平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




元暦2年(1185)2月3日、九郎判官義経は京都を出発し、摂津渡辺で
舟揃えの支度を整え屋島にいる平家軍を攻撃しようとしましたが、
出発の日、にわかに暴風雨が吹き荒れて船が破損し、
その修理のため出航は一時延期となりました。

その間に開かれた軍議の席上、慎重な梶原景時が船尾にある櫓だけでなく、
戦況が不利になった時には、船が迂回せずにすぐ後退できるように
船首にも櫓(逆櫓)をつけようと提案しましたが、義経は
「はじめから逃げ支度とは縁起でもない。」と即座に却下します。

景時は「進むところは進み、退くべきところは退くのが、良き
大将軍というものだ。ただ闇雲に進むのは猪武者だ。」と罵倒したので、
「戦いというものは、ひたすら攻めに攻めて勝つものだ。」と
両者は言い争いとなりました。この景時とのいさかいが
この後、義経の運命を狂わせてしまいます。


逆櫓(さかろ)についての口論が本当にあったのかどうかは
わかりませんが、景時と義経が意思の疎通を
欠いていたことは確かなようです。
また船戦に経験の少ない源氏軍が海上での平氏との戦いが
容易でないことを認識していたという内情がうかがわれます。
逆櫓(艪)の松跡 義経と梶原景時の争い  

そして17日の夜半、激しい風雨の中、怯える船頭たちを義経は
「追い風の好機に船を出さぬというなら、射殺す」とおどしながら
150騎ばかりの兵をわずか五艘の船に乗せて渡辺津を出ました。
この船は渡辺・神崎にて揃えたもので、
その陰には渡辺党の協力があったとされています。
全軍二百艘余のうち義経の腹心奥州の佐藤嗣信・忠信兄弟、
武蔵坊弁慶など五艘での出航でした。
この時、義経に従った武士として、『源平盛衰記』には、
渡辺胒(むつる)の名が見え、義経が渡辺党に助けられて
兵力を整えたことが窺えます。胒は壇ノ浦合戦では、
浪間に漂う建礼門院を熊手で引き上げ救出した人物です。

義経軍は追い風に乗り、3日かかる航路を6時間ほどで渡りきり、
17日の朝方に阿波に到着したというのです。

船頭の「この風は追い風ですが、あまりに強すぎます。
沖はさぞ荒れていましょう。」という言葉も聞きいれず、
5艘で強引に出発する義経軍。先頭の船の陣頭に座る義経、
弁慶以下が従います。つづく船は4艘だけです。
右下の3艘は碇をあげようとしていますが、先陣には間に合いません。

 いま天満橋と天神橋が架かる大川(旧淀川)の辺は、
平安時代には渡辺とも窪津ともよばれていました。
窪津は「国府津(こうづ)」の訛りで、
平安時代中頃には、ここに摂津国の国府がありました。
渡辺津は淀川河口に位置し国府の湊として、
また交通の要衝、商業上の重要な港でした。

平安時代後期、渡辺津を本拠地として台頭した武士団に
渡辺党があります。この党は水軍・騎馬軍を兼ね備え、
淀川・大和川・大阪湾の水上警察に携わった武士団で、
渡辺氏(嵯峨源氏系)と遠藤氏(藤原氏系)の2つの家系がありました。
渡辺氏は、渡辺番(つがう)、渡辺緩(ゆるう)などの一字の名を用い
「渡辺一文字之輩(ともがら)」と称されます。
この一族は源頼光の四天王の一人渡辺綱を祖とし、
摂津源氏源頼政の兵力の主力として、保元・平治の乱を戦い、
宇治川合戦の際にも平氏の大軍に対して頼政以下、
省(はぶく)・授(さずく)・競(きおう)らが勇猛果敢に戦いました。


一方、頼朝に挙兵を勧めたとされる文覚は、遠藤氏の出身で出家する前は
遠藤盛遠という名でした。
『源平盛衰記』には、遠藤盛遠が渡辺橋の渡り初めの時、
橋奉行を務め、渡辺党の渡辺渡(わたる)の妻袈裟御前を見そめたと記されています。
渡辺橋は渡辺津に架けられた橋で、天満橋付近にあったとされ、
現在の中之島付近にある渡辺橋は直接の関係はありません。

都から四天王寺、住吉大社、高野山へ参詣する貴族たちは
淀川を舟で下り、渡辺津で舟を降り陸路を辿りました。
12Cになると、当地は熊野詣での玄関口として栄え、江戸時代には、
旅籠などが八軒連なっていたことから「八軒家」の名がつき、
京の伏見と大坂を結ぶ「三十石船」のターミナルとなり賑わいました。
昔を偲ばせる三十石船は、いまでは水上バスとして就航し、
四季折々の風情ある大川を周遊しています。









永田屋昆布本店(中央区天満橋京町2−10)の店先に
「八軒家船着場の跡」の石碑が立ち、
「八軒屋の今昔」という無料の小冊子が置いてあります。

義経阿波から屋島へ進軍1  義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
  義経阿波から屋島へ進軍3(旗山) 義経阿波から屋島へ進軍4(義経ドリームロード)  
坐摩神社・坐摩神社行宮(渡辺党)  
『アクセス』
「八軒屋浜船着き場」大阪市中央区天満橋京町1−1
京阪電車本線「天満橋駅」、谷町線「天満橋駅」下車すぐ
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
 河音能平「大阪の中世前期」清文堂、2002年 「大阪府の地名」平凡社
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版、2010年 加地宏江・中原俊章「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年 
「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社、1989年 「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年 
「平家物語絵巻」林原美術館、1998年 本渡章「大阪名所むかし案内 絵とき摂津名所図会」創元社、2006年

 

 



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