かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

わが家の食卓

2017-06-29 18:25:36 | 家族あれやこれや

どんなかと、ふりかえるときがあります。

3月に退院して、少しでも元気になっているのでしょうか。

病人然とした空気から開放されて、いまは家族や友人と声をかけあうことが

できます。気持ちに弾みがつきます。。

先日、1ヶ月一回の診察日で大学病院に妻の運転で行きました。

医師から「どうですか?」と問われます。

「気持ちは元気なんですが、息切れ、めまい、立ちくらみが日常的に

なっています。少ない日もあるんですが」

「うーーん。そうですか。そんなときは、横になったり、休むのが

いいですね」

血液検査の数値は、一応良くないなりに安定しているみたです。

薬も先回と同じ処方をしてくれました。

 

一昨日の夜、Eテレで「忍び寄る心臓突然死」という番組がありました。

途中からみましたが、突然死につながる病症として、肥大型心筋症・

拡張型心筋症ともう一つ、長い名前で覚えられませんでした。

拡張型心筋症が、ぼくの心臓の状態についた名前です。

突然死にならないために、検査や薬、そのほか「これがだめならこういう

治療を」、それでもだめなら「この手術を」と専門医の先生が解説してい

ました。

冬の3ヶ月の入院を思い出しました。

突然死を防ぐ最後の療法は、心室と心房が働きがいびつになっている状態を

改善するため”両室ペースメーカーを植え込むことだと紹介していました。

「それをやったんだ」と思いました。

ぼくの場合、それに致死的不整脈を止めるための除細動器もついています。

生きるための救急措置をしてもらったらしいと思いました。

自分が実際に体験したことですが、まるで誰かほかに人の話を聞いている

ようでした。

で、湧いてきたのは、ここに今こうして”生きている”ということは、すごい

ことなんだなあ、という感慨です。生かされている、ともいうのでしょうか。

 

わが家での暮らしは、淡々としたものです。

いまは、マンション1階の部屋に妻と息子とぼくの3人で暮しています。

3年前、息子が一緒に暮すというので、玄関入って左の部屋を用意し

ました。

倉庫兼ぼくの書斎として使っていた部屋です。

 

 

南側ベランダに面して2部屋あります。

東側が居間で、食堂とつながっています。

西側は寝室で、ここだけ畳みの部屋にしています。

すべての部屋はバリアフリーになっています。

以前暮していた老夫婦が設計したもので、入居のときは、その設計に

こんなに助けらるとはおもっていませんでした。

 

寝室の片隅にパソコン用の机をおいて、そこが自分なりの空間です。

退院時に寝室にベットを入れてくれました。

妻が寝るときは、畳に布団を敷きそこで休みます。

狭いかな、と思いきや、いまの自分のカラダの状態をおもったら、いつも

人が出入りして、目の届く範囲で暮せるのがいいなあ、となってきました。

夜中に目が覚めて、ベットの上から妻の寝顔を眺めて、ほっこりするとき

もあります。

 

朝は8時ぐらいに、居間でテレビを観ながら”モーニングカフェ”です。

息子が、コーヒー豆をひいて、母と本人の分を淹れます。

ぼくは、別にお粥と味噌汁を作ります。

味噌汁が作れるようになりました。自慢にはなりませんが。

この時間に3人でよもやま話とか、いまの気持ちなど出し合っても

いいかあ、とやってきましたが、今はテレビを観て終わることが

多いです。

 

昼食は、基本、自分でつくります。

妻がいるときは、作ってもらいます。麺類が多いです。

自分でつくるより、落ち着いて美味しくいただけます。

 

退院してから、いつのころからか、一週間のうち金曜日は娘一家(桃子・

ふゆ<高1>・晴空<小6>)が、わが家に夕食を食べにくるようになり

ました。

土曜日は長男一家(秀剛・悠海・和<3歳>・駿<1.5歳>)が来ます。

 

桃子一家は、3人が揃って食べることが少ないです。

ふゆが、部活でテニスをやるようになり、バスと自転車で帰ってくるのが

8時過ぎることが多くなりました。

 

 

