「耕心(こうしん)」と「その時」

 大学の友人の奥さんが亡くなった。家内ととりあえず顔を見に行った。
 20年以上年末に、親しい家族が30人も集まって続いている会の仕切り役をしてくれていて、病状が思わしくなくなった一昨年から家内がバトンタッチしていた。
「起きなよ」と涙声で家内は震える手で、彼女の顔をなでた。

 亡くってまだ24時間たっていないが、友人は病気の変化とここ一カ月の経緯を、自分で納得するかのように話してくれた。

 昨日から葬儀までの6日間。彼はどんどんその経過の話が上手くなるはずだ。私も経験がある。自分でも「なんで俺はこんなに要領よく順序立てて話せるようになるのだろう・・・」。上手に話せるようになるのがせつなかった。

 先に生まれたと書く「先生」よりも、「先に死んでいった人」のほがたくさんのことを教えてくれる---そう私に言ってくれたのは敬愛する、僧侶でもあり医師でもある意志で益子西明寺の田中雅博さんだった。

 ほんとうだと思う。こんな悲しい場面でも自分の「心を耕す(耕心)」場になりうる。

 家内と色々なことを思い出し、そして「いつか我が身」の事態についてボソッ、ボソッと話しながら帰って来た。
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