かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

億の巨匠

2016-05-29 07:19:49 | アズワンコミュニテイ暮らし

入れ歯が折れたので、かかりつけの歯科に出かけた。

ここの歯科医とは、同じ歳で、20年あまりの付き合い。

彼は、治療中でも話かけてくるときがある。

「テレビ、見る?どんなテレビ見る」歯科医は聞いてきた。

「ニュースや新婚さんいらっしゃい、とか、吉本新喜劇なんか

みてるかな」

「宮本武蔵の”五輪の書”のテレビみた?」

そういえば、チャンネルをあちこちしてるとき、その映像をすこし

見たこと思い出した。

そのあと、いろいろ聞かれた。

「しっかり噛んでて」と聞いて、しっかりかんでいるのに、応えよう

ようがない。

助手の奥さんが「応えようがないじゃない」と笑っている。

バイクをやっていてよかった、と聞いた。

「一つのことに専心している人にとても魅かれる。いのち賭けって

あるじゃん」

「あー、あー」と首を振ったりするだけである。

 

昨夜、サイエンズ研究所の金曜ゼミナールに参加した。

研究所が出している「サイエンズ入門」を輪読しながら、これって

どういうことだろね、とみんなで探っている。

はっとすることがあった。

ある一節。

「自分が聞いたこと」は、「相手が言ったこと」と捉えている人は

「自分が甘いと感じたリンゴ」は、「甘いリンゴだ」と捉えている人

と同様でしょう」

一人でこの文章を読んでいたら、「そうだよな」とか思いながら、

通りすぎていたかも。

その場で、人がしゃべっているとき、どう捉えているか、そのとき、

わが身を振り返ってみた。たぶん、そうしたんだろうとおもう。

「まて、まて、どうも先ずはじめは、”○○さんがしゃべっている”と

捉えている。”自分が聞いているなんて、捉えていないぞ・・・・」

その場で、自分が人の話を聞いている様子を、なんといえばいいか

観察する、見る、よく分からないが、見てみると、どうも、相手の人から

発している振動を、じぶんがそのまま聞いているという感じじゃないな。

「○○さんが言っていることを、聞いている」

 

実際は、そんなとき、どんなことをしているのか。

「○○さんが言っていることを聞いている」のか

「○○さんから何か発していることをきいているのか」

実際していることは?と自問すれば、後者になるな。

何か、面白いことに気づいたぞ、と思った。

 

「相手が言っていることを聞いている」というときは、相手を

見たり、聞いている瞬間に自分の捉えたことが実際だと

しているところからはじめているのじゃないか。

テキストでは、「捉えたこと」と「実際」は別、無関係とくどいほど

書いてある。

「そうだ、そうだ」と何回読んでも、納得していた。

思わぬところに、落とし穴、ってな感じかな。

 

これからは、妄想の世界。

宮沢賢治の詩稿の余白に、メモがあったという。

 <ああたれか来てわたくしに云え、

  「億の巨匠が並んでうまれ、

   しかも互いに相犯さない、

   明るい世界はかならず来る」と>

この一節を解説している見田宗介さんの書いたものを読むと、

「賢治がここで嫉妬と「慢」の問題をみていることはあきらかで

ある」と記している。

文脈のなかで、どんなことだろう?と何回も読み、分からなさを

が尾を引いている。

でも、何だか、明るい世界って、どんなんだかはっきり言えない

けど、「必ず来る」ともいえそうな。

そのカギ。出発となるもの。

「自分の捉えてものを、実際にしてしまう」この思い違い。

ここが、府に落ちたら、競い合いや争い、戦争も、自分たちは

何をしてるんだろうって、なっていかないだろうか。

 

懇意にしている歯科医からは、宮本武蔵は「空」を極めていた

と聞こえてきた。

それにしても、彼とはいつかゆっくり、話したいと思った。

 

 

 

 

 

 


ふしぎだなあ・・・

2016-05-24 11:37:43 | わがうちなるつれづれの記

新緑が光っている。日陰にいて、風を感じると、すっかり気持ちいい。

日向に出ると暑い。かんかんと頭にひびくみたい。

一枚一枚脱ぎながら、いつのまに衣更えしている。

感覚としては、これまでより1週間から10日早く、衣更えになっている。

「うーん、何かが変化しているのだろうか?」

 

冬を越してきた老体にこの季節は、ちょっぴり極楽。

でも、なんだかモヤモヤしたものがある。

アメリカのオバマ大統領がヒロシマを訪問して、核廃絶の気持ちを

表わすという。

来日前のオバマさんが、「核廃絶に向けての障害は北朝鮮の核開発だ」と

聞いて、びっくりした。

「オバマさん、核廃絶の障害は核兵器をいっぱい持っているアメリカが

それを手放さないことじゃないんですか?」

ここが、分からない。ふしぎだなあ!

