かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

家蜘蛛とつきあう

2016-09-28 21:12:18 | わがうちなるつれづれの記

昨日の夜、小さな蜘蛛としばらく付き合ったことを写真入りで、

FBにアップしたら、”いいね”の人がけっこういて、思いかけず、

いくつかのコメントをいただいた。

<投稿>

夕方、ぼくの机のところでクモが徘徊していた。調べたら、
家クモで、どうもチャスジハエトリという名前をもらって
いるクモらしい。夜も、また現れた。「殺してはいけない」
ハエなど、食べてくれるみたい。
親しみが湧いて来た。
高槻にある生命誌館に「ハエとクモからヒトの祖先を知ろう」
という研究チームがある。一昨年の夏、そこで研究の体験
させてもらった。いきものが生まれて、38億年。祖先を
辿っていくと、一つになるという。一つから、クモもハエも
ヒトも生まれた。ヒト同士で、敵だ、味方だと盛り上がる
ことの愚かさ。
   

   家蜘蛛とふと戯れて秋の宵

 

 

<コメント>

「我が家にも家クモが同居していて、見つけると「クモちゃーん!」
と言って「カワイイねぇ〜」と声かけしちゃいます!(*^_^*)
最近では時々「手乗りクモちゃん」になって私と遊んでくれます。笑」
 
 「あ、うちにもいます。マンション6階でもいるんですよね~。
地面から大分はなれていてもいる。どうやってあがってくるんでしょ?
ぴょんぴょん跳ねるように移動する」
 
「 ゴキブリもそうですが、親がキャーっと騒ぐと子どもは殺すもんだと
思ってしまうようですね」
 
 「 糸くずを丸めて投げるとハエと間違えて飛びついてきます。
それから、モニター上にいるときにはマウスポインターの動きに反応します。
ちょっとした遊び相手になりますよ」
 
 「その生きる力、なんか気づく能力、子育てる愛情。わたしと一緒!」
 
 
 
 
アップしたクモの正式な名前はいまだに、分からないけど、結構、たくさんの
 
人から親しまれているんだなあと知った。
 
このクモは巣を作らない、毒っぽいイメージも湧かない。
 
すこし指を近づけても、逃げない。パソコンの周りをぐるぐる遊んでいる
 
ようにさえ、見えた。
 
心地の良いところには、何度でもやってくるという人もいた。
 
今夜は現れない。明日は現れるだろうか?
 
秋の宵、なにかほっこりするひとときでした。
 
 
 
ネットで見ていたら、こんな俳句がありました。
 

   ●添削という名の杖~♪

   蜘蛛もまた独居の父の連れなり  空山 


  「蜘蛛」を友だちとして住んでいる「独居の父」という内容は、しみじみとしてて

  佳いですね。下五が「連れなり」で4音になってるとこが勿体ないなあ。

  

  【添削例】 蜘蛛もまた独居の父の連れならん

 

  下五は「~連れであるのだろうか」という意味になり、「父」を見つめる子の

  思いにふくらみが生まれます。

 

なるほど・・・身につまされるなあ。


朝明渓谷三休の湯

2016-09-24 16:59:32 | わがうちなるつれづれの記

”温泉”と聞くと、心が動く。

この間、市川さんと話していたら、湯の山の方にある温泉に行って

来たという。

聞いていると、どうも菰野の方の山ん中にあるようだ。

若い夫婦がオーナーとも聞く。

こんど、10月14日、鈴鹿カルチャーステーションで、波多野毅さんの

講演会があり、鶴島夕子さんが、その若夫婦と知り合いなので、

講演会のチラシを持って、話をしてきたということだった。

 

「そこに行くのに大変な山道を登る。運転に注意しないと、谷に

落ちてしまうくらい」と聞いた。

イメージが、ぼくのなかで出来てきてしまった。

怖いけど、なおさら行ってみたい。

 

ネットで調べると、「三休(さんきゅう)の湯ーー朝明渓谷 癒しとカフェ」と

出てきた。


 

三休の湯 朝明渓谷癒しとカフェ

 http://33thank-you.com/


写真を見ると、湯船は小さいけど、外に森の風景が見える。

カフェは、手打ちそばもメニューにある。食べるスペースでは、ゴロンと

横になることも、出来そう。これは、いいと思った。

 

