梅雨入りしてから雨が降らない。
「おかしいではないか?」変な気持ちになる。
なにが、おかしいのだろう?
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに
この世は住みにくい」
明治の人、夏目漱石さんの言葉。
自分というものが意識されてきたとき、世間のしがらみが
強く意識されるのだろうか。
「とかくにこの世は住みにくい」
「しがらみ」を辞書でしらべると、
1、並べて打った杭に竹や木の枝をからめて、水の流れを
せきとめたもの、
2、まつわりついて、はなれないもの、
とある。
東北大震災以後、「きずな」ということが多く言われている。
「人と人のあいだの、断ちきることのできない結びつき」
人情の深さを想像させる。
この言葉、微妙なところがある。つなぎとめる、縛るなど、
「しがらみ 」になりかねない実感もある。
「きづな」にしても、「しがらみ」にしても、人と人のあいだの
こと。
社会といっても、そういう実体があるわけでないだろう。
人と人のあいだがどうなっているか、そこに実体があるの
だろう。
「一人一人の意志が尊重される自由なコミュニティ」という
観点で、このところ、かんがえている。
「一人一人の意志」というとき、「自分の意志はもちろん、
他の人の意志も尊重されているかどうか」と問うてみた。
「尊重したほうがいい」「尊重すべき」「尊重して当然」
意識の上では、そういうのが、じぶんのなかにあるように
おもう。
それって、「尊重」ということになっているかどうか?
そもそも、じぶんがどう考えようが、どう見ようが、自分に
たいしても、ほかの人にたいしても、「それぞれに意志が
ある」と、見えているか?
実際が、じぶんのなかで、どのようになっているのか?
日常の何気ないやりとり。
妻と二人、車で出かけようとしている。
妻「行きましょう」
ぼく「おお」
玄関を出てから・・・
妻「ちょっと・・・」と引き返す。
ぼく、車で待つ。
「なかなか来ないなあ」
「何をしてるのか?」
「いつまで待たせるんだ!」
「いつも、こうなんだから。女というのは・・・」
妻がやってきた。
ぼく「なにしてたんだ?こんなに待たせて」
妻「わたしにだって、いろいろやることがあるのよ」
いやあ、出かけ際にこんなことになること、ぼくは
願っていない。妻はもちろんそうだろう。
あまりにも日常的なやりとりで、「これが夫婦ってもんだ」
といえば言えないこともない。
それにしても、お互いに気分のいいものでない。
何か、お互いがからまって、身動きできない関係に
なっていくのがわかる。
まして、「一人一人の意志が尊重される」とか、「自由な
コミュニテイ」というところから、この状況を見たら、どんな
ことになるんだろう。
静かに振り返ってみると・・・
自問自答。
「なかなか来ない」というのが発端かなあ。
「そうおもうのに、なにか問題ある?」
「うーん、そこんとこ、じぶんが”思っている”ところに
止まっていないんじゃないかな?”実際、なかなか来ない”
になっていないかな?」
「実際、来ていないから、なかなか来ない、とおもった」
「そこ、どうなんだろうね?」
「”いつまで待たせるんだ”は、妻が実際していること、
を言ったのか?」
「えっ、だって実際、ぼくを待たせている」
「実際は、妻はなにかやることがあって、やっている、
ということじゃないか。”待たせる”とか”待たせられる”
というのは、頭ん中のことじゃないか?」
「えっ、あー、うーん」
なんか、じぶんの頭ん中のことに振り回されている感じ。
しかも、「妻がなかなか来ない」「妻から待たされている」と
妻が酷いことをしていて、ぼくは悲しい被害者のよう。
「妻には妻の意志がある」というのがまったく抜けている。
一方、「ぼくにはぼくの意志がある」というところから見ても、
妻についていろいろおもっているが、そのとき自分はどうし
たいのか、というものがない。
「ホントに妻と一緒にいきたい」とおもっているのか。
「妻に用事があるというなら、確かめて出かける時間を
かえよう」とおもっているのか。
「先に、一人ででも行きたい」とおもっているのか。
「相手がオレを待たせている」ということには関心が
いっているけど、自分の意志には無関心。
妻の意志にも、じぶんの意志にも、無関心というほかない。
あらら・・・。
小学6年の孫娘と小学2年の男の子が、近くにママと
暮らしている。
最近、孫の様子を見ていて、かんがえさせられることが
多い。
ママが横浜に出かけるというので、孫がわが家に泊まる
ことになった。
翌朝、ぼくがトイレに座っていたら、男の子がドアを開けた。
オチンチンをもう出していいて、「どいて」という。
「いま、使っている」という。
孫は、トイレに入ってきて、「横からさして」という。
ぼくは、孫に便器を明け渡した。
なんか、清々しいとおもった。
「どいて」というのは、ぼくからみたら無茶なことだ。
トイレを明け渡したぼくは、「やらされた」というのが残って
いない。子どもだからだろうか?