 

沖縄で元海兵隊兵士で軍属の男が20歳の女性を暴行殺害した。

両親・近親・縁者そしてそういうことがおこりうる環境で暮らす

沖縄の人たちの痛み、悲しみはいかばかりだろう。

沖縄の人たちの間で、辺野古の新基地はやめてほしいを越え、

沖縄にある米軍基地すべて出て行ってほしいという気持ちが

高まりつつあると感じる。

日本政府は、国の決めたことだから、従えと言わんばかり。

アメリカは、日本政府がいてほしいというので、居るだけだと

開き直っているように見える。

 

沖縄の人たちが米軍基地を出て行ってほしいというときはどう

するんだろう?

ふつうなら、日本国民の安全とか命とか、財産を守る目的で米軍に

居てもらいたいというなら、これは沖縄だけの話ではなく、日本本土、

すべての都府県が検討することではないだろうか?

なんで、そういう動きがでてこないんだろう?ふしぎだなあ。

 

個人としては、よほど考えている。

戦後70年、沖縄戦では地上戦で20万人の住民が犠牲になり、

戦後はアメリカの占領地になり、1972年本土復帰時には、本土に

ある米軍基地が沖縄に移転した。

もう、十分に尽くしてきてもらったのではないか。

こんどは、本土で暮らすぼくらが、沖縄のすべての米軍基地を引き受け

るときじゃないのかな。

引き受けるだけじゃなく、その後の経済的な応援もしていきたい。

沖縄には、武力を持たないで、近隣の大国と平和的にお付き合い

が出来てきたという過去の記憶がある。

日本国憲法の願いそのままに、武力を持たない戦争放棄を実際に

試みてほしい。



米軍基地の本土移転については、わが町で引き受けるとすれば、

どうするか、一生懸命考えたい。

 

その上で、何で米軍基地が日本にいるかを考えたい。

敵が攻めてくるという。

今なら、中国と北朝鮮を敵としている。

子どものケンカで、「何で叩いたの?」と問うと、子どもは「だって、

○○ちゃんが叩いてきたんだもん」とか言って、自分を守ろうと

するよね。

これと、どこがちがうんだろう?

「叩いてきたら、叩き返せ」という人もいるだろう。

いまは、そんな考えが大勢なのかなあ。

「攻めてくる」とか「敵」というのは、どこにあるんだろう?

何に恐れ慄いているんだろう?

 

外交と制裁、その背後に武力。

こんなことで、何が解決するんだろうか?

こういうことを続けられる人たちがいることがふしぎ。

 

人類がはじまってから、国境というようなものあっただろうか?

たまたま、そのとき、誰かが思いついて、そんなことはじめただけじゃ

ないのかな。

 

学者さんが、軍事目的のための研究をやったていいんじゃないの、とか

いいはじめているとか。

歯止めがきかなくなっているのかな。

 

 

 

 

 


『ぼくたちに翼があったころ』

2016-05-19 11:54:43 | アズワンコミュニテイ暮らし
もう初夏の風になっている。
 
『ぼくたちに翼があったころーーコルチャック先生と107人の子どもたち』
(タミ・シェム=トヴ作、樋口範子訳、岡本よしろう画)は、
 
この本の翻訳者の樋口範子さんらいただいた年賀状で紹介してもらった。


 

 
樋口範子さんは、厳寒期を除いて、山中湖畔で「森の喫茶室 あみん」を
 
オープンしている。
 
何度か行ったことがある。森のなかにテラスがあり、夏でも森閑とした
 
緑の佇まいに身を委ねることができた。
 
 
 