先週の土曜日、妻といっしょに行ってきた。

朝、わが家を出るときは曇りだったけど、国道306号から菰野市役所を

過ぎて、朝明渓谷に向かって左折したころから、雨が降り始めた。

鈴鹿山脈の麓に向かう山道は杉林に挟まれて、鬱蒼としてしていた。

曲がりくねった細道を登って行く道すがら、心細い気持ちにもなった。

手書きの案内看板の方へ曲がって、しばらく登って行くと、”三休の湯”

の下の広場に着いたらしい。

市川さんから、そこからの山道が難儀すると聞いていたので、運転を

妻と代わった。

登ってみたら、その坂道はジャリ道で、雨水で削られてデコボコしていたけど、

危険な感じはないし、第一20メートルほどの道で、あっという間に、

三休の湯に着いてしまった。

周囲、森に囲まれた小高い山の頂上を平らにしてあった。

雨は、強くなりそうだった。

 

妻は、ネットの案内をよく読んでいる。

「おそばを、湯に入る前に注文しておくと、出てから食べられる、って」

若い男性が応対してくれた。

とりあえず湯へ。

 

わが家にもお風呂がある。

周囲、壁で、湯船も足を伸ばせない。

息苦しい感じで、ゆっくり入る気持ちにはなりにくい。

子ども時分は、商店街の中にあった自宅の前に、銭湯があった。

ほとんど、わが家のお風呂のように思っていた。

いま、思えば、そこは、ぼくにとってなくてはならない場所だった。

大きな富士山の絵があり、湯船があり、裸のおっさんたちで

混んでいた。

入る前はめんどくさいと思うけど、湯上りの心地よさは格別だった。

銭湯の風景や人と人との感触が今でも染み付いているんだろうな。

 

さて、三休の湯。

入り口や更衣室は、清潔さを感じた。

湯殿の戸を開けると、お年寄り(ぼくもその一人だけど)二人が、

湯に足だけ浸かりながら湯船の縁に座っていた。

ぼくが、湯船に入ると、知らん顔がしにくい距離感で、かといって

すぐ何か話しかけるかどうかと思っているうち、ぼくと同い年ぐらい

の血色も体格もいいおっさんが「どこからお出でかな?」と

声をかけてくれた。

 

お二人は四日市から、おい出たと聞いた。

「ここの湯は放射能があるけえのう」

「はっ」

「ガンに効くんやわな」と若い方の人が言った。

もう一人の人は85歳で、抗がん剤を飲みながら治療していると

聞いた。

「ここは、10年ほど前に出来て、今のオーナーで三代目だよ」

と教えてくれた。

はじめにつくった人は湯治客もおもっていたらしい。

「ここは、出たあと身体がぐったりするかもしれんよ、放射能の湯

だけんね」

後で、この温泉は「ラジウム温泉」と聞いて、そういうことかと妙に

安心した。

しばらく話ているうち、お二人は洗い場で身体を洗って、出て

行った。

湯船に一人になった。すこし、のぼせ気味だった。

外の風景が眺められるよう、二枚の窓がいっぺんに開かれる

ようになっている。

全開して、外を眺める。雨は本格的になっている。

靄がでて遠景は見えない。冷気がときに、入ってくる。

ボーッと湯船に浸かっていると、こんどは一人、やはり同年代ぐらいの

年寄りが入ってきた。

「窓、開けていますが、いいですか」ぼくは尋ねた。

「ああ、いいですよ」とその人。

それから、三休の湯のこれまでの10年の顛末記を語ってくれた。

十分にのぼせ上がった。

 

カフェスペースは、囲炉裏端と座卓と座布団が置かれたお食事処に

なっている。

先に出た老人たちは、囲炉裏端に陣取っている。

座卓のところには、若いお母さんと小学生、幼年ぐらいの男の子、

奥には若い女性が二人、もう座っていた。

繁盛しているのかなと思った。

 

