とりたてて、じぶんの身の回りにフィリピンの親しい人がいる
わけではない。
今日、天皇ご夫妻がフィリピンを訪問して、日米の戦没者や戦禍に
巻き込まれて亡くなったフィリピンの人たちを慰霊されると聞いた。
朝のNHKテレビニュースで、フィリピン戦の生き残り兵、88歳の沖縄の
人が、戦友の遺骨探しに通っているうち、フィリピンの人たちのなかに、
日本人への憎悪が深くあることを知って、戦争がもたらしたすべての
犠牲者を慰霊する碑を建てるにいたった気持ちを語っていた。
20年前、大岡昇平の「レイテ戦記」を読んだ。
読後感が、以来ずっと尾を引いている。
著者は昭和19年7月、フィリピンの戦場に渡った。
翌20年1月、レイテ島の隣、ミンダナオ島で俘虜になった。
著者が見舞われた体験がどういうことだったのか、膨大な資料を
集めて、その全貌を明らかにする作品にしたと、あとがきに
記している。
レイテ戦が日米の軍の間でどのよう戦われたか、克明にその
場面が浮き彫りになるような筆致で延々と表現されていた。
固唾を飲んだり、ある場面ではそんな無駄死になぜ起こったと
歯軋りしたようなこともあった。
やっと、辿り着いたエピローグで、そのときハッとして、衝撃に
にたようなものが、自分のなかに生じた。
「しかししめてみれば歴史的な戦いの結果、一番ひどい目にあった
のはレイテ島に住むフィリピン人だったということができる」
日本人が1939年1月から1945年1月、日本の軍隊がフィリピン人
に与えた損害が畜産統計にあり、著者はそれを掲載している。
1939年 1945年
水牛 163、398 72,200
牛 14,694 5,070
馬 11,699 6,660
豚 342、251 134,220
鶏 1,300,754 528、470 (一部略)
今、パレスチア、アフガニスタンやシリア・イラクなどで起きている
庶民が置かれた状況を想像するに、日本人もこんなことをしていた
という記憶が浮かび上がっても無意味ではないのではないだろうか。
アメリカ軍もフィリピン人の暮らし、お構い無しに戦争をすすめて
いただろう。
記憶ということ。
数字ではないとおもうけど、日本人は15年戦争の敗北のあと、
フィリピンには63万人の日本軍兵士を送り込み、48万人がそこで
死亡したと記録があるという。
ぼくらの記憶はそこで途切れていないか。
これも、はっきりした根拠があるわけではないが、日本はアメリカ人と
ともに100万以上のフィリピン人を殺している。
過ぎ去ったものをいつまでも引きずることはできないけど、こういう
記憶は残しておきたいと思う。
20代の後半5年ほど、発展途上国といわれる地域から日本に
技術を学びに来る人たちの受け入れや、暮らしの世話をしていた
ことがある。1970年代、通産省の外郭団体の仕事だった。
目的はアジア、アフリカ、中近東、中南米への技術移転、そして
経済協力という大儀があった。
この仕事に携わるぼくらは、人とじかに接するので、その人たちが
帰国後、その地域で本人も幸せに、地域も豊かになっていくことを
願いながら、受け入れをしていた。
そのころは、韓国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、
タイ、インド、ブラジル、メキシコからの人たちで、多彩だった、中国からは
そのころは、皆無だった。
戦前、西欧との軋轢が高まってきたころから、政府によって、アジアの諸
国を欧米の植民地支配から解放するという「大東亜共栄圏」という方針が
もちあがってきた。
日本は西欧の植民地支配に対抗して、すでに台湾、韓国、満州で西欧が
していると同じことをやっていた。
戦時中、「大東亜共栄圏」という日本の動きに呼応して、英国支配から
ビルマの独立を目指したバー・モウは、独立政府の元首となり、日本と
緊密な連絡をとりながら活動した。
日本敗北以後、彼は「ビルマの活路ーー1939~1946年 革命の回想」
(1968)でつぎのように書いている。
「日本の軍国主義者たちについていえば、この人たちほど人種によって
縛られ、またその考え方においてまったく一方的であり、その結果として
他国人を理解するとか、他国人に自分たちの考え方を理解させるという
能力をこれほど完全に欠如している人々はない。
彼らが東南アジアにおける戦争の期間を通じて、ことの善し悪しにもかか
わらず、つねにその土地の人々にとって悪いことをしてきたようにみえる
のはそのためなのである。日本の軍国主義者たちはすべてを日本の視野
においてしか見ることができず、さらにまずいことには、すべての他国民が、
彼らとともに何かするに際しては、同じように考えなければならないと
言い張った。彼らにとっては、ものごとをするには、ただ一つの道しか
なかった、それが日本流ということだった。ただ一つの目的と関心しか
なかった。日本国民の利害、利益ということである。
東アジアの国々にとって、ただ一つの使命しかなかった。それは、日本国と
永遠に結びつけられた、いくつもの満州国や朝鮮になることである。
日本人種の立場の押し付け、彼らのしたことはそういうことだった。
それが、日本の軍国主義たちとわれらの地域の住民たちとのあいだに
ほんとうの理解が生まれることを、結果として、不可能にした」
バウ・モウさんは、何年も日本人と活動をともにしてきた。その人の回想は
重く感じる。
軍国主義者というけど、それは日本人であり、そのあと生まれ育って来た
自分でもある。
わが身をふりかえると、ぼくとは関係ないとは言い切れず、自分のこころの
うちにこのような現われになる要素は潜んでいるように感じる。
「ほんとうの理解」を阻むもの、わが身の内にありやなしや。
あったとしても、それを自覚できるか、どうか。
国境を無くして、理想社会に通じる近道は、日本人の反省と努力に
よって、自身の頭脳・技術・社会人としての教養・人格・肉体等、
実質・外観ともに歓迎される優秀人になること、という先人の言葉が
何度でも思い出されます。どういうことをいっているのだろう。
そして、これが先決問題ともしている。
いまの時代の空気を想うとき、どこからはじまるか、なんどでも、この
へんから・・・