コルチャック先生という名前は、なんとなく知っていた。
 
ナチスの強制収容所で死んだという、まことに漠然としたものだった。
 
ナチスがドイツで台頭して、ユダヤ人を迫害から、絶滅へまで暴走
 
したという経過については、以前、『あのころはフリードリヒがいた』
 
(ハンス・ペーター・リヒター作 上田真而子訳)を、何回か読んでいた。
 
ナチスの暴走にユダヤ人が翻弄されて、ドイツの庶民も狂信していく

様子が子どもの目を通して表現されてある。

最後、フリードリヒが防空壕に入れず、空襲の中で息を引き取った

場面には、こみあげてくるものをおさえきれなかった。
 
 
 
 
ドイツ人の両親を持つ「私」とユダヤ人の両親をもつフリードリヒは
 
同じアパートで暮らす、仲の良い家族のつきあいをしていた。

 
 
1930年ころである。子どもたちはまだ小学生1,2年生か?
 
ユダヤ人に対する差別が現れてきて、はじめのころは差別を止める
 
ドイツ人もいたが、1938年ついにポグロムというユダヤ人に対して
 
ドイツの庶民の迫害にまで発展していった。
 
フリードリヒの家族も近隣の人たちによって、アパートの部屋を
 
破壊された。
 
フリードリヒの母は。それがもとで病死し、フリードリヒの父もナチスに
 
逮捕され、残ったフリードリヒも連合軍のベルリン空襲の最中、
 
ユダヤじんだというので、防空壕にいれてもらえず、帰らぬ人に

なっていった。


 
悲しいし、暗いし、痛々しい10年余の少年たちや、仲の良い家族の
 
物語だった。
 
 
 
 
『ぼくたちに翼があったころ』は、1934年から1939年、ポーランドを
 
舞台にした物語だ。
 
とても、深い余韻があります。

ナチスが台頭して、ユダヤ人にたいする迫害が強まっている時期、

コルチャック先生と107人の子どもがユダヤ人の「孤児たちの家」で

日々、自他のなかで起きてくる難問に迷いながらも、逡巡しながらも、
 
鳥が翼を広げて、空を飛べる自由を目指してくらしている、そういう
 
実際があったのではないか。そんな感想が湧いてきました。



ナチスのやったことは、暗くて、とても尋常なことではないかもしれな

いけど、そのなかで、こういう世界があったのか。

それも、個人の心のなかのことというだけでなく、「孤児たちの家」には

社会の仕組みもあり、その運営も一人ひとりを尊重するという気風を
 
つくっていこうとしている。

コルチャック先生の研究をしているわけではありませんが、

作者タミ・シェム=トヴさんの捉えたコルチャック先生からは、

日々、子どもたちに接しながら、とても普遍的なもの、だれもが願って
 
いるものを子どもたちに知ってほしいと、そこにかけていたように
 
感じました。
 
 
 
作者のタミ・シェム=トヴさんによれば、物語の主人公ヤネク・ヴォルフは、
 
創作だそうです。
 
舞台となったヤヌッシュ・コルチャク先生設立の「孤児たちの家」は、
 
ポーランドのワルシャワで約30年間実際に運営されていた
 
児童擁護施設でした。
 
 
コルチャック先生と子どもたちでつくってきた世界については、タミさんが
 
描いた物語を読んでいただくほかありません。
 
ヤヌクは、両親を失い、姉に見守られながら育ってきたが、孤児院
 
「かけこみ所」の仲間から、足を蹴られて、普通に歩けなくなった。
 
”盗人”のレッテルを貼られて、失意のとき、姉から「孤児たちの家」を
 
紹介されて、コルチャック先生に会い、だんだん自分を取り戻していく。
 
 
印象に残る場面の連続ですが、そのなかのいくつか、書いて記憶に
 
のこしたおきたい。
 
ーードクトルは、一足の靴の片方を手に取ると、すぐまた元の場所に
 
  もどし、別の靴の片方を取って、ながめていた。(中略)
 
  ぼくはきいた。「ぼくがピカピカにみがいたかっどうかを書いている
 
  のですか?」
 
  「ああ、すまん。ピカピカかどうかは、みていない」ドクトルはびっくり
  
  いたように、答えた。「靴が、子どもたちの足に合っているかどうか、
 
  それを調べている。この靴はもう小さ過ぎるんじゃないか、とか、
 
  すりきれてていないかとか。・・・」
 
 
 
ーー・・・ひとりを診察して何かを書き込んで、また次の子を診察した。
 
  そして、全員の爪を切ってくれた。小さなハサミで、ぼくの親指の
  
  爪をきっているとき、ドクトルは言った。
 
  「わたしが君のことわかってきたきたように、君も、なぜわたしが
 
  爪を切っているのか、わかるね?」(中略)
 
  「爪を見て、その子どもが元気かどうか、調べているんですか?」
  
  はて、どうだろう?
 
