かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

人の心の状態

2018-02-25 17:52:11 | アズワンネットワークのある暮らし

春に向かっているのが感じられる。

自然界の様子が移ろっていくにつれて、気持ちも変わっていく

感じがする。

気持ちというけど、これを「人の心の状態」というのはどうだろう?

すこし、今日は、平穏に過ごせた。

身体に何がおきているか、計りしれないけど、まずはよかった。

そんなときも、身体の状態とともに、心の状態もある。

これは、よかったのか、どうだったのか。

一喜一憂の不安定さを感じる。まだまだだなあ、と思う。

 

作家高橋源一郎さんが明治学院大学のゼミで「論破禁止」という

ことを学生たちと話し合っているという。

源一郎さんは、論破しようとしている姿は正しさに酔っているようで

美しくないという。

その人の姿には、見えないし、つかめないがそのときの心の

状態があるように思う。

 

今回の平昌オリンピックでカーリング女子が「そうだね~」と

お互いに声掛け合っていることが、話題なっている。

その掛け合いを聞いていると、緊張がほぐれて、和やかな

気持ちが流れるように見えた。

今日、テレビを見ていたら、競技はメンタル面が大きいといって、

精神面の研究をしたらしい。そのなかで、自分のなかでちょっと

でも、「これはどうかな」ということや、「こうやったらいいかな」

ということが心に微かでも湧いてきたら、素直に出してみた、と

語っていた。

今では、そういう気持ちを、素直に出してみると「そうだね~」と

他の人からのアイデアも出てくる。

見ていると、誰かがコースを決めてるとは見えなかった。

各自、素直に出しながら「そうしてみよう」と

なっているようだった。

 

「男はつらいよ」の歌詞で、「顔で笑って、心で泣いて」というのが

あるが、ここでも心の状態にやはり目が向けられている。

残念だけど、それが自分にとって、人にとって、どんなことかに

ついては「人間って、こんなもんだよな」で留まっているように

見える。もっと深いところの気持ちもあるかもしれないのに。

 

今度、発刊された「次の社会ーー人知革命」では、こんな項目が

あった。

人と人の間柄で、それぞれの人の心の状態に光が当てられている。

本の中の4コマ漫画。

 

 

こういう言葉を出したから、こんな気持ちがあったんだなんて、

決め付けられないけど、こういう言葉がどんな心の状態から

出てきたかは後でも、振り返ることができる。

場合によると、言葉とは全然違う気持ちのときだってあるよね。

 

きのう、友人が職場の若い人が、同僚たちがおしゃべりに夢中で

仕事の切り替えが出来ていない。

「切り替えようぜ」という言葉がいえなくて、何かひっかっかて

いると、相談されたそうだ。

「どう言っていいか、何かそのことを相手にいえない」のだそうだ。

 

 

友人はそれ聞きながら、「ああ、俺も職場のことをそんなふうに他人事のような目で、見ているときがあるなあ」と振り返って見たそうだ。

別れ際に友人が「そんな立場にならないようにしてきたんだけど

・・・」と言った。

そのとき、ぼくは「立場をかえても、その中身が変わらないとね」と

一言、思わず言っていた。

この言葉がでてきた心の状態はどんなだったか、微妙だけど、

心に残っている。

 

「論破禁止」のような、激しい気持ちではないが、ぼくの中に

「正しいこと」という強い気持ちが自分で知らないうちに、潜んでいるの

ではないか。

先ずは、この辺に焦点を当てながら、自分にも人にも、「そこんとこ

どうなっている?」と話し合いながらやっていきたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


挿絵

2018-02-24 11:46:24 | アズワンネットワークのある暮らし

きのう、「次の社会ーー人知革命」を通読した。

夕方、娘桃子がひよっこり顔を出した。

横になっているぼくに、「どんな?」と聞いてきた。

「本を読んで、目が痛くなった」

「とうさん、あの本の挿絵にわたし描いたものあるんだよ」

「どこに?」

「岩田さんに、先ずは描いてみて、全部見せてほしいって、

言われて、出したんだ。そうしたら、手直しもあったけど、

載っているよ」

 

「どれどれと」、もう一度本を手に取り、こン度は本の中の挿絵を

選んで見て行った。4コマ漫画もあり、ほのぼのとした挿絵だった。

くまと子どもが並んで本を読んでいる挿絵があって、ほほえまし

かった。

 

 

