夏目漱石という名前は、聞きなれているし、何かのイメージが
できている。
桜の花が咲くころ、わが家の炬燵の上に「孫が読む漱石」という
文庫本が置いてあった。
「これって、読んだのかい?」と妻に聞く。
「ああ、それ秀ちゃんがリサイクルのところで、100円で買ってきた
本よ」
かみ合っていない。
ふとその気になって、一気に読んでしまった。
孫とは夏目房之介さん。戦後生まれ、同世代。
マンガの評論をしているらしいが、読んだことはない。
読んでいると、中学、高校のころ、「坊ちゃん」や「草枕」
「我輩は猫である」などに触れた記憶、本の中身というより、
そのときの自分の気分が思い出された。
「硝子戸の中」さえ読んでいる。何が書いてあったか、まったく
気持ちよく覚えていない。
漱石が明治43年8月、伊豆修善寺に胃潰瘍の転地療養の
ため滞在しているとき、吐血して、いっとき死んだ状態に
なった、そいうことがあったと初めて知った。
「修善寺の大患」と言われている。
漱石はそのときの様子を「思い出す事など」という作品で
一つひとつ確かめるように記録している。
ーーただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾けようとした
次の瞬間、赤い血を金盥の底に認めただけである。
そんなに思っている漱石に、夫人は「そうじゃありません、
あの時三十分ばかりは死んでいらしたのです」
実際、その間、付いていた医師の懸命の措置があった。
漱石にとって、その空白の時間があったということが、衝撃
だったらしい。
ーー余は一度死んだ。そうした事実を、平生からの想像通り
経験した。しかし、その超越した事が何の能力をも意味
しなっかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。
ただ失っただけが明白なばかりである。どうして幽霊と
なれよう。どうして自分より大きな意識と冥合出来よう。
孫の房之介さんは、この部分を意訳してくれている。
ーー(略)私は、私が私であるという個性と自意識を失っていた。
その事実だけがはっきりしていて、私は死後の世界で存在
しようがなかったし、まして個を包括する大きな存在に
帰っていくような経験などできようはずはなかった。
漱石について何かを言おうとしているわけではない。
漱石は40歳のとき、仮死の経験をした。
一昨年11月深夜、ぼくはいっとき心肺停止状態になり、からくも
意識が回復する経験をした。66歳。
その夜11時、妻は先に布団のなかにいた。パジャマに着替えて、
布団に入ろうと立っていたとこまでは記憶にある。次の瞬間、ぐっと
喉が詰まる感覚があったように記憶している。「苦しい!」とか、
なんとか感じる隙も無かった。意識が無くなった。
目が覚めたら、ベットに寝ていた。手が縛られ、口には管が
入っている。声は出ない。あちこちに管が見える。病院だと
思った。
妻と娘が「お父さん!」と声をかけてくれた。
何か自分の身に大変なことが起きたらしい。
看護婦さんは「奥さんに足を向けて眠れないですよ」と
何回も言ってくれる。
妻や医師や周囲の人たちがどれほど懸命に手当て
してくれて、心配もしてくれたことか。
にもかかわらず、正直、自分は一瞬に寝て、しばらくして起きた
という感覚。
「大変なことだった」というのは、自分の実感に無いと言っていい。
漱石は「修善寺の大患」以後、作品の中身が深まっていったという。
機会があれば、「道草」とか「明暗」という作品を読みたい。
「死ぬってのは、寝ていて、意識が戻らない感じ。戻らなかったら
それだけのこと・・・」
どこかで死を恐れている。でも、わりかし簡単、死はいつも身近に
ある。そのとき、そんな感慨があった。
今、死を怖がっていないかどうか。怖いという気持ちはある。
でも、何か身近だというのは、どこかにある。
意識というより、何か心のどこかに。
漱石が「思い出す事など」のなかで書いている。
