かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

わがうちなる東北大震災

2011-06-29 07:16:38 | わがうちなるつれづれの記
 こころのどこかで、なにかしら落ち着かないものがある。なんだろうといつも思う。大震災・津波による被害の映像がいつも目にはいってくるからかなあ。だったら、テレビなんか見なかったらいいのに。福島原発事故以後の放射能による汚染が未だ収拾できないし、見通しも定かでないことが影響しているのだろうか。
 
 2004年12月にスマトラ沖地震があった。津波が起こり、22万人以上の人が亡くなった。すごいことが起こるものだと思った。当時の記憶として、地震や津波の予知システムの立ち遅れていることが言われ、日本やアメリカの優れた技術を被災したインドネシアやその地域に援助するというニュースがあった。そのとき、タイでサーカスの象たちが繋がれていた鎖を切って、高台に上り、助かったという話をなにかで聞いた。人間は進歩したのか、退化したのか、考えた。
 
 山岸巳代蔵全集(一)「病災は内より」をたまたま読んでいたら、山岸巳代蔵の家が台風や地震で
倒壊したり、傾いているの見かねて会員が忠告してくれたときのことが書いてあった。
 「水害に遭った時天災だと慰めて下さったが、今日の姿になる種は家造りの時に胚胎していた訳で、外から来たものでなく、水害の原因も私達が私達の住む山河を(治めることを)怠ったからです。現在日本はもちろん、世界は大きな災害を内から発する多くの過ちを続けています」
 <内から発する多くの過ち>
なにか、そのまま素通りできない言葉。これは、どういうことだろう・・


 十何年か前、山岸巳代蔵が参加したヤマギシズム理念徹底研鑽会の記録というのを読んだことがある。いまでは、山岸巳代蔵全集として刊行されている。その、第二回の理念徹底研鑽会の記録のなかに、「この問題を解決したら、原爆よりも大きい仕事やと思うけどね」という山岸の発言があった。(1960年8月1日~3日)それを、なんだか、いつまでも、覚えていたし、じぶんがなにをしようとしてるか、考えるとき、いつも、どこかから、この一節が出てくる感じがあった。
 
 山岸巳代蔵は「原爆」のこととかをどのように捉えていたんだろう。そんなに軽いもとは捉えていなかったように思うけど、それの根本的な解決を見ていたと。それで、「原爆より大きい仕事」と出てきたのではないだろうか。
 この一節の前には、このように発言している。
「自分のやっていることは認めて、他を容れないとするもの。自分たち自体もしらべないで。そうすると今までの科学者は、「やがて生物も作れる」とか、「育種学でいくらでも変えていける」とか。そんなところからも、“本当の哲学”でも、“科学”でもよいと思うけど。本当の宗教となると問題と思う、宗教定義からいかんと」

 いつからか思い出せないけど、広島や長崎の原爆に関心をもってきた。大学のときには、広島にも出かけて、その後の記録や体験談を読んできた。
 1954年11月に山岸巳代蔵は「ヤマギシズム社会の実態」を執筆したけど、この年の三月にアメリカは太平洋ビキニ環礁で水爆実験をしている。ソ連に対抗してというものらしい。漁船で操業していた日本人が死の灰を浴びた。この当時、ぼくは7歳、小学3年生。「死の灰」「ストロンチウム」「雨にあたるな」「マグロが危険」そんな言葉が飛び交っているのを子どもごころに「たいへんなことが起きているようだ」と感じていた。「焼津」「第五福竜丸」「久保さん」「放射能」ということばも、よく耳に入ってきて、なにか騒然とした空気を思い出す。

 1954年5月9日の日付けのある文章「籠を編むに竹を使う男」がある。山岸巳代蔵全集(一)に掲載されている。最近、これを読んで、以下の一節が残って、何回も読み返している。
 「ここで云いたいことは、大きな雛から死んだのは、大きな雛は毒水を多く飲んだためで、直ちに発病しなかったのは、濃度が薄かったから脳麻痺を起さすまで時日を経たもので、こんな微量で、手を洗った水を薄めて、その少量を飲んだのみで、雛が死ぬことで、水爆等の放射能が何年後に障害が現れるかを思うとき、それを使って人を殺す必要のない世界の実現を一日も早くすること、草を刈るにも、毒物取扱にも、注意に注意を払うことと、他人に迷惑のかからぬよう自戒することです」
 