昨夜は、たまたまふゆがみんなで食べる時間に帰ってきました。

鶏のから揚げと、簡単な小籠包がメニューでした。

聞くと昨日、朝昼晩とから揚げを食べたということです。

「何か、別のものつくる?」と妻が尋ねたら、二人「いいよ、これで」と。

よほど、から揚げが好きとみえます。

ふゆ、晴空は食べることに専念していました。

二人が揃うと、何かと言い争いみたいになります。

晴空が肥っているかいないか、ふゆも小学生のときはデブだったとか、

しばらく”デブ談義”

「あっ、はじまってる!」二人は居間に飛んでいきます。

朝日テレビのミュージックステーション、若い女の子が激しく踊っています。

「あの真ん中の娘、好きだ」と晴空。

「その子、悠海さんに似てるー」とふゆ。

踊っているから、顔が見えません。

晴空がスマホでその娘をアップしてくれました。

 

土曜日の長男一家の夕食は、ガラッと趣きが変わります。

食事の前にお風呂という段取りです。

次男の駿くんは、お母さんが行くよ、と声かけると、喜んで入ります。

長男の和は、いま「きかんしゃトーマス」にはまっています。

「これ観てからあー」

ストーリが終わったとき、「さあ、入ろう」とお父さんが誘うと、

「やあーだ、これ観てからあ」としぶとい。

おとさんが「お風呂に入る子ー!」と呼びかけても動かないのです。

おとうさんが、服を脱がしにかかると、「やあだあ!」と叫びますが、

最後はお風呂にお父さんとやっと入ります。

上がってきたら、とても機嫌がいいのです。

 

食事になっても、食卓にじっとしていることがありません。

気がつくと、ぼくの机から電子辞書とか蛍光ペンとか鋏とか

もちだして、何かしはじめます。

そのたびに画用紙を渡したり、鋏などは返してもらいます。

食べないわけでなく、ひとしきり動いたあと、おばあさんが

「海苔ご飯だよ」というと、おばあさんのところに寄ってきて、

けっこう食べます。

 

 

ときに、食卓を囲んでデザート食べながら、大人でおしゃべりする

時間があります。

桃子一家が来た日、桃子が祖母のお葬式に行ってきたときの話をしました。

「お兄ちゃんたらね、人からは絶対争いは無くならないっていうんだよ。

うーん・・・そうだねとならなかったけど、いまの社会を見ていたら、

争いが無くなるってことがあるのかなあ、と思ちゃうな」

お兄ちゃんは、大阪の実母のところで暮しています。

祖母のお葬式で、妹桃子と話すひとときがあったようです。

なぜ、そんな話になったかは、分かりません。

「俺も、そう思うな」と桃子の話をきいていた次男が同調しました。

しばらく、なんで争いが無くならないか、二人でやりとりしていました。

「争いが無くならないって、決めてしまったら、そりゃ無くなるはず

ないよなあ」

しばらく二人のやりとりを聞いていて、思わず言ってしまいました。

娘から「そうかあ」みたいな反応がありました。

「でもね、わたし、社会ってのが、ピンと来ないし、よく分からないなあ」

と桃子。

また、そのことについて次男と桃子のやりとりがありました。

聞いていたぼくは、つい口をはさみました。

「静かに自分のこころの奥を見ていったら、コトバにならなくとも、こんな

社会で暮したいとか、こんな環境で子育てできたらいいなあ、とか願いが

あるんじゃないかな」

「うーん」娘は、ピンこないようでした。

「もう帰ろう!」子どもたちが立ち上がりました。

その夜は、そんなこんなでお開きになりました。

 

わが家の食卓は木製です。ムクの木ではありません。

7年前、鈴鹿に引っ越す際に妻とあちこち見て回り、選びに選んで

ぼくらにしては少々張り込んで買ったものです。

椅子も気に入っています。

毎日、家族や訪れてくれる人たちが入れ替わり立ち代り、この食卓に

坐り、またそれぞれのところに出かけていきました。

食卓に気持ちがあるとすれば、こんな風に往来してきた人たちについて

どんな感想をもったんでしょうか、聞いてみたい気もします。

ぼくは、日々、感慨深いです。

 

