かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

あの大豆粒がこんなに成長!

2012-07-31 08:33:45 | アズワンコミュニテイ暮らし

 昼間は、じっと家のなかで、天井を見つめている。

 少しでも、東風が部屋に入ってくると、ほっとする。

 

 7月14日に”老人と子ども大豆の種まきコラボ”をした。

 面積は、そんなに広くはないけど、大豆百粒運動のスタート。

 その時、参加した余川さんが、大豆の今を、知りたいなあと

つぶやかれた

 

 さっそく、日が昇る前に、大豆はたけを覗いてきた。

 なんと、一葉二葉と、大きさに多少のばらつきがあるけど、

のびやかに成長している。

 これから、土寄せやカメムシ対策が出てくるかもしれないけど、

「あの粒が、こんなになるんだあ」と感動。

 

 春に梅崎さんが乾燥した大豆を莢つきでもってきてくれた。

 農家の方は、当たり前かもしれないが、こうして一粒が10倍、

100倍と増えていく。

 大豆を暮らしのなかに、織り込んでいきたい。

 街とはたけをむすんでいきたい。

 誰かにやってもらうというより、たよりなくても、このへんの

おっさん、おばさんで。

 夢は大きく、ささやかでも、一歩一歩。

 

                      (宮地)

 

 

 


盛夏の朝、まちのはたけ公園、この人、あの人

2012-07-28 06:19:18 | アズワンコミュニテイ暮らし

 妻が足の故障で、はたけはもっぱらぼくが行く。

 今朝は、めずらしく、「いっしょに行こう」と言ってきた。

 

 久しぶりに、二人ででかける。

 われらが作物、ニラ・ネギ・生姜の畝を見て回る。

 よく分からないまま、やっている。

 マルチの代わりに、冬に集めた落ち葉を敷いた。

 ミミズも暮らしはじめている。

 

 梅雨まえに、収穫したニンニクの保存法を聞くため、中井さんを

探す。

 出荷場に行ってみると、女の方がなにかしている。

 近づいてみると、大平照子さんがナスの袋詰めをしていた。

 ナスはつやつやと光っていた。

 

 ぐるりと回って、まんなかの道に行ってみると、須賀さんが、インゲンや

ミニトマトの収穫をしていた。

 昨夜、須賀さんとは、マイライフセミナー参加後の佐藤夫妻や林悦子さんと

歓談していた。「いやあ」という感じ。

 

 

 ハウスのなかで、だれか動いている。

 中に入っていったら、耕一くんの奥さん円(まどか)さん。

 カメラを向けたら、キューリのコンテナを置いて、奥に行ってしまった。

 

 耕一くんは、真ん中の筋でキューリを収穫していた。

 「もう終わりだけど、けっこういけてるでしょ?」とニコリ。

 背筋がすっとしたキューリが目の高さにこっちも、あっちも・・

 「円(まどか)がやってくれるので、助かる」

 円さんは、東京育ち、こんなこと、はじめてらしい。

 

 

 ネギの定植したあと、水やり、小浪。

 

 隣のナスはたけでは、大平さんがナスの枝をヒモでつっていた。

 

 時間を見たら、7時半。

 8時を過ぎると、ぐっと熱気が高くなる。

 

 出荷場に行ってみると、中井さんと稲垣くんが、肥料のことかなにか

はなしている。

 出て行きかけたところに、「あんなー」と中井さんが呼び止めた。

 そのままの状態で、やりとり。この距離感がなんともいえない。

 

 まちのはたけ公園、ぼくらにとっては、2年目。

 大平さんが、団子状になった土を手のひらにのせて、「土はまだまだ、

3年はかかるなあ」といった。

 

 

 

 


やっぱり不思議だよなあ!

