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一条戻り橋は、京都市一条通堀川に架かる橋です。
この橋は平安京の北端、一条大路にあり、鬼が出入りするという
大内裏の鬼門(北東)にあたります。
橋は何度も架け替えられていますが、平安遷都以来、同じ位置にあります。
この橋にはさまざまな伝説があり、 橋の下に安倍晴明が
式(織)神を石櫃に隠しておいて用事がある度に呼んできて、
自由に操って占ったといい、平安時代後期には、
吉凶を占う橋占の場所として知られていました。
橋占(はしうら)とは、辻占いのひとつで、
橋のほとりや橋の上に立って、通る人の 言葉を聞き、
それによって吉凶を占うことです。
式神とは、一種の精霊で鬼のような恐ろしい顔をしていたため
安倍清明の妻が恐れるあまり、
普段は戻橋の下に封じ込めておいたといわれています。
高倉天皇の中宮建礼門院徳子は、入内7年目で初めて懐妊しました。
もし皇子が生まれれば清盛は天皇の外祖父になります。そこで
皇子誕生を願って清盛は、高僧たちに様々な祈祷を行わせるのでした。
そしてついに徳子が待望の皇子(安徳天皇)を生みましたが、
『源平盛衰記』は、その出産に際して不吉な事態があったと語っています。
『源平盛衰記・巻10・中宮御産の事』は、
治承2年(1178)11月12日、清盛の娘の建礼門院徳子は
お産の気配があり、絶え間なく陣痛が続きますが お産になりません。
母の時子(二位尼)はじっとしておれず、
一条堀川戻橋の東のたもとに牛車を止め橋占をしてもらうと、
14、5歳ばかりの童子が12人、西から手を叩きながら出てきて、
「♪榻(しじ)は何榻、国王榻、八重の塩路の波の寄榻」と、
四、五返歌いながら、橋を渡り飛ぶように去っていきました。
時子は帰って弟の平時忠にこのことを語ると「国王榻」だから
皇子が生まれるに違いない大変めでたいことだ。と答えましたが、
生まれた子(安徳天皇)が八歳にて長門国壇ノ浦に沈むという
下の句「八重の塩路の波の寄榻」の意味を
よみとることができなかった。と記しています。
ちなみに「榻(しじ)」とは、牛車から牛をはずした時、
牛車のながえ を置き、乗降の際には踏台とする机型の台です。
また、藤原頼長の日記『台記』によると、右大臣藤原公能(きみよし)の
娘多子が、藤原頼長の養女となり近衛天皇に入内する前、
頼長が入内の成否を占ってもらった所でもありました。
外祖父の地位を狙う頼長は、多子が皇后になれるかどうか、
心配のあまり橋占を三回もおこなっています。
このように昔の人々は、迷ったり悩んだ時には、占いをして判断しました。
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戻橋は平成7年に架け替えられ、旧戻橋は晴明神社に置かれています。
傍らの石像は式神です。
晴明神社(安倍晴明の邸はどこにあったのか)
『アクセス』
「戻橋」京都市上京区一条堀川
JR 京都駅より9 番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分
阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より12 番「一条戻橋・晴明神社前」下車徒歩約2分
京阪 三条駅より12 59 番「堀川今出川」下車 徒歩約2分
地下鉄. 今出川駅より徒歩約12分
『参考資料』
小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫 志村有弘「京都異界の旅」勉誠出版
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書
井上満郎 「平安京の風景」文英堂 新定「源平盛衰記」(2)新人物往来社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)俊々堂
「魔界」や「異界」という言葉にぞくぞくします。
さまざまな伝説を教えて頂いて、千年~九百年前の世界にタイムトラベルするのがとても楽しいです。
下を流れる堀川は雑草が生い茂り、水もほとんど流れていません。
全く幻滅しますね。
千利休もこの界隈に屋敷を賜って住んでいました。
その利休の木像と生首を戻橋にさらされてしまいました。
ご訪問、ご案内ありがとうございます。
早速ジャンプして拝見させていただきます。