かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

名古屋からアズワンコミュニテイ探訪

2011-08-29 23:28:36 | アズワンコミュニテイ暮らし
 須賀亨さんの友人6人と子ども3人の一行が、アズワンコミュニテイを訪れた。
8月27日(土)、昼前から夕方まで、大人コース、子どものコースと分かれて、
半日を暮らした。


 大人の人たちは、昼前は、鈴鹿カルチャステーション(坂井)、アズワンカンパニー(野尻)、街のはたけ公園(中井)。
 お昼ごはんは、コミュニテイ食堂「中井宅」で、佳子さんの手料理をいただく。
 午後は、おふくろさん弁当(岸浪)、お肉と野菜の店(竹本)を回る。
 最後は、鈴鹿カルチャーステイションの茶室で、懇談会(坂井・敏美・美代子)
 場所を回ったと言うだけでなく、その人に出会っているように見えた。


 子どもたちは、中島くんが迎え入れてくれた。はじめ、「行きたくない」と言っていた女の子(小四)は
帰るときになったら、お母さんに「来週のてっらこやに来たい」と何度も言っていた。
 男の子二人は、鈴鹿カルチャーステーションの奥の子ども部屋で、ブロックを見つけ、大きな建物を
ブロックで積み上げていくことに没頭していた。
  
 懇談会では、活発に質問があった。
 「ここがこんな形になるまで、10年になるというけど、はじめた頃はどんなだったか?」
 「住まいは、一つのマンションに同居しているのか?」
 「さっき、ミーテイングの話があったけど、このコミュニテイを支えている基盤になるようなものは、
どんなことがあるか?」
 「コミュニテイというと、窮屈とか、プライバシーがないとかいうイメージが出てくるけど、
その辺ははどう考えていますか?」

 午後、男の子がブロック積みをしているところを、たまたま大人たちがのぞく場面があった。
 坂井さんが、そのときの感想をだしていた。
 男の子は、お母さんに「これは、ぼくがやっているんだからね。言われてやったいるんじゃないからね」
となんども念を押していた。
 「これって、その子にとって、とても大きなことだったんですかね」坂井。
 「ふだん、どんなことしてるのかしら・・」お母さん。

 参加者の職業などは、学校の教師、大学教師、栄養士、アロマテラピーサロン、カラーアドバイザーなど
多彩だったが、これから日本で人と人が仲良く暮らしていけるコミュニテイを作っていきたいという
ところでは、共通したものがあると感じた。
 「人と人が通じ合って、やっていくと言うのは、どういう条件をつくったいらいいのでしょう?」といった
質問もあった。
 「いろいろ見させてもらって、ゆるいなあというのを感じました。例えば、お店でも、そこの人の話を聞いていて、これからどうなっていくか、なにも決まっていないような・・」

 「アズワンコミュニテイ・マップ」や「普段着で探訪」のりーフィレットを持っていく人もあった。

 

 

 
 
 
 

子預かり

2011-08-25 11:42:16 | アズワンコミュニテイ暮らし
 国府(こう)の佐々木良司さんから、電話があった。
「あさってから、仕事で北海道へ行く。佳子も一緒に行く。ついては、ちょっと・・ああ、佳子に変わるわ」
 さて、なんのことだろう?
 
 「あのね、一週間開けている間、野菜の苗を見てほしいんだわ。水やりとか、様子みてほしいの」
と佳子さん。
 国府といったら、我が家から車で15分はかかる。
 「それなら、街のはたけ公園にハウスがあるから、持ってきてくれたら、見るよ」
 我ながら、軽い。

 電話があったあと、すぐ佳子さんは軽バンに苗を載せて、やってきた。
 白菜・ブロッコリー・カリフラワーは、もう双葉を出している。
 キャベツは、これからだ。
 佳子さんから、手入れのことを聞く。
 そんな難しいことはない。ポットの土を見ながら、2,3日おきに水をやってほしい。
 猛暑になったら、それなりに手を打ってくれたら・・

 だんだん、「えらいことを引き受けたぞ」と胸がドキドキ。
 佳子さんほどの気持ちで、それら苗たちに接することが、できるだろうか?

 ままよ、毎日、街のはたけ公園に出かけよう。まず、そこから・・

 中野豪さん、ベジコミはたけの横のハウスを片づけてくれた。
 鍬や道具がキチンと並んでいる。
その、向かいに佐々木佳子さんの子ども、苗を預かっております。
どうぞ、見守ってやってください。

”近親感”というコトバはあるのか?