小浪も上がってきて、ざるそばが運ばれてくるのを待つ。

身体がヨレヨレ「になったようで、心地がいいのか、だるいのか。

しばし待つ。

親子のところに、そばが届いてから、もうしばらく待っていた。

そばが運ばれてきた。

そばは、手打ちのようで、素人っぽさも感じたけど、美味しかった。

妻が、カレーもというので、一つ注文して、二人で分けて食べた。

美味しかったけど、そのころは、もう朦朧としはじめて、ガマンできず、

座卓のところに横になり、座布団枕に眼を閉じた。

雨音が聞こえてくる。

何か、山の冷気を感じながら、うつうつと寝そべっていた。

こういうのを湯あたりというのかも。

幸いお客さんがそのとき座卓のところには居なかった。

心行くまで、うつうつとしていた。

こういうのも、悪くないなあ。

囲炉裏端の老人たちは、いつまでもおしゃべりをしている。

 

眼を覚ますと、すこしクラクラした感じがなくなっていた。

すこし、冷えたのでもう一度、湯に浸かった。

釈ガ岳から下山してきた若者がずぶ濡れのヤッケで更衣室に入って

来た。この湯は、そういう場所でもあったんだ。

 

帰りがけ、若いオーナーに声かけた。

「先日、チラシもって、男の人と女の人がきましたよね」

「・・・・」

「アズワンから・・・」

「ああ、そうです、来ました」

「米田量くんも、知っています」

「ああ、そうですか。よく、知っています。彼とは京都で知り合いました」

 

若いオーナー夫妻は、京都でカフェをやっていた。

昨年、父の知人から、この温泉の経営を引き継いだと聞かせてもらった。

ご主人は、京都造形芸術大学で彫刻を専攻してきた。

卒業して、個展など開いて来た。

「個展で売れるものを創ると、商品になってしまうんですね。自分の

創作にすると、売れにくいんですね。彫刻で、暮らしていくのは

あきらめました」

入り口に、木の作品がいくつかひっそり置いてあった。

そのなかに、丸い球体があった。

「あっ、これぼくがぼくの作品です。桜の木でつくりました」

それは足下の床にあった。あまりにも、さりげなくそこにあった。

「この木の棒ですがね、これ笛なんです。オーストラリアのアボリジニの

人たちの楽器なんです」

オーナーはそれを吹いてくれた。

吹くと言うより、何か息を吹き込むとその笛が何かを語りだすといった

印象をもった。

 

若い奥さんが、6ヶ月の男の子を抱っこして出てきてくれた。

言い漏らしていたけど、この温泉、土日と祝日だけオープン。

今日は、けっこう繁盛しているようだけど、あとでそれで暮らして

いけるのか、気になった。

「アズワンでは、お金を介在しないで暮らす試みもしてるんですよ」

と話の流れでしゃべったら、そこからお二人身を乗り出した。

「この近くに、鹿肉料理を出しているマイ・ハウスというところあるの

しっていますか。そこでは、ぶつぶつ市(?)やっているんです。

その市には、自分が手がけているもので、これなら市にに出して

みようかなというもの、なんでもいいんです、持ち寄って交換する

んです。ぼくは、温泉のお湯を持っていったりします。

最近は、ここの温泉で市をやるときもあります。その時、ぼくの

持ち寄るのは、温泉に入ってもらうということです」


 

MY HAUSE 山と麓と喫茶

 https://www.facebook.com/myhouse.cafe.zakka/about/?entry_point=page_nav_about_item&tab=overview


 

若いオーナー夫妻の交友範囲は全国に及んでいるらしい。

三休の湯主催のマルシェのときは、関東からもコーヒーを淹れに

きたり、楽器演奏に馳せ参じる人もいるらしい。

 

それぞれの人に場がある。場があって、その人がみんなの中で、その

人らしく浮き彫りになっていくのかも。

市とか、マルシェに若い人たちが寄ってくるのは、彼らなりの願いが

あり、目指す暮らしがあるんだろうな、と思った。

大企業や中央の官僚組織などのヒエラルヒーから醸し出される社会の

気風に本能的に乗れない若者の横に手をつなぐネットワークが、いろいろな

分野に、きっとあるんだろうな。

若いオーナーからは、当たり前にそういう場つくっている人たちを紹介

してくれた。

若者たちの人間回復の一端を垣間見た感じがした。


<例えば>

 