2012-07-24 09:25:04 | サイエンズスクールのある暮らし

 隣人の船田武さんは、ぼくより何歳か年上、サイエンズスクール鈴鹿の

会員仲間だ。

 会員ブログというのがある。

 彼は、日々のこと、まめに書いている。

 何日か前、「柳亭痴楽綴り方狂室」なる、古い落語の一節をブログに

載せていた。

 「上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近頃外回り、
 彼女は奇麗なうぐいす芸者(鶯谷)、にっぽり(日暮里)笑ったあのえくぼ、
 田畑(田端)を売っても命懸け、思うはあの娘(コ)の事ばかり・・・」

 

  東京山手線の各駅をもじったもの。 

 柳亭痴楽の、カエルが押しひしがれたような顔とあの、粘っこい、しわがれて

いて、それでいてその口調についひきずりこまれてしまう、うきうきした

楽しいリズム・・・

 

 船田さんのなかで、なにかがあって、こんな昔の落語がでてきたのだろう。

そんなことは、お構いなしに、じぶんの感慨がわっと出てくる。

 

 山手線ではない。こちとらは、京浜東北線である。

 鶴見駅の前にある商店街のなかで生まれ、育った。

 NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」は京浜東北線蒲田が舞台。

 鶴見・川崎・蒲田の沿線は、子どものころのじぶんのなわばり。

いまでも、雑然としていて、人いきれがして、それで親しく、くつろげる、

そういう下町風情というか、情緒が頭をもたげる。

 下町風情といったものが、そこにあったわけでもないのにね。

 

 船田さんとは、30年前、職場がいっしょだった。

 周りから、「そっくりだ」と言われていた。

 言われるまで、気が付かなかった。よく見ると、たしかに似ている。

顔つきだけでない。身振り、立ち居振る舞い、しゃべり方、照れたときの

態度、意識すると、不思議だなあとおもっていた。

 

 何年かして、二人は離れ離れになった。

 そっくりの片割れは、こんどは、”フーテンの寅さん”に似ていると

言われた。

 たしかに、葛飾・柴又、帝釈天の前の団子屋さん、あの家の佇まい、

どこか懐かしい。すぐ裏庭に通じて、お隣に接している。

 商店街のなかの、ガラス屋で暮らした場面が髣髴とする。

 大学時代から、寅さんのファンだった。じぶんが、似ているなんて、

おもったこともない。

 

 船田さん=じぶん=フーテンの寅さん、世の中にはこんなことがある。

 

 その船田さんと、30年後のいま、ふたたび、目と鼻の先の隣人として

いわばいっしょに暮らしている。

 やっぱり、不思議だよなあ。

 

 この間、月一回のマイライフミーテイングのとき、青年期、東京の調布で、

キャバレーをやっていたときのことを話していた。

 「真似乞食だった」と言っていた。

 どんなこと?・・・そのとき、周囲の事情から、いろいろなこと知りもしないのに、

あたかも知っているかのように、背伸びしていた。じぶんの意志とか気持ちとか

本心なんて、どこへやら、周囲に気を遣いながら、やってきた・・・?

 彼はもう70歳に近い。

 思い出話をしているというより、いまのじぶんをどう見ていくのか、社会が

どう映っているのかを、そんなことだしながら、見ているようだ。

 

 いまの彼を見ていると、なにか「歳を食ったとかいって、まあいいいかあと

のんべんだらりと暮らしているだけでいいの?」といった自問にさそわれる。

 こころの豊かさを真正面からさぐっている?

 

 外形がそっくりだからといって、こころのなかまではわからない。

(この世の不思議な縁を記念して、船田さんの奥さんがパチリ)


 それにしても、なんだか、やっぱり不思議だなあ。

 外形だけでなく・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「意思決定の仕組み、どうなっている?」

2012-07-21 08:33:53 | アズワンコミュニテイ暮らし

 7月17日(火)から、一泊二日で古橋道代さん、空閑(くが)厚樹さんのお二人が

アズワンコミュニテイーを訪れた。

 古橋さんは、グローバル・エコビレッジ・ネットワークの理事で、富士の麓にある

木の花ファミリーで暮らしている。

 空閑さんも、古橋さんといっしょに財務面で活動していて、ふだんは立教大学で

「持続可能なライフスタイル」の研究をしている。

 

