かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

韓国から友来訪

2018-03-29 17:02:48 | アズワンネットワークのある暮らし

今日は、韓国から柳相湧(ユーサンヨン)さんが帰国前に

顔をだしてくれた。

アズワンネットワーク鈴鹿コミュニテイのスタデイツアに参加した

韓国の社会活動家のグループの通訳兼付き添いでやってきた。

彼は、9年前斯江華島にペンションを開き、人と社会の研究もしてきた。

サイエンズ研究所から「やさしい社会」(サイエンズ1号)という小冊子

がその頃、発行された。アズワンコミュニテイが目指して実践いること

が記録されている。

サンヨンさんは、それをハングルに翻訳して「人間性に適合した社会」

というタイトルで韓国で出版した。

それが静かな評判になり、アズワンに行ってみたいというグループや

個人が出てきて、それが今でもつづいている。

ペンションの敷地内にサイエンズスクールのコースをやる会場を

自前でつくった。

いまではアズワンの留学をして、自分の生き方として、「韓国サイエンズ

スクール」をつくることにかけてみたいという若い夫婦が現れた。

ペンションの近くに引っ越して、サンヨン家族と暮らしている。

韓国の暮らしはそんなに楽ではないかもしれないが、人と人が手を

結んで幸せな社会を作りたいという熱意ある人がいる。

サンヨンさんは、そいういう人たちといろいろな縁やつながりで

アズワンのことを伝えている。6月には、83人の共同体の人たちが

2泊3日にやってくる・

「じゃあ、そのとき、また」サンヨンさんは、にっこり笑って、

帰った。

一人の人の願いが、こうして伝播していく好例のように感じる。

韓国に人と人が親しさでつながる社会が目に見えてくること、

願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


桜満開なれど

2018-03-28 16:53:45 | アズワンネットワークのある暮らし

桜満開。まだ、花見に行けていない。楽しみにしていたんだけど。

ここ3,4日調子悪い。

月曜日、大学病院の心蔵リハビリに行ったとき、心電図にときどき

不整脈がでることが分かった。息苦しくて、歩くのもえらくなっていた。

翌日、三重大循環器内科の主治医の定期診察だった。

予定になかった心電図をとった。

主治医は、心電図を見ながら「心房粗動がおきていますね」という

診断だった。

「心室の不整脈ではないので、命にすぐ影響はでないかもしれないが、

止まらないと心臓は負担になります」

「どうなるんでしょう?」

「心房のアブレーション手術ををするかどうか、循環器内科で

相談してみます」

 

これまで、心室の不整脈を止めるためにアブレーションを3回やったが、

完全には治療できていない。

いまは、薬でなんとか抑えている。

「これ以上、薬はふやせないしなあ。ただ、自然に治まるという場合も

ありますが」

少し、期待がもてる話しもしてくれた。

「運動は、体調みながら、続けたほうがいいですね。そうしないと、

寝たきりになってしまう」

 

なるほど。

また、今の自分の身体の現状を知らされたことになる。

受けとめるしかないけど、正直、気持ちはざわつく。

でも、これからはそういう変調を受け入れて、暮らしていくほか

ない。

身体のなかでおきていることは、自分でなんとかできるものじゃ

ないなと、つくづく思う。

 

身体と変調とはべつに季節は巡り、春風が心地よい。

これも、自分が何とかできるものではない。

 

 月曜日の午前中は、近所を少し歩き、思い立って鈴鹿カルチャー

ステーションに寄ろうと思った。

目の前にあるのに、なかなかつかない。

玄関ロビーのイスで一息ついていたら、坂井和貴さんが「やあ」と

言いながら、やってきた。

笑顔にであったら、春到来という気持ちがわいた。

 

最近、各界各層の研究者との交流をはじめた。和貴さんが熱心だ。

「CCSとか言ってるよね」とぼく。

「いや、CSSだよ」と例によって和貴さんのダメだし。

 

CSSは、「Crossover Study Session 新しきを創造する 

垣根を超えた 研究セッション」の略。

 人と社会の本質を研究する<サイエンズ研究所>の主催。

研究分野の異なる研究者と語り合い、それぞれのテーマを投げかけ

合いながらその本質に迫っていくというセッション。

第1回が最近あった。そのレポートを和貴さんが書いている。

読み応えがある。面白い。

こういう機会をずっと、願っていた。

その一歩がこの春からはじまった。

 

