出していきたい

ね、というので、「理想の暮しを語る会」と呼ぶようになり

ました。ぼくも、発起人の一人でした。

有志での話し合いが、同じテーマで近所の人たちとも語り合い

たいとなってきました。

具体的に高齢者が地域で暮していくのに、暮らしやすくなって

いるだろうか。

人生の最期の迎え方は、どう見ていけばいいのだろう。

公開講座を開催したり、地域包括センターの玉井さんの話を

聞かせてもらったり、在宅医療、自宅での看取りが鈴鹿市では

どうなっているのだろう、いろいろな専門職の方に会い、

公開でお話を聞かせてもらって、勉強させてもらってきて

います。


ぼくじしん、それぞれのテーマでは、他人事ではなく、その

一人として、調べたり、検討してきたつもりでした。

老いとか、死は誰でも通る道で、誰もが心豊かで、幸せな

余生になったらいいな、と願っていました。

そこらへんで、どうもじぶんが「誰もが」の中に入っているか

どうか。

じぶんは、例外として、外からみていなかったろうか。

じぶんの身体の状態について、理学療法士からは「いまは

心臓に負担をかけないよう一日20分程度、鼻歌を歌いながら

歩くことをやってみて」と助言されています。

平らな道を20分歩くのに息切れがしてしんどいです。

退院後の衰え方にびっくりしました。

歩いていると、同じようにゆっくり歩いている老人に道で

出会います。信号待ちのとき、そばの花壇の縁に座って、

一息ついています。ぼくも、その老人と同じだと、実感し

ました。これまで、そのようにしている老人をどのような

まなざしで見ていたんだろう。


3人目のパネラーは、教職を退いて、10年あまり民生委員や

地域の高齢者などを支援する活動している伊東さんでした。

77歳とはいうものの、とっても楽しそうに活動や暮らしに

ついて語ってくれました。

「高齢者の方や、一人暮らしなどの人たちが、老年期に

一人ひとり居場所があり、近隣のなかで何らかの役割が

見出されるようにしていきたい」という趣旨の話と受け止め

ました。

「居場所と役割かあ」

もう、他人事ではないなあと感じました。



パネラーの発表のあと、参加者が意見や感想を出し合いました。

「地域包括センターのスタッフの方々が、お年寄りなど世話を

するといいますが、そんなに上手く幸せな暮らしがができる

ようになるのでしょうか?」お歳をめした女の人。

「今、ケアカフェを準備しています。これから、高齢者の人が

住みやすい地域をどのように描いていますか?」

これは、介護士の若い女性。

「やれることは、いっぱいあります。近所の方々に民生委員の

顔写真を刷って各家に配ったり、もっと人と人が身近になるよう

新聞を作って配っています」

民生委員をされている女の人。

「ケアする人とケアをされる人が切れていないほうがいい。

ケアのテーマは、主体、主人公はどこまでもその人自身。

その人がどう生きたいのか、どう最期を迎えたいのか、

そこは外せないなあ」

「ケアする仕組みが整っていっても、専門職の人と患者や

当事者、その家族がその仕組みを理解して、そこを担う人

たちと分け隔てなく、気持ちが通じて語り合える近隣・

地域社会かどうか。

お医者さん、介護士、地域包括センターのスタッフ、

ケアマネージャさん、市役所の職員さんなど、みんな立場を

はずしたら、近所のおじさん、おばさんだもんね」

進行の中井さん。

「ケアする仕組みのなかで、こころのケアは?」

今井亜子さん。

(あんまり、正確には表現できていない感じです。

趣旨が違っていたら、訂正してくださいね)



シンポジウムでは、参加者が出し合う時間がたっぷっり

ありました。

鈴鹿市や県下のあちこちの地区から、寄り合った人たちが

とても熱く語り合ったとおもいました。

今回は理学療法士、地域包括センターのスタッフ、民生委員

の方々でしたが、これからお医者さんやいろいろな方と、

近隣・地域社会のことについて、忌憚のない話し合いが

できそうです。

そういう場があちこちにできたらいいなあ、鈴鹿カルチャー

ステーションもその一つの拠点になり、各地の人たちと

交流したいなあ。

「地域を耕す」という意味が少し見えてきました。

なかなか、じぶんの状態を認めがたい気持ちで、みんなの

中に入りきれないものも、少し溶けていることに気がつき

ました。


「分け隔てがない」ということで、後でじぶんを見て

みました。

今月はじめ、鈴鹿カルチャーステーションで「アズワン

ミーテイング」という寄り合いがありました。

そういう会に参加するのは、退院後、久振りでした。

座っていると、何か薄ら寒さを感じました。

じぶんなりに、思い巡らしていたら、誰かがストーブを

つけました。暖かくなりました。

「寒いと言ってくれたら、みんなで考えられたんだけど」と

話になりました。

ぼくは、なんで「寒く感じるだけど」とみんなの前に

出さなかったんだろう、とじぶんの中を見てみました。

「じぶんのことは、じぶんでやる」とか「人に迷惑かけたく

ないとか」それに類する気持ちがあるなあ、と思いました。

そういうのって、じぶんと人を分け隔てしてるんじゃないの?

