映画監督の相田和弘さんが、こんなつぶやきをFBに載せていた。
ーー熾烈なスケジュールの谷間に実家へ一泊だけできたんだけど、
母親は息子のことがいつまでも心配ならしく、腹は空いてないか、
その服装で寒くないか、腰は大丈夫か、お金はあるのか(笑)と、
ひっきりなしに聞いてきます。(^_^;)
読んでいて、わがおふくろもそうだったなあ、とおもいだした。
三重に住んでいて、滅多に顔を出さないおふくろの家を訪ねた
とき、50歳になるぼくに「帰りの電車賃はあるか?」と聞いて
きた。一瞬、あきれたが、あとでその言葉の奥に、親が子を
思う揺るぎない真情があるのではないかと、ぼんやり思った。
おふくろは大正期に生まれ、親が何らかの事情で養育をせず、
キリスト教系の養護施設に預けられた。その教会に関わっていた
父の姉の仲介で15年戦争末期、父と結婚した。
戦前に長男、戦後に次男のぼく、それに妹をもうけた。
少年期まで、おふくろの愛情をそのまま受けて、大きな掌の
なかでぬくぬく育ったのではないか。
おふくろは、ぼくらを怒ったこともないし、叱られたこともない。
「こうしなさい」とか指図された記憶がない。何か、曖昧な微笑みで
子どもたちのヤンチャを見守ってくれていたまなざしを感じる。
思春期にそういうおふくろが疎ましくなり、外見を見て恥ずかしかった。
なんとはなしに邪険にした。
成人してから、こんな言葉を読んだ。
--又人間のうちにも、それぞれ異った能力、特技があり、
他の及ばぬ優れた働きが出来ます。何事によらず良く出来る
人や、他の事は人に劣っているうちにも、ただ一二の点で
最も鋭敏な人や、善良な資質を具えている人もあり、皆
それぞれの持ち味によって、社会的な持ち場や、生き方が
異う訳で、自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方を
することが、一生を意義あらしめた事になります。
とても、深い人間洞察のうえに、新しい社会を感じさせる文だと
思った。ただ、「善良な資質」の言葉に、なにかひっかかった。
才能や特技のある人に比べたら、なにかおとっているような感じ。
この言葉がおふくろを連想させ、ついで自分もそんな感じかなと
秘かに思った記憶がある。
このことは、当時誰にも話したことはない。
そういうある感じ方が変だなあと感じたが、そういう感じ方は
他の人に知れたくないものがあったようだ。
同時に心の奥の方で、そういうおふくろの善良さが、なんかあった
ときの、底で支えになっているかも知れないという感じもしていた。
表現するのがむずかしい。
おふくろは、何か才覚があるわけではなく、人にも抵抗するでも
なく、淡々と暮らしていた。
おふくろのそんな姿が受け止められていなかった。
あんなふうにはなりたくないという意識。
「何かオレにできる特技はないか」と意気込んでいて、まともに
そういう自分の内面と向き合うとこまでいかなかった。
いま、心臓の疾患をかかえ、ふつうのことがやれず、ほとんど
部屋にいて、「何かをやる」という点ではただ、そこに「居る」
だけの状態といえるかな。
おふくろをつくづく、思う。
子どもたちは独立し、兄の家の隣に暮らしていたが、兄嫁が
おふくろとそりが合わず、孫にも触れさせてもらえなかった
ようだ。
人に愚痴をいうのでもなく、おふくろなりに暮らしていたようだ。
父が死んでからは、突然、鶴見駅西口の構内の掃除をはじめたり
した。人の往来は激しい。養老院に行くまで、続いた。
養老院では、洗濯たたみを楽しんでやり、周りの老人とも、微笑み
ながら暮らしていたそうだ。
70歳を越え、動けなくなり、ベット暮らしになった。
妻と見舞いに行ったとき、持っていったプリンを二つ、ペロリと
食べた。
「あんたたち、仲良くやっている」と聞かれた。
「おお、そんなことおもっているのか」と反応して、複雑な気持ちだった。
そのときはそういう言葉で精一杯、溢れるような気持ちを表そうと
していることにおもいいたらなかった。
間もなく亡くなった。遺体は本人の希望で大学病院に献体された。
半年後、お骨で戻ってきた。
献体も、どういうところから、そうしようと思ったのか。
7年前からサイエンズスクールに出会い、人間に、自分に向きあう
面白さを知った。
おふくろの存在が、恥ずかしいとか劣っているという捉え方に
中高年期まで、霧のように覆われていた。
おふくろを動かしているこころの状態にはっきり焦点が当たらない
状態だったとおもう。
おふくろは、なにを糧に生きてきたのだろう?
おふくろを動かしてきたのはなんだろう?
「善良な資質」の深い意味をいまは感じる。
その一生は、自然の摂理から外れることなく、実際もそれにそって、
生を全うしたのではなかったか。
揺るぎない親の愛の流れのなかで・・・
いまは、自分を覆っていた意識を大きくする捉え方について、
意識の奥にある、健康正常な心の状態について、どうなっているか
見ている、観察している。
いまになっておもうのは、おふくろの手のひらのなかにいるのかも
しれない。
誰でも、現れかたはいろいろでも、親の愛に支えられているので
はないかな。
戦争や争いがいつまでも無くならない、人間の愚かさはこの辺への
自覚からはじまるのかもしれない。