それだけでは、ない感じがする。
孫には、「こうすべき」とか、「しちゃいけない」とか、「しなくっちゃ」
みたいなものが無いのだろう。
「どいて」は、相手をどうこうしようというよりは、「どいてくれな
かったら、おっしこが出ちゃう」ということだったのでは。
おもいだしただけでも、笑けてくる。
不思議なもんで、孫とぼくのあいだに、こんがらがってくるもの
はないようだ。
子どもには、「こうした方がよい」とか、「こうすべき」とか、
「しなくっちゃ」というのがないように見える。
じぶんがやりたくないことは、やらない。
「返事しなさい」とか「風呂に入りなさい」といっても、テレビに
夢中のときは、「返事もしないし」、梃子でも動かん。
なんかの拍子に、これしよう、となったら、さっきあんなに
没入していたのに、さっさとそっちへ、飛んでいく。
「○○された」「しなくっちゃ」「こんなにしたほうがいいだろうか?」
アタマのなかで、知らない間にこんなおもいで、じぶんでじぶんを
縛っている・・・?
こんなときは、じぶんはどうしたいか、そこに関心がいっていない。
じぶんの意志は?
生まれたときから、ずっとそんなんじゃ、なかったんではないか、
とはおもう。
気がついたら、そんな自分になっていた。
といって、突然、急に、ではないだろう。
だんだんと、しみこむように。すでにある社会環境から、
両親はじめ、たくさんの人やことを通して・・・・
子どもの例を出したら、「そんなのは子どものときのことでしょ!」
と一蹴されてしまうかもしれない。
そだよね、大人になるって、「こうしたほうがよい」とか、
「そんなことはするもんじゃないよ」とか、「挨拶が出来る人に
なりなさい」とか、「少しは人の迷惑ということをかんがえなさい」
とか、そういいうことを身につけていくかの如し・・・
孫たちを見ていると、兄弟のあいだで自分を主張して大喧嘩して
いるかとおもえば、弟や姉が何をおもっているか、よく見ていて、
知っていて、とても適切に声かけたり、手を貸したり、場合によると
見るだけでほっておいたり、している。
「しなくっちゃ」とか「すべき」とういうのが、個人にも社会にも、無い
となったら、どんなことになるだろう?
秩序が乱れて、滅茶苦茶になるだろうか?
どこか潜在的にそのことを、不安におもっているいるじぶんがある。
当たり前の人の姿、社会のありようはどんなものだろう?
秩序が乱れると恐れるのは、そういうことがベースになった人や
社会が可能だとういう、ことを知らないからだとおもう。
そこをベースにした、人と人のあいだ、その実質がどんなことに
なるか、いまだかつて、知らない世界なのかもしれない。
「こんがらがって、しがらんでいる、というのが、世の中というものよ」
ああ、男はつらい、とやってきた。
「しなくっちゃ」「すべき」が無くて、あるいは無いからこそ、じぶんが
本当にやりたいことを、やれるだけ、やれる分だけ、気持ちのままに
やれるのだろう。
そういうものが無くなったら、一人ひとりが自分勝手になって、社会が
バラバラになるのだろうか。
バラバラにならないてために、話し合いをたくさんして、意見がまとまる
ようにしなくくちゃならないだろうか?
ここんとこ、アタマを冷やしながら、こころの底に耳を傾けながら、
誰もが、無理なく、明るくて清々しい人生がおくれる社会がどこに
どんなふうにあらわれるか、見ていきたい。
住みよい社会は実現できるか。
それは、出来る、いまじぶんの周囲社会から出来る。
希望はある。
宮沢賢治の言葉がある。
「ああだれか来てわたくしに云え、
”億の巨匠が並んでうまれ、
しかも互いに相犯さない、
明るい世界はかならず来ると”」
自分を知り、人生を知り、社会を知る。
ぼくのばあい、そこが希望の源泉のように感じる。