安徳天皇の行宮所跡が屋島周辺に二つあります。一つは源氏ヶ峯の南麓、牟礼の六万寺です。
一門が屋島にやって来た当初、行在所となった寺で古戦場の東の方にあります。
もう一つは屋島の東麓、安徳天皇社の辺りに置かれ、六万寺から寺の西方にかけて
建てられていた建礼門院や一門の住まいをその周囲に移して御所としました。
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平家の陣を背後から襲おうと、義経勢は阿波勝浦から難所の大坂峠を越え、
屋島内裏の対岸に到着しました。当時の屋島は海に浮かぶ小島でした。
引き潮の時は馬でもこの島へ容易に渡ることができると知った義経は、
小勢であることを悟られないために、屋島対岸の牟礼、古高松の道筋の家々に
火をかけながら進軍し、大軍の襲来をよそおいます。そして黒煙が天を覆おう中、
小分けにした兵をいくつも繰り出して、浅瀬を渡り一気に屋島内裏へと攻め込みました。
ちょうどその時、屋島の陣では平家に叛いた伊予の河野通信を討つため
出撃していた田口成良(重能)の子、田内教能から送られてきた通信の郎党、
百余人の首実検をしていましたが、巻き上がる炎に源氏の大軍が
押しよせてきたと勘違いし、慌てふためき陣地を捨て船に飛び乗りました。
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この様子が『平家物語絵巻・大坂越』に描かれています。
右は在家に火をかけ突入する源氏軍。
左上は大将平宗盛の宿所で首実検が行われている最中です。
左下は思いがけない急襲に大軍と勘違いした平氏は、
建礼門院・二位の尼はじめ、女房たちも急いで船に乗り、沖へ逃げだします。
一の谷合戦の1年後、平家は一ノ谷に続いて、またも義経に背後から奇襲されたのでした。
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義経配下の後藤兵衛実基・基清父子らは海上に逃れた平家が放置した城郭に乱入し、
平家を屋島に戻らせないように火をつけてまわります。田口成良がやっとの思いで
造営した内裏や御所を、あっというまに焼き尽くしてしまいました。
内裏を焼き払った実基は、義経の父源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長子義平に従って
活躍しました。乱後は義朝の娘(坊門姫)をひそかに養育して一条能保に嫁がせています。
屋島の合戦では、義経の老練な参謀格として登場し、扇の的の射手に弓の名手、
那須与一を推挙します。基清は実基の婿養子で西行の甥にあたり、
後に基清は京都守護となった一条能保にも仕えます。
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琴電八栗駅から北へ行き、相引川を渡って県道150線を北へ進みます。
能登守教経の童・菊王丸の墓からさらにV字路を
左に進むと安徳天皇社があります。
分かれ道には「源平屋島合戦800年祭」昭和55年3月に建てられた
「左手安徳天皇社400m、佐藤継信の墓600m」と刻んだ道標がたっています。
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安徳天皇の行宮は屋島合戦で焼かれ、跡地に安徳天皇社が建っています。
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「安徳天皇社 寿永二年(1183)、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に着ました。
ここは檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、
戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
高松市 高松観光協会」(現地説明板より)
屋島の東にそびえる五剣山の中腹には、四国八十八ヶ所第85番札所
八栗寺があるため、この山を八栗山ともいいます。
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所々岩肌が見える対岸の五剣山(八栗山)
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安徳天皇社は相引川河口の小高い場所にあります。
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境内の奥には、屋島合戦で戦死した武士たちの墓があります。
「寿永四年二月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、
滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。
この戦いで散ったつわものたちの墓があちらこちらに散らばっていたものを、
いつのころからか里人たちが、安徳天皇ゆかりのこの社の本殿裏に集められていたものを、
この地へ移設のうえ供養したものである。」(碑文より)
◆菊王丸の墓(高松市屋島東町 屋島東小学校北隣辺)
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「菊王丸の墓 源平合戦(1185)のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の
身代わりとして能登守教経の強弓に倒れました。そのとき教経に仕えていた菊王丸は、
継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟
忠信の弓によって倒されました。菊王丸は、教経に抱きかかえられ、
自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸をあわれんで
この地に葬ったとつたえられています。 高松市 高松観光協会」(現地説明板より)
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※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「安徳天皇社」高松市屋島東町557-1 琴電八栗駅下車 徒歩約30分
『参考資料』
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、2004年
林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年 火坂雅志「西行 その聖と俗」PHP研究所、2012年
「平家物語図典」小学館、2010年