滋賀 どっぽ村

 http://doppo.jpn.org/link.html


夕方、雨ほ殆ど止んでいた。

若いオーナー夫妻から、にこやかに見送られながら、山間の温泉を

後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


台風16号

2016-09-22 17:36:16 | 家族あれやこれや

台風を俳句の季語にすると、”野分(のわき・のわけ)というと初めて

知った。

野の草を分けて吹くような秋の暴風を野分(のわき)と呼ぶらしい。

ただ、野分を用いた俳句を鑑賞する場合には、「野分イコール台風」ではなく、

「野分とは台風やそのほかの要因で吹く秋の暴風全般である」という捉え方で

あるらしい。

 

台風16号は、鹿児島~四国~紀伊半島南をかすめて、9月20日の

午後、わが街、鈴鹿に再接近して、夕方東海方面に行過ぎた。

今回の台風は、野の草を分けて吹くような感じではなく、サッシュの

ガラスを叩きつけるような雨で、ハッと気がつくと水路が溢れかけ、

道路が冠水しはじめた。

 

子どものころ、台風が来るぞと、ラジオで聞きながら、とても恐ろしい

んだけど、どこかでワクワクするものがあった。

家のなかにいたら、安心。でも、いつも見慣れた街や風景が台風に

見舞われて、どんなになるか、常ではない事態を興味深々の気持ち

で待望するものもあり、家のなかで息をひそめていたなあ。

 

娘一家のアパートは、わがマンションの南に20メートルばかり離れた

ところにある。

1階で南に幅3メートルの水路がある。

3年前の台風のとき、大雨で水路が増水、南にある小さな庭に冠水

しはじめた。

雨が激しく吹きつけていた。

娘と孫娘と弟の晴空をわがマンションに避難させた。

隣の一家の娘二人も勢いで、孫らと一緒にわが家に引き連れて

行った。そのときから、お隣さんとは、何やら近しい気持ちになった。

 

今回も、近所の道路が冠水し、娘のアパートの一階も「もしかして!」

という危機感が娘らに起きたようだ。

 

部屋に閉じこもって、パソコンに向かっていたら、先ず晴空(小5)、

つぎに孫娘ふゆ(中3)、最後の娘桃子がやって来た。

 

わが部屋から見ると、娘のアパートの周りは冠水して、車も

通れなくなっている。


三人はそれぞれ、居間やキッチンで何やらやっているらしい。

「焼き茄子、こんなんでいいか?」と妻が聞いてきた。

「焼き茄子は、強火で真っ黒になるまで焼くといいらしい。中の

身が焦げて、匂うぐらい」とか、テレビの受け売りをしていた。

こんなときに、妻はそれをしようと言うのだった。

 

炭みたいに真っ黒に焦げた茄子の皮を、娘といっしょに剥いた。

「熱い」と娘。

「少し、水で冷ますといい」テレビの受け売り。

娘「水っぽくなる」アツアツで剥いている。

 

「真っ先に逃げたの晴空なんよ。自分が気に入っているガンダムの

人形やパソコンを上に上げて、さっさといってしまったの」

「ふーん」

「風友も、自分の大事にしているもの、水に浸からないように上に

上げて、行ちゃったのよ」

 

夕方6時を過ぎていた。

台風は静かになっていた。

何となく、娘一家と夕餉のひとときになった。

有り合わせの卵とベーコンで、ベーコンエッグ。

「朝のメニューみたい」と孫娘。

それでも、ベーコンを厚く切ったやつ、お替りしていた。

食後、娘一家はアパートに帰って行った。

水は引いていた。

 

夜9時ごろ、晴空に本を読みに行った。

もうそんな歳じゃないとは思うけど、「ぼくらに翼があったころ」という

本を読み聞かせた。

読んでいるうち、晴空は寝てしまった。

いろいろ思うことがあるけど、しばらく体調がつづくなら、つづけたい。

彼は、わがマンションに避難する際、もし泊ることなるなら、爺さんに

本を読んでもらおうと、荷物の中に入れてあったとあとで、知った。

 

滅多にない台風体験で一句つくりたいと、いろいろ練った。

「台風」という季語が、どうもダサいと思った。

ネットで調べたら、はじめに紹介したようなことが書いてあった。

そこから、着想して。

 

   野分後焼き茄子剥いて夕餉かな

 