とりとめもなく、書いていまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


沖縄慰霊の日

2017-06-25 16:35:14 | わがうちなるつれづれの記
今年は「沖縄慰霊の日」を思いながら6月23日を迎えました。
なのに,何故か慰霊式典のテレビ中継を見るのを忘れていました。
なので、黙祷のチャンスを逃しました。
そのとき何してたかというと、ヒョンなことから、沖縄戦で亡くなった
朝鮮の人たちがどうだったか、知りたいと調べていました。
故大田昌秀さんが「平和の礎」建立に汗を流したと知りました。
テレビを見ていたら、朝鮮からの人たちの名前も刻まれていました。
アメリカ人も名前も刻まれていました。
20数万人が死んだのではなく、その人がそのとき、そこで命を失った
のですね。それが 文字として刻まれているんですね。
じぶんの中で、そこの焦点が抜けていたなと思いました。


あとで、式典で高校生の上原愛音(ねね)さんの詩を朗読しました。
冒頭のコトバに感じるものがありました。
   今日も朝が来た。

   母の呼び声と、目玉焼きのいい香り。

   いつも通りの

   平和な朝が来た。

 

こんな朝は、沖縄だけでなく、日本中、世界中で繰り返されて

いる光景ではないでしょうか。

 

 

23日の午後「この世界の片隅に」という映画を観に妻と行きました。

カマドとお釜とご飯炊きが印象に残っています。戦争に負けたあと、

気兼なく白米を炊いて、炊きたての香りを家族で吸い込むのでした。


このような現れが「平和」であり、ほんとうの現われじゃないで

しょうか。

こういう当たり前の現われが、ほんとうじゃないかとはっきりして、

その世界に立って、暮していきたいです。


 

 沖縄地上戦戦の惨劇は、ときの政府や軍が本土防衛するための捨石

にした、沖縄の人たちからすれば、その記憶が払拭されないまま、

引き継がれているように思えてなりません。


 戦争や争いは、虚しいものだと思います。

だれが、こんな虚しいこと、やりたくてやる人がいるでしょうか?

戦争や争いをじぶんの利益のために使っている人もいるかも

しれませんが、そんなことわざわざやらなくとも、じぶんが得を

したり、大儲けできるなら、そんなことには手をださないのでは

ないでしょうか。

そういう工夫ができないものでしょうか。

虚しい記憶からスタートするか、人と社会の本当の姿を見極めな

がら、それを目指して暮していくか。


近ごろ、山之口貘さんの詩をときどき読んでいます。

1903年に、沖縄に生まれ、20歳のころから上京して、詩を書き

たいがため、募集広告に「朝鮮人と琉球人はお断り」と書かれて

いた本土の空気の中、極貧の放浪生活までしていました。

詩人金子光晴の仲人で1937年、結婚しました。

 

 

山之口貘さんの詩を面白く思うのは、目に映る世界は世界とし

て、もともと人や社会とはどんなものか、そういう自問から見え

きたところを詩で表現しているよう見えます。

 

 どの詩もよく推敲されていて面白いですが、二つほど載せてみま

す。ぼくの覚え書きでもあります。

 

       鮪に鰯   山之口貘

   鮪の刺身を食いたくなったと
   人間みたいなことを女房が言った
   言われてみるとついぼくも人間めいて
   鮪の刺身を夢みかけるのだが
   死んでもよければ勝手に食えと
   ぼくは腹立ちまぎれに言ったのだ
   女房はぷいと横をむいてしまったのだが
   亭主も女房も互に鮪なのであって
   地球の上はみんな鮪なのだ
   鮪は原爆を憎み
   水爆にはまた脅かされて
   腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
   ある日ぼくは食膳をのぞいて
   ビキニの灰をかぶっていると言った
   女房は箸を逆さに持ちかえると
   焦げた鰯のその頭をこづいて
   火鉢の灰だとつぶやいたのだ

足元の世界を離さずに、ほんものを探ろうとしています。

つぎのは、少し長いです。沖縄慰霊の日に、この詩からいろいろ
思いを馳せました。


           沖縄よどこへ行く

      蛇皮線の島 

      泡盛の島 

      詩の島 
      踊りの島 
      唐手の島 

      パパイヤにバナナに 
      九年母(くねんぼ)などの生る島 

      蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島 
      仏桑花や梯梧の真紅の花々の 
      焔のように燃えさかる島 

