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倶利伽羅古戦場の加賀(石川県)側には、倶利伽羅合戦の兵火によって
焼失した長楽寺の後身、倶利伽羅不動寺山頂本堂があり、
境内には長楽寺跡や食堂があります。
倶利伽羅合戦で平氏軍は、大軍の強みを発揮できない山中に閉じ込められて惨敗し、
大将軍維盛はじめ僅かに二千余騎が命からがら逃れ、加賀国に退いていきました。
瀬尾(せのお)太郎兼康は武勇に名高い武士でしたが、運が尽きたのか
加賀の倉光成澄(なりずみ)に生け捕りにされ、また火打城で平家方に寝返った
平泉寺の長吏斎明も捕らわれ、義仲の前で即座に首をはねられました。
一方、志保山に向った義仲の叔父行家は、平家に囲まれ苦戦していましが、
義仲が送った援軍によって勝利し、清盛の末子知度(とものり)を討ち取りました。
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倶利伽羅合戦の敗因について、右大臣九条兼実は、彼の日記『玉葉』に
平氏の侍大将らが主導権争いをして統制を乱したためと記しています。
侍大将として倶利伽羅合戦に参加したのは次のメンバーです。
伊藤忠清の子息(忠綱・忠光・悪七兵衛景清・忠経)、
伊藤忠清の弟飛騨守景家とその子息景高、
越中前司盛俊とその子息(長綱・盛綱・盛嗣)らです。
中でも、上総介判官忠経・飛騨守景家・越中前司盛俊は
「平家第一の勇士」とうたわれていました。
ここで重要なことは、平家の御家人は、一門を構成する各家と
個別に主従関係を結んでいたということです。
小松家の御家人
維盛の父重盛は、清盛の先妻の子であり時子の実子ではありません。
小松谷(現在の小松谷正林寺辺)に住んでいたので小松殿とよばれました。
伊藤忠清は小松家に仕え、維盛の乳母夫でした。
宗盛の御家人
鬼神と称された越中前司盛俊は、清盛・宗盛に仕え、
飛騨守景家は宗盛の乳母夫にあたります。
この合戦には維盛の乳母夫伊藤忠清は従軍せず、
忠清に代わって維盛を補佐したのが、子息の忠経らでした。清盛の死後、
大黒柱は彼の妻時子であり、その息子宗盛が一門を率いる立場となりました。
嫡流小松家の家人である忠経らは、一門の主流派となった
宗盛の家人と功を争って対立し、軍を統制することができなかったようです。
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倶利迦羅不動寺(真言宗)
平氏軍は倶利伽羅合戦の際、この寺の前身である長楽寺に本陣を布きました。
縁起によると養老2年(718)に元正天皇の勅願により、中国から渡来した
インドの高僧、達磨大師の弟子・善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師が、
倶利迦羅不動明王(剣に巻きついた黒竜の姿)を刻み祀ったのが始まりと伝えられ、
このことから、この地を倶利伽羅と呼ぶようになりました。
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それから約100年後、弘法大師空海が諸国巡礼の途中に参詣し、
自作の倶利伽羅竜王像を安置して別当寺・長楽寺を開いたという。
山上には七堂伽藍が建ち並び、塔頭は21ヶ寺を数えましたが
その後、度々兵火にあって衰退し、昭和24年(1949)、
長楽寺跡に堂宇が倶利伽羅不動寺として再建されました。
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山頂の倶利伽羅不動寺からバスで移動
平成10年に建てられた倶利伽羅不動寺の西之坊鳳凰殿
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道の駅倶利伽羅源平の郷 津幡町字竹橋西
倶利伽羅峠の歴史や文化を知ることができる歴史資料館を始め、
宿泊や研修施設などが完備された倶利伽羅塾などがあります。
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火牛の像
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倶利伽羅不動寺に通じる道路から倶利伽羅峠一帯は
4月下旬には、7000本余の八重桜が満開になります。
倶利伽羅古戦場(1)埴生護国八幡宮
倶利伽羅古戦場(2)猿ヶ馬場・源氏ヶ峰・源平供養塔
瀬尾太郎兼康のその後をご覧ください。
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓
『アクセス』
「倶利迦羅不動寺」石川県河北郡津幡町字倶利伽羅
「西之坊鳳凰殿」 津幡町字竹橋
JR北陸本線・七尾線 津幡駅下車 タクシー 山頂本堂 20分 鳳凰殿 15分
『参考資料』
高橋昌明「平家の群像」岩波新書 高橋昌明編「別冊太陽・平清盛」平凡社
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫
「石川県の地名」平凡社 「富山県の歴史散歩」山川出版社
長い歴史の中で仏様の名前がお寺の名前になり、地名にもなっているのですね。
敗戦には必ず原因があるものですが、平氏は戦う前に軍における統率権の争いで意思の統一が取れていなかったとは。
でも重盛が早く亡くなってしまったのだから時子が生んだ宗盛が棟梁とされるのは仕方ないし。
彼が生きて平氏の家人を掌握していれば、こんな情けない争いはなかった筈と古兵達が嘆いた事でしょうね。
清盛の悪、凡庸な宗盛と対比して彼は多少美化されて描かれている部分がありますが、
頼朝に謀反を勧めた文覚でさえ「あれだけ人間的に優れ、大将にふさわしい人物はいない」とその死を悼んでいます。
義仲追討軍の人選をしたのは宗盛なのでしょうが、なぜ富士川合戦でみじめに逃げ帰った維盛を大将軍に再び起用したのでしょうか?
この疑問に『平家の群像』の中で高橋先生が次のように答えてくださっています。
「平家一門の中でも勇将のほまれ高く、主流派である清盛の息子知盛・重衡が追討軍に入ってないのは
頼朝らとの決戦にという名目で動員対象からはずされたのではないだろうか。」
ご訪問ありがとうございます。
お尋ねいただいた倶利伽羅龍王の真言について、
手元の仏教関係の本を調べてみました。
不動明王の真言は、あちこちに載っているのですが、
倶利伽羅龍王の真言を唱えるときの文句は見当たりません。
そこでネットで検索してみました。
「龍楊 中国伝統気功・大阪」のサイトに次のように書かれています。
「不動明王の剣に、まきついている龍を、倶利伽羅龍王といいますが、
そのマントラが、ノウマク・シッチ・シッチ・ソ・シッチ・シッチ・キャララヤ・クエンサンマンマ・シッリ・アジャマ・シッチ・ソワカ
37回、となえるのが基本ですが、この回数は、このマントラ特有のものですね。」