 雛の死から、水爆の問題にいったので、「えっ、どうなっているの?」とついていけない感じだったけど、何回か読み直して、「草を刈る」にしても、日常なにをやるにしても、どんなところから発して、それをしているのか、そこのところが肝腎かなと。「迷惑のかからぬ」と普段なにげなく使うことばで言っているけど、いま福島で続いている原発事故は、どれほどたくさんの人に、世界中の人に迷惑をかけていることか。このことを自覚したり、自戒すというのは、この辺は、だれだれのために、なになにをするとかいう以前の、避けては進めないところのように思う。
 
 この一節の次は、こんなくだりになっている。
「特に感じたことは、山本君が私を上手に使ったことで、私も上手に使われてうれしいです。普通なら、雨の日暮れに雛の五、六百くらいなことに走り回るほどの暇を持たないのですが、あの剛腹な男が「他人に伝染さしては済まぬ」との一言に、私も勉強になりますからと、無形の大きさに動かされたものでした。
 山本個人の物欲を援けるためなら、万金積んでも、梃子でも動きませんよ。私の持ち場を与えられてお礼が云いたいです。金銀の針金で籠を編まずに、薪にすれば雑木にも劣る竹を割いて、竹の命を永遠に生かす男が、人間山本だというのです」
 
 ここも、何回読み返しても、とても汲みとりきれないと、それこそ自覚しています。でもここでいわれる「私」、また「山本個人」ではなく「人間山本」、こういう人と人の間柄から現れてくるもの、「竹の命を永遠に生かす」どんなことかよくわからないけど、そういう世界。・・・
 目の前の現象は、いやがおうでもいろいろに起こっているし、おこってくる。それに囲まれながら、かかわりながら、それとともに生きつつ、どんなところから、なにを願っている?


 

 
 

 

何でダンボールコンポストなの?

2011-06-24 17:59:50 | アズワンコミュニテイ暮らし
 6月19日SCSで第二回エコライフチャレンジセミナーがあった。午後のアクションタイムで、楠部孝誠さん(石川県立大学助教)からダンボールコンポストの話を聞いた。
 

 ダンボールコンポストとは、ダンボール箱をつかって、台所から出てくる生ゴミを堆肥化すること。
今回は、オガコを基材(微生物の住みか)として活用した。
 昨年11月、ぽくは鈴鹿に引っ越した。その時以来、楠部さんからもらったリーフレットを見ながら、ダンボールコンポストをやってきた。その日、これまでの体験談を話した。
 「燃えるゴミのなかに、生ゴミを入れることに、はじめ違和感があった。それで、はじめた。奥様がやるものと思っていたけど、結局ほとんど、ぼくがコンポストをやることになった。それ以来、生ゴミは市の回収には出していない」――力んで、報告したら、楠部さんが「ダンボールコンポストの目的は、そこだけじゃ、ないんだけどなあ・・」と言った。じぶんが日々どんなゴミを出しているか、直に触りながら、ゴミの方から暮らしを見直していくことにあるとか。あらためて、「なんでダンボールコンポストなの?」と思っている。
 大平さん、中井さんもはじめている。
 中井談。
 「発酵に関心がある。趣味で米から醸造酒をつくっている。ダンボールコンポストもその関心から始めた。妻はやらないので、毎日生ゴミを入れては、かき混ぜている。やりながら、なぜこんなことしてるのか、考えた。一戸から二戸と増えていったら、生ゴミを燃やさなくていいし、畑の土壌改良にもなる。コンポストを通じて人と人が触れ合える。人と人の間から醸造されてくるものあるんじゃないか・・」
 楠部さんが「ダンボールコンポストが、そんなふうにいろいろに活かして、使ってほしい」と言った。
 中井さんは、「やってこうという人への技術指導は任せておいて・・」と言った。
詳しくは、宮地か中井まで。片山弘子さんのところに、楠部さんからもらった説明書がおいてある。
 