  ドクトルの笑顔は、そのはげ上がった頭のほうまで広がった。
  
  つまり、あたったのだ。(中略)
 
  「爪の色や形、厚みで病気を発見できるかもしれないし、それに
 
  爪を噛んでいるかどうかでいらいらしている子や、そうでもない
 
  子がわかるとおもいます」ぼくは、自信をもっていった。
 
  ドクトルは、頭を上げた。「すばらしい、ヤネク、そのとおりだとも!

 
 
ーードクトルは、ぼくをするどく見すえて、激しい口調で言った。
  
  「盗みぐせは、絶対に遺伝することはない」
 
  「たしかですか?」
 
  「わたしは医者だ。こういう問題はくわしい。子が親から受け継ぐ
 
  ものは、外見においても内面でも、かなりある。しかし、盗みを
 
  受け継ぐことはできない。盗みが血の中に流れていることはない。
 
  君が盗人になるのは、君がそうなろうと決めるからだ。君には
 
  選ぶ自由がある」
 
  選ぶ自由という言いかたに、こころ動かされた。そこからまぶたが
 
  だんだん重くなってきて、いつのまにか、ゆっくり閉じていく。
 
  「そのことを考えるんだね。君は空を飛ぶスズメのように、自由な
 
  人間だ」

 
 
 
その後、ヤヌクはコルチャック先生が懇意にしている弁護士事務所に
 
取材にいく。事務所で一人になったとき、カーボン紙を友だちに
 
もって行きたいと思った。
 
何十枚かを黙って抜いて、家までもって帰った。葛藤が起こっていた。
 
その時の場面。
 
ーーとつぜん、奇跡が舞いおりたみたいに、ぼくが<家>に着いて
 
すぐにドクトルが話してくれたことが、頭によみがえった。
 
「ここでは、だれも盗みません。盗みは引き合わないから・・・。何か
 
欲しかったり必要だったりするときは、願い出ればいいのです。
 
願いが通るときもあれば、通らないときもあるし、無理なときもあります」
 
ぼくは、あっという間に気持ちが楽になって、どうすればいいかが
 
わかった。
 
お願いすればいい。そう、簡単なこと、明らかにそのとおりだった。
 
ただ、願い出る習慣がなかった。お願いするなんて、まったく考えても
 
みなかった。何かほしいものがあれば、かっさらうか、それが自分の
 
ものでないことに腹をたてるかだった。
 
 
 
 
 
 ナチスの時代についての捉え方について、希望というか、新鮮な風が
 
入ってきた。
 
とはいえ、訳者の範子さんによれば、1939年9月、ドイツ軍がポーランド
 
に侵攻して、コルチャック先生と子どもたちは、すべてのユダヤ人たちとともに
 
ワルシャワ・ゲットーに強制移住された。
 
その後、1942年コルチャック先生は子どもたちとともに、トレブリンカ強制
 
収容所へと送られたということです。 


 



翻訳のことはよくわかりませんが、作品がそうなのか、範子さんの
 
訳がそうなのか、行間に漂う余韻があります。
 
範子さんの翻訳本を読んでいつも感じることです。
 
ユダヤ人といっても、今執拗にパレスチナを攻撃している人たち
 
ばかりではないだろなとイメージしています。
 
タミさんが描いた、ユダヤ社会というより、誰もが安心して、その人らしく、
 
豊かに暮らせる社会をイスラエルにも、パレスチナへも、中東各地にも、
 
アメリカにも、そして日本にも、じつげんしていきたいなあ。
 
いまの日本は一面で、狂人のようです。
 
ヘイトスピーチといって、「在日は出て行け」と叫んでいる人たちは
 
一部かもしれませんが、中国や北朝鮮へのイメージについては、
 
”敵”とか、”ひどい国””怖い国”というイメージに知らず染まっている
 
感じがします。
 
 
そんなこといつまでも続くはずないでしょうが、この物語はそういう
 
内面を明るみ出して、希望をもたらせてくれるんじゃないかな。
 
 
 
 
 
 
 
 

やっぱ井戸端会議かなあ?