      いま こうして郷愁に誘われるまま 
      途方に暮れては 
      また一行づつ 
      この詩を綴るこのぼくを生んだ島 
      いまでは琉球とはその名のばかりのように 
      むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく 
      島には島とおなじくらいの 
      舗装道路が這っているという 
      その舗装道路を歩いて 
      琉球よ 
      沖縄よ 
      こんどはどこへ行くというのだ 

      おもえばむかし琉球は 
      日本のものだか 
      支那のものだか 
      明(は)っきりしたことはたがいにわかっていなかったという 
      ところがある年のこと 
      台湾に漂流した琉球人たちが 
      生蕃のために殺害されてしまったのだ 

      そこで日本は支那に対して 
      まず生蕃の罪を責め立ててみたのだが 
      支那はそっぽを向いてしまって 
      生蕃のことは支那の管するところではないと言ったのだ 
      そこで日本はそれならばというわけで 
      生蕃を征伐してしまったのだが 
      あわて出したのは支那なのだ 
      支那はまるで居なおって 
      生蕃は支那の所轄なんだと 
      こんどは日本に向ってそう言ったと言うのだ 
      すると日本はすかさず 
      更にそれならばと出て 
      軍費資金というものや被害者遺族の 

      撫恤(ぶじゅつ)金(きん)とかいうものなどを 

      支那からせしめてしまったのだ 
      こんなことからして 
      琉球は日本のものであるということを 
      支那が認めることになったとかいうのだ 

      それからまもなく 
      廃藩置県のもとに 
      ついに琉球は生れ変わり 
      その名を沖縄県と呼ばれながら 
      三府四十三県の一員として 
      日本の道をまっすぐに踏み出したのだ 
      ところで日本の道をまっすぐに行くのには 
      沖縄県の持って生れたところの 
      沖縄語によって不便で歩けなかった 
      したがって日本語を勉強したり 
      あるいは機会あるごとに 
      日本語を生活してみるというふうにして 
      沖縄県は日本の道を歩いて来たのだ 
      おもえば廃藩置県この方 
      七十余年を歩いて来たので 
      おかげでぼくみたいなものまでも 
      生活の隅々まで日本語になり 
      めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり

      怒ったりするにも 
      人生のすべてを日本語で生きて来たのだが 
      戦争なんてつまらぬことを 
      日本の国はしたものだ 
  
      それにしても 
      蛇皮線の島 
      泡盛の島 
      沖縄よ 
      傷はひどく深いときいているのだが 
      元気になって帰って来ることだ 
      蛇皮線を忘れずに 
      泡盛を忘れずに 
      日本語の 
      日本に帰って来ることなのだ 

 

この詩の最後は、どういう気持ちをコトバにしたんでしょう?

山之口貘さんの一人娘の山口泉さんは、2013年、生誕110年の記念講演を

那覇市でされたとき、父上のエピソードを語られたということです。

ある日、泉さんが「沖縄はいっそ独立すればいいじゃない」と言った時、

貘さんは珍しく色をなして怒り、こう言ったといいます。

「いいかげんなことを言うな。日本は自分が始めたこと(琉球併合)なんだ

から、最後まで責任を持て」

どういう真意かは、また分かる人がいたら、聞かせてほしいです。


貘さんの詩は、いまの時代にも新鮮な問いかけをしていて、古さを

感じさせません。

その問いかけは、時代の事象は違っても、今に生き生きと息づいて

いるとおもいます。





地域社会のお母さん

2017-06-21 11:32:53 | 理想の暮らしを語る会

 

先日、6月17日、鈴鹿カルチャーステーションで、鈴鹿西部地域包括支援

センター長の鈴木節子さんが

      6月公開講座 

    「人生の完成期(後期高齢)を最も自分らしく生きるために」

     ~介護支援専門員から見た「長期にわたる親の介護」

 

というテーマで話をしてくれました。


ここのところ、鈴鹿地域で医療・介護・福祉にたずさわっている方々を

2ヶ月に一回、お呼びして、実際のやられていること、そこから感じる

こと、お気持ちなど聞かせてもらってきています。

     