2011-08-25 07:08:44 | サイエンズ研究所のある暮らし
「ヤマギシズム社会の実態」
 「解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
  「第一章 概要」
    「三 機構と人情社会に」

 この「機構と人情社会に」のなかの、次の一節がこれまで何回も読んできて、好きだった。
「・・無軌道では混乱し、事が運びませんから、真の人間向きの、間違いない機構・制度を確立します。
しかし、そうして立派な道路機構が出来ても、同じ道を行く人の間に、他の人を跳ねとばし、白眼で
見交す冷たい気分があれば、決して愉快な人生旅行は出来ません。また、道を尋ねられても、
自分は自分、ひとはひとと、他に関せずの個人主義も、実は社会が自分一人限りのものでなく、必ず
何かで他の人との関連があり、人間は相対的であって、吾一人行かんも程度の差こそあれ、帰結する
ところ、他との保ち合いで人生が有意義になります。
 本当に人間は一人になり切れるものでなく、そこに人の情が自ずと湧いてくるものです。
道連れ話し相手があると、遠路も忘れて愉快に過ごし、汽車や船で長旅すると、未知の人ともいつか
言葉を交し親しくなり、路傍で見かけただけの間柄でも、遠い他国で相逢うと、近親感を覚え語り合う
ようになり、純な子ども達が、特に早く馴染むのは自然の人の姿でしょう。
 世に鬼のように云われる冷血漢でも、家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙する
こともあります」

 ”他との保ち合いで人生が有意義になります”
 ”そこに人の情が自ずと湧いてくるものです”
 このように表現されている中身は、どんなことだろうと、これまでも考えてきた。

 サイエンズカレッジの検討会で、杉江さんが、「ここに、近親感って、書いてあるんだよね」と
ポツリと言った。
 たしかに「近親感」と書いてある。
 「あれ、ここ、じぶんは、どう読んできたかな。・・どうも親近感と読んできて、違和感が
起きなかった」
 だれかが、「以前、誤植だと言っていた人がいた」と。
 辞書には「近親感」というコトバは出てこない。

 山岸さんは、機構の大事さを何回も繰り返し、言っている。
 なんで、そこまで機構・制度の大事さを強調するのか。

 人間とはどういうものか?
 人と人で構成する社会は、人間とはどういうものかという見え方捉え方如何によって、
顕れてくる姿は、大きく変わるだろう。

 ”人の情が自ずから湧いてくる”
 これをじぶんのなかに見て行くと、そいういものの実在を感じることが出来る。
 我が子に対する気持ち、これも頭で考える以前に、じぶんのなかで湧いているものが
あるのを感じる。なにかで、妨げないかぎり。
 我が子でない人には、湧いてくるものを感じないか?
 どうなんだろう?
 なにかで、心を閉ざしていないかぎり、我が子に対する気持ちに近いもの、もしくはほとんど
同じものが、じぶんのなかにあるのを感じる。

 この辺を表現しようとしたら、「親近感」ではうまいこと、言い表せない。
 「近親感」の方が、聞きなれないけど、よりじぶんの気持ちのありように近い。

 そういう内実を心身ともに内に秘めている人間が、人間らしく、その人らしく、成長し、暮らす
には、個人の努力や精進だけではならないだろう。
 そういう人と人が、その内実が、他から妨げられることなく発露し、発揮し得る、そういう仲間が
欲しくなるだろう。
 でもそれだけなら、まだ足りないものを感じる。そういうことが、どの人も、そうしようとしたら、
容易に出来る機構や仕組みが不可欠になるのではないか。

 これまで時間をかけて作ってきた機構・制度を前提にして、その改善だけでなるだろうか?
 出発は、人間とはどういうものかの究明。
 その究明に応じて、そういう人間が、そういう人生が実現し得る社会,機構や仕組みの究明。
 そういう順序。

 機構・制度は大事。身体の健康や物の豊満も、人が人らしく生きていくのに欠かせない。
でも、それだけでは解決できないものがある。
 「しかも幸福条件には、心の豊かさが主要部分を占め、幸福なる人生を理想とする社会構成は、
人間愛の基調の上に組み立てねばならないのです」

 ”心の豊かさが主要部分を占め・・”
 ここ、じぶんや周囲の人について、どう見ているか?
 ここは、じぶんや、人ということで、もっとしらべていかないと見えてこないのでは・・

 「こういうことは、今までに云い尽くされていましょうが・・」
 そうだね、ほんとに、いままでも、どこでも、こういうことは言われてきたし、
じぶんでも思ってきた。

 ”人間愛”を、人がもともと心身ともに、健康正常になっていこうという作用を内在しているもの
というところに基盤をおくなら、そこをもとにして「幸福条件の凡てに、積極具現方式を採用したのです」
と山岸さんが言われていることがどんなことか、自分の目に見えてこないか、そこに焦点が当たってくる。

 これは、社会に問題があるから、それを解決しようというところからでは、見えてこないのでは。
戦争が起こる現状を前提にして、仲良くしよう、平和になろうとしても、なかなかならないもの。
 震災で、絆や、人と人のつながりや、暮らしの見直しが言われているけど、そこを考えている、
自分の出発しているところは、どこだろう。
 震災でも、原発事故でも、大いに関心がある。
 その関心の、わが身のなかの出所は?