サイエンズアカデミーも4月に始まるという。

サイエンズメソッドを学び、各地に「争いのない、幸せな世界」

実現の種となる人材の養成である。

いま、いるアズワン留学生が入居するとか。

 

何か新鮮な風が吹いている。

和貴さんの次女和夏菜の話をしてくれた。

和夏菜は幼いときからバイオリン一筋にやってきた。

大学もそういう進路を行くのかな、と思っていた。

和貴さん、いわく。

「進路変えたんだ。春から神戸大学・国際人間科学部に入学する

ことになったんよ」

 「ああっそうか」とぼく。

和貴さんの話によると、娘は国連のようなところで働きたいと

将来を描いたみたい。

入学試験に”小論文”という課題があり、その予習で和貴さんが、

アズワンネットワークの目的や何をやりたいのか、じっくり語り

あったみたい。

小論文のテーマが予習したことと重なったらしい。

見事、合格。

娘は入学を決めて、今は国連でやることより、アズワンネットワーク

の内容を知りたくなったといっているそうである。

和貴さんは淡々と話していた。彼のこころのうちを想像した。

 

春到来の現われはあっちにも、こっちにも。

「桜満開なれど」とは書いたが、やはり春はわが心境にかかわり

なく、自然界に充満している。

 (廃屋の庭にも春が)

追伸

このブログをかいているとき、三重大病院の主治医から電話が

あった。

「あなたの心臓のばあい、アブレーション手術は難しい。いま、

循環器内科で考えているのは、植え込まれている除細動器を調整して

それでも治まらないときは、電気ショックをかけて、心房細動を

とめる方法でやったみたい」

「はあ、そうですか」

そんなので、止めることができたら楽だろうな。

「ただし、措置の間やその後の様子をみたいので、金曜日から月曜日

まで入院してもらうかと思っている」とのことだった。

もう、あさってだ。

「よろしく」とお願いした。

さあて、どうなるか。

流れに身を任すしかないかな、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


スイスから友来訪

2018-03-25 18:40:26 | アズワンネットワークのある暮らし

今朝(3/25)スイスからパトリックさんが、サイエンズ研究所の

小野雅司さんと一緒にわが家に訪ねてくれた。

仕事で来日している。

パトリックさんは、近々、鈴鹿のサイエンズスクールのコースに

参加することを楽しみにしている。

10年ほど前、パトリックさんは日本人の奥さんとまだ幼い娘2人と

鈴鹿で暮らしていた。

仕事とか全く決まっていなかったが、家族でスイスに帰る決断を

して、帰国した。

パトリックさんの話では、帰るまえサイエンズスクールの「自分を

知るためのコース」に参加した

コースのなかで、いままで考えてもみなかった観点に気づき、面白く

おもって、スイスでゼロからやれると、展望が開けたんだ、と語って

いた。

スイスでは、たまたま、ある会社に就職した。

何できるかも分からない自分に仕事がだんだん増えていった。

そのころ、パトリックさんは「どうなっているか分からない」と

首を傾げて、笑っていた。

日本語と英語ができるので、気がついたら世界各地の、その会社の

支社を回って、支社との打ち合わせをする役割に就いた。

ヨーロッパはもちろん、ブラジル、中国、韓国そのほか、

今は、そのうち日本支社の社長になっているとか。

話ししていたら、「11年前のサイエンズコースに参加したことが

大きかったかも」と振り返っていた。

サイエンズスクールを基にした「サイエンズメソッド」という

ところまで、整ってきた。

「争いのない幸せな社会」を実現する方法。

スイスの地にも、パトリックさんを通して、有志の人たちに伝わって

いくこと、願っています。

とくに、スイスの若い人たちに・・・

 

 


親の愛

2018-03-22 16:39:35 | アズワンネットワークのある暮らし

映画監督の相田和弘さんが、こんなつぶやきをFBに載せていた。

 

 ーー熾烈なスケジュールの谷間に実家へ一泊だけできたんだけど、

  母親は息子のことがいつまでも心配ならしく、腹は空いてないか、

  その服装で寒くないか、腰は大丈夫か、お金はあるのか(笑)と、

  ひっきりなしに聞いてきます。(^_^;)

 

読んでいて、わがおふくろもそうだったなあ、とおもいだした。

三重に住んでいて、滅多に顔を出さないおふくろの家を訪ねた

とき、50歳になるぼくに「帰りの電車賃はあるか?」と聞いて

きた。一瞬、あきれたが、あとでその言葉の奥に、親が子を

思う揺るぎない真情があるのではないかと、ぼんやり思った。

 