 

 


老年期の意味

2016-09-17 16:45:20 | 理想の暮らしを語る会

ここ数ヶ月、毎週木15曜日、「理想の暮らしを語る会」の有志が会の

進み方について、いろいろ研究する機会をもっている。

きのう、9/15(木)の午後、何人かが鈴鹿カルチャーステーションの

コミュニテイカフェに寄って、9/11(土)の公開講座の感想や、来月8日

「自分らしく生きる」というテーマで開く公開講座の話などしていた。

寄っていたのは、金治さんと岸浪和子さんと宮地。

 

気がつくと、金治さんと和子さんは、来月、みんなの前で「人生を振り返る」

という切り口で話すことになっている。

金治さんは、60過ぎて、人工透析をしており、本人も「病気の百貨店」と

触れ回っている。

「何、話すかなあ。ぼくは、最近サイエンズ研究所のゼミや、この

コミュニテイのミーテイングに出ながら、身体はいろいろあるけど、

気持ちや心の面で、何か豊かで、生き生きしている。そんな実感

はなすかなあ」

 

和子さんは、70過ぎて不治のリュウマチと付き合う暮らしだけど、まだ

まだ意気軒昂。

スポーツガーデンのプールで水中ウォーキングで、農学者の高齢の女性

と仲良くなって、もっと人生の話をしたいというつきあいをしているとか。

「リウマチになったということで、かえって人生の意味が変わったのね」

と。

 

「あのね、この間、山極寿一さんというゴリラの研究者が、「老年期の

意味・・・目標なく生きる」という文章書いていて、面白く読んだんだ」

と宮地。

この人も、拡張型心筋症で身体を思うように使えなくなっている。

 

そんなこと話していたら、四郎さんがカフェにやってきた。

どこの席に行くのかなと見ていたら、ぼくらの席に加わった。

「調子はどうよ」

「まあ、まあかな」

「抗がん剤は飲んでいるの」

「控えめにね」

身体は痩せているけど、ふつうに話せるし、ぼくらの話に加わって

くる。

 

「いったい、四郎さんのガンって、どんな風に転移してきているの?」

「そうやな、はじめは腎臓、それから肺にいって、首の後ろの腫瘍、

脊椎、すい臓、肝臓かあ」

「そうなん」一同、ため息。

「そんなんでも、こうして、身体はガンに蝕まれていても、気持ちは

ふつうに、暮らせている、不思議だね」

「まあ、身体のエネルギーが弱くなっている分、ガンもそんなに増殖

する元気がでないのかもね。医者も、そういう状態にあること、おどろいて

いたよ」

 

なんか今日の寄り合いは、先行き長くないいくつもの病気持ちの

展示会のようだ。

でも、何となく、しみじみした気持ち。

 

「あのね、「老年期の意味・・・目標なく生きる」っていうの、こんなこと

書いてあるんだ」

 

ーーしかし、老人たちは知識や経験を伝えるためだけにいるのではない。

  青年や壮年とは違う時間を生きる姿が、社会に大きなインパクトを

  与えることにこそ大きな価値がある。

  人類の右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが、

  その明確な目的意識はときとして人類を追い詰める。

  目標を立て、それを達成するために時間に沿って計画を組み、

  個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が

  伴えば命を落とす者も出てくる。目的が過剰になれば、命も時間も

  価値が下がる。その行き過ぎをとがめるために、別の時間を生きる

  老年期の存在が必要だったに違いない。老人たちはただ存在する

  ことで、人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。

  その意味が現代にこそ重要になっていると思う。

 

四郎さんが口を開いた。

「あんね、前回、この寄り合いに来た。帰るとき、誰かが、また来てな、と

言ってくれた。言ってくれた人の顔を見たら、どの人も人生を積み重ねて

きて、いぶし銀の表情してるなあ、と感じたんよ。また来ようと思ったんや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


沈黙のむこう

2016-09-15 20:52:26 | わがうちなるつれづれの記

北朝鮮というコトバには拭いがたいイメージがこびりついている。

テレビなど取り上げられるときは、アナウンサーの声色から

バックミュージックも、何やらおどろおどろしい、効果をねらっているかの

ようだ。

思えば、不思議だ。

こんなこと、当たり前なんだろうか。

誰もおかしいとは思わないんだろうか?