 この辺の究明、いま自分の中で動き始めたのを感じる。


 

 
 


 

いやな感じ

2011-08-25 06:48:36 | サイエンズスクールのある暮らし
 久しぶりに日常化レッスンに参加した。
 船田さん、吉田順ちゃん、栗屋さんが、最近あった心の動き、とつとつと
心の内を確かめるようにだしているのを、ただただ聞いていた。
 そのうち、じぶんのなかに、昨夜のことが浮かんできた。
 「大平さん、なにを考えてるのか?」
  聴きたいのではない。文句を言っている。いやあな感じがあった。
 そこに、焦点が当たりはじめた。
 レッスンの後半、じぶんの実例として、そのことを出した。
 船田さんが、「そういうことって、あるんだよなあ」とか言って、笑った。
 いまになってみると、船田さんが何を言ったのか、あまりはっきり受け取っていない。
 でも、笑ってもらったことで、気持ちがゆるんだ。なにか、持っていたのかもしれない。
大平さんといっしょに進めたい事柄については、そのときそのとき、考えていけばいい。
それ以前の、”いやな感じ”が出てくる元。
健康正常になっていきたいという、じぶんのなかの作用が、なにかを叫んでいるのかも。
 そこ、みんなのなかで、見る時間が持てた。
 

降り籠る、蓼科・安曇野ふたり旅

2011-08-24 06:29:53 | わがうちなるつれづれの記
<一日目>
 
蓼科高原は、しっとりとした森の木陰、空には雲が浮かび、山々が天にそびえ、
眼下の眺望は遠く広がっているはずだった。
 朝、鈴鹿を出て、中津川ICで高速道路を下りて、中山道に入る。その頃から雨が降り始める。
8月19日、金曜日。
 
途中、”寝覚の床”に寄る。木曽川の名所。
崖下の川床に降りた。石が重なっていて、すべりやすく、思わず小浪に手を差し出した。、
 その間、雨が止んでいた。


 中山道は、土砂降りの雨。ワイパーも役に立たないほど。
 途中、 牛丸仁先生の生地、上松町の街並みも通り抜けた。

 諏訪湖畔に”山下清放浪美術館”がある。
 今回の旅を思いたったキッカケは、ここを訪れたいことだった。

 雨は、上がっていた。

 夕方、阪口いつ子さんがやっているペンション「ひこう船」に向かう。
茅野市からビーナスラインをのぼって、蓼科高原ピラタスの丘に行く。
 そこから、さらに山奥に分け入る。森のなかに、ぽっかり白亜の木造「ひこう船」が
浮かんでいた。パラリと雨が降り始め、夜には降り籠められていると感じるほどの雨に。雨音も
旅の心にしみてくる。
 

 お泊まりの人は、家族大人三人と子ども二人、オートバイで大阪からきた男の人一人。
夕食のとき、山岸富美子さんが小渕沢から手伝いに来ていた。


 片づけが終わった、いつ子さん、富美子さんと居間で雨夜の語らい。
 いつ子さんは、このペンションをはじめて五年目。その間、いろいろな人に
助けられてここまで来たとのこと。最近も知人が手伝いに来てくれたことなど、聞かせくれた。
 富美子さんも、小淵沢の暮らしや、周囲にいる知人の消息を、彼女らしい語り口で聞かせてくれた。
彼女は、保養施設のマッサージ師をやっている。野菜も作っている。なにより、山登りが大好き。
いつ子さんと、しばしば山へ出かけて行くらしい。
 夜更けまで、四人のひととき。


 
<二日目>

 翌朝、白樺の森に雨が降りかかるのを窓際から眺めながら、朝食。

 
ペンション周辺の山を散策するつもりだったが、変更。
 
茅野市にある”尖石縄文考古学館”へ行く。
 
 
午後は、岡谷市にある”イルフ童画館”。武井武雄という絵本作家の展示館。武井は、岡谷市の出身。


 「イルフってどんな意味?」と案内の人に聞いたら、「フルイを逆に読んだもので、
つまり新しいということになるんです。武井さんの命名です」
 なるほど!
 この童話館の裏に、人影がない飲食店街がひっそり取り残されたように佇んでいた。
これそのものが、”童画”になるかも。