おふくろは大正期に生まれ、親が何らかの事情で養育をせず、

キリスト教系の養護施設に預けられた。その教会に関わっていた

父の姉の仲介で15年戦争末期、父と結婚した。

戦前に長男、戦後に次男のぼく、それに妹をもうけた。

 

少年期まで、おふくろの愛情をそのまま受けて、大きな掌の

なかでぬくぬく育ったのではないか。

おふくろは、ぼくらを怒ったこともないし、叱られたこともない。

「こうしなさい」とか指図された記憶がない。何か、曖昧な微笑みで

子どもたちのヤンチャを見守ってくれていたまなざしを感じる。

思春期にそういうおふくろが疎ましくなり、外見を見て恥ずかしかった。

なんとはなしに邪険にした。

 

成人してから、こんな言葉を読んだ。

 

 --又人間のうちにも、それぞれ異った能力、特技があり、

   他の及ばぬ優れた働きが出来ます。何事によらず良く出来る

   人や、他の事は人に劣っているうちにも、ただ一二の点で

   最も鋭敏な人や、善良な資質を具えている人もあり、皆

   それぞれの持ち味によって、社会的な持ち場や、生き方が

   異う訳で、自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方を

   することが、一生を意義あらしめた事になります。

 

とても、深い人間洞察のうえに、新しい社会を感じさせる文だと

思った。ただ、「善良な資質」の言葉に、なにかひっかかった。

才能や特技のある人に比べたら、なにかおとっているような感じ。

この言葉がおふくろを連想させ、ついで自分もそんな感じかなと

秘かに思った記憶がある。

このことは、当時誰にも話したことはない。

そういうある感じ方が変だなあと感じたが、そういう感じ方は

他の人に知れたくないものがあったようだ。

同時に心の奥の方で、そういうおふくろの善良さが、なんかあった

ときの、底で支えになっているかも知れないという感じもしていた。

表現するのがむずかしい。

 

おふくろは、何か才覚があるわけではなく、人にも抵抗するでも

なく、淡々と暮らしていた。

おふくろのそんな姿が受け止められていなかった。

あんなふうにはなりたくないという意識。

「何かオレにできる特技はないか」と意気込んでいて、まともに

そういう自分の内面と向き合うとこまでいかなかった。

 

いま、心臓の疾患をかかえ、ふつうのことがやれず、ほとんど

部屋にいて、「何かをやる」という点ではただ、そこに「居る」

だけの状態といえるかな。

 

 

おふくろをつくづく、思う。

子どもたちは独立し、兄の家の隣に暮らしていたが、兄嫁が

おふくろとそりが合わず、孫にも触れさせてもらえなかった

ようだ。

人に愚痴をいうのでもなく、おふくろなりに暮らしていたようだ。

 

父が死んでからは、突然、鶴見駅西口の構内の掃除をはじめたり

した。人の往来は激しい。養老院に行くまで、続いた。

養老院では、洗濯たたみを楽しんでやり、周りの老人とも、微笑み

ながら暮らしていたそうだ。

70歳を越え、動けなくなり、ベット暮らしになった。

妻と見舞いに行ったとき、持っていったプリンを二つ、ペロリと

食べた。

「あんたたち、仲良くやっている」と聞かれた。

「おお、そんなことおもっているのか」と反応して、複雑な気持ちだった。

そのときはそういう言葉で精一杯、溢れるような気持ちを表そうと

していることにおもいいたらなかった。

 

間もなく亡くなった。遺体は本人の希望で大学病院に献体された。

半年後、お骨で戻ってきた。

献体も、どういうところから、そうしようと思ったのか。

 

7年前からサイエンズスクールに出会い、人間に、自分に向きあう

面白さを知った。

おふくろの存在が、恥ずかしいとか劣っているという捉え方に

中高年期まで、霧のように覆われていた。

おふくろを動かしているこころの状態にはっきり焦点が当たらない

状態だったとおもう。

 

おふくろは、なにを糧に生きてきたのだろう?

おふくろを動かしてきたのはなんだろう?