2000年ごろ読んだ、川上弘美の小説「神様」という小品を想い

起こさせた。

書き出しはこうだった。

「くまにさそわれて散歩にでる」

実は、このくまが語り手の「わたし」が住むアパートに引っ越して

きた。くまは成人で大きかった。

同じ階の住人に蕎麦を届けてきた。

日常の暮らしにひょっこり現れたくまと、当たり前のように、

お弁当をもって、ハイキングに行ったのだった。

くまは「わたし」にいろいろ、気遣いしてくれる。

川原に出たら、くまは魚を手づかみで上手に獲った。

くまは、その魚にあら塩をふり、干物にした。

くまは、散歩の終わりに「抱擁を交わしていただけますか」と

言った。「人と別れるときの故郷の習慣なのです」

「わたし」は承知した。

 

不思議な世界が、ぼくのなかに浮かんできた。

くまと境目のない付き合い。

娘の挿絵がそんなイメージを彷彿とされた。

 

2011年東北大震災が起きた。

川上弘美は「神様2011」を書いた。

「くまにさそわれて散歩に出た」から最後まで、ぜんたいの輪郭や

文体は同じ。

ただ、原発事故の放射能汚染で水田が掘り返されたり、川原に

行くと防護服の3人連れが、魚を釣っている。

ここでのくまと出会った3人連れ(一人は子ども)くまの放射能

汚染を話題にしている。

何かが変化している。

 

くまは魚を獲り、干物にした。「河底も苔にはセシュウムがたまり

やすいけど、今日の記念にどうぞ」と別れ際に「わたしにくれた。

「抱擁を交わしえていただけますか」

震災まえの作品「神様」と同じだ。

くまは「熊の神様のお恵みがあなたの上に降り注ぎますように」と

言った。

「わたし」は、「この地域に住み続けることを選んだ」と告白した。

 

このものがたりには、くまがどのようにそこに出現したか、説明は

ない。

「わたし」が心のどこかで、希求している神様が出てきたのか。

「神様2011」は、のどかな地域が放射能で汚染された画面が

描かれている。

くまには、何の変化もない。

くまには、現実にどんなことが起きても、一つの世界に生きて

いるようだ。

じぶんのなかにくまが、当たり前の世界になるように・・

 

娘の挿絵は当たり前の世界を描いたものじゃないかなあ。

 

 

 

 


「次の社会へーー人知革命」が発刊

2018-02-23 17:42:30 | アズワンネットワークのある暮らし

 

 

この本の発刊を、今か、今かと待っていた。

子供のころ「少年サンデー」とか「少年マガジン」の発刊を

楽しみしていたような・・・

 

はじめて読む人は、「何が書かれているか」「絵空事を書いても、

現実はそう簡単じゃないよ」など、思うかもしれない。

 

いまは、サイエンズメソッドと呼ばれるようになった、サイエンズ

スクールを10年前に知って、参加した。

はじめのころは、さっぱり分からなかった。

だいたい、実際、鶯の鳴き声が聞こえているし、実物も見つけて、

この眼で見ているのに、それは「頭のなかのことじゃないか?」と

問われて、ずいぶん考えた。

 

あれから、10年、だんだん何を指し示したかったかが、分かるよう

なった。

そころが、その「知っている」というのが、曲者で何度でもゼロから

頭の中のこと、こころの状態を観察してきた。

 

「お金なしには暮らせない」

「お金を得るには、働かなくては」

「争い、対立が世界中で起きているのに、争いのない幸せな社会は、

実現するのだろうか?」

どこか心の底で、画餅、絵に画いた餅で終わってしまうのではないか、

と微かだけど、そんな気持ちがありそうだった。

そんな心の底にも、焦点を当てて、仲間とともにサイエンズメソッドに

触れてきた、分からないながらも、すこし目の前ノ霧が晴れるような

感じがしている。

 

今回「次の社会ーー人知革命」は、よく読んでみると、シンプルで

当たり前のことが書かれてある。

複雑に考えず、まずはそのまま読んでみるをすすめたいなあ。

 

 

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アズワン留学生、人としての成長

2018-02-19 10:17:12 | アズワンネットワークのある暮らし

週のうち、何回かはパソコンに向き合える日がある。

テレビは連日、どの局もオリンピックの映像を流している。

その雰囲気に巻き込まれているかなあ。

 

 

サイエンズスクールのブログにアズワン留学生のジンスンさんが

<アズワンセミナのスタッフをやってみてのメモ>を書いていて、

それが何か印象に残った。

 