みんなの中に入るっていうけど、ここがちゃんとしていないと、

中途半端なものになるのかなあ、と思いました。

無理しないで、みんなといっしょに、進みたいです。



 




 








 










 


ガイヤエデュケーション

2017-04-19 11:38:58 | わがうちなるつれづれの記

少し前から、朝7時前後で近所周辺を散歩しています。

「鼻歌ができる程度で歩いてください」リハビリの理学療法士の青年

からアドバイス。

「息がきつくなってきたなあ」と歩いていました。向こうから自転車に乗

った女の人がやって来ました。

「あーら、宮地さん!」アズワン留学でしばらく鈴鹿に滞在している人

でした。おふくろさん弁当屋さんに出勤するところでした。

また、歩き始めると、こんどは韓国からの留学生セリさんが和やかに

声をかけてくれました。

気持ちが弾みます。

次の日、息切れがして、俯き加減に歩いていたら、「おじいちゃん」と

聞こえてきました。顔上げて、声のほうを見ると孫娘でした。快活な笑顔が

ぼくに飛び込んできました。わくわくと何か希望が胸に広がりました。

 

 

最近、希望が広がる寄り合いに参加しました。

4月から鈴鹿を舞台に開催される「ガイアエデュケーション・プログラム」

について、アズワンネットワーク鈴鹿コミュニテイで暮す人たち向けに

説明会があったんです。

主催しているのは、NPO法人の「えこびれっじ日本GEN-JAPAN」

進めているのは、主に、片山弘子さん、北川道雄さん、佐藤文美さん。

アズワンネットワークとして鈴鹿を拠点として、暮している人たちです。

このプログラムは、9月まで月一回のペースで連続開催します。

会場は4回が鈴鹿、あと2回は安曇野のシャロムヒュッテと相模野にある

トランジションタウン藤野だということです。

 

ちょっと、新鮮な気持ちでした。

「ガイヤエデュケション」のことは、リーフレットを読んだり、身近で

片山弘子さんと話したりしていても、真正面から、どんなことをやろう

として、どんな気持ちでいるのか、聞くのは初めてかなと思ったからです。

 

「ガイヤ」と言うけど、それってどういうこと?

「えこびれっじ」とは・

まして「GEN」と聞いても、何のこと?

 

スクリーンに解説を映してくれて、丁寧に話してくれました。

聞いたら、その凡てが分かるというものでもないでしょうが、ぼくなりに

理解が進んだと思いました。間違って捉えていたら、言ってくださいね。

 

「ガイヤ(理論)」は、1960年ごろ、天体研究者のラブロックさんが

提唱しました。

「地球があたかも一つの生命体であるかのように自己調節システムを

具えている」と見える捉え方のようです。

初めは科学的でないと批判もありましたが、1990年代ごろから、多くの

人の賛同が広がりました。

 

「GEN」(Global Ecovillage Network)は、ガイヤ理論に賛同した何人かの有志の人びとが、イギリスのフィンドフォーンを拠点に、世界の各地で規模は小さくとも、そういう方向性で暮したり、活動している事例をネットワークしていこうと立ち上げたと聞きました。

「エコビレッジ」という捉え方もここからはじまったのでしょうか?

この説明会がきっかけで、「GEN」が国連とどのように繋がっているのか、おぼろげながら、知識として、分かりました。

国連は、6大機関で構成されています。

その一つに、「国連経済社理事会」(ECOSOC)という機関があります。

その機関はいろいろな機関とも連携しているます。

その一つが、「国連教育科学文化機関」(UNESCO)ということ

らしいです。

「GEN」は、平和で環境に調和した持続可能な社会の実現をめざして、その人材養成の教育プログラムをECOSOCやUNESCOと連携しながら、2000年ごろから世界各地、5大陸45カ国以上の地域で開催してきたといいます。

国連は、もともと第二次大戦の惨禍を再び人類にもたらさないよう設立されています。どの機関もその実現を託されているのではないでしょうか?

 

 今回、鈴鹿で開催される「ガイア エデュケーション」は世界の各地で

いまでも開催されているうちの一つとして、日本で開催されるということでした。

このプログラムは、ユネスコの認証を受けていると聞いています。

聞いてはいましたが、ユネスコといっても、遠い、雲の上にあったと

いうのが、正直なところです。

片山弘子さんは、GENやユネスコのスタッフの人と、開催の内容について

やり取りを行い、認証をしてもらったといいます。

認証してもらったあと、スタッフの人から、「いっしょに、飛び立ちましょう」

というメッセージが届いたと聞きました。GENやユネスコが、グッと身近になりました。

 

日本で開催されるといっても、日本国というより、日本地域というふうに

見るのが相応しいのではないでしょうか?