「善良な資質」の深い意味をいまは感じる。

その一生は、自然の摂理から外れることなく、実際もそれにそって、

生を全うしたのではなかったか。

揺るぎない親の愛の流れのなかで・・・

 

いまは、自分を覆っていた意識を大きくする捉え方について、

意識の奥にある、健康正常な心の状態について、どうなっているか

見ている、観察している。

 

 いまになっておもうのは、おふくろの手のひらのなかにいるのかも

しれない。

 誰でも、現れかたはいろいろでも、親の愛に支えられているので

はないかな。

戦争や争いがいつまでも無くならない、人間の愚かさはこの辺への

自覚からはじまるのかもしれない。

 

 

 

 

 


風呂いす

2018-03-21 17:25:01 | わがうちなるつれづれの記

雨の日々。胸に吐き気があり、好きな雨の日も味わえない。

 

物に囲まれて暮らしている。

物なしに、暮らしは成り立たない。

物はただそこにあるわけではない。たくさんの人の気持ちが

かかわって、ここにある。

まわりにある物のなかに、毎日使うもののなかに、とりわけ届く

までの経過やそのときの背景が、心の内に記憶として、刻まれていて

使うたびに何か物として使っているだけでない気持ちが出てくる。

 

ある日、マンションのベランダから、牛丸純子さんが、風呂

イスを差し入れてくれた。

体調崩してから、風呂場のイスが低いので、不如意の身体には

すこしぎこちない感じがしていた。

「これまで使ってきたものだしな」「高いイスは子どもにどう

だろう」「なんか大きいと場所塞ぎになるかな」

しばらく、自分のなかで、なかなか言い出せなくて、なんとなく

日々過ごしていた。こんな習性が身に染まっている。

なんかのキッカケで妻に「風呂イス、高いのがあると、楽かな」と

呟いた。

妻は「そうだね」と反応した。

ぼくは、「でも、いろいろ考えるといいかどうか」とか煮え

切らない。

歩く目的でイオンタウンにある「ニトリ」で広い店内を

ウロウロしていた。

妻が、お風呂用具のコーナーで高い風呂イスを見つけた。

よさそうだったけど、「じゃあ、買おう」とならない。

しばらく、実際に坐ったり、妻と風呂イスについて、その

コーナーでいろいろ話し合った。

二人で一つの買い物でこんなに真剣になるのは面白いと

おもった。

妻は「これなら、近所に持っている人がいるかもしれない」と

行って、そのコーナーを離れた。

その後、妻がどんなふうにして、その風呂イスを探したか、

知らない。

純ちゃんが「今使ってるけどちょっと高くて不便なときもあるから、使うならいいよ」と

届けてくれたのだった。

高い風呂イスは楽だった。あんなにゴチャゴチャ考えていたのは

なんだったんだろう。あちこち探してくれた妻のエネルギー。

純ちゃん、「使ってくれて嬉しい」といような気持ちも伝わって

きた。

毎回、「よっこらしょ」と坐るとき、何かそんな背景が浮かんで

くる。

 脱衣所の椅子も研修所にあった介護用のものを岡部さんと秀ちゃんが届けてくれた。

風呂上がりに座って一息ついて着替えをしている。

 

 毎日使うものに、柄の長い木製の靴べらがある。

これのお世話になっている。

この靴べらについて、ぼくが勘違いしてきたことが分かった。

柄の長い靴べらをむかし、旅行に行った土産として、元同僚の

女性から贈ってもらった。そういうものが、欲しいと言ったか

覚えていない。とても、便利だった。

鈴鹿に引っ越しのときも、その柄の長い靴べらを持ってきた

つもりだったけど、妻がいうには「あれは、もういたんできたんで、

新しいものに替えといたんだよ」

そうだったのか。記憶だけが、一人歩きしていたことになる。

その靴べらを使うときは、そのむかしの気分が浮かんでくる。

 

こんなこと書いていたら、いつまでたっても終わらない。

最後に靴のこと。

10年前、靴の専門店で防寒靴を買った。

例によって、買うかどうか、迷っていたら、店員さんが、

「いい靴ですよ。息子に買ってあげたいくらい」と一言。

そのときは、ドキドキしながら買ったけど、温かいし、

履き心地もいい。気に入って、毎冬、愛用している。

「息子に買ってあげたいくらい」

その靴をはくたび、店員のお母さんが、息子を思う気持ちが

蘇ってくる。なんかそんな物をぼくが履かしてもらっている!

みたいな気持ち・・・

 

物は、人の心とともに、活かされているいるんだろう。

 

 

<吐き気が治まらない。パソコンをやっているときは、少し

気分がまぎれる。そのために、書いている?>