かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

牛丸仁先生を偲ぶ

2012-02-27 06:04:14 | アズワンコミュニテイ暮らし
 2月19日に牛丸先生を偲ぶ会があった。
 その会で、牛丸先生が亡くなる前に、次の講座のために
書いたメモを公開してくれた。
 先生は、12月の講座のあと、つぎは宮沢賢治「黄色い
トマト」を取り上げるつもりだった。


「黄色いトマト」
 ある朝早く、小さい私は、町の博物館に出かけた。
 剥製の”蜂雀”が「ペムペルという子とその妹ネリ」の
話をしてくれた。

 「・・二人ともほんとうにかあいらしい子だったのに、
かわいそうなことをした」
 
 

 ペムペルとネリ兄弟はトマトをつくっていた。
 あるとき、黄色なトマトができた。
 「にいさま、あのトマトどうしてあんなに光るんでしょうね」
 「黄金(きん)だよ。黄金だからあんなに光るんだ」

 ある日の夕方、遠く遠くのほうから奇体な音が聞こえてきた。
 行ってみるとみると、それはサーカス小屋だった。
 サーカスの入り口でみていると、大人は黄金を出して中に入って
いる。
 ペムペルはネリにいう。
「ネリ、お前はここで待っておいで。僕一寸うちまで行ってくる
からね」

 戻ってきたペムペルは、木戸口で二つのトマトをだしたんだ。
 番人はしばらくそれを見つめていた。
 それから俄かに顔が歪んでどなりだした。
「何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、
この大人の中へおまえたちを押し込んでやってたまるか。
失せやがれ、畜生」

 ペムペルはすばやくネリをさらうように抱いて、そこを
逃げ出した。
 みんなの笑い声が波のように聞こえた。

 これが蜂雀のお話。

「牛丸先生のノートから」
 二人だけの幸福の象徴、黄色のトマトが他の世界では
通用しない。そのために味わった、とりもどしのきかない
かなしみ。

 子どもの考えることが大人に通じないことがある。
 そのときの大人の対応によって、深く傷つくことがある。
 それがずっとひきずられて生きていくことがある。
 恐ろしいことである。

「感想」
 黄金が現実で、黄色いトマトはフィクションにすぎない
のだろうか。
 黄色いトマトは、子どもの間だけ、通用するものなのか
どうか。
 人間を人間たらしめるもの。
 牛丸先生から、いまの時代、詩を書いてほしいと遺言されて
いるように受け取っている。

雨夜のひとりごと

2012-02-24 08:42:10 | わがうちなるつれづれの記
 雨音が部屋まで聞こえていた。
 吐き気と下痢で眠れない夜を過ごした。
 トイレに行ったすぐあとは、小康状態になる。

 本を読んだ。
 「尋問調書・補遺」P・キュルテン 池内紀・訳

 はじめキュルテンという作家が書いたものかとおもった。
 読むと、キュルテンは八人の殺人を犯している。
 第一次と二次の大戦間で生きたドイツの人。

 この文書はキュルテンが予審判事や精神科医との談話の
あいだに語ったもの。

「単に悪への喜びから犯罪を犯すものはいない。
 つねに何かがこれに加わる。その何かは当人の咎ではない」

「・・そのより高い存在は、私の行為をよしとして認めて
くれるのではあるまいか。私は不正に報復したのだから」

「私は性的欲求から結婚したのではない。
 妻の人格、性格が好きだったからだ。
 妻も私を愛してくれた。私が仕事にあけくれるのを
願わなかった。そんなにもやさしかった。
 だからわたしは妻を敬っていた。こよなく愛していた」

「自分で自分の犯罪を考えるとして、とくに子供を殺した
ことにおいて、われとわが身に死刑を要求したいほど
自己嫌悪を覚える。だからこそ醒めずにはいないのだ。
 もっとも、死刑それ自体になると、学者同士が論争して
いるではないか。
 つまりは、こういうことか。
「何のために首をはねる。
 わめいている連中を納得させるためだけのことだろう」」

「首を落とされると困ることがある一つだけある。
 首なしでは本が読めない」

 キュルテンは市井の女の人をわけももなく殺めている。
 「それは、ひどい」
 一瞬、考えるというより、いい感じでないものが出てくる。
 そのあとでは、「なんでそんなことがやれたのか」とか、
考える。
 その前、一瞬おきたものは、どんなものだろう?