 

 鈴木節子さんのお話は、のっけから、”肝っ玉かあさん”の語り口で、話

の内容もそうですが、鈴木さんの人柄がビンビン伝わってきました。

センター長なんていうと、ちょっと引いてしまう気持ちもありますが、

どうして、どうして、介護・福祉にかける情熱が鈴木さんを動かして

いるようでした。

 

前に鈴木節子さんの「部下」といったらいいのか、同志ともいえるのか、

青年職員玉井さんにも二回ほど、地域包括支援センターでの活動や気持ちを

聞かせてもらいました。

高齢になって身寄りにない認知症のおばあさんに寄り添う体験や孤独な

暮らしながらヤケクソになっているおじいちゃんを最期まで看取ったり

しています。

自身、涙無しには語れないという活動を聞かせてもらいました。

それは、たんに「仕事だから」という枠を越えているようでした。

「地域包括支援センター」という馴染みにくいイメージでしたが、そこに

人と人のいのちの交流の実際があるんだなあ、と身に迫ってきたのでした。

 

鈴木節子さんのお話は、なぜ自分が「介護・福祉」の世界に踏み込んで

きたか、ご自分の体験からはじまりました。


 10代から、すでにその志はあったといいます。

20歳過ぎて、介護・福祉資格を取るための勉強をしているとき、

会社員で勤務をしていた父が病気で倒れたため、家事、仕事を

しながら、父の介護をし、20代半ばで専業農家に嫁ぎ、義理の

祖母と専業農業と3人の子育てを両立しながら、介護の資格を

とったということです。

 後、この35年間の介護の経験と知識を、活かして社会に貢献して

行きたいと思っているとのこと。

そんな鈴木さんから、いまの活動について聞かせてもらうと、

鈴鹿地域の介護や福祉の仕組みが、どうのようにつながって、

どんな人がどんなふうに活動したり、そこで暮す人のなかに

生かされているか、やっと身近に感じられるようになりました。

さまざまな機関の寄り合いに参加されてていて、地域の人たちの

介護、介護予防、福祉、看取りまで、見てくれているように感じ

ました。

「この地域社会のお母さん」

そんなに見ても、無理ないかなと思いました。

ぼくのほうは、そんなに見てくれている人がいるなんて、迂闊にも関心が

なかったともいえます。

 

鈴木さんのお話は地域社会で手をつけていきたいこと、高齢になっていく

人がおさえておきたいポイント、そういう高齢者と暮らしながら、元気な

人はどこを見ていけばいいのか、ご自分の体験や最新の知見を紹介しなが

ら、熱く語ってくれました。


「フレイル」というコトバ、はじめて耳にしました。

どういうこと?

「カラダがストレスにたいして、弱くなっていること」

ここは、鈴木さん、ご自身のお母さんの実例を紹介してくれました。

「母は9年前、転んで左手を骨折しました。なぜ、そうなったか調べると、

パーキンソン病だとわかりました。そこから認知症があらわれ、脳梗塞

まで起こりました」

どうも、フレイル状態になると例えば、その人の生活では不如意なことが

多くなり、風邪にかかっただけで肺炎にまでなる、そんなことらしい。

 

鈴木さんは、高齢になりフレイル状態にならないための予防やたとえ

なりかけても、早めにそれが分かったら、その状態か回復すること

ができるといっていました。

フレイルについての診断基準があるようです。

鈴木さんは、鈴鹿地域でもその診断ができるようにしたいと考えて

いるようでした。

なかでも、「口腔機能の低下」がフレイル状態を加速するとも言って

いて、この検査もやれるようになっていきたいと願っていました。

 

看取りということでも触れていただきました。

最近は「エンド・オブ・ライフ」という考え方を在宅医療・看取りに

かかわる小澤竹俊さんが提唱しています。

当人も周囲の家族、縁者、地域の人たちも。こころ満ちたりて、最期

を迎えられる、そういうありようが、明らかになってきているようです。

「尊厳死協会」とのつながりもあるようです。

鈴木さんが、小澤さんの「エンド・オブ・ライフ」からぼくらに

問いかけてくれました。

「自分が亡くなると分かったとき、どんなコトバを近親の人や周囲の人に

かけますか?」

「そんな、急に問われても・・・」とたじろぎました。

 