  お二人は、近く、オセアニア&アジアの会合に参加する。

 日本国内のエコビッレジといえるような活動の取材がしたいということだった。

 

 アズワンコミュニテイーでは、”ふだん着で探訪DAY"という受入れをやっていて、

先ず、このスケジュールのなかで、来訪の趣旨にそえるようにと考えた

 

 鈴鹿は, 太陽がじりじりと照りつけて、焼けるような暑さ。気象庁は梅雨あけを

宣言。 

 昼下がり、鈴鹿カルチャーステーションに到着。

 

 あいさつのあと、坂井和貴さんがコミュニテイーのあらましを説明してくれた。


 たっぷり時間を用意しておいたつもりだったけど、熱心な質問があり、さいごは

駆け足になった。


 

 まちのはたけ公園では、小林耕一くんが案内してくれた。

 

 おふくろさん弁当では、岸浪龍くんが店頭「に出てきてくれた。

 「おべんとうは、全額リンカでだしています」には、空閑さん、おどろき。

 

 カンパニーでは、中井正信さんが「一人、一人がその人らしくやれるように、

それが会社の目的です」と話。

 

 コミュニテイ通貨”リンカ”のお店では,本山照子さんが、「やっていて」の

感想を話してくれた。「ほんとは、リンカなしでやっていることが、いっぱい

あるし、リンカなしでやれるようになっていきたい」

 ( 「あら、こんなところで」親しい人との思いがけない出会いも

 

サイエンズスクール事務局では、小野みゆきさんが社会のなかのスクールの

位置づけやコースの内容を案内。

 「コミュニテイーにかかわる人は、サイエンズスクールをベースに、暮らしや

仕事をしている人が多い」

 

 コミュニテイー・オフィスは、最近、オープンした。竹本美代子さんが応対して

くれた。「これまでも、家計のこととか、家族のことなど、さまざまな形で相談したり、

本人や関係者の間で話し合ってやっているけど、それを社会のしくみとして

相談にこれるようにしてみた」と話してくれた。

 

 今回は、サイエンズ研究所・こころセンター・地域通貨リンカ・PIESSの事務局に、

中野敏美さんを訪ねた。

 

 

 

 夕方、宿泊先の、”あっとほーむ本山”に到着。

 午後から夕方まで、密度の濃い見学だった。いかな、集中力旺盛なお二人も、

しばし一服・・・。

 

  この一泊二日では、17日の夜と18日の昼前、二回、コミュニテイーに

かかわっている人たちも加わって、懇談会がもたれた。

 古橋さんと旧知で、いまは鈴鹿に暮らしている須賀亨さんも参加。

 

 懇談会では、俄然、いろいろな感想や疑問があふれるように出された。

 それらの一つひとつ、じっくり話し合おうとした。それでも、懇談会のなかの

やりとりだけでは、とうてい検討しきれないという感じがした。

 

 「コミュニテイーというけど、ここではどいうことをそう言っているか分からない」

 

 「一人一人に焦点をあてる、一人ひとりの願いをかなえるというのをたくさん

聞いた。その願いがエゴから出たものだったら、どういうことになるだろうか?」

 

 「自発的、自立というが、コミュミテイーとしての意思決定のしくみは、どうなって

いるか?」

 

 「おふくろさん弁当は、全額リンカでもらえると聞いた。会社の目的も、金儲けと

いうより、その人がその人らしく、やりたいことができるようにしていくことと聞いたが、

他と関連しているのだから、それでは立ちゆかなくなるのでは?