2016-05-15 06:13:11 | アズワンコミュニテイ暮らし

夏になったような陽気でした。

”衣更え”というのが、思い浮かびました。

 

5月14日昼下がり、理想の暮らしを語る会公開講座

テーマ「自分らしく老う(老いと死)」

が、鈴鹿カルチャーステーションでありました。

 

この企画のお知らせは「広報すずか 5月5日号」に載りました。

「テーマが老いと死じゃ、あんまり人気ないかもなあ」とも

おもっていました。

ところが、続々と寄って来られて、椅子をふやしました。

30人ほどになりました。

 

話をしてくれた人は3人。

1、未来の里山プロジェクト   鈴木英二さん

2、アズワンコミュニテイ暮らし  今井亜子さん

3、西部地域包括支援センター  玉井功輔さん

それぞれ、20分、今、思っていること聞かせてもらいました。

 

鈴木英二さん、66歳。

のっけに、トースターで食パンを焼いたときの失敗談がありました。

パンを乗せていたお皿がないのです。あっと、気がついたら、お皿ごと

トースターに入れていたのでした。

「夜は悲惨なんです。おしっこで何回も起きるけど、腰痛などで、最近は

尿瓶を使っています」

在りし日はアルピニストとして活躍していました。

朝になると、夜が嘘のように、里山に行くと元気に動けます。

里山や炭窯をやりながら、カラダのことや、仲間とのやりとりなど

思い通りにならないこともあります。、最近は、そういうときは心の

状態がどうなっているか、見るようにしています。

乗り越えるというよりは、問題がなくなっていることがあります。

さだまさしに「空になる」という歌があります。好きです。

「いくつもの峠を越えて、いつか空になる」

 

今井亜子さん、61歳。

週に一度、京都に行って、お一人様暮らしの方のケアーをしています。

やってきて、お一人様暮らしになって、元気になるのは、女の人ですね。

男の人はダメです。だいたい、5年ほど経つと死にます。

「ええ?」と参加の反応。亜子さん「そうだったんです」

私も4年前、夫がガンで亡くなりました。山の好きな、元気な人でした。

ガンと分かってからも、生きるぞ、と頑張っていました。私にも弱音を

吐きませんでした。

いつからか、老いや死を自分から遠避けていたんでしょうね。

死を受け止めることが難しかった。

「今、エンデイングノートというものをつけています。いろいろなタイプの

ものがあります。財産をどう分けるか、細かく書けるようになっているもの

とか」

「親しい人と、見取りの家みたいなものつくりたいなあと話しています。

自宅でもなく、病院でもなく、家族のような人たちと暮らしながら、

死んでいきたいなあ、と」

 

 

玉井功輔さん、40歳。

「高齢者の方の相談援助をやってます」若々しい語り口。

「親の介護のため、職につけないでいる若いケアラー(介護者?)が

全国で17600人いると言われています」詳しい。

わが家族というので、玉井さんが65歳になったときの実際を

シュミレーションしてくれた。

娘は結婚して子どももいる。親父は80歳を越えて、要介護状態かも

しれない。

このとき家のローンはまだ残っている。

年金だけでは、暮らしていけないだろう。

こんなとき、妻か私が何かで倒れたら、目も当てられない。

「私はこの仕事していて、とっても楽しいです。子育てもたのしいです」

(そういうことが、こころゆくまでやれる条件を整えることができないかなあ)

言外に語っているのかなあと感じました。

生命科学者で難病と付き合っている柳澤桂子さんの言葉を紹介して

くれました。

「生きていることは残酷」「人には生きていきたいという気持ちがある」

「老いの苦しみを生き抜くこと」「救い、カラダは苦しくとも、心は苦しくない」

「苦しみを分かち合う、心が満たされる」「お互いが通じ合うことこそ」

 