「人が自分らしく最期をむかえるのには」

おそらく、この問い(「旅立つに当たっての気持ち)を自分のコトバで

口にして、書いてもいいのでしょうが、本人の気持ちが周囲の一人ひとり

に伝わり、周囲の一人ひとりもそれをしっかり受けとめる、そういう実際

のなかにあるのかな、と思いました。

 


「地域包括ケアシステム」というのは、2004年ごろからスタートして、

全国各地の市町村が主体になってはじまりました。

「それって、どういうこと?」

広報のパンフレットに目的とか背景とか書いてありますが、読んでいても

どうもピンときませんでした。

地域の各種機関のつながりの図というものもありますか、「そうかそんな

ふうになっているのか」とは分かりますが、どこか他人事でした。


「もっと、この仕組みに関わって、活動したり、あるときは壁にぶつかっ

て、迷っている人に出会った、話を聞きたい」とやってきて、まだまだです

が、「地域包括ケアシステム」というのが、政府のいろいろな事情や理由付

はふまえながらも、これからの社会への道筋があるように感じています。

 

そこに介護を求めている人がいます、カラダの面でも心の面でも弱い人が

います、威張っている人やときに乱暴する人がいます、どの人もその人の

暮らしは、いやおうなく地域の人たちに広がっていきます。

そんなとき、どんなふうにとらえるかなあ?

住民自身がどんな自分になったら、そのような人たちと仲良く、こころ

豊かに暮していけるかなと、願わないかな。

相手を変えようとしなくても、自ずからそうなっていく社会の雰囲気が

あるのかなと思います。

社会の仕組みとしては、いろいろ考えられて、専門、専門でやることが

はっきりしているのでしょうが、そういう人を目の前にしてのスタートは

隣人としてのそれぞれの人のかかわり方があるのかな、と思えてなり

ません。

 

鈴木さんのお話会では、自身(ぼくなんですが)、フレイル状態に足を

踏み込んでいる身で、もっと具体的に知りたいこともありますが、

自分が暮す地域にそこを見てくれている人がいるとと思うと、ほっこり

します。

お話会さいごのほうで、「「理想の暮らしを語る会」みたいな寄り合いが

あるのは、お互いが身近になるのに、いいですね。もっともっと、やって

いってほしいです」みたいな感想をもらしてくれました。

こころ強かったです。

 

これからも、公開講座が楽しみです。

 

 


「人形の家」

2017-06-20 16:44:45 | わがうちなるつれづれの記

迂闊なもので、自分が以前に言ったことは忘れていて、相手の人から

「こんなこと言っていたよ」と聞いて、そこを思い出そうというときが

あります。

 

昨年、音信が途切れていた友人から手紙が届きました。女の人です。

「以前、わたしに人形の話をしてくれたの覚えていますか」と書いてありました。。

「人形はただ坐っているだけで『こうなったらいいなあ』『ああなったらいいなあ』

と願っているだけで、周りの人が願ったものを用意してくれる」

そういえば、そんな話をしていたかもしれません。

 友人はその後、いろいろ困難なこともありましたが、自身の生き方を

しっかり見つめているようです。

手紙の最後に、こうありました。

「人形のように、わたしが願っていたら、そしてそれがやったら良い事で

あったら、そうなって行くと思っています。何か自分の力でないものに

動かされている気がしています。人として「真理」に添って生きていこう

としたら、その流れはわたしを見放さない気がしています」

いまは。60歳を越え、独り身で暮している友人に脱帽です。

 

そのとき読んだ本が今だったら、どんなふうに読めるだろうか、

図書館に行って借りてきて、読んでみました。。

 

児童向けの「人形の家」は、イギリスのルーマー・ゴッデンさんの作品です。

イプセンの「人形の家」は、人形みたいにあつかわれた人間の物語ですが、

ゴッデンさんのは、人間のようなこころをもった人形の話なんです。

主人公は、トチーというオランダ人形です。

木で作られた小さなオランダ人形です。

もう、100年、大おばあさんの代から、子どもたちに遊んでもらってきています。

人形の家族はプランタガネット家で、いろいろな人形の寄せ集めで、

おとうさん・おかあさん・トチー・幼児・犬で暮しています。

いまはデーン家の娘エミリーとシャーロット姉妹が、人形たちをじぶんの

家族のように大切に世話をしています。

 