会場やプログラムの講師陣は、日本の各地でそれぞれの立場から、持続

可能な社会を研究し、それの実現に踏み出している人たちです。

時間に余裕があれば、講師の方々のビデオレターを見てください。

ぼくは、聴いてみて、ワクワクしました。

この文の最後に、そのHPを添付しました。

 

プログラムの内容はどんなだろう。

以下は、えこびれっじ日本GEN-Japanが出しているリーフレットから

ぼくなりに捉えたものです。

1、社会  「私」と「あなた」を隔てるものは何か

     ・生まれて間もない頃には知らなかった、怒りや対立が

         なぜおきるのか?

     ・一人ひとりが尊重される社会とは?

     ・何でも言えて、何でも聴き合える持続可能な人間関係とは?

2、世界観  私たちはどのような世界に生き、どのような存在か

    ・自然界に調和して生きる、人本来の生き方とは?

    ・分けることができない宇宙自然界、「一つ」の世界を捉え直す

3、経済   ローカリゼーション、ガイア経済への移行

    ・お金とは?交換とは?

    ・有限な地球に生きるため、地域主体の経済、お金に依存しない

         経済とは?

 4、環境  持続可能なライフスタイルと空間・適正技術・総合デザイン

   ・水・食物・栄養・再生可能エネルギーなど地域自然と     循環

    ・パーマカルチャー、炭焼など伝統的な知恵と技術の復元、

         活用

     ・被災後の都市や地域の再生、エコロジカルフィットプリント

         から見えてくる社会の描き

      ・ガイアエデュケーションの6ヶ月のまとめ、コミュニテイの

         総合デザイン

 

こうして書き出してみると、どれも、みんなで虚心に検討・探究してみたい

テーマだと思いました。

とくに、ぼくとしては、生まれて間もない頃には知らなかった、怒りや対立が なぜおきるのか?」が興味深いと思いました。

 人類の抱えている課題は、ここに挙がっているようなことは、ほんの一部なのかもしれません。

とはいえ、このようなテーマでそれぞれの地域で、それぞれの立場で、研究したり、実践や試みを実際にやっている人たちが、地域を越え、立場を越え、意見や思想は違っても、隔ても囲いもなく、話し合える状態をつくっていくのは、これからのコミュニティづくりには欠かせないテーマのように思いました。

 


以前に宮沢賢治が詩稿の余白に書き付けてあったという言葉が

があるのを知って、印象に残っています。

  <ああたれか来てわたくしに云へ、

  「億の巨匠が並んでうまれ、

  しかも互いに相犯さない、

  明るい世界は必ず来る」と>


ガイアエデュケーションの説明会で、そこを進めてきた人たちの

話を聞きながら、これがきっかけとなって、そういう「あかるい

世界は必ず来る」と言うことができると思いました。

朝、アズワン留学生やわが孫娘の快活な笑顔に出会ったとき、

ポッと湧いてきたものが、一時的な感情に過ぎないかどうか。

もっと、人や社会の本当の姿を観察していきたいです。




*ガイアエデュケーションの講師陣のビデオレターです。

http://genjp2015.wixsite.com/education/home

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


孫と娘の新学期

2017-04-15 09:08:03 | 家族あれやこれや

孫娘の(ふゆ)の高校入学式がありました。

母である娘桃子も同伴したようです。

午後、もう帰っているかなと、娘のアパートに行きました。

弟の晴空(はるく)が家の中に居ました。

「風友、帰ってきたあ?」と玄関から聞いたら、「まだだよ!」と返事が

返ってきました。

(うん、何か明るいなあ)と感じました。

「また来るね」と別れました。

 

夜、桃子のアパートに小浪と一緒に行きました。

入学祝いを持っていきました。

メモ用紙のセットで、ボールペンが釣り人の糸の先に磁石でぶら

下がっているものでした。

家族3人、とってもにこやかに居間にいました。

ふゆは、包装の箱を開けてました。

釣り人のメモ用紙セットを出して、見て、ああ、面白い」と声に

だしました。

弟が、例によって、いろいろチョッカイを入れてました。

入学式は夕方まであったそうで、母の桃子は「ああ~、疲れた」と嬉しそう

でした。

高校進学については、どこの高校に進むか、ふゆも迷いに迷っていました。

「自分の学力のレベルで、どこの高校なら、受かるか」

学校の先生との面談もしながら、迷路に嵌っていっているようでした。

こんな年代の子たちに、こんなことで悩ませるのは酷だな、と思いました。

「どうしていいか、分からない」ふゆがイライラして、母に当たるときも

あったようです。

桃子も、こればかりはなんとも出来なかったでしょう。

どんなときでも、ふゆの傍らに居ようとしていたようです。

 2月中旬、志望校の入試があり、そのあと「合格内定」の連絡が

ありました。よほど、嬉しかったのでしょう。入院中の爺の

ところにも、ラインで知らせてくれました。

 