3人の話が終わったのが、2時30分、ぴったし。

「わあ、すごい!」と中井さん。

この後、参加者と懇談。

「エンデイングノートをぼくも書いてみたいとおもった。それを、他の

人に聞いてもらうのおもしろい。他の人のも聞きたい。どんどん変わって

いってもいいんだし」

「聞いていて、暗い気持ち。64歳になって、家事や仕事からやっと離れて

スポーツやカルチャーセンターなど、通い始めています。健康でいたいです。

健康寿命を延ばしたい。人に迷惑かけたくないですからね」

「死ぬことをいま考えるというのは、今をどう生きるかということでもあるの

かなあ」

「エンデイングノートって、老化の予防や人の最後をどう全うするか、そこが

大事かな。倒れたとき、救急車を呼ぶか、延命措置をするか、主治医は

いるのか、地域で使っているところもありますね」

「南伊勢で平均80歳の年寄りの拠り場をやっています。ワイワイ、ガヤガヤ

とっても賑やかです。今日の会合で男の人が半分以上いるので、びっくり

しています。だいたい、こういう場に来るのは女の人が多いんですが。

老いを元気に過ごすには、とにかく寄ることが大きいです」

「さっき、苦しみを共有するっていってましたが、人と人がつながるって、

どんなことかなあ」

「いま、要介護1,2の人、5人のケアしています。家族とのつながりが

なく、ホントにお一人様なんです。死んだときは、オレが納骨するでな、

とか、病院から帰ってきたら、お帰りって声かけている、そんだけ

なんだけど、・・・一個人としてつながっているんかなあ?」

「もう、80に近いけど、いろんなところに顔だしている。スポーツジムで

水泳しているけど、心臓の病でカラダはあまり動かないけど、会うと

よくしゃべる人がいる。野球のことから、そのほか話題にことかかない。

持ち味だなあと思う。やっぱり、みんなの中に出て行くのが大きい」

「そうなんだよね。炭焼きやっている連中が10人ぐらいいるけど、

意見違っても、寄っているといろんな話になる。男の井戸端会議

みたい」

「玉井さんの話を聞いていて、この国では親の介護は自宅でする

という方向らしいけど、子どもが親の介護をするもの、という

社会常識がそのままだと、結局家族のところに社会の矛盾が

しわ寄せされていくんじゃないか」

「デンマークとかスエーデンでは、親の介護は社会で見るという

考え方がベースになって、社会福祉の仕組みができているとか」

「そこ、具体的なテーマもあるけど、人間をどう見るか、社会を

どう見るか、一つの大事なポイントかな」

「地域の老人が寄れるサロンをつくること、行政が進めていますね。

地域の自治会だったり、社会福祉協議会だったり」

「機能してるのかな」

「人と人がつながるっていうのは、どういうことを言うんだろう?」

「これから、包括支援センターでは、医療、介護、終末期医療など

総合的な地域の福祉システムの実際を住民のみなさんに知って

もらって、いっしょに考えていきたいと思っています。よろしく、

おねがいしますね」(これは、玉井さん)

 

最後に、中井さんから7月公開講座のお知らせがありました。



 

7月理想の暮らしを語る会

  公開講座のお知らせ

テーマ  “死んだ時、どうしてほしい?”

 

1、日時  7月9日(土)13:30~15:30

2、会場  鈴鹿カルチャーステエーション

3、参加費 500円

 

4、考えるヒントを提供してくれる人

  〇誰もが入れる墓所 “ニルヴァーナの森”をつくった

            宣隆寺住職 ゆはず唯正さん

〇海洋散骨海のおくり人を任じる 

                   柳川真一郎さん

5、公開講座の趣旨

死は誰にも訪れます。そんなこと分かりきったことみたいですが、

意外に「死」について語ることは避けてきたように思います。

なんとなく、どこかで「死はダメなもの」と捉えていたようです。

「死んだらどうなるんだろう?」という不安もあります。

「死にたくない!」と心の奥から聞こえてくる声もあります。

「どんな死に方したいとおもっているのだろうか?」とか、

「死んだらどうしてほしいとおもっている?」とか。

そんなこと、他人に言うことと違う、となっていませんか。

自分が、老いや死について、どんなことを思い、何を願っているか、

各々のなかでも、少し立ち止まって振り返ってみたいし、みんなで楽しく

語り合えたらいいなあと思います。今をよく生きるために。

そんな願いで開催します。

 

     <理想の暮らしを語る会がめざすもの>

  「ほんとうはこんな暮らしがしたいよな」とか、

  「こんな社会だったらいいよな」とか、静かに自分のなかの

  気持ちや願いに耳を傾けたら、誰もが、言葉にできる、できない

  は別にして、語りたいことがいっぱいあるのではないでしょうか?