 問題がおきたら、そのとき対処するということかもしれないが・・・」

 

 「関係している人たちで決めているというが、あとで不満がでてこないのか?」

 

 「全体で話合って、決めていったほうが、すっきりするんじゃないか。そのへんが

わからない」

 

 「それぞれの思いがバラバラだと、具体的にやっていくことが遅れる。すすめる

ことが目的ではないが・・・みんなで話し合うといことをしていないというのは、

不思議・・・」

 

 「やりたい人がやる、やりたくない人はやらない、というのは、一般でいう枠を

外すということを、やってみているんだなとおもう。これから、どうなるか、見てみたい。

 でも、そのやり方が通るのは、みんなが共通した意識をもっているときだけでは

ないか。悪用されることがありそう。そういう形で、成り立つかどうか」

 

 「アズワンって、一つということだとおもうけど、どういういう意味で使って

いるのかな?」

 

「サイエンズ研究所で研究し、スクールで検討する、そのへんに、このコミュニテイーの

本質があるようにみえる。スクールでは参加費を取っているようだけど、ここは

タダにすべきではないか」

 

 「研究というが、どういう研究をしているか、興味がある。人智と天智という

見方がある。天智のところ、研究対象になっているのかどうか」

 

 「サイエンズというのでは、2000年にどういう経緯でこの地にやってきて、

具体的にどんなことがあったのか、どんな困難があり、どう解決したか、それは

貴重な基礎資料になる。

 また、離合集散があったとも聞くが、離れていった人が、研究していく上で

財産ではないか。異端視するのではなく、多様性として、つながりもちながら、

やれたらとおもった。

 それにしても、すごい実践をしている、こういうのはお互いが信頼できている

間柄でないとできないのでは・・・」

 

「やりたいとおもって、やろうとしてやっても、実現しないと聞きましたが、

それは方法をもってすれば、できるということか?」

 

 「サイエンズということも、科学という意味もあるとおもうが、どういうことを

科学としているのか?」

 

 「スクールでは、日常から離れて、日常化レッスンとかの機会を設けている

と聞いたが、それを具体的な瞬間、瞬間が学びだとおもうけど、それを

されないのが、不思議」

 

 「セミナーとか、日常化レッスンというのは、どんな中身になるんですかね?」

 

 「こんなんで成り立つのかなと、ついつい余計なお世話というか、いちゃもん

みたいなこと言ってしまって・・・成り立つかどうかということは、悪意があって

言っているのではなく、本質をしらべたいところからのもの。

 成り立つかどうかは、そこやっている人が、その時その時考えること

ですもんね」

 

 「それにしても、困ったなあ。コミュニテイーといっても、そこでの意思決定に

しても、海外の人に、これをどう説明したらいいか、通じるだろうか?」

 

 懇談会の様子、じぶんなりのとらえかたで、一応、コトバにしてみた。

 文脈とか、その言葉の奥にある、お一人お一人のこころの世界は、未知の

もの、これから知っていくこととおもっています。

 なんで、こんな文字にするか、と自問すると、この一期一会の出会いから

人や社会の探求をさらにすすめたいという気持ちがありそう。

 有朋、遠方より来る、また楽しからずや。


 18日の朝は、近くの里山を散策、森が大好き人間、高崎広さんに

出会う。


 動から静、お茶会。片山弘子さんのお点前。

 

 18日のお昼ご飯は、コミュニテイー食堂ふぁみーゆ中井宅でいただいた。

 タイカレーは、とてもうまい。空閑さん、こころゆくまで味わっているようす。

道代さんも、肉なしのタイカレーを絶賛。

 お腹、満々足。

 人間って、欲が深い。腹がふくれただけでは、納得しない。

 軽い話題が、どんどん濃い話になっていく。

 でも、今回は、ここまでにして・・・

 さようなら!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生い立ちのなかで経済面の感覚や考えがどうなっていたか?(2)

2012-07-18 19:21:48 | サイエンズ研究所のある暮らし

<レポートのメモ   つづき>

 〇お金というものをどうみていたか?

 小学生のころ。1953~1960.