それはこんなメモだった。

<セミナーのスタッフをやってみてのメモ>


1.探究を通して(知ることで)、自分の心からの願いや本心が

 見えてくる。
 何かを感じて感動したり、暮らしの中での実感によって「みんなと

 幸せになりたい」と思うようになるかもしれないが、それはこの場で

 やろうとすることとはちょっと違うなと思った。

 あくまでも「探究する」「実際にあるものを見る」そして「知る」

 ことで、自分の中から湧いてくるものが自ずと見えてくることなのだな。

 その場が「探究の場になるには」という辺をもうちょっと鮮明にしていきたい。


2.その人の実際はどうだろう。
 人のどこを見ているのか。自分が見て思ったことの向こうにある

 「その人の実際」を、常に知ろうとしているか、どうか。


3.今、一つが実現しているか、どうか。
 今、自分の中に隔てはないのか。
 今、自分は何でも出し合える状態なのか。
 今、ここに居る人で、目的に向かって協力し合っているのか。


4.もっとやれるようになりたい。
 沢山の人からずっと支えられて、全てを受けてきて、その場に立つこと

になった。 だからか、「自分がやる」との意識や負担感はあまり

なかった。

ただ、現状の自分の力量を切に感ずる機会になったように思う。

もっとやれるように成長していきたい。もっともっと人間を社会を知って、

人間らしく生きられる社会を早めていきたいなと、改めてしみじみと

思ったな。

 

 

 

アズワン留学生。

サイエンズスクールのコース、入門コース・アドバンストコースに

参加したことのある人の中から、限られたコースで理解したという

だけでなく、実際の暮らしのなかで「サイエンズを使えるように

なりたい」という人が現れた。2009年ころから。

研修ということではじまったが、研修を希望する目的、期間、費用など

検討しながら、留学制度を試み、留学生のための生活施設も2018年

3月完成しようとしている。

そこを、<サイエンズアカデミー>として、日本国ないだけでなく、

世界に門戸を開くことになた。

 

詳しくは、<サイエンズアカデミー>のHPを見てください。

 http://as-one.main.jp/zaidan/HP/academy.html

 

 

 

 

岩田さんが、メンバーを写真で紹介してくれた。

 

 

留学生の一人、韓国から来ているパク・ジンスン(30代、女性)が

サイエンズスクールで開催している「アズワンセミナー」にスタッフ

参加した。

留学の後半は、スクールのスタッフも経験して、自分で育んできたもの

が、実際の人と人の話し合いに使えるのかどうか、検証する試みだ。

 

 

メモについてのぼくの感想。

セミナーの目指すもの。

「何かを感じて感動したり、暮らしの中での実感によって「みんなと

幸せになりたい」と思うようになるかもしれないが、それはこの場で

やろうとすることとはちょっと違うなと思った。あくまでも「探究する」

「実際にあるものを見る」そして「知る」ことで、自分の中から湧いて

 くるものが自ずと見えてくることなのだな。その場が「探究の場になる

 には」という辺をもうちょっと鮮明にしていきたい」

 

そうなんだよなあ。何人かで話し合い、自分の気持ちも気兼ねなく

出せるようになって、各自人と人の間が近くなり、「みんなと幸せ

になりたい」という空気が漲ってくる場合がある。

ジンスンさんにも、こんな場面がそのときあったのかもしれない。

ジンスンさんは、そこでちょっと立ち止まっている。

  「あくまで「探究する」」

  「実際にあるものを見る」

   そして「知る」

 

ぼくらは、往々して、広々と明るい気持ちになったりすると、

「これだ!」と分かった気になる。自分も、つい10年前ころまで、

そんな感覚だったと思う。「探究する」というのは、いろいろな意見が

出てきてにぎやかに話し合うということでは、まだたりないらしい。

目標は、そういうことのなかから、「実際にあるものを見る」

ふだんは、見たり、聞いたり、考えているときは、実際にあるもの

見ていると捉えていることが普通かもしれない

でも、ここでは見たり、聞いたり、考えていることは、各自の

頭の中で捉えていることで、「事実実際」そのものは、別にあるんじゃ

なかろうか?

ここから、ポイントのような気がする。

だって、見えていること、聞いていることって、あまりにもありありと

実際にあるものととらえていると実感するんだから。

この解明のことを、ジンスンさんは言いたかったのかな。

そこが、はっきりしたら、どの人の意見も考えも「良い悪い」

「正しい正しくない」にとらわれず、いったんゼロになって、

「実際はどんなものだろう?」と究明できそうに思う。

この解明が進まないと、いま世界や暮らしのなかで起きている人と

人、国と国との争いなどの問題が解消に向かわないだろう。

ここが大事だということかな。

 

ことあと、事実実際そのものはどんなものだろう、という関心が

湧いてくるのかな。「知る」という核心かもしれない。

 

ジンスンさんは、もう3年ほど、いろいろありながら、留学生活

を続けている。

 

 

メモの最後、

「現状の自分の力量を切に感ずる機会になったように思う。

もっとやれるように成長していきたい。もっともっと人間を

社会を知って、人間らしく生きられる社会を早めていきたいなと、

改めてしみじみと思った」という一節は伝わってくるものが

あった。

 

   「春よ来い。早く来い

    歩きはじめたみよちゃんが

    赤い鼻緒のじょじょはいて、

    おんもに出たいと待っている」

 

こいうことに関心がもてる若い人はいるかなあ?