  人はそれぞれ、その時代を自分なりの人生を歩んできました。

  語る会では、お互いを尊重し、理解しながら、なんでも話せるし、

  話したくないときは話さなくてもいい、そこにいるだけでいい、

  そんな時間をともに味わいたいと願っています。

  今を生きることが、面白いなあ、豊かだなあと、ふと湧いてくる

  ような、また寄りたいなあとなるような会にしていきたいです

 

 

 

 

 

 

 

街歩き白子(下)

2016-05-13 09:10:11 | 鈴鹿川流域の暮らし

   3、誓子句碑巡り

 

とくに俳句に関心があるわけでもなかった。

2000年ごろ、伊勢神宮前のおかげ横丁をぶらぶらしていたら、

誓子という看板が目に入った。何か展示館のようだ。

「これ、何だろう?」

好奇心で入ってみると、山口誓子という人の俳句が展示されていた。

よく分からなかったけど、句を読んでみて、何か印象に残る

ものがあった。

自註つきの「山口誓子集」という本まで買っていた。

 

三重県のあちこちに誓子の句碑があると聞いて、句碑を探しにいくことに

熱中したことがある。

 山口誓子は肋膜炎の療養の為に昭和16年から28年迄の12年間、

三重県の四日市市富田、天ヶ須賀海岸、そして鈴鹿市白子の鼓ヶ浦に

居住していた。

 

何年か前も、鈴鹿の白子海岸に誓子の旧居があると知って、見に行った。

堤防沿いの道を何度も行ったり来たりした。

家があると思い込んでいた。何回目かに、堤防の下、浜辺に

「誓子旧居跡」という立て札を見つけた。

今どき、浜辺の堤防の中に家が建っているなんて、ありえないよな、

と思った。

 

 

その日は、まっすぐ白子の海水浴場の入り口前にある舞子館に

行った。

ここに、誓子の句碑がある。



 一湾の潮しずもるきりぎりす         昭和24年  

  <誓子自註>伊勢湾の全体の潮がしずまりかえっていた。

  その海のほとりのくさむらに、きりぎりすが鳴いていた。

  大きな潮のしずまり、その近くでなくきりぎりすのかすかな声。

 

伊勢湾の海。その広さ、深さ、奥深さ。

身近には、きりぎりすが鳴く声がかすかに聞こえている。

誓子は戦時もここに暮らしていた。敗戦のあと、この海を眺めながら、

どんな感慨が去来していたのだろう。

 

舞子館から、子安観音寺のある寺家町に行く。

子安観音寺の駐車場に車をおいて、街歩きをした。

街のなかにいくつもお寺があり、それが町並みのなかにしっくり

溶け込んでいる。


 

 

西方寺の境内に誓子の句碑がある。

この句が好きだ。何度読んでも、なにか深い感興が湧いてくる。

 

 海に出て木枯帰るところなし     昭和19年作

  <誓子自注>木枯は、山から吹き下して、野を通り、海に出ると、

  行ったきりで再び日本へは帰って来ない。

  日本の木枯は日本の国籍を失ってしまうののだ。

 

この句について、ある人が書いている。

 「軍も遂に特攻隊や回天といった人の命を犠牲に攻撃をする手段を

とり始めた(特攻隊が始めて出撃したのは昭和十九年十月)。

優秀な若者達は行きの燃料しかない戦闘機に乗り、米艦隊に向かって

突っ込んだり、墜撃されたり、燃料切れでその命を散らしたのである」

誓子が、そういう実際を念頭において、作句したかどうかは、あくまで

推測に過ぎないという。

この句を読むたびに、そういう背景の重みが浮かんでくる。

今の日本が、またしても、そんな方向へ舵をとりはじめている。

西方寺の境内は、誰もいない。しばらく、鐘楼の石の階段に

腰掛けて、一服した。シーンと耳鳴りがするようだった。

 

 

 子安観音寺の山門には「あ」と「ん」の仁王さんがいる。

 


なつかしい。子どものころ、わが家のすぐのところに曹洞宗の小さな

お寺があった。山門に仁王さんがいて、そこは遊び場の一つになって

いた。

「あ」の意味も知らず、「ん」のことも分からなかったが、仁王像は、

おっかないけど、近しい遊び仲間のようだった。

あの表情をまじまじと眺めていたな、と思い出した。

 

