平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




粟津ヶ原で討たれた義仲の首は六条河原でさらされたのち、木曽四天王の
今井兼平・根井行親・楯親忠とともに左の獄門の樗の木に懸けられ、
法観寺に葬られたと伝えられています。

法観寺の塔の横には、一つの石から彫りだされた一石五輪塔や
「朝日将軍木曽義仲塚」と刻まれた石碑、八坂墓があり、
傍には巴御前に因んだ小さな「巴之松」が植えられています。
これは護国神社参道沿いに祀られていた石塔を
十五年ほど前に法観寺に移したものです。

現在、法観寺は五重塔と太子堂・薬師堂を残すだけですが、
当時の境内は広大でそのあたりも法観寺の境内だったといわれ、
その盛大さは、寺宝の「八坂塔絵図」によって偲ぶことができます。



『昭和京都名所図会』には「八坂墓(朝日塚)は、『延喜式』諸陵寮にしるされた
光孝天皇外祖母・藤原数子の墓と伝えるが、一説に木曽義仲の首塚とも伝え、
朝日将軍の名に因んで朝日塚とも呼ばれる。」と書かれています。













旭将軍木曽義仲塚

ところで木曽四天王の一人、
樋口次郎兼光(義仲の乳母子・今井兼平の兄)はどうしたのでしょう。

樋口兼光は、源行家討伐のために五百余騎を率いて河内の長野城に
出陣していましたが、討ちもらしあとを追って紀伊国の名草まで行ったところ、
京に戦が起こったとの急な知らせに直ちに引き返します。

しかし義仲の最期には間に合わず潜んでいる所に鎌倉方の児玉党の使者が来て、
「降人となれば我々の手柄にかえて命をお助けする。そのあと出家して木曽殿の
後世を弔うのがよかろう。」というので兼光は児玉党の捕虜となり沙汰をまちます。
樋口兼光は児玉党の婿だったので、弓矢とり同士が広い縁故の中に入るのは、
こういう時のためと、児玉党は助命に奔走し
「我らの今度の恩賞と引き換えに命を助けてほしい」と嘆願すると
義経はこの由を後白河院に申しいれ、兼光の命乞いをします。

ところが、院側近の公卿はじめ殿上人や女房たちまでこぞって反対し、
「木曽四天王の一人を助けたりすれば、虎を養うようなもので後の禍になるであろう。」と
院からも特別なご沙汰があり結局、兼光は許されずに渋谷重国が処刑を命じられ、
子の渋谷次郎高重が六条河原で斬首します。

児玉党は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で誕生した
小武士団・武蔵七党の一つでその中で最も規模の大きい党でした。
当時の東国には、千葉・小山・畠山などの大武士団があり、それに比べれば
武蔵七党は、手勢も少ない小さな存在でしたが、
一の谷の合戦では平家方の名のある武将を討ち取り活躍します。

義仲の最期と行家と義仲の関係悪化の原因をご覧ください。
木曽義仲の最期(打出の浜)   新宮十郎行家と義仲(行家の墓)  
  『アクセス』
「法観寺」京都市東山区清水八坂上町388  
℡ 075-551-2417

京都市バス「東山安井」下車 徒歩5分 公開は不定期
『参考資料』

武村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
水原一考定「新定源平盛衰記」(4)新人物往来社 「南関東」(武蔵七党の興亡)世界文化社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 

 



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