いよいよ実態の書に

2011-06-23 07:24:32 | サイエンズ研究所のある暮らし
といっても、この「ヤマギシズム社会の実態の書――世界革命実践の書」というのは、その解読にかかる前の、なんというか、じぶんの取りかかり方そのもの、どんなところでそうしようとしているのか、なんどでも、幾度でも、そこを確かめ、たしかめ、目をこすりこすり、こころを凝らしながら、やっていくものらしい。
 先ず、「実態の書」を開いて、最初に「解説 ヤマギシズム社会の実態(一)」と出てくる。
「解説」と、標記されているのは、どういうことだろう。なにを解説するというのか。「ヤマギシズム社会の実態」と言えばそれまでだけど、それはどういうものか。それを、じぶんはどうとらえているのだろう。
 この「書」の題名は「ヤマギシズム社会の実態」とある。それと「解説・・」の関連はどうなっているのか。
これまで、回を重ねてきて、ここでいう「実態」は、「本当の終局の目的について知ろうとする」じぶんの生き方や営みと、密接不可分な感じがする。おそらく世で言われている学問や知識で構築したようなものではなく、日々当たり前に暮らしている一人ひとりのなかに、人と人の間に、もうすでにあるものかもしれない。
 この「実態の書」を山岸巳代蔵が執筆したのは、1954年11月22日~30日と<注>にある。
発表は、「山岸会・山岸式養鶏会会報三号」誌上。1954年12月30日に発刊になっている。
 「すでにある、または見えてきた実態について解説する」と、言えないこともないように思う。
 
21日のカレッジで、1954年春から秋までの山岸巳代蔵の言動を追ってみたのが、興味深かった。
 
 1954年3月20日「会員諸氏に図る――会の技術と私の技術公開について」
「私としましては出し惜しみは好まぬところで、こころ置きなく発表したいのではありますが、受け入れ態勢ができないような感じがしますので、差し控えているのです。その最大の理由としては、“われ、ひとり栄えん”の人たちに利用されたくないのです。十人の富貴の出来ることは結構ですが、それよりも百人に安定した職業と生活を得て欲しいのです。
 私一人豊かになることは、愚かしいことと思いますし、私には急を要する仕事に日も足らぬ有様ですから、これを実験する十人のメンバーが欲しいと思います。真に受け入れ体制の整った人に伝えたいのです。無償無条件で譲れる人の現れることを希望します。」

1954年3月25日「本会の現状を検討しましょう」
「“われ、ひとともに繁栄せん”に徹し、絶対怒りを知らぬ、心の出来た、十人のメンバーの出現を期待します。一日も早く、全技術・方法・計画の譲れる人を」

1954年8月5日「難解な私の言動」
「我が田へ水を導き入れて増収しようとする人を、百里先の水源工事に誘おうというので、どうもご機嫌を損じてしまいますが、有難いことに大勢の中には幾人か、心から共鳴してくださる方があり、私の云わんとする気持とよほど近い線の合う人が、度重なるうちに、今では続々全国各地の方と相知る仲となって頂いて、夜明し会等で心底触れ合い、堅い握手によりどうやら理想社会が間近かにきたようです。
 私は抜本塞源方式により、永遠に揺るぎない真の幸福社会を造るための基盤を固める仕事をする人と、物心両面に豊かに、“われ、ひとともに栄えん”とする理想社会構成員と、相会するのが目的ですから、そうした目的以外の方には解らないものとして、読んだり、聞くこと等が迷惑となりましょう。が、案外自分たちに用のないと思われることでも、そうした目的があることに心して、見、聞きして下さるとご理解頂ける筈です」