 5円玉を握りしめて、商店街の四つ角にある肉屋さんにコロッケを

買いに行く。揚げたてのコロッケにソースをかけてくれる。お昼ごはんで

あり、おやつだった。

 

 電池で動くブリキのロボットがほしい一心で、お金貯めたときがある。

 500円。息せき切って、おもちゃ屋で買った。うれしかった。

 家に帰って、動かしていた。ただ動くだけでは、物足らなくなり、分解した。

 それっきり、あんなにまでして欲しかったロボットは、ゴミになった。

 「欲しい」「お金」「手に入れる」 この一連のことが、おもったほど、

すばらしいことではないらしい、という感覚。

 

 衣服は、兄のお下がり。

 盆踊りのとき、年一回、新品の下駄をおふくろが買ってくれた。

これは、とびきり、うれしい。

 

 おふくろは、「金がない」といっていたが、居間の隅に汚いカバンをいつも

置いていて、そこからぼくらがお金を持ち出しても、なにも言わなかった。

 金勘定をしているところ、おもいだせない。

 

 高校は、国鉄と私鉄の二つを乗り換えていくところにあった。

 じぶんで、金を稼ぐことを覚えた。

 横浜駅ビルに、ボーリング場ができた。そのころ、投げたボールと

倒れたピンは、裏側に人がいて、拾っていた。学校が終わると、そのアルバイトに

行った。

 

 横浜港の港湾荷役の仕事も、ときどきやった。”たちんぼ”で、当ててもらって、

一日終わると、現金で1000円もらえた。

 

 金というのは、ほしいとなったら、いつでも手に入るという感覚だった。

 

 高校2年のおわりに、「大学に進学したい」とおやじに話したら、「金がない、

だめだ」と言われた。おやじから「金がない」と聞くのはじめてだった。

 口答えしたら、「穀つぶし!」と言われて、切れた。

 高校3年のとき、中学時代の恩師の紹介で母校の管理人として、夜の

宿直をした。それで、大学の入学金を貯めた。

 「こんなことも、出来るんだ」と、お金がないので、やれないという思いは

なかった。

 

 大学のころ、なにをおもったのか、家のある国電鶴見駅から、大学がある

御茶ノ水駅まで、定期券を買わずに、2か月ほど、通学していた。

 「どこまでやれるんだろう?」とおもっていた。

 もちろん、そのときがきた。御茶ノ水で捕まり、と東京駅の鉄道公安局に

連れていかれ、おやじをよばれ、何万かのお金を払った。

 なにかに、反抗していたのか?開き直っていた。

 

 大学生活は、授業料は自分で払うと決めていた。

 学校は、大学紛争盛ん。バリケードがあって、授業がないときが多い。

 アルバイトで、金を稼ぎ、勉強しているわけではないのに、授業料を

払う。「おれは、なにをしているのか?」ばかばかしくなった。

 3年のときから、授業料払わなくなったら、4年生の1月ごろ、事務局から

呼び出し。「授業料を納めなければ、除籍になります」

 お金を貸してやるから、卒業だけはしておけ、と言ってくれる人はあったが、

除籍になる。

 

 その春ごろ、新聞販売店に住み込み。親から離れようとかんがえた。

 朝は配達、昼は横浜港の荷役作業。

 2か月やった。お金になるが、身がもたない。

 

  ついに、サラリーマン暮らしで、楽に行こう、とガンバルことを断念。

 新聞の求人広告を見て、面接に行く。一人の募集に20人以上来ていた。

 その一人になった、通産省の外郭団体で、給料もよかった。

 

  研修施設に住み込み。発展途上国の人たちと一緒に暮らした。

  食費と家賃はひかれるが、自由にできるお金はけっこうあった。

 貯める気がなかった。ほとんど、飲み食いに使った。旅行もした。

 

 その後、金の要らない社会という運動に参加した。


 お金を貯めようという観念がなかった。

 じぶんには、そんなことできないと、ハナから決めているようなところが

あった。

 それは、今にいたっている。

  

 この3月に65歳。年金が支給されはじめた。

 家賃にも満たない。

 やりたいとおもっていることは、だいたい金にならないことが

多い。

 この歳になって、金を稼がなくてはでやるの、億劫。


 <つぶやき>

 これは、今週金曜日のサイエンズ研究所カレッジで、発表する

ためのメモ。当日、どんな発表になるか、皆目見当がつかない。

 先ずは、なんなと出して、それから、なんとかならないかなあ・・・