平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




鎌倉駅東口から広場を抜け東へ行くと、若宮大路に出ます。
左手を見ると朱塗りの鳥居が建ち、その下には段葛(だんかずら)が見えます。





二ノ鳥居から三ノ鳥居まで続く段葛 
 
源頼朝は政子の懐妊を機に安産を祈願して、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に至る
従来の曲がりくねった道を直線に改修した参詣道を造成しました。
当時、この辺りは湿地帯だったので土盛りをして若宮大路の中央部分に
葛石(縁石)を積み上げ、一段高く築かれたのが段葛で、
将軍の参詣などの儀礼的通路として使用していたと考えられています。

時に置道(おきみち)・作道(つくりみち)などともよばれ、
段葛と称されるになったのは、江戸時代からといわれています。
近年の発掘調査によると、若宮大路は当時の道幅は33㍍余、
その東西両側には幅3㍍、深さ1,5㍍の側溝があったことが確認されています。

 現在の段葛の道幅は、社前に進むにしたがって狭くしてあり、
遠近法を使用しているといわれています。


段葛は一ノ鳥居から三ノ鳥居までありましたが、
明治時代に一部が横須賀線の鉄道工事によって失われ、
現存するのは二ノ鳥居から三ノ鳥居までの約500㍍だけです。
両側面に玉石が積まれ、桜やツツジが植えられたのも明治以降のことです。

見事な桜並木に整備され春には多くの花見客で賑わいます。

寿永元年(1182) 3月9日に 政子の着帯の儀式が執り行われ、
同月15日、
段葛の工事が始まりました。
頼朝が鎌倉入りした2年後のことです。頼朝が自ら指示し、
北条時政はじめ、御家人総出で土石を運んで造成しました。

長女大姫が誕生した時の政子は一介の流人の妻に過ぎませんでしたが、
今度は数多くの武士団を率いる鎌倉殿の正室としてのことでした。
頼朝はじめ源家の武将一同は跡継ぎとなる男子誕生を祈ったことでしょう。
同年8月には、願いがかなって頼家が生まれています。

三の鳥居は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまでは、
一の鳥居、二の鳥居とともに徳川四代将軍家綱によって
寛文8年(1668)に寄進された花崗岩製の鳥居でした。
現在の鳥居は鉄筋コンクリート造です。

文治元年(1185)5月、壇ノ浦で捕えられた平宗盛父子が
鎌倉に護送された際、若宮大路を通り、
三の鳥居前の横大路(東西に通じる道)に至り、
しばらく輿が止められ、次いで大蔵(倉)幕府に入りました。
(『吾妻鏡』文治元年5月16日条)

(碑文) 段葛だんかずら 
一に置石と称す 寿永元年三月 頼朝その夫人政子の平産祈祷の為め
 鶴丘社頭より由比海浜大鳥居辺に亘りて之を築く
 其の土石は北条時政を始め源家の諸将の是が運搬に従へる所のものなり
 明治の初年に至り二の鳥居以南其の形失へり
  大正七年三月建之 鎌倉町青年会

(大意)
 段葛は、置石(おきいし)ともいいます。寿永元年(1182)3月に、
頼朝は妻の政子の安産の願いを込めて、鶴丘八幡宮の前より
由比ヶ浜の大鳥居辺まで、この参道を築きました。
その土石を北条時政以下、源家の多くの武将たちが運びました。
明治はじめ、二の鳥居以南の段葛は失われました。



一ノ鳥居と若宮大路 
海岸側から一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居と並んでいます。

鎌倉のメインストリートの若宮大路は、南北に約1,8kmあります。

若宮大路に架かる由比ヶ浜歩道橋より鶴岡八幡宮を望む
鶴岡八幡宮写真紀行  
『アクセス』
「段葛」JR鎌倉駅東口下車徒歩約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年 
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年 
高橋慎一郎「武家の古都鎌倉」山川出版社、2008年

 

 

 



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