1954年9月号「愛農養鶏」掲載 「病災は内より」
<理想社会世界は着々具現>
「私は二百年後を目指して、青年時代より理想社会の実現を計画し、近年その方法について書き綴っておりましたところ、私の有形物の減耗するに反比例して四囲の情勢が好転、奇しきまでに刻々
に、それを具現化するに即応する様相に展開し、その日の近いことと確実なことが明寮となりました」
「相寄る心ある人々に、具体的方法の一端を伝えることにより、理想社会実現は、空なるものではなく、必ず成就し得る確信を得て頂き、その意義の偉大さと確実性に、名誉・財産を離れ、身命までも投じてもと、相ともに喜びに満ち、希望に燃えて固い結束の下に活動してくださっています。
 これらの人々は、元より自己の経営職業は意中になく、養鶏から入った人も今は養鶏を超え、唯々
理想世界の構成員を育て護る仕事に熱中されています。理想社会構成員とは諦観的耐乏者でなく、物心共に豊満の中で各々の意義ある真の人生を指すもので、こうした機運が各地に、各種団体・各人の心の内に澎湃(ほうはい)として興りつつあり、愛農会員の実践力による地上天国の近きにあることが感じられます」

 1954年の3月はまだ「十人のメンバーの出現を期待します」だった。
8月「堅い握手により、どうやら理想社会が間近かになってきたようです」
9月「その日の近いことと確実なことが明寮となりました」
この間、なにがあったのだろう。
 「抜本塞源方式により、永遠に揺るぎない真の幸福社会を造るための基盤を固める仕事をする人と、物心両面に豊かに、“われ、ひとともに栄えん”とする理想社会構成員と、相会」したという、なにか実態が山岸巳代蔵には見えたということだろうか。それにしても、ここで表現されていることは、どんなことだろう。
 
「塞源」・・弊害などの生じる根本の原因をなくすこと

「よく知らないままに・・」--加治佐奈子さん来鈴

2011-06-17 08:45:32 | アズワンコミュニテイ暮らし
                 
今から伊勢を出ます。白子駅には2時過ぎに着きます」6月17日、昼ごろ女の人から電話が入った。白子駅に着くと、明るいブルーのワンピース(?)のお嬢さんがいた。「加治さんですか?」「はい」――無事、出会う。
 加治佐奈子さん。小学館の若者向けファッション雑誌の編集をやっている。伊勢神宮で禊ぎ(みそぎ)の行事が深夜あった。鈴鹿川に入ったりして、寝ていないと聞く。
 「おもさん(三日市駅近くに引っ越してきた須賀亨さんの愛称)に誘われて・・」と佐奈子さん。
 
まず、鈴鹿カルチャーステイションにご案内する。坂井和貴さん、本山照子さんが出迎えてくれた。茶室では、片山弘子さんにお茶を立てもらう。

 この日はゲストハウスに泊まる。夕食の後、牛丸信さん、中野敏美さん、小野みゆきさんも加わって、いろいろ懇談をした。伊与田節子さんが、チョコケーキを焼いてくれた。
 
佐奈子さんは、二年ほど、インド最北部、カラコルム山脈南にあるラダックという地域で、そこに暮らす人々と寝食をともにしてきた。昨年秋、日本へ戻った。
 学生のときから、貧困や格差のことを憂えていた。ラダックへは、小学館を休職して行く。先月、SCSで上映した「幸せの経済学」の監督ヘレナ・ホッジ女史とも面識がある。
 「ラダックって、乾燥した高地なの。緑は少ないし、水も電気もない家が多い。マイナス20度になる冬は厳しいし、長い。でも、小麦と家畜で暮らしている。家畜の糞は燃料や肥料になる。すべて循環している。人と人も、へだてがないの。助け合って生きている。澄みきった空気、碧い空、すばらしい」佐奈子さんから、ラダック暮らしの感想。
 「最近、洗濯機が流行っているの。私が寄せてもらったお家にも、洗濯機が手に入り、使えというの。でも、電気が使えるのは、夜の五時間、水も川まで汲みに行く。おまけに、真っ暗ななかで洗うので、汚れが落ちているかどうかわからない。結局、明るい時に川まで洗いにいくことになるの。二回やったけど、勘弁してもらったの」笑いながら、考えさせられた。
 佐奈子さんから「ラダック暮らしの最後に、私にとって幸福とか豊かさって何だろうとじぶんと向き合うことになった」と聞いた。チベット仏教の瞑想も体験してきた。内観にも関心があると聞いた。
 その夜、話題は、生き方や社会のありようにまで及び、それぞれがじぶんの体験や暮らしのなかの気持ちなど出し合った。話は尽きそうにもなかったが、伊勢で寝ていないこともあり、早めに休むことにした。

