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父祖伝来の地! (yukariko)
2010-12-07 21:47:49
今と違う時代、一番大事なのは氏・一族・血統だと思いますが、ご祭神とも繋がるような太古より連綿と続いている一族に氏神としてのご加護をと神に願ったのは当然のことで、霊験あらたかだった石清水八幡を本拠地に勧請してますます尊崇したのは当然ですし、源氏にとっては誇らしい事だったでしょうね。
北条政子は源氏が勢力を拡大しる発端となった平直方の子孫として頼朝とも繋がっていたのですね。

20年の流人生活、旗揚げ戦の敗戦で千葉まで逃げたにもかかわらず、源氏の棟梁として名をはせた頼義、八幡太郎義家以来の父祖の地に大軍を率いて帰ってきた頼朝は感無量だった事でしょう。

本拠地の館をその鎌倉に構え、幕府を開こうという構想が具体的になったのはいつの頃なのでしょうか?具体的な肉付けは後にしてもずっと彼の胸で温められていたのでしょうね。
 
 
 
長いお返事になってしまいました (sakura)
2010-12-09 17:02:09
頼朝は平家追討を呼びかける以仁王の令旨を治承4年4月28日に北条館で受け取っていますが、動いていません。この約一ヶ月後、頼政・以仁王が戦死してしまいます。伊豆国の知行国主は源頼政、その子仲綱が伊豆守でしたが、頼政の死により平時忠が知行国主となって山木兼隆を目代に任じています。頼朝への監視は厳しくなったはずです。
6月19日、京都の三善康信の使者が頼朝のもとに到着し、以仁王の挙兵が失敗したことを告げ、その令旨を受け取った源氏は全て追討されるとの決定が下されたことを伝え、頼朝に奥州に逃げるよう勧めます。
頼朝が動いたのは6月24日、吾妻鏡によれば「三善康信の情報により逆に平氏を追討しようと考え、安達盛長を使者にたて源氏累代の御家人に挙兵を呼びかけた。」と書かれています。追討されるのは間違いないと判断した頼朝がせっぱ詰まって挙兵を決心したというのが真相のようです。したがって挙兵当初から幕府をつくるという構想はなかったと思います。
6月27日、三浦義澄と千葉胤頼が京都大番役を終えて帰る途上、頼朝のもとに立ち寄っています。ここでかなり具体的に話が詰められたと思われます。
挙兵するといっても20年間も流人だった頼朝には兵がありません。政子の父北条時政が一族を挙げて頼朝に味方しますが、この時、北条氏はまだ小豪族で力不足、頼りになりません。頼朝が一番頼りにしたのは、三浦一族だったはずです。三浦氏は早くから頼朝の挙兵に呼応しています。石橋山で敗北した際、三浦氏の勢力が及んでいた安房に逃れるということも予め三浦氏と連絡をとって決められていたと思われます。
鎌倉は三方が山に囲まれ、一方が海に開けた地形であるため、防御しやすく、攻めやすい理想的な地形であるといわれています。また頼義以来の本拠地でもありますが、頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、三浦氏の本拠地三浦半島に近い所にあることだと思います。何かがあればすぐに駆けつけてくれます。
房総半島から鎌倉入りを果たした頼朝は富士川に出陣、勝利すると直に上洛を命じます。しかし三浦義澄、千葉常胤、上総広常らに諌められ、鎌倉に腰をすえて東国平定に専念します。頼朝が鎌倉に幕府をつくろうとしたのは、よくわかりませんが、治承4年10月大軍を率いて鎌倉に入った頃か同月、諌められて上洛を諦めた頃ではないでしょうか。
頼朝は妻政子の実家の先祖から自分の先祖がもらった土地に幕府を開いたことになりますが、さらに下ると鎌倉幕府は北条氏のものになってしまいます。
細かい字の上長文、読みにくかったと思います。すみませんでした。
 
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