 とっさに起きた反応のなかに、これまでじぶんといまの
じぶんが凝縮している。

 「なんでそんなことを・・」にも二つある。
 ひとつは、「なんてひどいことを・・」
 もうひとつは「ほんとうに、どんなことが起きたのか?」

 自分は「人を殺すなんて、とうていかんがえられない」と
おもっている。
 じゃあ、この先もそうか?と問えば、「そうだ」と言ったあとで、
「ほんとうにそうか?」という声が聞こえてきそう。

 人が人をさばくことができるのか?
 裁けるという根拠はどこにあるのだろう?
 その根拠というのが、「じぶんがそうおもっている」という
範囲のものなら、「ひどいことをした人」に関心がむくだろうか? 

 
 

一日中寝ていた日

2012-02-24 07:59:23 | アズワンコミュニテイ暮らし
 きのうは、一日中炬燵でウトウトしていた。
 前の晩から、吐き気と下痢でほとんど眠れなかった。

 きのうの朝、胃のなかのものが出て、すこし楽になった。
 下痢もおさまりかけている。
 前の晩に食べたもの、湯豆腐と鶏皮。デザートに孫の風友(ふゆ)が
つくったテイラミスというお菓子。
 なにか、菌が入ったのか。
 
 妻はいまサイエンズスクールのセミナー参加中。
 一人暮らし。

 昼ごろ、お弁当屋の三由紀さんから、お肉が入荷したと
電話がある。
「明朝使うんだけど、やれるかな?」
「うーん、やれるかなー」
いまの状態を言ったら、
「そんなんだったら、ほかでやるわ」とあっさり。

 夕方、人と会う予定があった。
 いっしょに会うという美代子さんに「きょうは、やめとく」と電話。

 ウトウトしていたが気配を感じて目を覚ました。
 部屋は薄暗くなっていた。
 人影が寝ている視線の向こうにぼーっと見える。
 娘桃子だった。
 「どうした?」と娘に聞く。
 「美代子さんから聞いて・・大丈夫?」
 「ああ、もうだいぶいい」

 「なにか、食べたいものは?」と娘。
 「うーん、ラーメン、大根の煮たの、おかゆ・・」
 てきとうに口から出るままに・・
 実言うと、食べる意欲が出てきたいない感じ。
 食べることには、貪欲なやつなのに。

 夜は、残ったご飯で雑炊を作った。
 作っていると、孫の風友が一人用の土鍋を届けてくれた。
 大根の煮もの。「ママがつくったのよ」
 「やったー」とおもった。

 整体の先生から電話。雄一くんから聞いたという。
 「番茶に塩を入れて飲むといいいです。消毒になります」
 「いやあ、だいぶ楽になりましたけど、ありがとうございます」
と照れながらも、さっそく食後に塩入の番茶をいただく。

 雑炊に梅干しを入れて炊く。
 最近知って、人知れず「ああ、うまい!」とニンマリしている。
 お茶に塩なら、お茶に梅干しだって、悪くないのでは?

 これで回復の方向にいくのかどうか、
「やらなくてもよい」というより、「やれなくなった」一日を
ふりかえる。

 
 

瓜二つ

2012-02-20 07:14:16 | わがうちなるつれづれの記
 歩いて2分ぐらいのところに、ぼくと「瓜二つ」と言われた
男が暮らしている。
 船田武さん。
 背格好、歳、顔のつくり、表情、身振り、立ち居振る舞い、
しゃべり方、感じ方、照れるところなどなど。
 この世に「そんなやつ」がいて、たまたま出会ったふしぎ。

 彼とは30年前、同じところに暮らし、職場もいっしょだった。
 娘の幼年期。
 夕暮れ、すこし暗くなりかけていた。
 二人は話ながら、帰宅していた。娘は一歩遅れて、付いて
きていた。
 二人は、家の近くで左右に分かれた。
 娘は、船田さんのほうに付いてこうとした。
 「おい、おい、父さんはこっちだよ」