 

 

 

 

 

 

 








 


里山の焚き火

2018-02-16 16:22:53 | アズワンネットワークのある暮らし

先一昨日、割合温暖な日があった。

体調はすこしましに感じた。

身体に何が起きているか、よく分からないが、温暖な日は吐き気など

は、気にならなくなる。

 

以前から、里山の空気を吸いたいとどこかで思っていた。

その日の朝、ベルシテイで散歩の運動をしようと、小浪の運転で

出かけた。

日が明るかった。途中から、「里山にいってみようかな?」と

つぶやいたら、「いいよ」と小浪。

一日、部屋暮らしで森やそこの空気を吸ってみたかった。

里山は、寒いし、歩けないと思っていたけど、炭窯のあるあたりまで、

車を入れたら、坐って空気を感じることができるんではないか。

 

着いてみたら、炭窯の前に、60代のはじめて会うおじさんがいた。

片桐さんと言って、定年退職後、ひょんなキッカケでこの里山の

炭窯のことを知った。英二さんや高崎とも懇意になって、炭焼き

用に雑木林の抜倒にいったり、炭焼きの手伝いをしているという。

ボランテイアだと言っていた。

その朝、彼は一人、一斗缶に薪をくべて、立っていた。

 

ぼくらも、その辺から椅子を持ち出し、焚き火の前に陣取った。

火はいいもんだ。暖かいし、炎をじっと眺めていると、いろいろな

雑念が消えていくか感じがする。

「里山は楽しいですかね?」とぼく。

「ううん、何か落ち着くね」と片桐さん。

とりとめもない話をしながら、空を見上げると、森の梢の隙間から、

薄青い空が覗いている。

じっと仰いでいると、その天空は無限の宇宙にも、つながっているか

なと描いてみた。

ときおりささやかだったけど、風が焚き火の炎を揺らしていた。

 

焚き火は炭窯の前で炊いていた。

炭窯を見ていると、しみじみした気持ちになった。

5年前ぐらいだったか、南伊勢の炭焼き名人に出会った。

そのころ、60代前後の年寄り仲間から、里山といったら炭窯が

欲しいとなり、炭焼き名人に相談して、いろいろ苦労もしたが、

一気に作ってしまった。

「出来た!」と喜んだのもつかのま、そのとき豪雨があって、窯に

雨水が入り込み、天井が落ちてしまった。

それでも、名人が「こんなんで止めるわけにはいかん」とふたたび

崩れない工夫をして、なんとか使えるようになった。

 

考えてみれば、無謀だった。

窯は原木が3トン入る、大窯。材料の原木も調達先もなく、出来た

炭の流通先もない。

そのうち、仲間もなんだかんだで、一人減り、二人減り、最後は

英二さんと高崎が残った。

それでも、不思議なもので、やっていると、地元の雑木林を整理してほしい

とか、人手も定年後の元気な年寄りが噂を聞いて、手伝いに来てくれる

ようになった。売り先も、バーベキューのイベント屋さんがついてくれた。

 

窯はそのあともヒビが入ったり、すったもんだもあったけど、今は

落ち着いて、年間6回炭をつくれるようになったと英二さんは

胸をはる。

その炭窯をじっと見ていたら、里山の土中のなかに馴染み、少しばかり

風格さえ感じた。

炭窯の隣に、小高い山というか、土盛をした小山があって、一番上に

一本のヒノキの大木が空に向かって佇立している。

「これって、古墳じゃないか」

「窯を作る前には、先祖か山の神によろしくって、神事をしよう」

さっそく、英二さんがどこかで持ってきた榊をふり、一節自前の祝詞

をあげたのだった。

最近、高崎が地元の歴史に詳しい人から「あれはやっぱり古墳みたいだ」

と聞いてきた。

 

片桐さんが、焚き火に竹を入れる。

その度、炎が大きくなり、股や顔を暖めてくれる。

一時だったけど、いままで思いつかなかったようなことが、走馬灯

のように炎から立ち上ってきた。