この物語の作者ゴッデンさんは、作品のなかでこう書いています。

「トチーはそのように願うことしかできないのです」

「人形は何も話すことはできません。でもしばしば人形の願いは口に

出していうのと同じくらい強いのです」

「みなさんは人形の願いを感じことはありませんか?」

 こんど読んでみて、ここの、一節には、一瞬、ドキッとしました。

自分からみている世界がガラリと一変する感じがありました。

 

ゴッデンの「人形の家」では、プランタガネットさん一家が、こころをもっ

人間のようにいろいろな願いを話し合うあうのです。

その願いをエミリーとシャーロット姉妹が人形たちの気持ちが伝わったかの

ように、その願いが叶うように考え、動いたりするのです。

人形たちと姉妹との微妙なこころの交流が面白いです。

エミリーが、綺麗でうつくしいが、気位が高いマーチベーンを人形の家の

主人にして、プランタガネット一家は台所に追いやることが起こりました。

シャーロットはそうしたくなかったのです。

トチーは、そんな危機にたいして、「願わなくてはいけないわ」とみんなに

声かけます。

トチーはいいます。

「でも、わたしはエミリーを知ってるわ。あの子は道理もじゅうぶん

わかっているのよ。・・・いつかエミリーも間違いに気がつくでしょうから」

人形の家で事件が起こり、エミリーは「これまでのプラガネット一家の暮ら

しがいいわ」と気がつきました。

マーチベーンは、彼女にとって居心地のよい博物館に贈られました。

ものがたりは、読みすすむと、それぞれの人形が、マーチベーンもふくめて

「ひと」と「もの」切っても切れない深いつながりが見えてきます。

関心のある方は岩少年少女文庫で読むことができます。

 

「人形の願いを感じたことがありますか」・・・・

わが身辺を見渡してみると、机上の棚には、木製のかたつむりやインデアン

の酋長が子どもたち太鼓を叩いている土の人形があります。

孫の晴空が旅のお土産で、爺と婆にとかってきてくれた真鍮製の時計と

蓄音機があります。

そのものたちが何を願ってそこにいるのだろうと想像すると、「それって、

どんなことおもったり、おしゃべりしているのだろう?」と楽しくなります。

東側の窓の棚には、妻がお気に入りの人形たちやおもちゃがあります。

木製のバイクは、子どもたちが触ったりしてガタがきています。

木製の機関車は2歳の孫がきゃっきゃっと遊びます。

耳の欠けた猫はインドネシアから渡来しました。ぼくのお気に入りです。

 

 

まどみちおさんの詩が思い出されました。

     

     「ものたちと」

  いつだってひとは ものたちといる

  あたりまえのかおで

  

  おなじあたりまえのかおで ものたちも

  そうしているのだと しんじて

 

  はだかでひとり ふろにいるときでさえ

  タオル クシ カガミ セッケンといる

 

  どころか そのふろばそのものが もので

  そのふろばをもつ すまいもむろん もの

  

  ものたちから みはなされることだけは

  ありえないのだ この世では

 

  たとえすべてのひとから みはなされた

  ひとがいても そのひとに

 

  こころやさしい ぬのきれが一まい

  よりそっていないとは しんじにくい

 

もしかして、じぶんが願いつづけていることって、じぶんがそう願って

いるんだと疑わなかったけれど、どうだろう、もしかしてぼくの身辺の

「もの」たちはもちろん、地球が成り立ち、生きものを生かしている

すべての関連から願われていることがあり、それらのうちのいくつかを

受けとめて、それこそそれらによって、生かされいるんではないで

しょうか。

 

ときに、「これが見納めになるかも」とよぎるときがあります。

そんなとき、通りがかりの樹木や花に、関心がいくんですね。

道ですれ違う人にも、なにか近しい気持ちが湧いてきます。

これから、じぶんになにが出来るかわかりませんが、地球の上の暮す

すべての人たちの願いをわがこととして、受け取りながら、暮していき

たいです。

まだまだ、いろいろな誘惑に負けて、気がついたら外れていたなんてこと

あるかも。そんなときは、声かけてほしいです。

 