 つい、三日前まで、四日連続日常化レッスンでいっしょに
なった。
 船田さんは、絵を描く。岩田隆画伯にアートスクールで
船田さんならではの絵をものにしている。
 ブログに「電気機関車」の絵。
 孫に贈ったという。

 
 日常化レッスンで、「電関」の記憶を話した。
 おやじの実家のある中央線の踏切。
 飽かず眺めた電気機関車。
 おそらく、子どもの目線では、ゴトンゴトンと
走り去っていく車輪しか目にはいらなかったかも。
 
 

 聞きながら、なつかしい気持ち。
 連想癖が立ち上がる。
 
 

 我が家は東海道線の沿線。
 曹洞宗総持寺の門前に、開かずの踏切があった。
 そこは、鶴見操車場。
 蒸気機関車が何台も、前に行ったり、後ろにもどったり
していた

 100メートル近い陸橋があった。
 蒸気機関車がその下を通り過ぎるとき、陸橋は黒煙に
つつまれる。子どもたちは、そのなかに、喚声をあげて
飛び込む。

 ある日、蒸気機関車に乗りたくて、線路を飛び越えて
機関士さんに頼んだ。
 おもいかけず「いいよ」と。
 友だちと運転席に上ったときの場面。



 石炭が真っ赤に燃えていた。
 あとは、憶えていない。
 おもいだすたびに、一人でニンマリしていたんじゃないか。

 船田さんに刺激をうけた。
 無精に絵が描きたくなった。
 
 「こんな絵かいたよ」
 「おれだって、描いたよ」
 

 船田さんは、そんな気持ちはさらさらないとおもうけど、
瓜二つの一方は、どこまで兄貴と張り合っていくのだろう。

 

 

イノシシ三代記

2012-02-19 06:57:19 | わがうちなるつれづれの記
 久方ぶりにイノシシ生まれ三代男が顔を合わせた。
1947年生、1959年生、1971年生。
 1959年生は、昨年結婚して、猪突猛進に陰りがある。
 その彼から、「寄ろうぜ」と話があった。
 1971年生が日程をとりまとめた。
 
 

 2月18日夜。
 土曜日の夜を選ぶのが、こころにくい。




 食事会。
 中川萌くんから取り寄せた「骨付きももハム(ジャレ)」で
つくったポトフ。ソーセージ、パテと手製パン。
 1959年生がシャンパン・ブドウ酒持参。
 萌くんは、1959年生、1971年生の教え子。
 きょうのメニューにもってこいの食材。






 この他、旧知の笹俣さんから自然農法ジャガイモ。
 橋本知幸くんのトマト。
 人参、水菜、大根は鈴鹿ファーム産。
 「キャベツは大平達男さん・・」と紹介したら、
「もう終わってるわよ」と1947年生の伴侶がピシャリ。

 1959年生は、お酒の他にも大福餅やらいろいろ持ち込み。
 そうそう、それよりなにより、奥様同伴。

 1959年生が設計した茶室がけっこう、活用されている。
 「そうかあー」とちょっとうれしそう。

 「茶室の入り口、二つ。手前の頭から入っていく
穴のような入り口はいいけど、奥側の、立って入る障子戸は、
頭をぶつける人が多いよ」
 「あれが、京都の茶室の原型なんだ」
 「ぶつける人がいるたびに、設計した人が話題になるんだあ」
 「だいぶ考えたんだけど・・お茶というのは遊び心から
はじまっているだけどね・・」
 「遊びかあ。こういうのはどうだろーー茶室に入るとき
ヘルメットをかぶるというのは・・・」
 イノシシ生まれと、その伴侶たちが腹をかかえて笑った。

 底冷えのする長い夜。
 1971年生が、こだわりのコヒーを入れた。
 
 1971年のイノシシが休むと言って去る。
 1959年のイノシシも「さあ、そろそろ」と立ち上がる。
 ついこの間までは、飲んだあとは、我が家でのうのうと、
いつまでも寝ていたもんだけど・・
 
 1947年のイノシシも、お休みの時間がきた。10時過ぎ。