思いがけないことだった。
彦根駅前にあるレンタルサイクル”めぐりんこ”で自転車を借りて、
家族5人と狩山くんと、「いざ出発!」と信号機のある横断歩道を
渡っていた。
ぼくら男たちが渡り終えたとき、振り返ると、妻小浪が舗道の
脇に座っている。娘桃子と孫の風友(ふゆ)がそばに立っている。
小浪はなにか痛そうにしている。
ぼくら男たちは、また横断歩道を渡って妻のところに行く。
向こうから来る人を避けようとして、転倒したという。
左の膝のあたりを打撲したらしい。
足を曲げようとすると、激痛が走るという。
とてもじゃないが、自転車には乗れない。
結局、その日はジジババは別行動で、車で彦根観光をした。
妻は自転車には慣れているはずだった。
それでも、いろいろな要素の積み重ねで起こるべくして起きたの
だろう。
翌日、鈴鹿回生病院整形外科で診察してもらう。
レントゲン撮影。骨には異常はない。
左足を医師がちょっと曲げかけると、「痛い!」と悲鳴が出るほど。
「これでは、診察できませんね。痛みがもう少しおさまるまで、
様子みましょう。足を固定する道具を付けて、松葉杖もしましょうかね。
安静がいちばんです」と医師。
妻が安静する。
妻に頼り切っているじぶんが、ぐーっと浮彫りになってくる感じ。
家に帰って、台所、お風呂場、洗濯機、そのほかもろもろが目に
映る。ぼくは家事をほとんどしていないなあ。
毎日の食事も、洗濯ものも、お茶もそのほか、妻の手になるものが
家の内外に、いかにあるか。
おもいかけず、妻の安息日ができたともいえる。
月曜日の昼は、家にあるものでチャーハンをつくる。
夜は、用事があって、作れないので、おふくろさん弁当をコミュニテイー
通貨でもらってくる。
食卓にすぐ食べられるよう用意して出かける。
靴下がはけないないので、はかしてやる。
ズボンは今ではじぶんではけるようになった。
火曜日、今日は昼、土鍋でごはんを炊いた。
からあげが冷凍庫にあったので、酢豚ならぬ酢鶏をつくった。
二品とも、なんとかさまになった。
土鍋ごはんは、おこげが出来て、「これはいける」
炊飯器を使わないでもいいのでは。
夜は、カレーをつくる。
家にある野菜、鶏の皮などいろいろ入れて作った。
ナスやシシトウも炒めて入れた。
出来上がり直前、妻がよろよろやってきて、名前のしらない香辛料を
入れた。塩・コショウを入れろ。「そうそう、インスタントコーヒーの
あまりものがある」と、それを入れた。醤油もいれて、わけわからなくなる。
味見をしても、いいのか、よくないのか、?。
「ええー、これで行こう」
ご飯は、土鍋で炊く。
夜の二品、まあまあ。というより、「カレー、けっこういけたんじゃない?」
妻の足は、どうも回復のほうに向いているか。
明日、再診に行って、どうなっているか。
いまは、松葉杖なしに歩ける。そろり、そろりだけど。
いまごろの洗濯機というもの、つかったことがない。
もう、洗濯ものは、洗わないと、いっぱいになりつつある。
家事というのは、つぎからつぎに、切れ目なくやることがある
という感じになる。
今朝、ふと、ぼくの世界は「やらなくっちゃ」という元から
できているんじゃないか、というのが浮かんできた。
「やることがある」
「やらなくちゃ」
「やることがある」というけど、どこにある?
「やらなくっちゃ」というけど、もともと「やらなくてもよい」
という世界にいきているのではないか?
耄碌したら、妻に介護されるとどこかで決めていた。
そんなことわからないと、つくづく感じている。
彦根駅前にあるレンタルサイクル”めぐりんこ”で自転車を借りて、
家族5人と狩山くんと、「いざ出発!」と信号機のある横断歩道を
渡っていた。
ぼくら男たちが渡り終えたとき、振り返ると、妻小浪が舗道の
脇に座っている。娘桃子と孫の風友(ふゆ)がそばに立っている。
小浪はなにか痛そうにしている。
ぼくら男たちは、また横断歩道を渡って妻のところに行く。
向こうから来る人を避けようとして、転倒したという。
左の膝のあたりを打撲したらしい。
足を曲げようとすると、激痛が走るという。
とてもじゃないが、自転車には乗れない。
結局、その日はジジババは別行動で、車で彦根観光をした。
妻は自転車には慣れているはずだった。
それでも、いろいろな要素の積み重ねで起こるべくして起きたの
だろう。
翌日、鈴鹿回生病院整形外科で診察してもらう。
レントゲン撮影。骨には異常はない。
左足を医師がちょっと曲げかけると、「痛い!」と悲鳴が出るほど。
「これでは、診察できませんね。痛みがもう少しおさまるまで、
様子みましょう。足を固定する道具を付けて、松葉杖もしましょうかね。
安静がいちばんです」と医師。
妻が安静する。
妻に頼り切っているじぶんが、ぐーっと浮彫りになってくる感じ。
家に帰って、台所、お風呂場、洗濯機、そのほかもろもろが目に
映る。ぼくは家事をほとんどしていないなあ。
毎日の食事も、洗濯ものも、お茶もそのほか、妻の手になるものが
家の内外に、いかにあるか。
おもいかけず、妻の安息日ができたともいえる。
月曜日の昼は、家にあるものでチャーハンをつくる。
夜は、用事があって、作れないので、おふくろさん弁当をコミュニテイー
通貨でもらってくる。
食卓にすぐ食べられるよう用意して出かける。
靴下がはけないないので、はかしてやる。
ズボンは今ではじぶんではけるようになった。
火曜日、今日は昼、土鍋でごはんを炊いた。
からあげが冷凍庫にあったので、酢豚ならぬ酢鶏をつくった。
二品とも、なんとかさまになった。
土鍋ごはんは、おこげが出来て、「これはいける」
炊飯器を使わないでもいいのでは。
夜は、カレーをつくる。
家にある野菜、鶏の皮などいろいろ入れて作った。
ナスやシシトウも炒めて入れた。
出来上がり直前、妻がよろよろやってきて、名前のしらない香辛料を
入れた。塩・コショウを入れろ。「そうそう、インスタントコーヒーの
あまりものがある」と、それを入れた。醤油もいれて、わけわからなくなる。
味見をしても、いいのか、よくないのか、?。
「ええー、これで行こう」
ご飯は、土鍋で炊く。
夜の二品、まあまあ。というより、「カレー、けっこういけたんじゃない?」
妻の足は、どうも回復のほうに向いているか。
明日、再診に行って、どうなっているか。
いまは、松葉杖なしに歩ける。そろり、そろりだけど。
いまごろの洗濯機というもの、つかったことがない。
もう、洗濯ものは、洗わないと、いっぱいになりつつある。
家事というのは、つぎからつぎに、切れ目なくやることがある
という感じになる。
今朝、ふと、ぼくの世界は「やらなくっちゃ」という元から
できているんじゃないか、というのが浮かんできた。
「やることがある」
「やらなくちゃ」
「やることがある」というけど、どこにある?
「やらなくっちゃ」というけど、もともと「やらなくてもよい」
という世界にいきているのではないか?
耄碌したら、妻に介護されるとどこかで決めていた。
そんなことわからないと、つくづく感じている。