手紙をくれた友人に感謝したいです。

 


「またね」

2017-06-15 16:32:43 | わがうちなるつれづれの記

箕輪ルシオ省吾と奈々子夫妻は、3ヶ月、鈴鹿に滞在していました。

6月13日、ブラジルに向けて出発しました。

前日の昼、わが家を訪ねてくれました。

そうめんを啜り、天ぷらを食べました。「おいしい」と何度も言って

いました。

省吾さんは、サイエンズスクールのコースに3ヶ月の間に5コースほど

参加したそうです。

「社会を知るためのコース」がこころにずっしり残ったということでした。

「これまで自分の生き方ということでは、探究してきたけど、自分と

社会、人と社会というものの本来の姿が自分の中で明らかになったかな」

「ああ、そうかあ」

省吾さんのなかで、どんなことがあったのか。

スクールの感想文では、こんなこと書いていました。

「実際の世界は、”何もしなくてもよい" これがベース。

ここから生まれてくるのは、本心。

そこから見た社会があるんだ。

本当に人の心が満たされる社会。

仕組みや機関は、その結果で出てくるもの。

力が抜けた」

何が起きているのか?

 

別れ際、ちょっぴり照れながら、二人とハグしました。

「じゃあ、またね」

挨拶して別れたあと、「またね」と言っても、もう会うことはないかも

しれないかな、と湧いてきました。

それは、実感として迫ってきました。

「またね」が、一期一会の深みを覗かせてくれたのかな・・・。

 

奈々子さんには、息子の結婚祝いに、詩人吉野弘さんの「祝婚歌」を

毛筆で書いてもらいました。

「私なんか、出来るかな」

と、ちょっと尻込みしていました。

もう、20年以上前になりますが、ブラジルにいる奈々子さんの気持ちを

思いながら、茨木のり子さんの詩を何篇か送ったことがあります。

奈々子さんから、「実は、お母さんが茨木のり子詩が好きで、聞かせて

もらっていたんですよ」という返事がきました。

「自分の感受性くらい」という詩が特に好きだったようです。

たしか、その返事の中にあったと思いますが、「言いたくない言葉」

という作品を毛筆に書いて送ってくれました。

自分では、何が出来るわけではないのですが、奈々子さんの気持ちに

思いを馳せた覚えがあります。

その毛筆の詩を、額に入れて部屋の、目立たないけど見えるところ

に掛けてきました。

 

息子の結婚祝いに、何かと費用がかかるだろうから、祝い金を贈りたい

と息子に伝えました。

「父さん、お金はいいよ。それは、おやじのために使ってくれ」と息子

から返事がありました。

「うーん・・・」

それから、考えて、「祝婚歌」の詩を奈々子さんに書いてほしい、と

思うようになりました。

帰国前日、完成したもの、届けてくれました。

 

奈々子さんには、日本にお兄さんがいます。

両親を亡くして、親族ではお兄さん一人です。

お兄さんは、市井で活動している芸術家に発表の場を広くつくって

いきたいと、それができる会場を三重県庁の近くに借りています。

VOLVOXという名前で、おにいさんが主宰しています。

 

お兄さんは自身、木工家具をつくっています。

最近、VOLVOXで水彩画展があるというので、病院の帰りに

よりました。

絵もよかったですが、額縁にも目がいきました。

清楚で、水彩画とマッチしているように感じました。

奈々子さんが書いてくれた詩には、お兄さんの額縁がマッチするのでは。

お兄さんに連絡したら、妹とコラボでやれるなら、是非と引き受けて

くれました。

お兄さんは、手を傷めて、回復には1ヶ月ほどかかると言うことでした。

さっそく、「了解です」と返事しました。

 

ときに、いまの心不全が悪化するとか、心室の不整脈が出たら、もう先は

長くないのではと、よぎるときがあります。

先がある、ということから、「今、ここ」で願いが叶うような暮し方、

あるのかなあ、と探っています。