弟の晴空は、入学式より早く、新学期がはじまりました。

6年生です。ここ2年ばかり、学校に行かないことが多かったです。

行かなくなった理由といっても、なかなか一口では言えないでしょう。

本人が「こうこうだ」といって、理由が分かったとしても、行きたく

ないときは、行きたくないし、行こうというときには行ったりしてました。

学校の友だちとは、当たり前に遊ぶし、ずっと学校へ行ってないけど、

運動会には参加するという具合です。どうも、運動会の練習は面白く

なかったようです。

学校に行かないときは、部屋でパソコンでゲームに打ち込んでいました。

当然、母桃子も、「どんなんだろう、こんなんでいいんだろうか」と

内心困惑して、見ていたようです。

よく担任の先生が、休んでいる晴空のところに呼びに来ていました。

「きのう、来るって約束したでしょ!」と声かけに来ていたときも

ありました。

晴空は、「怖い」と言って、ますます行きたくない気持ちになって

いたようです。

そのうち、担任の先生ではなく、そういう子どもをフリーで見てくれる

女の先生が、晴空のところに顔をだすようになりました。

それから、半年以上かかって、一日1時間、別クラスの授業を

受けに行くようになりました。

桃子はおふくろさん弁当で働いていましたが、いつからか、一人部屋で

パソコンしている息子をそのままにはできないなあ、と見えはじめました。

おふくろさん弁当屋さんに相談したり、鈴鹿コミュニテイのオフィスの

スタッフに自分の気持ちを聞いてもらえる機会をつくったりして、

今にいたっています。

この春休みには、大阪にいる父親のところに、何日か行ってきました。

帰ってきた晴空を見て、そのとき、何か晴れ晴れしているなあと見えた

ようです。

 

新学期、なんと晴空は自分で学校に行きはじめました。

何でそういうことになったのか、桃子も分からないと言っていました。

まあ、今も、ときどき休むことはあっても、何か前向きになっている

らしいです。

 

ともかくも、ふゆは高校に通いはじめ、晴空は小学校へ通いはじめ

ました。

母である桃子は、まだまだ、二人それぞれの内面で起きていること

どんなだろう、と観察しながら行くのでしょう。

桃子自身も、それがどんなものか、自分の内面も見ていくことに

なるんでしょう。

これからも、まだまだ、いろんなことがありそうです。

そんなとき、大人はそれをどう見て、どう受けとめていくのか、

これは桃子だけでなく、爺や婆のありようにも、かかっているのかな、

と肝に銘じています。

人生の目的、幸福とはなんだろう?

 

 


庭先の花を

2017-04-09 18:29:51 | アズワンコミュニテイ暮らし

こんなこともあるんだなあ、思うことがありました。

夕方、玄関のインターホーンがピンポーンと鳴りました。

妻が出て、来訪の人としばらく話しているようでした。

「益子さんが、花持ってきてくれたの。庭先に咲いていたんだって」

妻は、チューリップと何種かの花が束ねてある花を抱えて戻って

きました。

「どこに、置こう」妻は、聞くともなく、つぶやきました。

居間には、使わないで蓋をしている火鉢があります。

壁側のテレビの横にあって、その上は何も置かれていないので、広報誌

とかパンフレットやお菓子などが、その時の都合でポイと置いて、

便利使いしていました。

何日か前から、身の回りの整理をはじめていました。

何をどこに置くか、はっきりしないものも、結構あって、それが

見たいとか、使いたいときには、どこにあるかと探し回ることが

多いです。

要らないものは、処分し、それぞれのおき場所を決めてみました。

そういう目で、火鉢の上を見てみると、そこは便利使するより、

何か、花とかが飾られといるのが、相応しいんじゃないか、

と思いついていました。

 

そんな時、益子さんから花束が届きました。

益子さんは「少しでも、新鮮な空気吸えたらいいのかなと思って」とも

言葉を添えてくれたと聞きました。

花に託して、気持ちを届けてくれたんだ、温かい気持ちになりました。

妻はさっそく、そのところに花瓶に入れた花を飾ってくれました。

こんな思っていたら叶えられる、ささいなことみたいだけど、

こんなこと、あるんだなあと思いました。

ああ、見てくれているんだなあ。あらためて感じました。

益子さん、ありがとね。