子安観音寺の境内にも誓子の句碑がある。


 

 虹の環を以って地上のものかこむ       昭和25年

  <自註>虹の輪が半円を描いて懸かっている。

  その輪の下に地上の一切のものが包括されている。

  それを逆叙すれば、虹の輪で地上のものをとりかこむのだ。

 

ふだん自分の立ち居地そのままで、見えたものを捉えている。

そして、その見えたもの、見たものをそうだとしている。

じっと、虹を見上げていたら、こういう世界も浮かんでくるのだろうか。

 

    

    4、寺家路地歩き

 

寺家町は、昔ながらの街並みが残っている。

 

西方寺の外壁を歩いていたら、赤い実をつけた枝が道に少し

はみ出していた。


赤い実って、サクランボじゃないかな。

手を延ばしたら、摘むことができた。

一瞬、背後に誰かいないかな、という感じで、採って、口に入れて

みた。ほの甘い。(そんな表現があるんかな)。サクランボだ

種をどうしよう?

見ると、道に種がたくさん落ちている。

ああ、同じことをしている人たちがいるんだあ。

すこし、目立たない脇に捨てて、行こうとしたけど、いたずら心が

むくむくとして、もういちどサクランボを採った。

この感じ、この感じ。他人の庭の石榴やイチジクを採って、食べるとき

の感じ。見つかったら、どうしよう、でもやめられない。

 

6年前に来たとき、「銭湯」という文字がついている建物に出会って、

「なつかしいなあ」と思った。

実際は、もう止めているらしい。入り口脇に車が置いてあったので、

人は暮らしているのだろうと思った。

今回、その前を歩いたんだけど、6年前と同じ印象を受けた。

裏には煙突があった。

銭湯の姿がそのまま路地に残されてある。

 

子どものころ、商店街に住んでいた。

わが家の前が銭湯だった。

銭湯に行くときは、パンツ一枚で走っていけた。

裏には木切れ置き場があり、記憶では子どもたちの遊び場の一つ

だった。小学校1年生ぐらいまでだったと思う。裏から男湯でも

女湯でも、遊びの勢いで出入りできていた。よくぞ、追い払われなかった

もんだ。

ああ、銭湯はなつかしい。

いまの時代でも、わが家の風呂とは別に、こういうお風呂があっても

いいなあ。

スーパー銭湯というより、なんというか、もう少しこじんまりしたもの。

 

玄関脇に「考える人」のような人物像が目に入って、ギョッとした。

その人は花に囲まれて、何かを考えていた。

この家の人に、彫像づくりを勉強していた人がいるのだろうか?

 

細い路地に入る。

ブロック塀のところに、丹精に手入れされたツツジの花が見事だった。

 

板張りでつくってある外壁の家の横を歩く。

板には、なんという塗料かわからないけど、黒い塗料が塗ってある。

家の板の壁に沿って、歩いていくと、途中少し広い路地に出て、右に

曲がって、それからけっこう、それが続いた。

「わあ、大きなうちなんだあ」

何を基準にそう言っているのか、そんなことが出てきた。

「板で外壁の家を維持管理するのは、何かそうしたいという

ようなこだわりがいるだろうな」と、余計なことを思った。

 

路地から離れて、近くにある公園に行った。

家族連れでソフトボールやっていたり、草野球チームが練習して

いたりした。

5月の太陽の日差しはやさしい。

でも、歩いて身体がほっててきた。ベンチに座って、ぼんやりする。

公園の北の端に赤い半てんを着た十人以上の若い男女が何か

している。


じっと見ていると、踊りの練習をしているみたい。

そういえば、鈴鹿や津で、夏”よさこい祭り”というのがある。

この街にそんなに若者がいたんだっけ、とびっくりするほど、子どもや

若人が集まってきて、夢中で踊りを披露してくれる。

そのためなんだろうか?

もし、それに向けてなら、こんな地道な時間をみんなでともにしてるん

なあ、と新鮮だった。

 

この街歩きを始める前、いまの日本は気づかれないように戦時色に

染まり始めているという、頭のなかの世界が、まてまて、じぶんの

意識になくとも、日々、時々刻々、生きられている実際があるんだろう

と帰りながら思った。

               (おしまい)