  翌日、まちのはたけ公園から見学をはじめた。小林耕一くんが、案内してくれた。佐奈子さんは、ラダックでは毎日はたけに行っていたようで、「街とはたけがこんなに近くにあるのって、いいですよねえ」と言っていた。


 おふくろさん弁当にて。ちょうど配達の準備に一人ひとりが集中している時間帯。佐奈子さんは、その様子を見ていた・・


 そのあと、新規開店を間近にした「お肉と野菜のお店」に行く。竹本広さんが、案内してくれた。
コミュニテイで作った野菜がこの店に寄せられてくること。ゆくゆくは、この地域の一軒一軒に食材を届けて行きたい。「一人暮らしのお年寄りにとっては、うれしいことですよねえ」と佐奈子さん。
 コミュニテイハウスでは、江口夫妻に出迎えてもらった。コミュニテイ食堂で中井夫妻と佐奈子さんの友人須賀亨さんが待っていた。いっしょに昼食をいただいた。
 午後は、サイエンズ研究所サロンにも参加。

  サロンのあと、記念撮影。左から二人目が須賀さん。
  何日かして、佐奈子さんから坂井さんにメールがあったと聞きました。こんどは、ラダックの人もいっしょに訪問したいとあったそうです。ラダックのこと知りたい人は下記ホームページを見てください。
http://julayladakh.org/

j自分を知るコースに参加して

2011-06-11 17:55:53 | サイエンズスクールのある暮らし
 昨年の初めに参加して、今回で2度目。
 自分を知るとはどういうことか。
 そのイトグチは、自分が見たり、聞いたり、思ったりしていることが、自分のなかで、どうなっているかを観察することからはじまると思った。
 「うちわを見ているのか」「見て、うちわと思ったのか」
 
 途中、歯が痛くなり、歯医者に行こうと思った。歯医者にいく日の検討会の時間が午後1時から夜までになった。2日後にも、歯医者に行った。このときも、検討会を午後からになった。
 この「なった」ということをしらべた。検討会は午前8時30分から午後6時までと案内の紙に書いてある。なんとなく「そうなっているんだなあ」ととらえている。検討会の時間を変えることを「そうなっているのを変える」としている。じっさいは、どうなっているのか?
 まず、そうなっていることがあって変えたのか?
 そして、「そうなった」のか?
 実際には、歯医者に行きたいというぼくの希望があって、そこから一人ひとりがなにかした、そのときの状態があるのではないか。
 「そうなっている」
 「そうなった」
 そういう事例を自分のなかにしらべていくと、ほとんどそれによって行動しているのではないかと見えてきた。
 
  じっさいを見ようと思っているけど、実はじぶんの考えが正しいとして、狭い世界におちいりやすい回路にきがついた。
 
 みゆきさんが、散歩のとき、「門から玄関までうーんと離れている家を見て・・」という例をだした。ぼくも、その日散歩で、そういう家を見た。
ぼくの感想。「そういう家をつくるには作る人のなにか考えがあるのだろうな」これって、なにか、どこか、すわりがよくない。
 「そういう家」といっているぼくのなかはどうなっているのだろう?
なにを見て、そういう家といっているのか?ぼくのなかにどういう感覚があるのだろう?「そういう家」とはじめから、きめつけているのではないか?自分の感覚だという自覚があるだろうか?
 じぶんの感覚だという自覚があったら、その家をつくった人の実際にもっと関心がでてくるのではないか。人と人とが、心底よりよき方向へ話し合っていける希望がそこに生じるのではないか。

 「私はなぜここにいるのでしょうか」という問い。
 わたしがいま、ここにおることの、実際てどんなことかと考えた。
 「自分を知るとは、どういうことだろうか」
 じぶんの実際を知るとはどういうことだろうかと考えた。
 「知る」
 「知っている」とは異う。
 実際を知ること。どこまでも、どこまでも、それに近づいていくこと。
 それしかない、それだけの途。
 なにも、いまあるものを変えなくてもよいように思える。
 実際を知れば、知るほど、当たり前の世界が現前するような、そんな予感。
広々として、活気にあふれ、興味深々、しらべればしらべるほど、尽きない関心がわてくるような・・・