こんなの変だよなと思いつつ、繰り返し耳にしていると、お化けが

出てくるときの「ドロドロドロ」ってな前触れのように、耳慣れてしまう

のか。

「北朝鮮は怖い国だ」「自由がない」「ならず者国家」

そんなイメージをたっぷり浴びている。

そういうイメージから自由ではない。

 

北朝鮮で行われていることに、共感しているわけではない。

「そうか、それが本気なら、おもしろい」ということがあった。

4回目の核爆発実験のとき、北朝鮮の若い指導者は、「核実験の

目的は、世界から核を廃絶することだと」と聞いたときだ。

世界中の国や人たちが「やってほしくない」というなかで、核実験を

して、そんなこと言っても、まともに受け取ってくれる人は居ないと

思う。

一方、アメリカが核廃絶を本気で実現したいなら、「先ずアメリカが

核兵器はもうすべて廃棄します」と止めてしまったら、話がはやいんじゃ

ないかと思うのはぼくだけだろうか。

「核の先制攻撃はしない」とアメリカが言ったり、北朝鮮もそういう考え

のようだけど、そもそも核兵器が無ければ、こんなややこしいこと、

言い合わなくもいいんじゃないか。

日本政府は、核爆弾の先制攻撃ありき、でやりたいらしい。

恥ずかしい。

 

現実を考えてみなさい、という声が聞こえてきそうだ。

「敵が攻めたきたら、どうするつもりだ」

たしかに。

どうしようもない。

戦争が始まる大儀名分は、いつも「敵が攻めてくるから」だ。

本心は?

「できるなら、戦いたくない」

ああ、そうなら、戦わなくても済むよう、もっと人間としての知恵を

出し合おうじゃないか。

 

どうしても、目の前にこんな重大な問題があるんだから、ほって

おけない。

たしかに、そんなとき、ほっておけない。

そんなときほど、ここに現れている状態の健康正常な状態って、

どんなだろう、ってはっきりしていないことには、手を打てないん

じゃないかな。

こんなのが順序じゃないかと、思う。

機械が故障したり、病気になったときなら、こんなこと、だれだって

分かっているんじゃないかな。

朝鮮半島に正常な姿。

北朝鮮と日本の姿。

北朝鮮とアメリカの姿。

いつまでもおわりが無いように見える争いの世界。

ここ、立ち止まって、ゆっくり検討してみないかな?

そんなこと、無理かな?

 

 

老年期、妄想というか、実際に身体がままならないと、妄想が

膨らむ。

 

テッサ・モーリス・スズキ「北朝鮮で考えたこと」(2012年・集英新書)

を読んだ。

テッサ/スズキさんは、1951年イギリスに生まれた。

いまは、オーストラリア国立大学研究学院で、日本近代史の

研究をしている。 

2009年北朝鮮・韓国を旅した。

瀋陽から北朝鮮に入り、38度線の板門店へ行く。

そのあと、韓国に渡り、韓国側から38度線を見て、ソウル・釜山

へ足をのばした。

今度は元山に渡り、金剛山までの旅だった。

これは、1910年イギリス人女性のエミリ・ケンプが満州、朝鮮を

旅して記した紀行文をなぞる旅だった。

テッサ・スズキさんは、紀行文を読んで、「ケンプのようにこの国が今ある

ありのままを見たい」と強く思った。

 

テッサ・スズキさんは、1970年代、韓国を訪ねている。

当時、韓国は朴正煕の独裁政権下にあった。

彼女は語る。

「・・・今わたしが北朝鮮に感じている感情は、朴正煕の韓国を最初に

訪れたときに抱いた感情にどこか似ている。政治体制の本質にたいする

絶望感。そして、残された狭い隙間でなんとか生きている、それも

人間性を失わずに生きている、ふつうの人たちへの深い敬意」

 