 その日、一日雨だった。
 夜は「ひこう船」で、雨音を聞きながら、読書。ペンションの本棚から。
 菅谷昭(すがのや)「チェルノブイリ診療記」泣けてきたり、笑ったり。
 小浪はテレビ。女子バレーボール、韓国戦。

<三日目>
 
  翌朝、8月21日、雨は止んでいた。どんより、雲に覆われている。森はしっとり濡れている。
「きょうは、松本市長菅谷昭さんを表敬訪問しようぜ」とぼく。
「ええ、ほんとに行くの。きょうは、日曜日よ」と小浪。
 
 ビーナスラインを通って、霧ヶ峰”コロボックル・ヒュッテ”に向かう。
 深い霧に包まれていた。車の前方が見えない。


 霧のなかで、ヒュッテで一服。
 坂井和貴さんの父上の同級生、手塚宗求さんが長年暮らしているヒュッテ。
 霧ヶ峰の自然を謳った詩をいくつも書いている。CDも出している。
 その日、手塚さんは不在でした。



 キスゲの花が 咲けば夏だと
 いつも私は 手紙を書いた
 咲きいそぐ 一夜花
 過ぎゆく 束の間の夏    (CD「キスゲに寄す」から。作詞 手塚宗求作曲 さとう宗幸)

 車中、心に響くさとう宗幸さんの歌を聴く。
 再訪すること、ありやなしや?

 
 高原散策をあきらめて、街へ下りる。街からみる山並みは厚い雲に覆われていた。
 松本市大字和田に窪田空穂記念館を訪ねる。空穂の生家と向き合っている。
 松本が生んだ歌人。昭和42年、90歳で亡くなる。



 館内で見つけた歌。晩年の作品。
 
   かりそめの感と思はず今日を在る我が命の頂点なるを(「去年の雪」)


 夕方、和田からさほど遠くない安曇野市三郷村にある「地球宿」に着く。
 増田望三郎・悦子夫妻が、10年前からはじめている宿だ。
 古民家を改造した家は、人と人が出会う場として、どこかしら親しみが湧く
気風が漂っているようだ。

 東京から一家族(子ども3人)、兵庫県宝塚市から一家族(子ども2人)、
男の人が一人、夕食を共にした。





 この夏、かなり満室がつづいた。
 この日は、ピークを越えた時らしい。

 夕食は、望ちゃんが作っている野菜や近所からのいただきもので。
 その時、あるもので。野菜の料理、各種。ニンジンや茗荷のてんぷら、好評。
 子どもたちも、大人に混じって「おいしい」とか言って、食べていた。

 雨が降りはじめた。9時ごろ、近所にいる津村孝夫くん、松村暁生くんが「地球宿」に
顔を出した。
 酒ではなく、冷茶を酌み交わしながら、昔をしのび、今の心境、大いに語った。
40歳の男三人が、熱く語る話しに小浪は、めずらしくジッと耳を傾けていた。
 しみじみとした夜だった。
 深夜、雨が激しく古民家の屋根を叩いた。


<四日目>
 信州から帰る日の朝。
 
 松村暁生・輝美夫妻がやっている”おぐらやま農場”を訪問。
 輝美さんが、桃の出荷仕事をしていた。

 「まあ、よく来てくれたあ」と全面、笑顔で迎えてくれた。
 暁生くんの母上、芙佐子さんにも、会うことが出来た。
「まだ、死なないの?」と言い交しながら、来し方、今を通じ合おうとしてたかなあ。


 津村孝夫宅に寄る。奥さんは、出かけていた。
 オーストリアから農業研修生ヨハネスくんが、台所で麦をフライパンで炒っていた。
麦茶を作っている。
 仙台からきている若い女性が、泊まっていた。「居候してる」と孝夫くん。

 孝夫くん、軽四トラック一台からはじまって、アイガモ農法で米づくり、地域の人との助け合い、
それまでの10年の道のりを語る。「日本で、食えないことはない」何回も、独白した。実感だろう。



 帰路、松本ICから、高速道路を鈴鹿に向かう。
 小浪に運転を変わってもらう。
 寒いほどだった、信州を離れれば離れるほど、むっとした空気になっていく。
 雨に閉じ籠められていたほうが、いいかなあ。
 
 たくさんの人に出会った。たくさんの人の消息を聞いた。
 小浪とふたり、「雨の蓼科も、それなり味わったかなあ」と、慰め合う気分。