壇ノ浦で生けどりとなった人々が義経に護送されて鳥羽に着くと、
この行列を見ようと鳥羽離宮の南門から鳥羽の作り道まで都人だけでなく、
近国、遠国からも多くの人々が集まってきて大混雑しました。
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小八葉(こはちよう)の車は、前後のすだれを上げ、左右の物見を開き、
外から見えるようにしてあります。先頭の車に乗っているのが宗盛、
その嫡男清宗の車が続きます。次に平大納言時忠、
後ろに続くのは20余人の侍です。後白河法皇も当時の院御所
六条西洞院(にしのとういん)に近い六条東洞院に車を停め、
身を潜めてこの無惨な引き廻しをご覧になりました。
元暦2年(1185)4月26日のことです。
かつて宗盛が内大臣となった際には、拝賀式の儀式が盛大に行われ、
多くの公卿・殿上人たちが従いましたが、
今は、やはり生け捕りの身となった侍らが従うのでした。
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『平家物語絵巻』一門大路わたされより転載。
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一行は六条通りを東へ、賀茂河原まで渡されて、それから引き返し、
六条堀川にある義経の邸で宗盛父子を預かりました。
六条堀川一帯には、源氏累代の邸があった所で、
源氏堀川館と(六条堀川館とも)いいます。
源頼義が西洞院左女牛(さめが)小路に館を構えて以来、
義家、為義、義朝、義経まで六条堀川を拠点にしましたが、
義経が兄頼朝に追われ、京都を逃れたあと焼き払われ、
その後は再建されることはありませんでした。
ちなみに六条通リは、平安京の六条大路にあたりますが、
現在の六条通は狭い道路となっています。
義経の館について『吾妻鏡」』には、「六条室町」と記されています。
どちらにしても、この付近は河内源氏代々の館があった地であり、
義経がこの地を邸宅に選んだことはごく自然なことと思われます。
また、六条西洞院 にあった後白河法皇の院御所(六条殿)の
近隣ということも義経が六条を邸宅とした理由のひとつと考えられます。
この屋敷内にあった名水「左女牛井(さめがい」」だけが残り、
江戸時代には茶の湯に用いられましたが、堀川通の拡張で
井戸は破却されました。堀川通の東に左女牛井町の町名が残り、
堀川通に建つ「左女牛井之跡」の石碑が唯一の遺跡です。
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石碑は京都東急ホテル東南すぐ、堀川通の緑地帯にあります。
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側面には「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代既に名あり。
元和二年在銘の井戸稀なり。第二次世界大戦に際し昭和二十年疎開の為撤去さる。
当学区醒泉の名は之に由来する。井筒雅風」と刻まれています。
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宗盛には、嫡男清宗の下に腹違いの副将(能宗=よしむね)という名の
息子がいました。生捕の中に8歳の童がいることを知った宗盛は、
敗戦後、離れ離れになったわが子副将に違いないと鎌倉へ下向する
前日の元暦2年(1185)5月6日、一目会わせてほしいと
源義経に懇願し、許されました。
2人の女房に付き添われて久しぶりに父を見た副将は、
喜んで宗盛の膝に上ります。宗盛は副将の髪を撫で、
涙ながらに「この子の母親は、産後の肥立が悪く亡くなりました。
今わの際にどうかこの子を自分の形見として可愛がってくれ。と言うので、
清宗を朝敵を討伐する際の大将軍に、能宗を副将軍にという
思いから副将と名づけ、不憫さにこの子を溺愛し、
片時も離さず育てた。」と警護の武士らに語ると、
武士達はこぞって涙にくれ、その場にいた
清宗、乳母たちも涙せぬものはいませんでした。
日が暮れて別れの時が来ましたが、副将は泣いて
宗盛の袖に取りすがり、帰ろうとしません。
清宗がこの様子を見かねて「すぐここに客人がおいでになるので、
早くお帰り。また明日おいで。」となだめますが、
父にすがって離れません。それを乳母が抱き取って
御車に乗せて帰ると、見送った宗盛は「このつらさに比べれば、
日頃の悲しさはものの数ではない」と嘆きました。
その夜、副将を預かった河越小太郎重房は、「この暑い時節に
幼い者を引連れて鎌倉まで行くに及ばない。
京でよきように計らえ。」との義経の命を受けました。
翌日、副将は迎えの車に「また昨日のように父上のところへ参るのか」と
喜んで乗ると、車は六条通りを東へ向かい、六条河原へ到着しました。
六条河原は、現在の五条大橋より南、正面橋辺りまでの鴨川の河原をいい、
処刑の場として度々『平家物語』に登場します。
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車を降りた副将は不審に思い、重房の郎党に斬られそうになると
逃げ出して乳母のふところに隠れました。
乳母たちは副将を抱きかかえて泣き叫ぶので武士らは憐れみましたが、
涙を抑え重房が「今となってはどうしようもない。さあ早く」と促し、
武士たちは乳母の懐から副将を取り首を掻き切りました。
さすがにそのいたましさにみな鎧の袖を濡らしました。
その首は検分のため、鎌倉へ下向する途中の義経に届けられました。
乳母たちは義経一行をはだしで追いかけ、
後世を弔いたいと必死に願い、首を取り戻しました。
数日後、桂川から2人の女房の死体があがりました。
乳母が副将の首をふところに、付き添いの女房が
遺骸を抱きかかえていました。(巻11・副将誅=きられ)
『延慶本』では、副将殺害の場所を賀茂河原でなく、桂川とし、
刀で殺害するのでなく、石を入れた籠の中に入れ沈める
柴漬(ふしづけ)にして殺され、二人の女房は尼となって
法華寺に入ったとされています。
河越重房 (1168-1185)は、 武蔵国の豪族
河越太郎重頼の嫡男で母は比企尼の娘です。
姉妹に源義経の正室の郷御前(さとごぜん)がいます。
彼女は頼朝の命により義経に嫁ぎ、頼朝と義経が対立したのちも
義経の逃避行に従い、最期を共にした女性です。
平清盛は平治の乱で敗死した源義朝の遺児たちを助けました。
斬罪の頼朝を助命し、常盤が生んだ3人の幼い子
(今若・乙若・牛若)も助けています。
この助命した遺児たちに平氏は滅ぼされるのです。
頼朝は自身の経験から、平家の血筋を根絶やしにしようとしたのです。
源氏堀川館・左女牛井之跡・若宮八幡宮
『アクセス』
「左女牛井之跡(さめがいのあと)」の石碑
市バス「堀川五条」下車徒歩約5分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社、1987年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年
林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年
図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年