詩が生まれる時
ラジオを聞きながら、住職室の掃除をした。
千葉での余震に息子二人とオヤジ一人で、緊張した面持ちですごす昼間。
この一週間、東日本は、まるで命懸けのアトラクションにのっているようなものだと思う。
避難所にいる方々は、お寺にいる三人の男などより、ずっとずっと過酷な条件下、プライベートな空間もなく緊張しっぱなしだろう。私たちなぞは、気楽なものである。
皆さんからのコメントにレスしていてあらためて気づくのは、心の強靱さではなく、しなやかさだと思ったので、NHKのテレビを見ながら、夕方本を読んだ。
宇野信夫著「芸の世界 百章」(昭和48年発行)である。筆者は歌舞伎などの脚本家で、すでに故人である。雑誌か新聞に書いたエッセイをまとめた本だ。
この中で、髪の毛が薄くなってきた人を
「彼の頭はもう毛髪にみはなされていて居ます」
と書いている。わはははは。うまい表現だと思う。
ついでにもうちょっと。
筆者がたくさん聞いた講談のセリフの中で、記憶に残る名描写があるそうだ。
「一例をあげると、田舎の親分が子分にむかって、「今、なん刻(どき)だろう」ときくと、子分が「さァ、あの柿の木にあたる日ざしの按配じゃァ、なつ七ツ刻でもございましょうか」と答えます。これなどは、この短い対話(やりとり)で、その場の情景が眼に浮かびます。
博打打が勝負に勝って、一杯ひっかけて上機嫌で帰るところを、
「口の中で、楊枝をでんぐり返しをさせながら、ブラブラやって参ります」これも、その人物の動きが眼に見えます。
「あいつはヤタ一(飲み屋)で片足あげておりましょう」という言葉も、覚えています。この「片足あげて」という言葉で、安い飲み屋で一杯やっている様子がよくわかるのです。」
読んでいて思わず笑った。そして、テレビ画面に眼を移した。瓦礫の野原と化した街と山と海が映っていた。
被災した人たち、避難所にいる人たちは、一週間前まで自分が住んでいたこの変わり果てた景色を見て、いったい何を思い、どう描写するのだろうと思った。
もはや普通の文章で表すことはできまい。詩でしか表現できないだろう。
たくさんの悲しい詩がうまれ、多くの希望の詩も生まれているだろうと、身勝手に思った。
千葉での余震に息子二人とオヤジ一人で、緊張した面持ちですごす昼間。
この一週間、東日本は、まるで命懸けのアトラクションにのっているようなものだと思う。
避難所にいる方々は、お寺にいる三人の男などより、ずっとずっと過酷な条件下、プライベートな空間もなく緊張しっぱなしだろう。私たちなぞは、気楽なものである。
皆さんからのコメントにレスしていてあらためて気づくのは、心の強靱さではなく、しなやかさだと思ったので、NHKのテレビを見ながら、夕方本を読んだ。
宇野信夫著「芸の世界 百章」(昭和48年発行)である。筆者は歌舞伎などの脚本家で、すでに故人である。雑誌か新聞に書いたエッセイをまとめた本だ。
この中で、髪の毛が薄くなってきた人を
「彼の頭はもう毛髪にみはなされていて居ます」
と書いている。わはははは。うまい表現だと思う。
ついでにもうちょっと。
筆者がたくさん聞いた講談のセリフの中で、記憶に残る名描写があるそうだ。
「一例をあげると、田舎の親分が子分にむかって、「今、なん刻(どき)だろう」ときくと、子分が「さァ、あの柿の木にあたる日ざしの按配じゃァ、なつ七ツ刻でもございましょうか」と答えます。これなどは、この短い対話(やりとり)で、その場の情景が眼に浮かびます。
博打打が勝負に勝って、一杯ひっかけて上機嫌で帰るところを、
「口の中で、楊枝をでんぐり返しをさせながら、ブラブラやって参ります」これも、その人物の動きが眼に見えます。
「あいつはヤタ一(飲み屋)で片足あげておりましょう」という言葉も、覚えています。この「片足あげて」という言葉で、安い飲み屋で一杯やっている様子がよくわかるのです。」
読んでいて思わず笑った。そして、テレビ画面に眼を移した。瓦礫の野原と化した街と山と海が映っていた。
被災した人たち、避難所にいる人たちは、一週間前まで自分が住んでいたこの変わり果てた景色を見て、いったい何を思い、どう描写するのだろうと思った。
もはや普通の文章で表すことはできまい。詩でしか表現できないだろう。
たくさんの悲しい詩がうまれ、多くの希望の詩も生まれているだろうと、身勝手に思った。