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法楽寺は紫金山(しこんざん)小松院と号し、真言宗泉涌寺派の別格本山です。
治承2年(1178)清盛の嫡男小松内大臣平重盛が創建したと伝えられ、
「田辺のお不動さん」の名で親しまれている名刹です。
院号は小松の大臣(おとど)といわれた重盛(1138~1179)にちなむ小松院、
寺名は敵味方の区別なく慈悲の心で接する「怨親(おんしん)平等」の法楽、
山号の紫金山は宋国育王山請来の紫金(しこん)二粒の仏舎利を表しています。
宋の育王山(中国五山の一つ)仏照国師を崇拝していた重盛は、
黄金三千両を祠堂料として送り、紫金の舎利2個をいただき
この寺に納めています。
紫金とは「紫磨黄金(しまおうごん)」の略で、
紫色を帯びた最高の黄金を意味しています。
『平家物語・巻3・金渡(こがねわたし)』にも、
重盛が育王山の仏照禅師に黄金三千両を贈り
結縁を求めたことが記されています。
一説によると、重盛は仏照国師を我が国に迎えようとしましたが、
仏照は丁寧にこれを断り代わりに秘蔵の仏舎利2個を贈り
その志に報いたという。(『摂津名所図会』)
法楽寺の古文書には、その時を
「南宋第二主(南宋第2代皇帝の意)孝宗(こうそう)順熈二年、
本邦高倉安元二年(1176)乙未也」」と記し、
重盛の邸内に多くの僧侶が招かれ、
一七日(いちしちにち・七日間)、昼夜を問わず香を
焚いて経を読み、大法要を行ったとあります。
治承3年(1179)5月、重盛は熊野参詣の途次法楽寺に立ち寄り、
田地四反6畝八十歩を寄進し、盛大な落慶法要を営み、
紫金二個の仏舎利とともに平治の乱の時に亡くなった
源義朝の念持仏・如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)像を安置し、
「怨親平等」に源平両氏の菩提を弔ったと伝えています。
この如意輪観世音像の背面には、「左馬頭義朝
一刀三礼(仏像を彫刻する時、一刻みするごとに三度礼拝すること)
久安二年(1146)丙寅(ひのえとら)
二月十八日法眼湛幸作之」との墨書銘があります。
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南田辺にはかつて舎利田という地名がありましたが、
これは重盛が舎利供養料として寄進した田の跡といわれています。
熊野信仰が盛んになると、平家一門は熊野本宮大社の
造営にも関わり、その功で肥後守というポストを得ています。
忠盛は熊野本宮造営の功績を息子に譲り、
20歳の清盛が肥後守に任じられたのです。
京から熊野へは、大阪・和歌山を経由して熊野へ参詣する
ルートが一般的でした。造営に際して、
忠盛や彼の郎党たちが熊野と京の間を盛んに往来し、
この摂津田辺の地も度々通ったであろうことは推測できます。
そんな縁ある地に重盛は白羽の矢を立て、豪壮な堂宇を築いたようです。
当時、財力を提供してポストを得るということはよくあることでしたが、
それが熊野本宮であったことは注目すべきことです。
平家重恩の身であった熊野別当湛増は、以仁王の謀反を
清盛に知らせ本宮の手勢を率いて、源氏方についた
那智・新宮の軍勢に戦いを挑んで敗れています。(『巻4・源氏揃』)
重盛は法楽寺落慶法要が行われた治承3年の8月に42歳という若さで
清盛に先立って病没し、平家の礎が傾く原因の一つとなりました。
法楽寺の位牌には「治承三年己亥(つちのとい)八月朔日薨(こう)
当寺開基小松院内大臣平重盛公照空浄蓮大居士位」とあります。
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最寄りのJR南田辺駅
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⇦300m法楽寺
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法楽寺は摂津国田辺、現在の大阪市東住吉区山坂にあります。
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山門をくぐって正面に建つ三重の塔は、
平成8年(1996)に再建されたものです。
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本堂
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創建時の伽藍は元亀(げんき)2年(1571)、織田信長の
戦火にかかり焼失しましたが、12世紀の名品と評価される
「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王二童子像」(国重要文化財)、
「銅製蔵王権現立像(ざおうごんげんりゅうぞう)」(府有形文化財)などは
焼失をまぬがれました。
その後、平盛家(恩智次郎右衛門の子)が出家して快裕と称し、
天正13年(1585)に復興にあたりました。しかし、戦国時代のことでもあり、
容易に進まず江戸時代の中頃まで細々と法灯を継いでいました。
延宝6年(1678)、河内三大寺のひとつ、野中寺(やちゅうじ)から来た
洪善(こうぜん)が再興に努め、大和大宇陀の松山藩織田家の殿舎を譲り受け、
宝永8年(1711)本堂・山門を築き、中興の祖と仰がれました。
大和松山藩主は織田信長の次子、信雄(のぶかつ)を祖とする一族で、
信長の兵火に焼けた寺院を、その遠孫の殿舎で復興したことになります。
かつては源義朝の念持仏如意輪観世音を安置していましたが、
鎌倉初期に不動信仰が盛んになると、いつの間にか不動尊が有名になり、
今では厄除田辺不動尊として知られ、
毎月28日の縁日には多数の参拝者で賑わいます。
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熊野街道沿いには「たなべはうらくじみち」と
刻まれた石標が各所にあったといわれ、
四天王寺の南門の庚申堂付近にも現存しています。
このことからも江戸時代から法楽寺への
盛んな参詣があったことがうかがわれます。
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石標は、近畿労働金庫天王寺支店(大阪市天王寺区北河堀町4-22)
北へ約10メートルのところにあります。
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「これより右たなべはうらくじみち」と刻まれた古い道標。
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重盛の念仏堂跡に建つ正林寺 小松谷正林寺(平重盛阿弥陀経石 )
死期を悟った重盛が参詣した熊野本宮平重盛熊野詣(熊野本宮大社)
大阪市の法楽寺(2)重盛が賜った育王山伝来の舎利安置
『アクセス』
「法楽寺」大阪府大阪市東住吉区山坂1丁目18−30
JR阪和線「南田辺駅」下車、東へ100メートル
大阪メトロ谷町線「田辺駅」下車、西へ150メートル
拝観:年中無休。6:00~17:00 電話:06-6621-2103
『参考資料』
永井路子 木南卓一著「法楽寺」 (平重盛・慈雲尊者と法楽寺 )法楽寺、昭和53年
三善貞司編 「大阪史蹟辞典」清文堂出版、1986年 「大阪市の地名」平凡社、2001年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年