ーー自分の介抱を受けた妻や医者や看護婦や若い人たちを
ありがたく思っている。世話をしてくれた朋友やら、見舞い
に来てくれた誰彼やらには篤い感謝の念を抱いている。
そうしてここに人間らしいあるものが潜んでいると信じて
いる。その証拠には此処に始めて生き甲斐のあると
思われるほど深い快い感じが漲っているからである。
「死んだら、それまで。あとは何にも無い」
たしかに、そんな感じはある。
「どうせ死ぬんだから・・・」と虚しい気持ちが出てこないわけ
ではない。
死は自分の身近にありながら、自分でそれを体験できない。
死後の世界を体験できる人もいるらしい。そんな人もいるの
かもしれない。いまのぼくには、そんな感じはない。
その時、知ったことがある。
いままでも、自分一人で生きているわけじゃないと思ってきた。
一昨年の体験は、実際、たまたま周囲の条件がかろうじて揃って、
障害もなく生き返ったのだった。
倒れたとき隣に妻がいた。妻は心臓マッサージの心得があった。
2階にいつでも飛んできてくれる青年がいた。救急車がすぐ
到着した。病院が受け入れてくれた。
もっといえば、病院の仕組み、医療技術、それを支える多くの
機関などなどなど、それらが、ぼくを生かしたとも言えなくもない。
ベットの上の自分は、すべてのことを看護婦さんや妻や周囲の
人たちに任せるほか無かった。オムツに排便もした。看護婦さんが
オムツを替えてくれた。
「ああ、すべてなされるまま、受けるしかない」
生は死と隣り合わせだけど、生きている、自分がここに
”いる”ということの凄さを知る。
なにかの条件が欠けたら、ここに”いなくなる”
生きる、ここにいる、自分がそうしたいから”いる”というのでは
なく、すべて自分の身体も含めて、すべての条件が揃って
いるから、”ここにいる”。
それじゃ、運命にそって生きるきゃないのか。
一人ひとりに身体があり、こころがある限り、自分の周囲にある条件も
自分の条件も、いろいろな状態はあるけれど、よりよく生きていく方向に
自分らしく揃えていくのが理じゃないか。
そういう作用が人のなかにあるのではないか。
健康正常になっていこうという働き。
身体にも、心にも。
それを”真実の働き”といってもいいのではないか。
そういう条件を揃えようとする、今ここに”いる”、そのことのなかに幸
福があり、安定があり、豊かさがあり、平和があるんじゃなかろうか。
「そうしてここに人間らしいあるものが潜んでいる」と漱石は書いて
いるけど、こでいう「あるもの」ってどんなことを指していたんだろう。
「死んでから極楽よりも、死の瞬間を、一生通じての最大の極楽境に
します」という一節がある。
その真意はこれから探っていきたい。
隔てない状態でこの世に生を受け、隔てを当たり前とする社会に
育ち、人と人との間に囲いをつくりながら、なんとかかんとかここまで
来た。
いまからも、そんなんで行くのか。
また、そんな社会を孫子の代まで継続させていくのか。
今から目指すもの。
人と人の間の囲いがあるままで、幸福や平和が実現しないことに
気づくこと。
人は何かをやっていくのだけど、先ず隔てのない、親しい人と
人とで現れてくる社会を実現すること。
そのために、本当の自分を知ることから、なんどでも立ち返る
ところ。そこから、はじまる。
「最大の極楽境」
どんなんだろう?
「体調はどう?」
いろいろな人からけっこうこんな声かけをしてもらう。
「うん、なんとか・・・」
”なんとか生き長らえている”というのがあるのか。
心中はどんな?
今、自覚しているのは、ぼくがどう思う、思わないに
かかわらず、心底から作用しているものが潜在している
のを感じる。健康正常になろう、なろうという働き。
にもかかわらず、ぼくのなかで今まで培ってきたものが、
そこから外れようとしたり、気がついてみると、外れちゃった
かな、という具合だ。
そんな自分を「なんとか」、願っている方向へ・・・
なろうという作用から発する現われを・・・「なんとか」