記憶が蘇ってきたことがある。

1972年だったか、20代のころ、民間企業が発展途上国への技術協力の

支援をする団体で働いていた。

技術研修後の実態の調査ということで韓国を10日間、同僚と

ソウルから釜山まで旅したことがある。

ちょうど、朴正煕の戒厳令下で、緊張と貧しさが街から感じられた。

ソウル~釜山の高速道路も出来ていた。道路にあたる住民の立ち

退きは、うんむを言わせないものだったと聞いた。

ある会社の幹部の人と夜、お酒を飲んだ。12時になると、クラブは

閉店になる。ぼくらは、ホテルに帰った。翌朝、市場を散歩していたら、

屋台で酒を飲んでいる昨夜の幹部の人に出会った。聞くと、一晩

一人で飲み明かしたという。

何か分からないが、彼の内側にある熱情やエネルギーを感じた。

このような内から活力、出会う韓国の人たちから感じた。

この国の人たちが秘めたもの、いつか花開くときがあ。

共鳴するものがあった。

 

テッサ・スズキさんは、エミリー・ケンプの中国・朝鮮の旅や、それをやり遂げた

中国や朝鮮への不変の愛について、感想を書いている。

 --エミリーのどのような体験が、あるいは、人としてどのような

   特質が、国際政治の反目から抜け出して、そのむこうにある

   人の顔に到達する方法を見つけ出すてがかりとなったのか

   わたしにはわからない。しかし、中国を旅するエミリーの姿が

   聖なる山に向かっておどろくべき旅に出るあの仏教巡礼者たちの

   それと重なってみえることがある。--行く手を阻む岩山を

   よじ登り、耐えがたい身体的苦痛を耐えて、はるか雲の上の、

   大気は薄く、光は明るく、心は澄みきったところに到達しようと、

   旅に出るあの人たちの姿と。

   わたしは改めてケンプの自画像を手にとり、じっとこちらを

   見すえるまなざしを見つめ返しながら考えるーー

   はたしてこの寡黙と冷静さは、声にならない叫びの絶えることの

   ない反響を必死に抑えつけているのか。

   それともこの人は、旅するなかで想像を絶する苦しみを超越して

   ある種の穏やかで人間的な了解の域に到達したのだろうか。

 

「北朝鮮で考えたこと」は、ケンプの紀行文を辿りながら、テッサ・スズキ

さんが、今の北朝鮮・韓国をありのままに見ようとした記録だ。

見えたことを、飾り無く率直に語っているように感じた。

内容は、時間があれば、直接読んでもらえたらと思います。

 

1970年ころから、韓国に関心をもち始めた。

そのころは、韓国にいまの北朝鮮みたいな暗いイメージがなんとなく

ぼくらにあった。

そんななか、あるとき石川逸子さんの詩に出会った。衝撃があった。

 

     「海を渡ってきた詩人」      石川逸子

  「断チ裂カレタ山河アーーッ」

  おだやかに話していたひとの ふいの絶叫

  「北の古里には 九十一歳の母・・・

  動乱以後 便りを送るすべもない

  日帝支配三十六年 分断四十年

  私の青春はこの二つに奪われ

  いま七十一歳の翁です」

 

  ソウルで焼き芋屋の屋台を引いた

  老詩人・李基烱の眼はハツラツと光り

  敬慕する呂運了を語る

  

  「八・十五のあとの先生のひとこと

  日本人は一人も射ち殺してはいけない

  無事に国に帰ってもらわねばならない

  為に多くの日本人の生命が助かりました」

 

  四十五年ぶりに海を渡ってきた

  老詩人の精神(こころ)の桃のようなみずみずしさ

 

  その精神に吹かれ

  「夢陽呂運了先生追慕会」会場を出る

  蒼黒い首都の空の上に ほんわりと三日月

  海のむこうの裂かれた地でも

  老詩人そっくりのオモニが

  じっとこの月を仰いでいようか

                 <揺れる木菫花・1991>

 

実は、詩人の李基烱さんを知らないし、呂運了さんも歴史の記述で

植民地時代の韓国人としてどんな経歴の人だったかを知るだけだ。

「日本人を一人も射ち殺してはいけない」

このコトバが、ぼくの心にそのまま入ってきて、しばし語るコトバが

出なかった。

 

韓国を考えるとき、北朝鮮を考えるとき、このコトバがいつも心の

どこかで生きている。

どういう世界から発せられたものか、目の前の現象やそこからの

感情だけにおさまらないもの。

このコトバのむこう、沈黙のむこう・・・